-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――
140.in the Blaze-2
暗き世界、照明は仄かな月明かりと炎の橙。
もしかしたらその瞳はどこか緋色の髪をした娘と同じ光を湛えていたのかもしれなかった。
そんな娘と入れ替わりにして出てきた――ひとりの青年。
炎があるとはいえ夜は暗く、その影は漆黒に落ちる。
赤紫の髪に、軽薄に笑う口元。ポケットに手を突っ込んだまま、こちらに向けて歩いてくる。
まるでその様子に敵意はなく、男たちは呆然とその姿を見守る。
すると彼は、ちらっと男たちを一瞥して立ち止まった。
「な、何だお前は――」
――とすっ。
次の瞬間、あまりに残酷に響く音。
炎に照らされる中、彼の手の動きなど誰が見極められるだろうか。
だがその意味がわからず、一歩前にでた男は目を瞬いた。
――自分の胸から生えるナイフに気付くのに、数秒をかけて――。
「……っ!?」
何が起こったかわからぬまま倒れる男。
そこを中心として血だまりが広がっていく。
青年――フェイズはそんな男を足元に、再びポケットの中からナイフを取り出して歪むように笑った。
そこに落ちるのは、ぞわりと背筋を駆け抜けるような黒い悪寒。
それほどに、その青年は残忍な笑みを浮かべていた。
「――アンタたち、子供の頃に習わなかったかい?」
絶句する男たちを一瞥する視線は、まさに凍てついた氷の刃。
まるで品定めでもするかのようにゆっくりと彼らを見渡す。
「男たるもの、女の子に手をあげちゃあいけねーってさ」
にこりと、フェイズは軽口でも吐くかのように言った。
だがその裏に垣間見える底知れぬ感情に、男たちの言葉が消える。
「その上顔に傷をつけるなんて――ちょーっと男として最低なんじゃねーの?」
――それが、怒りなのだと。
既に凍り付いて心の奥底に閉じ込められた怒りなのだと、気付く者はいただろうか。
「お前……お前か、あの娘を連れ去ったのは! どこにやったんだ!?」
「三流に教える筋合いはねーぜ」
ふっと含み笑いを漏らすようにそう呟く。
その瞬間、空気に浸透する殺気がその場を身を引き裂かんばかりに張り詰めた。
「――構わねえ、殺せ」
男たちが各々殺気だって構えをとる。彼らにだって既に時間はあまり残されていないのだ。
先ほどの戦いと同じく、フェイズと男たちとでは戦力的な差が歴然としているように思われた。
つまりそれは戦えば必ず男たちが勝ってしまうということ。そうすればそこまで遠くに置いてきたわけではないピュラへと、あっさりその手が伸びてしまう――。
だがフェイズは怯まない。代わりに懐に手を突っ込むだけだ。
そこから取り出したのは、何かの液体が入ったガラス瓶。彼らの銃は容赦なく弾の装填を終え、激鉄をあげようとする――!
――ぱっ、と水しぶきが舞った。
フェイズが飛んで後退すると共に、彼の手の中からガラス瓶の中身が飛び散ったのだ。
それは扇状に散り、一瞬不思議そうな顔をする彼らにかかる。
――刹那、絶叫がその辺りを襲った。
「うわぁぁああああっ!!」
「ど、どうした!?」
後方にいた者はその大声に肩を飛び上がらせる。続いて鼻をつく嫌な臭いに顔をしかめた。
その液体を浴びた者が各々武器を取り落として痛みに膝を落としたのだ。
しゅうしゅうと液体が降りかかった部位から煙が舞い上がる。浴びずに済んだ者たちはその光景を見て絶句する――。
「悪いなー。俺、容赦はしない方だからさ」
フェイズは二つ目のガラス瓶を取り出して、軽く振ってみせた。
にこりと笑ったその瞳にあるのは冷たい殺気。
アデルがぎらりと鋭い視線でフェイズを見据える。
「――テメェ、なんの薬品だ」
「お? 勘がいいな、……まあ子供のときは絶対にやるんじゃねーぞーって言われてたんだが、状況が状況ってことで」
そこにいる者の中で、半分程度が気付いていた。彼が放ったものが、強度の農酸であることを。
軽薄な彼の台詞に、更にそれぞれの敵意は増していく。
「そういえばテメェ、医者だったはずだな――その手の薬品調合もできるってことか」
「あっはっは、貴族に見つかったら死罪もんだけどなー」
