-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

138.幕開けの時



 ぽつぽつと燃え出した地点から煙があがり、町を覆う。
 それらは風に流れて草原まで――、
「――町が……燃えだした」
 呟く従者の声はまさに戦慄そのもの。
 ハルムはじっと、静かに炎と煙をあげはじめた町を見下ろした。
 同じ光景を三年前にも見た。ゆるゆると炎が広がっていく光景を。全てが夢となって消えていく情景を。
「……奴の言った通りだったな」
 ぼそりとハルムは呟いて、町からふいと目をそらす。
 風はかなり強い。この分では一気に火力は増し、この草原を覆うことになるだろう。
「い、いかが致しましょう……」
 焦りを必死に押し留めながら問う従者に向けて、ハルムは――冷静だった。
「火を放て」
「はっ?」
 従者は一瞬、主が何を言ったか理解できずに思わず聞き返す。
「――火を放てと言った。それから風魔法を起こして火を分散させろ。奴らは自らが放った炎がどこに回るか知っている。――それを覆してしまえばいい」
 そう、恐らく町に潜む者たちは炎がどこからまわり、どこが炎の薄い場所なのか知っている。自分たちで放った火だ、当たり前だろう。
 だったらそれを無茶苦茶にしてしまえばいい。勝手知ったる炎とそうでない炎では雲泥の差。自分たちと彼らの状況を、限りなく等しいものに持ち込むことができるはずだ。
 きっとファイバーもそれが言いたかったのだろう。こちらの草原に炎がまわる前に、町の中を混乱させ、炎で一網打尽にすればいい。
(――だが、連中はこのような火を放ってどのような後始末をするつもりだったのだろうな)
 ふとハルムは沈む夕日を背景に思案する。
 影は重く落ち、痛々しい傷跡を残した草原は相変わらず無残な姿をさらしている。
 炎はこの地まで届き、明朝には山に火がつくだろう。そうすれば最悪、大規模な山火事となり十日は火が消えまい。三年前も山に火が移り、消火に長い時間をかけたのだ。
 その間、町では物資の供給もできないだろうし、第一煙の被害が恐ろしいことになるだろう。本当に一体どうするつもりだったのか。
 兵士たちを眺める。それぞれひとりでに燃えだした町を見て呆然としている。
「――町を取り囲むようにして風魔法を。この町ごと、再び全てを燃やしてしまえ」
 冷徹な紅の瞳で、ハルム・ウッドカーツは淡々と命令した。
 きっとこれが町の者の最後の作戦だろう。これさえ切り抜けてしまえば、ハルムたちの勝利は絶対となる。
 ――そう、最後の夜の幕開けだ。
 炎がみるみる広がっていく。まるであの日と同じに。
 ハルムは最後にちらりとその様子を一瞥すると、踵を返して歩き出した。それぞれ詳しい指示をだすためだ。
 これ以上死者をだすわけにもいかない。町の者たちを勝たせて、世界を再び混乱に落とすわけにもいかない。
 だから彼はウッドカーツ家の名において――戦うのだ。


 ***


 戦地に残った者は少なかった。
 他は皆、船に怪我人を運ぶ為に下がった。残った者がすべきことは――ただ一つ、ウッドカーツ家の者の首をとることだけ。
 あとはこの炎と、そして――その後の作戦がうまくいけば、全てをなぎ払うことができる。
 スイももちろん、戦地に残った者の一人だった。
 冬も近いこの時期の夜は早い。火の粉の舞う橙色の光景は暗い夜を煌々と照らす。
 煙が薄い場所を選んでいるから息苦しさは少ない。
 横ではハルリオが敵の様子を伺うかのように視線を遠くへ向けていた。
 空を仰げば煙でわずかにけぶる満天の星々。その中でぽっかりと天使星がひとつ、静かに大地の炎を見下ろしている。
 月の位置で、現在の時間を割り出した。そろそろ時間だ、行動を始めなければならない。
 小さくハルリオに目配せをした。
 ハルリオも頷いて再度向かうべき先へと目を向ける。
 そうして――スイもまたその足を踏み出そうとしたとき。
 ふっと胸の中に悪寒がこみ上げて、スイはかすかに目を伏せた。
 脳裏に浮かぶのはあの緋色の髪をした少女。彼女は後方にいるから安全なはずだ。――そう、安全な場所にいるはずなのに……。
 何かの予感が不安をかきたてる。得体の知れない不快感。
 まさかそんなことが、と思ってそれを取り払おうとした。しかしこの戦場にいる限り、完璧に安全だと言い切れる証拠がどこにあるだろうか。
 ――今は自分のことを考えなくてはいけない。これから彼はその名の通り死闘に行くのだ。
 なのに、どうして胸に染み付いた感情が消えないのだろうか……。
 喉の奥でその名を一度だけ呟いた。そうやって、ほんの少しだけ振り返った。それで彼女が見えるはずがないと分かっているのに。
 だが、それ以上のことができるはずもない。
 ハルリオは既にこちらを促すように炎の中へと進んでいった。他の者たちもそれぞれの場所へと散っていく。
 だから、信じることしか出来なかった。――彼女の強さを、その生きる意志を。
 きっと戻ってくれば、当たり前のように彼女が笑って出迎えてくれるのだと――。
 ぎゅっと剣を再びきつく握る。
 想いを振り払うようにして、スイも踵を返した。
 網膜に焼け付く炎を睨んで、その方向へと進む。
 風は海から山の方へ。
 唇を噛んで、更に風が向かう方へ前進を。
 いつだったか託された想いを秘めた剣を片手に。
 しかしそれ以上の空虚と哀しみを――もう、片手に。


