-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

137.炎と影と



 リエナは走っていた。
 息を切らして、その方向へがれきの中を走っていた。

 仲間にヘイズルのことを聞いてまわった後、――ひとりだけ彼を見たという者がいたのだ。
 ……ただそれは、よりにもよって一番話したくない相手……ハルリオだった。
『――ええ。彼なら北地区の方へ歩いていきましたよ』
 一瞬ここが戦場だと忘れるような優しい笑みで彼が返す。
 かなり焦っていたこともあったのかもしれない。リエナは怒鳴り返すようにして言っていた。
『なんで声もかけないんだい! 一人で歩いていったんだろう? 不審には思わなかったのかい!?』
 するとハルリオは一瞬目を瞬かせて、小さく首を傾げる。
『別に彼のことですから、心配することもないでしょう。なにか不安があるのですか?』
 逆に聞き返されて、リエナが詰まる。
 確かにあのヘイズルが貴族などにあっさりやられることなど起こるわけがない。
 だけれど……なんだろうか、この胸に重くのしかかるものは。
 もしも彼がいなくなってしまったら。
 そうなったら、この町も含めて、彼女だって。
(……怯えているのか――私は)
 その感情を持て余しながら、リエナは北へと目を向ける。
 もう捨てた命だと思っていた。あの、三年前の炎の夜から自分の時間は終わってしまったのだと。
 なのに、どうしてこんなにも……。
『――気になることがあるなら行ってみてはどうですか?』
 ふいにそんな声を聞いて、彼女にしては珍しく肩をぴくりと浮かせた。
 振り向けばそこには天使とも見紛う整った顔立ちの男。
 リエナはそんな彼を一瞥して、再び顔を背けた。
『……言われなくても行くさ』
 ぎゅっと拳を握って、走り出す。まだ前線はどうにか守られているようだった。このまま夕方まで持ちこたえてくれればいいのだが……。

 その途端、突如として大気をつんざいた鐘の音に驚いて立ち止まる。
 はっとして、時計台を見上げた。何の見当もなしに北へと走ってきたことに後悔を感じ始めてきていたが、これは幸運だった。
「それにしても一体何をやっているんだい……!」
 半ば八つ当たりのように呟いて、再び走り出す。
 彼は何かと戦っているのだろうか。彼と『戦いが出来る』何かが、いるのだろうか。
 死んでもらっては困る。この戦いは、勝たなければいけないのだ。
 聴覚を壊すような鐘の音は、止むこともなく響き続けていた。


 ***


 悪魔の計画の中で生き残った子供たち。
 その全ての子供たちは、心を破壊されていた。
 毎日の生死をかけた訓練、嫌がる隙など与えられずに叩き込まれる数多の知識。
 当たり前だ、調停者に人の心など必要はない。
 人は人を裁くことはできない。
 もしそれができるの存在があるとしたら――それは神だ。
 だから、子供たちは人であることを許されなかった。
 しかし唯一、人であり続けた子供がいた。
 主であるウッドカーツ家に忠誠を誓い、悪魔のように狡猾に法に背く者を惨殺するというのに――。
 その内側に、人としての顔を持つ子供がたった一人だけ……いた。
 子供はやがて、自らを育てたものに背いた。
 子供は自らで選択をしたのだ。
 この暗がりで生きるのか、――それとも……。

 もしかしたら、その子供こそが本当の天才だったのかもしれなかった。

 ファイバーの瞳が――見開かれた。
 頭上から降ってきた、黒く焦げた人間くらいの大きさのもの。
 それは、予想した人間では――なかった。
 単に麻袋を何重にも使って作った人形だ。
 とっさに後ろに飛び退こうとして――だがそれは一瞬遅く。
 ふっと小窓に影が落ちた。
 そこから突き出すのはライフル銃の長い身。
 そうして、窓に外でそれを片手に構えながら不敵に笑うのは栗色の瞳――、

 彼は元から窓から外に飛び出し、予め外から吊るしておいたロープに掴まって身を隠していたのだった。
 普段のファイバーなら気配で一瞬で気付いただろう。しかしけたたましく鳴り響く鐘の音が気配すらも消してしまったのだ。