この時代、人々は魔法という文化に頼りすぎている節があった。故に科学の進歩は少なく、知識を持つ者も少ない。彼らが手にしている銃だって、古代の遺跡から出土したものを長年に渡って苦心して、やっと実用化にこぎつけたものなのだ。
「――ふん、精々粋がってろガキ」
そうやって、アデルがまたフェイズに向けて切り込もうとした、その瞬間――。
そこで明らかに予測不可能なことが起きた。
ぴんと気配にフェイズの瞳が見開かれる。
だけれどそれはたった一瞬、静かに伏せられて……。
その声は唐突に響き渡った。
「フェイズっっ!!!」
大声。
まさに、天地を割るような怒声。
どかどかと足音荒く歩いてくる小柄な影。
今にも髪の毛が逆立ちそうな気迫をまとって歩いてくる、赤毛の娘。
……男たちの狙いだった、娘だった。
呆気にとられる男たちなど彼女の眼中には全くない。
するとフェイズまでが先ほどの殺気はどこにいったのか、とぼけた顔で首を傾げる。
無論――ピュラも先ほどの傷など気にもかけぬ様子で、問答無用でフェイズに掴みかかった。
「おお、どうしたピュラ」
「あんたなんてことしてくれるのよーッッ!! 私がいつあんたに助けを求めたっていうの!?」
「ん? あーいや、お前がなんか負けそうになってたからさ」
「誰が負けたって言ったのよ! いくらでもチャンスはあったわ、あんたに助けてもらう筋合いなんかこれっぽっちもなかったんだから!」
「わはは、まあ男の立場っつーもんもあるからな」
「なにが男の立場よ! それにあんたこの状況分かってるの!?」
「お前が複数の男に襲われてるって感じで正しいかな?」
「ならなんであんたが戦う必要なんかあるのよッ!」
「いやー、まあ」
フェイズは軽薄な笑みを湛えたまま、突然彼女の腕を掴んで横に飛んだ。
その一瞬前まで彼女たちがいたところを矢が通過していく。
二人が飛び込んだのはがれきの影だった。すぐに辺りを囲まれる。もう、二人とも逃げられない。
「ってわけで、今は怒ってる場合じゃないと思うんだけどなー」
「うるさいわねッ! 黙ってなさいっ」
二人、背中合わせになって周囲を睨む。
あっという間に完全に囲まれていた。無論、彼女たちだってこの男たちを一人たりとも逃がすわけにはいかない――。
「おーう、共同戦線ってことか」
「誰があんたと戦うってのよ」
「でもこの状況じゃもう逃げらんねーし」
高ぶる感情が彼女の拳に集められる。ぼうっとその拳に煌きが灯るのは大気の力が集まっている証拠。
ピュラは髪をかきあげて、がれきの影から飛び出す体勢を整えた。
瞳を伏せれば燃え上がる炎の音が耳朶を叩く。胸を焼くような、煙の臭いと――。
「――勝手にしなさい」
「りょーかい」
それで会話は途切れた。
次の瞬間、ピュラの背後からフェイズの気配は嘘のように消えている。
だがピュラも構わず飛び出して、自らを戦いの中に投じた。
しかし敵の動きは先ほどよりも注意が散漫したものとなる。当たり前だ、今度の標的は二人。しかも共に素早さは目を見張るものがある。
その上、たった二人で戦うだけで倒すべき敵の数は半分となるのだ。
うろたえる男たちを倒していくのは、先ほどの幾倍も楽だった。
その上――。
残忍にもフェイズは容赦なく連続で刃を放つ。その素早さはまるで飛ぶ刃の姿が見えないほど。
振るわれた剣は体を落としてかわしたかと思えば、素早く振るわれた足が顔に激突する。
血を吐いて倒れたその姿を見た他の若者が、目を血走らせて走りこんできた。
「この――よくもジェルドを……ッ!」
だがフェイズの顔は相変わらず無表情。倒れた男が持っていた剣を貰って素早く斬りこんだ。
低い体勢で至近距離まで近付き、そこから目にもとまらぬ速さで足ばらいをかける。
「――っ!」
どさり、と転倒した男に、容赦なく彼は剣を叩きおろした。
その瞳に感情などというものはこもっていない。あるのは冷えた殺気、相手を残らず葬るという意志の光だけ――。
「――チ、退けッ!」
とっさに叫んだアデルの言葉は正しい。そうでなければこのまま皆殺しにされるのが目にみえているからだ。
彼らも頷いて、一度この状況から逃げようと逃走に走った。