 ***


 二十対一。
 そんな数の差で年端もいかぬ小柄な娘が優勢にたつなど、誰が予想できただろうか。
 小娘一人にどうしてここまでてこずるのか――疑問はみるみる恐怖へと変わっていく。
 それほどに、赤毛の獣は容赦というものを知らなかった。
 三人殺されたところで、男たちはその異常に気付く。
 まるでこの娘には隙がないのだと。下手に手をだせば、呼吸を一度するほどの秒間に息の根を止められているのだということを。
 恐れをなして逃げようと背を向ければ、それは死を意味する。
 この大人数の大人の男に囲まれようと、彼女は片眉すら動かすことはなかった。
 それが更に取り囲む彼らを戸惑わせる。
 ――ただ、苦しいのは娘――ピュラとて同じこと。
 顔にはださないが、胸の中で肺が空気を求めて荒ぶっている。
 体力的にまだまだ随分余裕があるから戦えはできるが、これだけの人数となるときついものがあった。
 ――しかし、こんな場所で負けるわけにはいかない。
 生きていくのだ。ひとりでも負けないほどに強くなるのだ。
 幼い頃、こんな場面はいつだってあった。
 持っている食料などを狙おうとする者たち、奴隷商人に売ろうとする者たち、――様々な悪意。それらが何度も彼女を取り囲んだものだ。
 そこにあるのは吐き気がするような、ひたすら透明な殺気。
 負けてたまるものか。――そう、こんなものに屈してたまるものか。
 炎よりも燃えたぎる意志が彼女を突き動かす。
 生きる為に自然と身についた技を、容赦なく相手に叩き込む。
 一人でも逃がせば裏切りによって相手にこちらの動きを知られることになる。そんなことになれば、スイはおろかピュラだって無事でいられなくなる――。
 剣が弧をえがく。ピュラはそんな剣を振り上げた男の利き腕とは反対に飛び込み、足を蹴り上げる。
 がづん、と骨が割れる嫌な音。血が宙を待って、彼女の頬にかかった。
 男はそのまま首をありえない方向へ曲げたまま地に伏し、その間にも彼女は体勢を立て直して周囲を睨む。
 既に彼女の足元に伏す影は五つ。彼女を取り囲む男たちは明らかに戸惑った表情で紅い娘を見つめる。
 こんな娘が既に五人もの襲い掛かってきた男を倒すなど、信じられなかったのだ。
 しかも彼女に倒された男の内、二人が持ち出してきた銃を追っていた。
 しかしそれは彼女の素早さに叶うものではなかった。
 そもそも銃で相手を打ち抜くなど、それなりの訓練が必要なのだ。
 背後からや不意打ちで狙うのならともかく、彼女ほど武術に長けた者を初心者が易々と捉えられるものではない。
 ピュラは腰に手をやって、小さく笑った。
「……そろそろ炎、つけられるんじゃないの?」
 風にのって鼻をつくのは――何かが焼ける臭い。
 夕日も落ちるこの時間、既に点火がはじまっているのだ。
 今彼女たちのいる北地区はまだ煙も火の手も薄いが、いつこちらまで伸びてくるかもわからない――。
「……それにね、あなたたち。貴族たちが裏切ってきた人をそうやすやすと信じてくれるとでも思う?」
 ピュラは頬についた血を手の甲で拭って、静かに取り囲む男たちを見据えた。
「この町から逃げ出すならともかく、貴族なんかの懐に飛び込んでみなさい。最初は笑顔で応対されて持ってる情報全部しぼりだされてそのまま殺されるわよ。一度裏切る人は何度だって裏切るものね」
 ――ぎり、と誰かの歯軋りの音がした。
 それほどに彼女の言っていることが正論だったから、だ……。
 ピュラはこの人数差などまるで気にしない様子で、小さく溜め息をついた。
「もう今からあなたたちが行っても重要な情報なんてほとんど伝わる前に作戦として実行されてるわ。おとなしくここで縛られておけば? ヘイズルも全てが終わったら捨てる程度で済ませてくれるか――」