 そうして――。
 悪夢の音が、弾かれた。


 リエナが時計台に辿りついたとき、まだ鐘は鳴り響いていた。
 だがそこで彼女が目にしたのは――いくつも穿たれた銃弾の痕。ところどころ血が飛び散っている。
「――っ、」
 ぎり、と歯ぎしりをして迷わずに時計台の中へと踏み込んだ。
 時計台の中に響く鐘の音量は尋常ではない。
 頭痛さえ覚えるほどの痛みにも似た音に顔をしかめながら、階段へと足をかける。
 すると聞こえてくる――銃弾が放たれる、心臓を鷲づかみにするような音。
 震える指は、拳を握ることでどうにか抑えた。この時計台のどこかで、ヘイズルが戦っている。しかも、この世のものとは思えない戦いを。
 足を一歩一歩踏み出すたびに思う。自分などがこんな場所に来ていいのだろうか。引き返すべきではないのだろうか。
 だが、それでもリエナは先に進まずにはいられなかった。
 ヘイズルが何者なのかはわからない。――だが、それでも彼の行く先を見届けたいと。
 音のする部屋が近付く。
 名を呼ぼうかと思ったが、やめた。誰と戦っているかもわからないのだ。
 そうして、部屋に飛び込もうとして――リエナは、息を呑んだ。


 きっとそれは、人にできる動きではなかっただろう。
 ヘイズルの持つ黒い銃口から放たれた弾は、限りなく心臓に近い部分を撃ち抜くはずだった。
 だが、それと同時に血の穴があいたのは、ファイバーの横腹のあたり。この至近距離で致命傷を避けたのだ。まだファイバーの動きは止まってはいない――!
 そんなときのことだった。
 この場にふさわしくない参戦者。不意に顔をだした彼女の瞳がふっと光景に揺らいで、見開かれる。
 だがそれよりも先に、ファイバーの持つ黒い塊から、同じ黒いものがヘイズルめがけて放たれていた。
 腹部に強い衝撃。思わずロープを手放しそうになって、どうにかこらえる。
「ヘイズル!」
 リエナがまるでファイバーが見えていないかのように叫んで駆け寄ろうとした。だがファイバーは相手が誰であろうと、複数人になろうと容赦しない。
 くるりと手の中で黒き天使の刃が翻る。彼女が息を呑むよりも前に、その引き金に指がかかる。
「――ちっ」
 だが間一髪、ヘイズルの行動が早かった。舌打ちと共に彼は再び部屋の中に飛び込み、その勢いのままファイバーの背中を蹴る。
「リエナ、急げ!!」
 珍しく声を荒げた彼に、リエナは弾かれたように跳んでヘイズルの後ろに回った。ファイバーは少々体勢を崩したものの、すぐに立て直す。
 張り詰めた空気の中、二つの視線が交差した。
 次の瞬間、片方は口の端で笑い、もう片方は無機質な瞳に何も映さずに。

「先にあの世で待ってな」

 何も考えることができないでいるリエナを片腕で抱くようにして、ヘイズルは――後ろに飛んだ。
 その先にはぽっかりと空が開けた窓。刃を投じて、ファイバーの銃撃を牽制する。
 たったそれは一瞬のことだったのだろう。リエナが何も解らずに目を瞬いた次の瞬間には、二人は窓から外へ身を躍らせていた。
「な、ヘイズ――!」
 瞬時に感じる、体をなぶる風。
 だが、ぶつぶつと頭上から知った男の呟きが聞こえてきた。何を紡いでいるのかは、風が邪魔でよくわからない。
「――精霊の御名において」
 その声だけが、聞こえた。
 空気の流れが集束する。その手の中に極限まで引き絞られた力が塊となって――。
 予想外のヘイズルの動きに、ファイバーが窓から飛び出すのは一瞬遅かった。

