-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

136.二人の天才



 それはまさに疾風のごとく。
 ファイバーがその距離を詰めるのはたった数秒。
 その狙いは目標である目前の男の心臓目掛けて――。
 ただし、ファイバーは銃を使うことはあっても魔法を使うことはない。
 彼自身、得意とするのが一対一での戦い、――つまり目標の暗殺。
 魔法などで大きな衝撃を与えれば、他の者が気付いて戦いに介入する恐れがある。下手な横槍があっては任務に支障をきたすのだ。
 もし攻撃魔法を使うとしたら、それはそれが必殺と確定したときのみ。
 そんな機会が訪れたのなら、彼は容赦なく渾身の力を込めた魔法でヘイズルの体を肉片も残らぬほどに切り刻むだろう。
 対してヘイズルもまた仲間を呼ぶことはしない。
 目の前の男は仮にもあのプロジェクトで唯一戦闘能力にA+++がつくほどの実力があるのだ。
 こうして単身乗り込み、向かってきたのもその力があったからのこと。
 そこらの者が介入してきたところで瞬きを一回した瞬間には四肢を吹き飛ばされているだろう。
「どうせ相手するなら妙齢の美女とやりたいもんだがな」
 ヘイズルは口元に不敵な笑みを浮かべたまま放たれた弾を耳すれすれのところでかわす。
 だが相手の切り返しはまさに神速だ。機械のような素早さで弾詰めを終えて再び鼓膜を突き抜けるような音。
 飛び込むようにしてがれきの影に身を隠すと、盾になったがれきがハチの巣になって砕けた。
 ファイバーの足取りはまるで体重を知らないかのようだ。
 ほぼ飛んでいるも当然、太陽を背に容赦なくその銃口をヘイズルに向けてくる。
 ――ヘイズルの反応は一瞬、早かった。
 散らばるがれきの一つを蹴って、その反動で横に飛ぶ。
 北地区、丁度込み入った道が折り重なっている地域だ。銃の盾になるものならいくらでもある。
 ――だが、ヘイズルは一度たりとも反撃することを許されない。
 ファイバーの攻撃をかわしながらの後退を余儀なくされる。
 無論、彼の背には銃があるが、ファイバーの物のように連射をすることができないのだ。故にそれで彼と対等に渡り合おうなど無理に等しい。
 ――そう、彼はあまりにも不利なのだ。ひたすら逃げるようにしてみるみる後退するしかない――。
 ……否。
 ヘイズルは誘っていた。
 彼にとって最も戦いに適した場所へ。
 この『戦闘する機械』と互角に渡り合える場所へ。
 もちろん、そこまでたどり着くのは容易なことではない。
 それまで冗談のように放たれ続ける数多の攻撃をしのいでいなくてはならないのだから。
 びっ、と膝に衝撃が走り、鮮血が溢れる。銃弾が掠めたのだ。
 ひゅぅ、とヘイズルは口笛を吹いて再び角を曲がった。
「まさかこんな歳で追いかけっこなんてな」
 気休めに腰から短刀を3本ほど引き抜いて続けざまに放つ。
 普通の人間であったならば光速かつ正確に投げられた3本をかわすのは至難の業だろう。もちろんファイバーはそれらを一度地に伏してかわし、再び大地を蹴り上げる。
 すると平地を追っていては埒があかないと判断したのか、ファイバーは軽やかに塀の上へと飛び上がった。
 わずか数センチの足場だろうが、彼にとっては平原を蹴っているのと等しい。
 ヘイズルの足がいくら速かろうとも、その差はほぼ一瞬で埋まる――!
 走っていたヘイズルの腕が翻った。
 その速度は維持したままだ。美しさすら感じられるような手際で腰のライフル銃が構えられ、唸り声をあげる。
 ――激鉄のあがる音、鋼が打ち鳴らされる音。
 それはファイバーを狙ったものではない。彼が走る老朽化した壁を狙ったのだ。
 古くからある壁にクモの巣状に入ったひびは、一気に連鎖してみるみる崩壊を促す――。
 だが、ファイバーの反応もまた早い。
 崩壊によって巻き上がる砂煙の中、そこに紛れるようにして両腕に構えた拳銃で目標を狙う。
 黒き天使の刃はその牙を剥き、目標へと死の鎌を振り上げる。
 両者の差は変わらず。まるで戦場を駆け抜ける風のごとく、二つの影が過ぎていく。
 ――ヘイズルの体が傾いだのはそんなときだ。
 ぱっと上体を倒して横の建物へ壊れかけた窓から突っ込む。
 その建物こそ、ヘイズルの誘った場所――このスラム街の中心地であった時計塔であった。
 だが、ファイバーの腕が一閃する。そこから伸びるのは禍々しい鋼鉄の鎖だ。
 しゃっと伸びたしなやかな鋼の鞭は――ヘイズルの腕に絡んで、その体を捕らえた。