 彼女がそれを言う前に――ぱんっと心臓を打ち抜かれるような振動が空気を揺さぶった。
 とっさによけた彼女の代わりに、その先にあったがれきが吹き飛ぶ――。
「――ああ、嬢ちゃんのお陰で随分足止めをくっちまったな。これで計画は台無しだ」
 アデルと呼ばれていたリーダー格の男は銃を構えたまま口元を歪めて憎々しげに呟いた。
「仕方ねえ……手荒なことはしたくなかったが、こうなったら嬢ちゃんにエサになってもらうしかないな」
 誰が手荒なことをしたくないんだ、と言ってやりたかったが……、次に彼が言ったことが彼女の言葉を喉元で止めていた。
「ど、どうするんだ……?」
 不安げにする隣の男を一瞥して、アデルは薄く笑って言った。
 まるで呪いのような言葉を。
「――嬢ちゃん、孤高の銀髪鬼の弟と仲がよさそうだったな?」
 ぴん、とピュラの橙の瞳がはじけた。
 同調するかのようにピアスが揺れてちらっと煌く。
「どんな間柄かは知らねえが、嬢ちゃんを連れてって軽く脅せば奴に隙ができる。――スイ・クイールの首でも向こうに持って行けば、さぞ忠誠の証と思ってくれるんじゃねえか?」
 まるで胸を直接圧迫するかのような、言葉たち。
 理解するのに、数秒を要する。
 ――ピュラの口元の端が、全ての感情を通り越して歪むように笑った。
 それがあまりにも馬鹿馬鹿しい話だったからだ。馬鹿馬鹿しすぎて、眩暈さえした。
「――は、スイが私程度を縛っていったところでほいほい首を差し出すとでも思ってるの? あなたたち、あの人が孤高の銀髪鬼の弟であることを忘れてるんじゃない?」
 しかし、男もまた口元を歪めて笑うだけ――。
「どうかな? 奴、あんまり強くなさそうじゃねえかよ。それにいい具合に詰めが甘そうだ。嬢ちゃんの命と引き換えっていうなら――」
 ピュラの瞳に激情の色がともる。
 ――それは怒り、だ。
 彼女の体を覆う爆発的なエネルギー。まさに炎のように、ぎらぎらと燃えたぎる。
「殺すわよ」
 ――冗談など一片たりとも混じっていない声が、その唇から紡がれた。
 娘の声だというのに闇夜から響くかのごとく低く、灼熱の感情を秘めた――言霊だ。
 だか男たちも引かない。――自らの命運がかかっているのだ。ここで引き下がるわけにもいくまい。
 それぞれ武器を持って、構えをとる。
 じりじりと緊張だけが極限まで張り詰める。
 その中心で緋色の獣はひとり。
「……そうね、ひとつだけ訊くわ」
 追い詰められた娘へいつ飛び出そうかと頃合を計る男たちに向けて、彼女はぴくりとも動かずに尋ねていた。
「あなたたち、そこまでしてヘイズルを裏切りたい? そんなにこの戦いに希望が持てないの?」
「持てねぇさ」
 男の誰かがその問いを遮った。
 彼らの瞳に宿るのもまた、ぎらぎら光る強い意志。
「オレたちは生きる為だったら何でもする。――それが裏切りであろうと、生きる為だったら厭わないさ」
 ――求めるものは、生。
 全ての命に等しいこと。
「そう」
 ピュラの瞳がついと細まる。
 日はいつの間にか暮れ、辺りは既に薄暗くなっていたが、みるみる燃えゆく町の炎が照明となって光には困らない。
 ――それは舞台だったかもしれない。
 生きることを望んだものたちが戦う、戦場という舞台だったのかもしれない。
 そこだけ開けた、ほんの数十人の人が対峙する空間。
「少し痛めつけろ。気の強い嬢ちゃんだからな、ちったぁおとなしくしてもらわないといけねえ」
 アデルの言葉の元、殺気が一気に破裂する。
 ――次の瞬間、舞台の幕はあがっていた。


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