 ――光が、薙ぐ。

 激しい風が取り巻き、巨大な光の矢が放たれる。
 その瞬間、時計塔は……激しい音をたてて、崩れ落ちた。


 ***


 リエナはヘイズルに抱えられて着地した後も、自分の足が地に付いていることが信じられなかった。
「……な、」
 理解ができない。何が起こったかわからない。
 ただ、目の前にあるがれきの山を呆然と見つめるだけ。
「おぉ、慣れねえことはするもんじゃねえな」
 ヘイズルは流石に着地の衝撃が大きかったのか、痛みに肩をすくめながら腰に手をやる。
「慣れないことって……」
 だが、リエナは首を振りながら彼に振り向く。
「一体何だったんだい? ヘイズル、あなたが魔法を使えただなんて聞いたこともない。それに……あの人は一体」
 建物一つ粉砕するような魔法を、あれだけの時間の詠唱で完成させ。
 人とは思えない動きで攻撃をかわしてみせた。
「――あなたは、」
「リエナ」
 険しく真剣な眼差しを向けるリエナに、ヘイズルは口元だけで笑う。
「なんだ、心配して来てくれたんじゃねえのか? 労わりの言葉もねえのはちょっと寂しいな」
「あなたは一体何者なんだい」
「んー?」
 まるでリエナの質問など耳には入っていない様子で、彼はがれきの山に目をやった。――この中に埋もれた過去の知り合いに、そっと目を閉じて。
「私は真面目に聞いているんだよ。はぐらかさないでくれるかい、大体さっきの魔法だって……」
「神様のなりそこないさ」
「…………は?」
 当たり前のように言ってのけたヘイズルに、彼女の瞳が丸くなった。
 ヘイズルは不敵に笑って顎に手をやる。栗色の目は一段と深みを増し、その底知れない印象を深めるものとなる。
「でもな、神なんてものは人の心の中にいりゃいい。現実にそんなものがあっちゃいけねえ」
「……――」
 言葉を見失ったリエナが不可解そうにヘイズルを見つめる。
 だが、ヘイズルはそれきり、はらはらと手を振ると歩き出していた。
「あー、久々に魔法使ったら疲れたな。帰って茶でも飲むか」
「ちょ……っ、ヘイズル!」
 慌てて呼び止めるリエナに、ヘイズルはちらっと視線を投げる。
 リエナは知らない内に胸に手をやりながら、訊いていた。
「……あなたは、どうして――こんなことを始めたんだい」
 この、一歩間違えれば無謀としか思えない戦を始めた男に向けて。
 するとヘイズルは、鼻で笑うようにしてまたリエナに背を向けた。
「前にも言わなかったか? 俺たちはあぶれたものだってな」
 陽は次第に傾いていく。まだ昼ではあるが、その分影も黒く落ちる。
「――ただ俺は厄介ごとから逃れてのんびり本でも読んでいたいだけさ。それにはまず、それができるだけの環境がないといけないだろう?」
「……」
 リエナはその背中を半ば呆然と見送った。
 ヘイズルはもう一度立ち止まると、ひょいと振り返って首を傾げた。
「どうした、来ないのか? 俺を迎えにきてくれたんだろ?」
「――迎えにきたんじゃないよ。あなたを一人にしておくのが心配だから様子を見に来ただけだ」
 あからさまに不機嫌な表情をみせて、リエナもつかつかと歩き出す。
 ヘイズルもまた、そんな彼女の様子に薄く笑うと、再び刃の飛び交う戦場に向けて――歩き出した。