 ***


 セルピはごしごしと目をこすって息をつく。
 目下には怪我人が横たわる部屋の光景。かなり広い部屋だ。作戦では夕方、セルピはこの怪我人たちと大移動をしなければならない。
 だから元々いた地下ではなく、動きやすい安全な場所まで移ったのだ。
 ピュラも横で壁を背に腕を組んでいる。
 遠くで聞こえるのは争いによる爆音――時折振動も伝わってくる。
 先ほどなど、アレキサンドライトの衝撃で建物自体が震えた。
 この辺りで一番頑丈に作られた建造物だったから崩壊こそしなかったものの、ぱらぱらと亀裂から砂が漏れてきたときは肝を冷やしたものだ。
 もう正午を過ぎただろうか。夕方まであと数時間、彼女たちはここにこうしていなければならない。
 目の前には、やはりそれぞれ怪我をした者が力なく横たわっている。不安そうな顔をする者、ただじっと朗報を待つ者――それは様々だ。
 壁を背に座り込んで、セルピは再び何度目になるかわからない吐息を漏らした。
 ――だが、ふいにその瞳がふっと揺らめいて動くものを捉えた。
 割れたガラス窓の向こう、その路地にたむろする影。どうやら男たち――5名ほどだ。
 セルピは首を傾げる。こんな一番安全な――港に近いほどに奥まった場所に配置された人員は少ない。
 同じく、ここに配置された者たちの顔はそこそこ覚えたはずだったが、その男たちは明らかに知らぬ顔をしていた。
 前線から戻ってきたのだろうか。それにしては怪我もしていなさそうだが――。
「――ピュラ」
 声をひそめてセルピはピュラの服を引っ張った。
 ぼうっとしていたのか、ピュラは少し驚いた様子で顔をあげ、セルピに視線を返す。
 そうやって怪訝そうな顔をするピュラへ、セルピはそっと耳打ちした。
「――窓の外、みてみて。何か変な人たちがいるみたい……」
 するとピュラもさりげなくちらっと窓の外に視線をやる。
 そこにはやはり男たちが何か会話をして――走っていく光景があった。
 ピュラの瞳が細められて、小さく唇が動く。
「……ほんとね。おかしいわ、なんであんなところにいるのかしら」
 眉間にしわをよせて、彼女は思案するように口元に手をあてた。
 この辺りにあるのは怪我人の収容所だけではない。
 この戦のために蓄えられていた物資なども――運び出されて、近くに集められている。
「なんなんだろう……」
 不安そうにセルピがピュラを見上げる。
 ピュラはしばらく窓の外に視線をやっていたが、やがて意を決したように頷いた。
「……そうね、少し気になるし――ちょっと様子を見てくるわ」
「じゃあボクも――」
「あんたまで来てどうするのよ。仮にも味方でしょ、少し見てくるだけなんだから、一人で行くわ」
 そう言ってピュラは立ち上がりかけたセルピの頭をぽんぽんと軽く叩く。
 確かに少し見慣れないからといってあまり警戒する必要はないだろう。ピュラの言う通り、ここにいるのならあの男たちは味方なのだ。
「……うん、わかった。気をつけてね」
「すぐ戻るわよ。どうせあの人たちも単に戻ってきただけだろうし」
「うん……」
 セルピはこくりと頷いて拳を握った。
 そうだ、行くのはあのピュラなのだ。心配する必要もそこまでないはずだった。
「いざとなったら近くにディリィがいるから、頼りなさいよ」
「うん」
 ピュラは振り向いて小さく笑うと、重苦しい空気が横たわる建物を後にした。
 さりげなく辺りを探りながら男たちの行方を追う。
 単に怪我などで戻ってきたならばいいものの、もしも何か思惑があるのなら、確かめなくてはならない。――最悪の事態だって考えられるのだ。
 ピュラは自らの拳を握って、その瞳に強い光を宿す。
 しなやかな足が大地を蹴った。
 ガーネットピアスが耳元でちらっと煌く。
 男たちの気配は――北へ。迷うこともなく進んでいる。それから見つからぬよう、ピュラは影を尾行する。
 そうやって追っていって、彼らがまた戦いに復帰するのを見届ければ――全て杞憂にすぎなかったと判明するだろう。
 だがみるみる男たちは配置された人員の少ない北のはずれへと向かっていった。
 彼らも随分辺りを用心しながら歩いていく。しかし物陰に隠れるピュラには気付いた様子もなかった。
 北の方は戦闘も少ないはずだ。意味もなく動き回ってどうするというのか。
 まさか、と思ってピュラは壁の影から彼らの走っていく後姿を見送る。
(――北の方では特別な作戦なんてなかったはず――、……逃げでもするつもりなのかしら)
 確かにこんな酷い状況だ、逃げたくなる者もいるのだろう。
 しかしまだ確信があるわけではないから、行動を起こすわけにはいかなかった。
 そもそも一人で出来ることなど少なすぎる。
 ただ、もしも本当に彼らが逃亡を決行するというのなら――、今の状況でそれはまずすぎる。夜を待つのならともかく、敵に見つかりでもしたら町全体の全滅にも繋がる。そうなった場合、その時の算段を頭の中で組み立てておく。
 もしかしたら一人で尾行を始めたのは失敗だったかもしれなかった。これではピュラが他の仲間と連絡をとっている間に男たちが逃げてしまうだろう。
 ――そうだとするならば。
 ピュラは体勢を低くとって、男たちが消えた方向へと駆け出した。