いくら生きる為とはいえ、ここまで味方がやられては退かざるをえないだろう。
――しかし。
「悪いがそりゃきけねー相談だな」
速かった。
ピュラでさえ、それを目で追うのが精一杯だった。
フェイズは軽々と男たちの間をすり抜けて、行く手を阻むように道の真ん中に立つ。
その動きの鮮やかさに、思わず男たちも立ち止まって目を見張った。
炎は――みるみる近くに。夜空に火の粉が舞い踊り、道を明るく染めあげる。
本来なら真っ暗であろうその場所は、炎を背景に煌々と照らされていた。
「……逃げてもらっちゃあ困る。途中で貴族に捕まってあらいざらい情報吐かされたら、後が面倒なんでね」
「――は、どうせ今日でこの町は死ぬ。もうこの戦の情報なんて貴族が欲しがるものか」
するとフェイズは人差し指を振って苦笑するように口の端を吊り上げる。
「あのなー、アンタたち他にも色々と知ってることがあるだろーが。例えば――他の町に巣食う俺たちみたいな奴らの情報とかな。ばらしてもらっちゃあ困るんだがなー。この戦が全てじゃねーんだぞ? これに勝ったらまたどこかで次の戦いが起こる。それにもまた勝たなけりゃならない――」
彼は一瞬言葉を切る。その頬は、血に濡れて――。
「世界を、変えていくためにはな」
「お前……」
アデルは信じられない、という表情さえ見せた。睨むようにフェイズを見据えて、続ける。
「本気で世界を変えるつもりなのか?」
彼が問うと、フェイズは――鼻で笑って軽く目を閉じた。
それはまるで世界を感じようとしているかのように。
「ああ、――変わるさ」
乱れる風に弄ばれる紫色の髪。
ピュラはそんな姿に、一瞬目を奪われる。
どうして喉がこんなに渇いているのだろうか。
頭の奥がちりちりと焼けるようだった。
そうだ、この紫の影。
静かに佇む紫の影。
辺りは美しいまでの橙色。
――どこかで、そんな記憶が――。
「いやー、アンタたちがどんな拷問されても吐かないっていうなら見逃してやるけど――見た目からして無理そうだし、この山を取り囲む貴族の軍を出し抜いて逃げるほどの能があるとも思えねーし」
ぎゅっとピュラは唇を噛んだ。血の味が滲む。
まさか、覚えているはずがない。彼が言うに、自分は赤子の頃に孤児院に引き取られたのだから。
それから、ずっと一人で生きてきたのだから。
彼の記憶など、あるはずが、あって良いはずが――。
「アンタたちも世界を変えたくてここに来たんだろう?」
ざり、と砂を踏む音。
「この世を変えることがどんなに難しいことでも、諦め切れなくてここにきたんだろう?」
「――所詮夢だったさ」
吐き捨てるようにアデルが言うと、フェイズは髪をかきあげて笑みを口元に走らせた。
「世界が変わればまた治安も悪くなる、こんな戦で勝ち取った栄光は何にもならねえ。こんなにもの犠牲を払ってまで貴族と戦うのなんて、もうまっぴらなんだよ」
「変わることを恐れるか」
「――?」
ぽつりと、フェイズの呟き。
まるで炎にかき消されるように小さく。
「てめーらにはそんな覚悟もなかったのかって訊いてるのさ。この道を選んだからには――」
ピュラはいつの間にか自らの胸に手をやっている自分に気付く。
軽い調子の声。見透かすような瞳。
どうしてだろう。
どうしてそう思ってしまうのだろう。
どうして、先ほどから彼が自分の方を見て話しているように思えるのか――!
「この命の尽きるまで、後には戻らないって誓う覚悟もてめーらにはなかったんだな」
「は、とんだ道化だ」
失笑、という風にアデルは口元を歪める。
「オレは自分の為に生きる。生きる為だったらなんでもする。お前の考えなど、単なる無鉄砲で稚拙な早死にするやり方だぜ」
「あいにく、死ねない理由があるんでね」
フェイズはいつもの笑顔で、ポケットの中に手を突っ込んだ。
「っつーわけで、――ここから一人でも見逃すわけにはいかねーんだな」
きっと眩暈はこの鈍痛のせいだろう。ピュラは頬についた砂を払って、再びフェイズを睨む。
まるで彼らと戦うのは自分だけ、という素振りに腹が立った。大体この戦いは自分に降りかかったことなのだ。自分で対処できなくてどうするという?