 ***


 背中を伸ばして、山を見つめる。
 幼い頃から見ていた、遠い景色だ。
 町の点火があちこちから始まっていた。風に乗って、炎の匂いが流れてくる。
 スイは左手の指で腰の剣の柄を軽く弾くようにした。
 いつだったかの夏、――とても暑かった夏、兄から託された大振りの剣を。
 ぱちぱちとはぜる音が聞こえる。
 心を叩く、悪夢の音。
 胸の中に黒い塊が入ったような、息苦しさ。
 瞳を伏せれば鮮明に思い出す、血だまりの中に伏したひと、ひと、ひと――。
 ――そして、そこに燃え散った若草色。
 花は、もう燃えてしまった。
 目の前にあるのは壊れたがれきだけ。
 こうしてこの町は忘れ去られていくのだろう。
 この町で何があって、どんな人が住んでいたのか――。
 全ては無に等しくなってしまうのだろう。
 その面影を遡るように、スイは滅びた町を見渡す。
 今にも、後ろから名を呼ばれて肩を叩かれて――振り向けばあの少女がいつものように笑っているのかもしれないと、そう思って。
 ――唇を噛んで、再び目を閉じた。
 そんなことは二度とありえないのだから。
 今の――この廃墟こそが、現実なのだから。
 また炎の夜がやってくる。
 息苦しく、重苦しい夜がやってくる。
 もう陽は夕日となった。
 町は橙色に染めあげられ、深い影が落ちる。だが、少女の歌はどこにも聞こえない。
 あるのは鉄と血とがれきと海の匂い、そして憎悪の匂い――。
 橙に照らされた蒼い影は、ゆっくりと歩き始めた。
 その静けさはまるでかの孤高の銀髪鬼のごとく。
 それを飾るのは大小様々ながれきの山――。
 ぱちぱち。
 ぱちぱち。
 何かが炎に燃える音。
 味方と敵の交戦の音。
 スイの出番は夕方からだ。彼らはどうにか日中の攻撃をしのぎきった。――これから夜、まだ勝ち目はある。
 ほとんどの部隊が一度町の中に撤退した故に先ほどよりも音は小さくなっている。
 敵も――明朝に一気に攻撃をしかける算段なのだろう。ゆるやかに撤退の様子をみせていた。
 ぱちぱち。
 ぱちぱち。
 滲むように湧き上がる、鮮烈な橙色のイメージ。
 また日が暮れる。町が燃える。
 後ろから殴るような風。今日は――とても風が強い。一気に火の手は敵陣へとまわるだろう。そうやって山のすそ野までを焼き尽くし、町は煙に包まれ、今度こそ跡形もなく消え去る――。
 誰もいない夕暮れの道を歩く。時折影を見かける。火のついた棒きれを持って走る人。町に火をつけているのだ。
 ぼうっとあちこちで火の手があがる。日は間もなく沈む。スイは……その橙の中を歩き続ける。
 兄の声が聞こえた気がした。
 兄は、走れ、と。
 そう言って、絶えた。
 ぱちぱちぱち。
 ぱちぱちぱち。
 煙の臭い。肌を焦がすような、ものの焼ける臭い。
 右手がゆるやかに動く。
 その剣の柄に指が触れる。
 握る。
 ――すらり、と。
 美しい銀の肌を持つ一振りの剣。
 まるで体の一部になったかのように右手になじむ。
 それを握ったまま、彼は歩みを止めることはしない。
 一歩。また一歩。
 黒よりも深く沈む瞳はただ前だけを見つめて。
 そこに表情らしきものはなにひとつとしてなく。
 炎がてらてらとその頬を照らす。
 世界は静かに暗くなっていく。
 夕日の時間をすぎても――町は、更に橙色に。
 影はゆらりとゆらめいて、あの黄金の草原へと消えていく……。


 ***


「――やっぱりやめましょう」
 ピュラが立ち止まったのは、歩いていた内の一人が立ち止まってぽつりと呟いたからだ。
 既に男たちは随分北のはずれまで来てしまっていた。ピュラとしても行動にでる瞬間を伺っていたのだが、――彼女は急いでがれきの影に身を隠す。
 ちらりと視線を男たちの方に流せば、――二十人ほどいる男たちの中では最年少に見える黒髪の青年が険しい顔で佇んでいる。
 訝しげな顔をする男たちに向かって、彼は手を広げるようにして訴えているようだった。
「僕はこんなこと――こんなことしたくないです。アデルさん、今からでも遅くない。戻りましょう!」
「コープル」
 困ったように眉をしかめながら、アデルと呼ばれた男の一人が青年に近付く。
「そんなこといってもな……この戦、勝てるとでも思うか? いくらヘイズルとはいえ、これ以上くっついてたら痛い目みるのはオレたちだぜ」
「そうだ、貴族の世界では反乱の首謀者を捕まえれば軽く200万ラピスよこしてくれるんだ」
「ここから町を抜け出して、貴族側にとりつけばまだオレたちに生きる道はある」
 ぴん、とピュラの瞳がはじけた。
 ――拳が知らず知らずの内にきつく握られる。
 この男たちの話から簡単に察しがつく。彼らは単に逃げようとしているのではない。彼らは、ヘイズルを貴族側に売ろうとしているのだ――!
「……でも、この町の皆はどうなるんですか」
 青年は顔を歪めて俯かせ、小さな声で呟く。
「理想の為に戦って、僕たちの生きるべき世界を作る――、そんな夢はどうなってしまうんですか」
「無駄だ、そんな夢は」
 ぴしゃりと男がかすかに強い響きをもってして言葉を言い放つ。
「所詮オレたちなんて貴族に勝てっこないんだ。コープルも見たか、あの軍勢を? この町を燃やすっつったって、自殺するも同然じゃねえか」
「そうだ、俺たちは俺たちで道を決める。――生き抜くんだ」
 コープルと呼ばれた青年は唇を噛んで、男たちをぐるりと見回した。
 そのまま彼らの間をふわりと風だけが通り過ぎる。
 町は次第に燃えはじめていた。ぱちぱちと何かがはぜる音が聞こえてくる。
 コープルはじっと何かを考えた後……。
「わかりました」
 顔をあげて、男たちをじっと見据える。
「僕はここに残ります。ここからは――あなたたちだけで行ってください」
「おい、コープル」
「僕は嫌です! 皆を裏切るなんて、とてもできない……っ、もしこの戦が駄目なのだとしたら――」
 青年の瞳に炎が灯る。泣きそうな表情の裏には何が映っているのだろうか。
「――この町と一緒に死ぬことを選びたい」
 そう答えて、コープルは一歩足を下げた。
 男の一人がその様子にゆっくりと目を細める。
「……そうかよ。なら好きにしやがれ」
 こつ、こつ、と当たり前のように彼の目の前に歩いていって……。
「あばよ」

