-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

139.in the Blaze-1



 語り草になってるらしいね、あの夜のこと

 炎に包まれる町に飛び込んできた孤高の銀髪鬼は止めにかかる人を次々とその手にかけて

 そして町を飛び出した弟もまた、止めにかかった貴族の兵士たちを全て斬り捨てていった

 その姿――まさに怒れる鬼の兄弟が駆け抜けたかのごとし――だっけ?


 そこにいたのは、まさしく孤高の銀髪鬼だった。
 右手には一振りの剣。
 走るわけでもなく、鬼の形相を浮かべているわけでもない。
 ひたひたと、静けさを守ったまま歩いていく。
 その姿に圧倒された者は多かった。あまりに情景が三年前のそれと等しいものだったのだ。
 ――三年前の炎の記憶。
 兵たちの脳裏に染み付いたものが蘇る。
 どこからともなく現れた、剣を携えた男。
 ぱちぱちとはぜる炎の中、舞い踊る火の粉がその行く手を彩る。
 手にした剣は大きく、炎をまとったかのように――橙色に。
 そうだ、三年前もあの銀色に光る鬼は――。
 ……兵が一人、斬りかかっていた。
 三年前にはまだいなかった、あの光景を知らぬ新米の兵だ。
 ――音は、ない。
 全てが炎のはぜる音にかき消される。
 孤高の銀髪鬼はただ、剣を一閃しただけ。
 血だけがほとばしって、大地に染みた。
 鬼はまた、倒れた兵に一瞥すらくれずに歩き出す。
 歯向かう者には容赦なく、抵抗など微塵も許さない。
「――ひっ」
 誰かがその様子に、一歩足を引いた。
 闇と炎のコントラストの中、瞳の色は深く鋭く――、またひとつ彼を印象付けるものとなる。
 彼は小さく息を吐き出した。その足が、たんっと大地を蹴る。
 風にのって、その速度に乗る。走り出した彼を止めるものは――なにひとつとしてない。
 あたかも疾風のようだった。彼の姿は怯える兵など無視して炎の中へと飛び込んでいく。
 どうやら貴族たちは炎を風魔法で拡散しているようだった。……スイが知りうる炎の少ない道も全て、煙と炎にまみれてしまっている。
 風も海からのものと西の草原からのものがぶつかって渦巻いている。敵の反応は早かったようだ。まだ炎は草原には届いていないだろう。
 そのまま西の草原までの道を一気に駆け抜ける。
 幼い頃から幾度となく通った、町の道を。
 炎に空気がけぶり、呼吸が苦しい。
 だが、それでも止まることを忘れてしまったかのように――。
 通りから次の通りへ出た瞬間に、体すれすれのところを矢が通り抜けていく。
 そのままそこにいた部隊に容赦なく切り込んだ。
 スイの目には既に数十人の部隊など、黒く大きな塊とでしか見えていない。
 チッと剣がかすめた頬から血がほとばしる。
 剣を上から叩き込むようにして振り下ろした。
 嫌な手ごたえ。しかしそこから再び斜め上へと振り上げる。
 もはや半分蹴散らす状態でスイはその部隊の列を突破していた。
 何人か生き残りがいるが、それは他が倒してくれるだろう。スイのすべきことは――ただ、前進すること。
 じりじりと肌が焼ける。吐く息がとても熱い。
 橙色の町を駆け抜ける。まるであの日と同じように。
 冬も近いというのに、そこは灼熱の地獄。
 どこを向いても橙色、まるで閉鎖されてしまったかのような空間。
 それを斬り刻むようにして走った。
 きっと兄もこうやって走っていたのだから。
 その兄に――走れ、と。そう言われたのだから。
 まるで永遠の時間をその中で走っていたように思えた。