 ***


 金属製の鎖は容赦なく肉に食い込み、破れた皮膚から鮮血が宙を舞ったことだろう。
 ファイバーは無慈悲に左手で窓から弾丸を叩き込む。もちろん右手には鎖を持ったまま。
 鎖が何かを拘束している手ごたえは残っている。
 ――どれほど撃っただろうか、彼が攻撃をやめたときには建物の中は穴だらけになっていた。
 しかしファイバーはそれでも油断など一片たりとも見せず、用心深く窓から中を伺う。
 ――が、瞬間ファイバーが素早く鎖を手放し横に飛んでいなければ、彼の頭は木っ端微塵に粉砕されていただろう。
 部屋の中から寸分の狂いなく彼の眉間を狙った弾丸が放たれたのだ。
 鎖は既にヘイズルを拘束するものではなくなっていた。
 彼はとっさに腕にまきついた鎖を銃で撃ち抜いて、その端を部屋の家具にくくりつけておいたのだ。
 ――だが、ヘイズルはそれ以上の攻撃を行わない。彼の持つ銃は一度放つごとに再び弾を装填しなければならない。他の戦う術があるのならともかく、一発でファイバーを仕留められなければ容赦のない反撃をくらうことになるからだろう。
 それどころか、彼はそのまま石造りの時計を上り始めた。かんかんかん、と石作りの階段を叩く音が耳朶を叩く。
 ファイバーの反応は言うまでもなく早い。中で追い込んでしまえば逃げ場などないのだ。接近戦に持ち込めば力量はファイバーの方が上。ヘイズルがどんな作戦をもってして戦ってくるかはわからないが、それをされる前に倒してしまえばいい――。
 ファイバーの薄い唇が動き、魔法の詠唱を素早く完成させる。――瞬きをしたその一瞬の内に、彼の体は大地から解き放たれて三階の小窓に飛び込んでいた。
 もちろんそんなことは常人にこなせることではない。
 彼の扱う風の魔法によって、彼の速度は神速と呼べるそれになるのだ。
 時計塔の二階から上は螺旋状の階段となっている。
 既にヘイズルはその頂に近い場所まで上り詰めていた。
 次の瞬間、二つの銃口が共に唸る。
 そこにあるのは感情を伴わない透明な殺気だけ。
 まるで機械のように二つの影から放たれた死の刃が交差する――。
 だが突如としてその内のひとつは嘘のようにかき消えていた。ヘイズルが背後の部屋に飛び込んだのだ。やはりファイバーの攻撃に耐え切れないと悟ったのだろうか。
 ――それこそ自殺行為だった。小部屋になど飛び込んでも逃げ場はない。まさに自分から敵の銃口の前に飛び込んでくるも同然――。
 ファイバーの足が駆ける。螺旋階段を一気に上り詰め、頂上を目指す。
 再び唱えられた詠唱は空気の流れを集束させ、その手の平に幾万のエネルギーを溜めて運命の瞬間へと備える――。
 しかし、次の瞬間。
 ファイバーの視線が、上を向いた。
 それははじめ、衝撃のようにしか聞こえなかった。
 何かが打ち付ける波のごとく塔全体を揺さぶっている。塔が――震えだしたのだ。
 ファイバーの耳に幾度となく殴りつけるのはけたたましい音波。