 ――黒髪の青年の瞳が弾けたときには――もう、遅かった。

 男の手から伸びた短剣は血に濡れて。
 ぽたぽたと大地に紅い染みができる。
 こふ、とコープルの唇が血を吐いたときには――彼の体は傾いでいた。
「悪いがオレたちのことを感づかせるわけにはいかないからな。ついてこないのならここで去ね」
 どさり、と簡単に倒れる体を中心として、みるみる血だまりが広がっていく。
「――嬉しいだろう? 町と共に死ぬことを選んだんだ、苦しまずに逝けただけで幸いさ」
 目を細めた男は血でてらてら光るナイフを興味なさげに捨てて、踵を返した。
 他の男たちは――目を見張っている者、それが当たり前だと淡々としている者――様々だった。
 だがその瞬間……ぱきりとピュラが踏んでいたがれきの一つが割れた音が、男に届く。
 はっとしたときには既に遅かった。
「誰だ!」
 男は剣の柄に手をかけて吼える。全員の緊張が一気に高まる。
「誰だ――そこにいやがるのは」
 視線が集中する大きながれきの影。
 風は相変わらず吹きすさび、砂埃を運んでいく。
 ――そんな風が不意に唸った。
「……どちらまで行くのかしら。この辺りに部隊を置くなんて作戦は聞いていないんだけど?」
 まるで道を尋ねるかのような声。
 その影には――小柄な赤毛の娘が佇んでいた。
 この場には見合わぬ出で立ちに、それぞれの瞳が跳ねる。
 娘は――その表情を無に等しく凍らせたまま。
 男の表情が目に見えてこわばる。
「てめえ……いつからそこにいた」
「さあ――いつからだったかしら」
 耳元でちらっと煌くのは大粒の宝石だ。瞳の色は静かに目の前だけを睨みつける。
「……」
 男たちはそれぞれ、目配せをする。
 相手は少女ひとり。この人数でかかれば、一瞬もかからずに殺すことができるだろうと踏んだのだ。
「嬢ちゃん、オレぁ女子供を殴るのは趣味じゃねえんだが……」
 その口元に殺気という名の笑みを浮かべて、男たちがぱきぱきと指の骨を鳴らす。
「ここにいちまった自分を呪うんだな!」
 ふっ、とそのとき。
 ピュラの口元に浮かんだのは笑みだったろうか。
 こうなれば彼女のすべきことはただ一つ。
 ここにいる全ての者の息の根を絶つのみ――!

 もしかしたら彼女は戦いにその身を投じることを望んでいたのかもしれなかった。
 そうやって戦って、全てを忘れてしまえばいいと思っているのかもしれなかった。
 だから――普段の彼女だったらこの無謀にしか思えない戦いを始めることなど、なかったろう。
 しかし……彼女に恐れなどというものはない。
 こうやって一気に大人数に襲われようと動じることもない。――そんなこと、スラムでは当たり前のようにあった。
 彼女は自分のしたいことをする、たったそれだけ。
 だからその戦いも――あるいは彼女の、望んだことだったかもしれなかった。


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