腰を低くとって、構える。タイミングは――彼が動き出したのと、同時。
炎はひたひたと残酷に近寄ってくる――。
***
相手もかなり場慣れしているようだった。
的確にこちらを追い込むようにして攻めてくる。
一人でも逃がすわけにはいかないのだ。こちらもまた、相手を一点に寄せ集めるように動き、その心臓を狙う。
だが、こんなにも戦闘がやりやすいと感じたのは――生まれてはじめてだったかもしれなかった。
それは、ひとえにフェイズの戦い方にあった。
いて欲しい、と思った場所に必ず現れる。とっさのフォローはまるではじめからそうなると解っていたかのようだ。
その上、彼の武器は多種多様。薬品からナイフからボウガンから、――その上体術も並大抵のものではない。
――そういえば、彼が戦う姿を見るのは初めてのことだった。
「……ったく、手品師じゃないんだから」
悪態をつきながらピュラは大地を足で蹴る。
みるみる彼らの人数は減っていった。それと共に彼ら自身の覇気も消えていき、次第に恐怖が目立ち始める。
だがそれでもフェイズは容赦なかった。ピュラだったら恐らくは一度投降しないかと持ちかけるだろうが、彼は問答無用で次々と逃げ惑う者たちをその手にかける。
服は血に汚れ、その影を一層色濃くしていた。
「――お、鬼」
誰かがそう呟いた。だが次の瞬間には――その首がとんでいる。
流石のピュラもかすかに顔を背けた。とても見ていて気持ちの良いものではなかったからだ。
道に点々と落ちる人の亡骸。炎を背景に、廃墟の町――それはまるで三年前の再来だ。
二人が全員を仕留めるまでに、そう時間はかからなかった。
――最後にアデルの心臓をナイフで穿ったフェイズの顔は、無表情。
もう、二人以外に動く者は誰もいない。
「……」
ピュラも黙ってその後姿を眺めていた。
何故だろうか。
どこかでみたことのある、後姿。
血に染まった体。
影だけが闇と繋がるかのごとく伸びる。
ぞわっと湧き上がるのは胸の奥底からくる吐き気。
だからピュラは目を逸らした。
どうしていつもこの青年から最後は目を背けてしまうのかもわからずに。
そして、そんな自分を心の底から腹立たしく思いながら――。
「ピュラ」
ふっと顔をあげた。
いくらその体を紅に染めようと――彼は、いつもの笑顔を。
だけれど、どこかそこに胸を押すようなものがあるのは気のせいだろうか。
その姿は、炎の色を湛えていた。
「――んじゃ、帰るか」
「……」
ピュラは黙って彼の瞳を見据えた。
自然とその拳に力がこもる。
ピュラもフェイズも、互いに体中傷だらけだった。
静かな沈黙が落ちると、ぱちぱちという炎のはぜる音がいやに耳に届く。
――そうしてピュラは、黙って背を向け、歩き出した。
自らの行くべき場所へ行く為に。
「……一応、礼は言っておくわ」
ただ、それだけ呟くように言った。
炎に燃える町に小さく視線をやって、また続ける。
「確かにあの数だと私一人じゃ苦しかっただろうしね」
ずきずきと胸が痛むのは、きっと気のせい。
背を向けているから、彼がどんな顔をしているのかもわからない。
だけれど、彼女にはこう思えたのだ。
あの、容赦なく敵を薙いでいったあのフェイズの表情は。
――明らかな、怒りが含まれていたのではないかと。
彼女にとってその理由などどうだっていい。
だけれど、ただ一つ思ったことは――、
……それが、とても哀しく寂しいものとして見えたということだ……。
「――ありがと」
「どーいたしまして」
背中に軽薄な返事が返った。
それがあまりにもこの場に似つかわしくない声で、思わず笑みが漏れた。
そうやって歩き出そうとして、
――刹那。
ピュラの瞳が、はじけた。
そう思った瞬間には、彼女の体はその場から消えている。
たんっ、と強く蹴った反動でピュラは横に飛んでいた。
「――っ!!」
フェイズもまた口元から笑みを消して物陰へと飛び込む。
その場に一気に伝わる殺気、そして次の瞬間――その一帯に尋常でない量の氷の刃が降り注いだ。
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