 ――その瞬間、町にいた全ての者が町の一点に気をとられた。

 突如として、北地区でこの場にふさわしくない音が鳴り響いたのだ。
 ――それは、鐘の音だった。
 時計塔の頂上、そこにとりつけられた巨大な鐘が狂ったようにわめき散らす。
 時を示すためではなく、まるで――忘れ去られた自身を主張するかのような、不規則な音。
 張り詰めた空気をびりびりと振動させる音波は、大空へと散って響き渡る。
 だが、その中でも――時計塔の内部での音量はとてつもなかった。
 石がそれらを更に反響させ、聴覚をいとも簡単に破壊する。
 ファイバーは構わずヘイズルの飛び込んだ部屋を前にして銃を構えた。
 部屋はとても狭い。その中央には、揺れるロープが垂れ下がっている。そのロープを引っ張れば鐘が鳴る仕組みだ。
 だが肝心の目標が見えなかった。石造りの部屋には中央のロープ以外に物らしい物はない。
 小さな窓だけがぽっかりと一つだけ空いているが、こんな高さから外に出られるはずがあるわけない。
 迷わずファイバーは銃口を真上に向けた。ロープは先ほどの名残かかすかに揺れ、鐘は相変わらずけたたましく鳴り響く。
 もしヘイズルがいるのだとしたら――ロープを伝って頂上へと上った以外に考えられない。
 その部屋は狭いが、鐘に直結したロープの為に天井だけは頂上まで吹き抜けになっているのだ。
 ファイバーは無表情のまま引き金を一気にひいた。
 鋼の打ち鳴らす音は鐘の音にかき消され、あまりに激しい音の波の中を死の刃だけが駆け抜ける。
 頭上は吹き抜けになっているが故に逆光となり、黒い影がおぼろげに見える以外にそれ以上を伺うことはできない。
 戦いにおいて相手の頭上をとることは必勝の条件となるのだ。しかし――ファイバーにそんな定石など通用するものではなかった。
 頭上からナイフの雨が降ってくる。それらを飛んでかわし、再び両手から弾を撃ち込んだ。
 ロープがその振動に従って激しく揺れる。だが狭い部屋の中、数十の弾丸――そんなものが避けきれるはずがない――!
 最後にチッ、と着火剤を爪ではじいて点火させた拳大の爆弾を上へ向かって放り上げる。
 ――瞬間、空間は限りなく白に塗りつぶされた。
 頑丈に出来ていた石造りの建物とはいえ、その破壊力に鐘の部分が嘘のように吹き飛んで破壊される。
 ぶすぶすと煙をあげる部屋は黒く焼け、そこに唯一立つのはファイバーのみ――。
 そうして、いまだ戦闘態勢を崩さないファイバーの目の前に、間もなくして――。
 ……どさり、と黒く焦げた大きなものが落ちてきた。


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