 ***


 一瞬ぐらついた体をどうにか立て直して、ピュラは腰を落として足を蹴り上げた。
 だがその瞬間に腕に衝撃が駆け抜けていく。背後から撃たれた銃の弾がかすめていったのだ。
 ぬるりと血が腕を伝う。数秒、腕に力が入らなくなる。噛んだ唇からは、同じく血の味がした。
 男たちの覇気には先ほどと明らかに違うものがあった。
 恐らく彼らは――不安だったのだろう。裏切ることのリスクを背負うことが、とてつもない重荷になっていたのだろう。
 だが、今。この目の前にいる少女を捕まえれば、自分たちは確実に生き延びることができる。
 そう思う彼らの思惟は力となり、一層その動きを鋭くする。そう、力などそんなものだ――。
「ふん、元気な嬢ちゃんだ」
 嘲笑するような表情を浮かべる男に向けて、再びピュラは拳を振るう。
 もしこれが一対一の戦いであったなら男たちに勝機はなかったろう。しかしいくらピュラの技が優れているとはいえ、迷いも消えた二十人以上の人数を相手にするとなっては苦しくなるのが必然。
 彼女は一度飛んで後ろにさがり、敵の数を確認した。
 ……ざっとまだ十名以上。それぞれ武器を携えて襲い掛かってくる。
 ぎっと瞳に鋭い光を宿して、ピュラは横に飛んだ。
 この状況でこの人数と戦うのはあまりに無謀すぎる。一度身をがれきに隠して、相手を不意打ちで狙い倒していくしかない。
 そう判断すれば行動は早かった。姿をくらますために後方に下がりながら身を隠そうとする。
 だが男たちもそれをやすやすとさせるほど愚かではなかった。
 彼女を取り囲むようにして走りこみ、その視界から見失わせることを許さない。
 しかもここは町の北のはずれ。ピュラに応援を呼ぶ術など何一つとしてない。
 その上、あのアレキサンドライトの魔法でこの辺りは完全に建物が倒壊していた。故にがれきの砂漠となったこの辺りには中々隠れる場所が見つからない。
 ぐっとピュラは歯を食いしばって更に後退した。ちゅんっ、とその足元を弾丸が飛んでいく。だが彼らの持つ銃も量があるわけではない。弾にも限界があるはずだ。
 勝機は必ずある。それならそれをこの手に掴むのみ――。
 ――しかし彼らが彼女を追い詰める方が一歩、早かった。
 彼女がそのまだ残った壁の影に一時飛び込もうと、彼らに背を向けた瞬間。
 眩暈すら覚えるほどの寒気が、背筋を走った。
 幾度となくこのような状況を体験したからこそ分かる――予感めいたもの。
 心臓が鷲づかみにされたかのように不快感が沸き起こる。炎を湛えた瞳がゆらりと揺らめく。
 ひゅんっ、と何かが風を切る音がした。
 誰かが石を紐にくくりつけたものを振り回して、放ったのだ。
 しかも、予期せぬ場所から。――知らぬ間にひとり、追いかけてくる群れから離れた者がこちらを狙っていたのだ。
 危ないな、と自分で思った瞬間には既に遅い。

 ――がつん、とハンマーで殴られたかのような激痛が、後頭部を襲った。

 一瞬思考が限りなく白に近くなり、呼吸が詰まって体温が消し飛ぶ。
 頭が鉛のように重く感じられたかと思えば、視界がひしゃげて見えなくなった。
 走ろうとして踏み出した足が、もつれる。嘘のように平衡感覚が失せて前に倒れこむ。
 石などという、そんな初歩的な武器に当たってしまうなど――自分でも可笑しくて、どこか笑えた。
 意識を失わなかっただけでも幸運だったかもしれない。しかし出血はしていないようだったが、もはや痛みなのかもわからない衝撃が全身を麻痺させているのだ。即座に立ち上がることもままならない。
 即座に男たちが追いついてきて、取り押さえようとする。
「ふん、手間かけさせやがっ――」
 しかしアデルの声は最後まで続かない。振りあがったピュラの足が腹部に直撃したからだ。
 その瞳の鋭い輝きはまだ消えてはいかなかった。すぐに体勢を立て直そうと――起き上がろうとして。
 だが、がんがんと頭の痛みをこらえながらの戦闘はそれが限度だった。
 相手の動く速度に追いつけない。体が重く、思い通りに動くことを許されない――。
「――このッ」
 取り押さえにかかったアデルは激痛に顔を歪めながらも、彼女の顔の側面を容赦なく殴りつける。
 ぱっ、と小柄な体は嘘のように軽々と宙を舞った。次の瞬間には、その10メートルほど先にあるがれきの山に体から叩きつけられている。
 人形が突っ込んでいくかのように、彼女は受身を取る間もなくそこに衝突していた。
 がれきが四散する、耳をつんざくような音。衝撃によりそこに砂煙が舞い上がり、視界が煙で死んだ。
 ――そうして数秒後、視界がやっと開けたその奥に。
 娘の体はがれきの山の下、無残に横たわる形となって止まっていた。
 体のあちこちから滲む血は彼女の髪の色と同じ。
 かはっ、と小さく開いた彼女の口から血が滴る。
 髪は乱れてべっとりと彼女の頬につき、その顔を半分隠していた。
 だがそれでも彼女は――指先をぴくりと動かす。痛みに歪む顔でどうにか上体を持ち上げようと更に震える腕を動かそうとする。しかしいつも当たり前のように動く体は冗談のようにぴくりとも彼女の指令に従わなかった。
「――っ、」
 声にならない声がその唇から血と共に零れる。眉をしかめて苦痛に耐えるが、そうすることで精一杯で。冗談じゃない、と立ち上がろうとしても体がそれを拒絶する――。
「……本当に手間をかけさせる嬢ちゃんだな」
 蹴られた腹部を抑えながらアデルが近寄っていく。他の者たちはその光景をじっと伺っていた。仮にも――目の前で容赦なく仲間を殺した娘なのだ。いつ反撃をしてくるかわからない。
 無論アデルもまた、細心の注意を払いながら近寄っていた。
 だが、あそこまで痛めつけたのだ。娘は力なくがれきの傍らで伏せっている。まさかここで動けるはずが――。

 刹那。
 ――再び、風。

 まるでそこに吹き込む、突風のように――戦場を、影が駆け抜けた。
 思わず彼らは目を見張る。それがまるで彼らに動くな、と命令しているようにさえ思えたからだ。
 まさに神速。目にも留まらぬ速さでその影が過ぎ去っていく――。
「――な、なんだっ!?」
 男が瞬きを一瞬した後。
 彼の口が半開きのまま……止まる。
 その光景を目の当たりにしたそれぞれが、絶句していた。
 ありえない、と心のどこかが呟いても――そこに現実は静かに佇んでいる。
 ――そこに横たわっていたはずの赤毛の娘が。
 まさか動ける筈などないほどに傷ついた娘が。
 ……それこそ嘘のように、かき消えていたのだ。


 ***


 早く意識を取り戻さなければならないと、思った。
 こんな場所でやられてしまうなど悔しすぎる。――そんなことは許せない。
 だから、あがこうとした。その足で立とうと、必死でもがく。
 しかし頭は依然混濁したまま、まるで思考がまわらない。
 視界が暗く、体が大地と同化してしまったかのように重い。
 誰かが近付いてくる気配。起き上がらなくてはいけない。立ち上がらなくてはいけない――。
 そう思ったときに、何かの風を感じた。
 ふわっ、と――とても優しい音。まるでこの場には似つかわしくないような。
 思わず目を見張って、それを確かめようとした。しかし体は動かず、されるがまま――風に運ばれる。
 やわらかな香りがした。
 どこか――どこかで知っている、匂い。
 ぼんやりとしたまま、風だけが過ぎ去っていくのを感じる。
 それで、とりあえず危機から脱出したのだと、何処かで思った。
 だがいつまでも寝ているわけにはいかない。こんな場所で倒れたままでどうするというのか――。
「――ピュラ」
 聞き覚えのある声。
 ぼやけた視界に……浮かぶ影。
 辺りは既に炎も近く、橙色に染まっている。
 そんな中、知っている色が揺らめいていた。
 ふっと自分の体が温かいものから離れて、地面に横たえられる。
 それで、それまでその人に抱きかかえられていたのだとわかった。
 知っている人なのに。
 とてもよく知っている人なのに――ぼやけた頭では名前すら判別することができない。
「……ちょっと待ってろよ。すぐに済ませてくるからな」
 その人は、言い聞かせるようにゆっくりと、そう囁く。
 体中が激痛を訴えていて、皮膚の感覚が半分失せていたというのに。
 まるで壊れ物に触れるようにそっと頬にあてられた指の感触は、やたら印象に残った。
 そうして、その表情が――歪むように揺らめくのも。
 離れるときに、その人が何かを呟いた気がした。
 だけれど、それを耳が捉えることは叶わない。
 その人は踵を返して、自分から離れて――走っていった。あの男たちと戦うのだろう。
 だから、自分も立ち上がらなければと思った。
 人に頼るなど冗談ではない。この足で生きていけるほどに強くなるのだと、誓ったのではなかったか。
 重い目蓋をこじ開ける。ぼやけた視界がうっすらと映る。
 ぴくり、とその指がかすかに動いた。
「――っく」
 ……ピュラはがんがん痛む後頭部に顔を歪めながら、なんとか大地にその腕をつく。
 ただ幸い大きな傷はなさそうだった。次第に思考が晴れていく。辺りの景色を認識し始める。
 やはりそこは建物の影だった。ぱちぱちと遠くで炎が燃え上がっている。
 ピュラはその壁に手をついて、爪をたてて――ゆらりと立ち上がった。
 血の味のする唾を飲み込んで、前を見据える。
 既にそこにピュラ以外の人影はいなかった。
 だが……間違いない。先ほどの人影。自分をあの場から救い、ここまで運んできたのは――。
「フェ……イ、ズ」
 足を一歩二歩と前にだした。平衡感覚がまだ半分失せているが、次第に戻るだろう。すぐに走っていかなければならない。
 ――だが、どうして彼がここにいたのだろうか。あそこまで拒絶したのに――どうして、こうやってまた近寄ってくるのだろうか。
 とにかく、ここでくすぶっている気など毛頭なかった。
 段々と視界が広くなり、体も動くようになってくる。節々が痛いがあまり気にならなかった。こんな痛みは今までに幾度となく味わったからだ。
 ピュラはあの赤紫色の影を追い求めて、走り出した。
 炎は一気にその勢いを増しているらしく、みるみるこちらにも広がってくる。
 早く全てを終わらせて港へ行かなければならない。だから、この戦いをすぐに終わらせるのだ。あの紫の人の力など借りずに、自分の力で。
 ピュラは息を切らせながら、みるみる橙に染まる道を駆け抜けた。
 ただ一つ、……ぼんやりと聞いていた声の中で、最後に彼が呟いた言葉をどこかで思い出しながら。
 それは彼女の聞き間違いだったかもしれなかった。そもそも何も言っていなかったかもしれない。
 だけれど、彼女には――こう聞こえた気がしていた。
 ただ、一言。
 まるで痛みそのものの言葉で。
 そっと、その瞳の色を歪ませながら……。

 ――ごめんな、と。


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