-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

134.夢の終わり



「――っ」
 クリュウが聞いたのは、大気の音だった。
 聴覚などとうに破壊された。ただ耳に残るのは甲高い耳鳴りだけだ。
 怖い。
 たったそれだけの感情が、彼の動きを凍らせる。
 実際、彼が動けたのはほんの十メートルたらずだった。
 それ以上動くことを許されない。彼自身という縄が、彼を縛り付けているのだ。
 いくら自分を叱咤したところで、それが解けるはずもない。
 羽根を失ったあの想像を絶する苦痛――、身を容赦なく切り刻まれ、意識を手放すことすら許されない苦しみ。
 それらがじわりと心に染み込んで、また体を重くさせる。
 地響きの振動が聞こえるのは――多分、装甲車のものだ。
 そして海からは相変わらず共鳴の音。テスタは一体何の魔法を唱えているのだろうか。アレキサンドライトに打ち勝つ魔法などこの世にはないというのに――。
 どくん、どくん、と胸の奥で音が鳴っている。
 何から考えていいかわからない。
 だけれど考えなくてはいけないのだ。
 こめかみを両手で押さえる。奥歯を噛み締めて、心にかかった霧を振り払うようにした。
 だが――それも束の間、ふとあることに気がついて顔をあげる。
 確か前のアレキサンドライト発動のときは、気配を感じてから五分足らずで衝撃がきたはずだ。
 なのに今はどうだ? 空は既に白に染まってから軽く10分は経過している。なのに、――まだ完成しないなど。
(――どうして)
 心が、跳ねる。
 胸の奥の音が、一際大きく――、

 ――わたしで、全てを――全てを、終わらせるから――

 ちらっと瞬いた琥珀は、揺れて。
 彼の中の導火線に、火をつける。
 彼女は、使いたくないと言った。
 人を傷つけたくないと――祈っていた。
 緋色のマントの下で、ひっそりと自らを抱きしめて。
 何度となく、その痛みに耐えていた。
 空気が張り詰めていく。
 呼吸すら既に止まり、虚空を見ていた瞳は、空を見上げて。
「……イラルア」
 理解した瞬間には、既に空の上に飛び立っていた。
 使い慣れない新しい羽根が悲鳴をあげる。痺れにも似た不快感が神経を刺激し、彼の顔を歪ませる。
 しかし彼にそんなことに構う余裕はなかった。
 あたかも彗星のように真空に近い空間を疾走する。
 その体にのしかかる力の流れの重圧と、彼自身の戻れ、戻れ、と叫ぶ心の内側を噛み締めるようにして、だけれど前を向いて。
 どうしてあのときに彼女と別れてしまったのだろう。
 自分にできることが、たった一つあったではないか。
 ずっと共にいれば良かった。
 彼女の最後の瞬間まで、一緒にいてあげればよかった。
 あの体を支えて、ほんの少しのことで笑って。
 その命が潰えるときまで、傍にいてあげられたのなら――!
「――ぅあっ」
 指先まで余すところなく体中がセンサーとなって、危険を感じ取る。
 その力の流れ。今にも放出されそうになる、強大なエネルギー。
 そんなもの、知ったことではない。
 自らの体が焼ききれるなら、そうなっても構わない。
 もう手遅れなのだとしても。
 彼女の命がまさに消えるのだと、しても――。
「……一緒にいてあげるんだ」
 噛み締めた唇から、鉄が錆びた味。
 涙すら一瞬で風に吹き飛ぶ。
 まだ真新しく弱い羽根は再びほころび始め、ところどころに穴が空く。
 そのたびに体が引きちぎれるような激痛を感じているはずだったが――既にそれは単なる感覚の一つとでしか感じられなかった。
 力が極限まで引き上げられる。
 その流れはただ一点に。みるみる圧縮され、――この世を作り出した玉石、アレキサンドライトを今まさに召喚しようとする。
 何もかもなくなってしまったかのように白く染まる空の下。
 灰色に染まる町、灰色に染まる世界の上。
 ――重苦しい空気の中。
 ほぼ無に近いほどに狭められた視界の中、黄金の草原の中でも美しくたなびく琥珀があった。
 その周りの光景など見えない。ただ、そこにあの影がある。まだ立っている。たったそれだけで、それだけで――。


「――イラルアっっ!!」


 世界は、また光の渦に支配される。


 ***


 しゅるっと淡く光る蒼い糸が何本も海から伸び、その光を包み込む。
 町から見上げる者たちに、光景はそのように映った。
 それはあたかも今まさに生まれようとする光の球体に、優しく海の色が触れているようだった。
 そうして――激発。
 だが、それは町を滅ぼすものではなかった。
 本来なら町へと放たれるはずだった光は、空へと一気に昇っていく。
 それは地上から噴出したものが天空へと還っていくようにも見えた。
 術者の意思を持たずに放たれたエネルギーは、そっと蒼の光が後押しするだけでその軌道を変えたのだ。
 これが町を滅ぼすという意志で放たれたものであったとしたら――海から溢れる力でそれを律することなどできるはずがなかったろう。
 しかしそれは――手放すように力を解放した娘の願いとその命のように、空へと昇った。
 そうして集められた世界の流れの力は。
 再び、各々の位置に戻るかのように――解き放たれ、全てを白に染めた。


 ***


 時が、止まっていた。
 あらゆる時が、真空の中で止まっていた。
 今の彼が何か悲鳴をあげているのか、それとも誰かの名を呼んでいるのか――それは定かでない。
 視界の中央に、細い体に映える琥珀。
 その髪も血に染まり、ぼろぼろになった体がその魔法の負担から解放されて――傾ぐ。
 しかし、それが倒れる前に、――彼の声が、届いていた。
 それは彼女にとって、どんな声に聞こえたのだろうか。
 彼女は萌葱の瞳を瞬く。
 まるで、ひとりぼっちでいたときに――思いもよらぬ誰かが迎えにきてくれたような。
 そんな――泣き笑いのような、だけれどたおやかな笑みを、浮かべて。

 ぱん、と音がした。

 とても、とても……遠い音。
 ぷつん、と。
 彼女の胸に、紅い穴があく。
 緋色のマントを被っていない今、それは彼女の色素の薄い体に鮮烈に焼きつくものとなる。
 とろとろと流れて彼女を汚す、紅い液体。
 だけれど、彼女はそれにほんの少し驚いたような顔をみせただけだった。
 遠いところでまた似たような音が聞こえたようにも思う。
 しかし、それよりも彼女は何かに突き動かされたかのように、その細い足で駆け出していた。

「危ない、クリュウっっ!!」


 ――黒。
 ――黒。
 ――黒。
 しかし温かい。
 しかし嫌な臭いがする。
 しかしやわらかな香りがする。
 不思議な感じだった。
 一体どうしたんだろう、と妖精がゆっくりと頭をもたげようとした瞬間。

 空から降り注ぐ力の破片が激発し、もはや風とは思えない衝撃波が町を、草原を、襲った。

 意識が嘘のように吹き飛んで、時間の感覚が瞬時に失せる。
 だから、次に意識が戻ったのは――数秒後なのかもしれなかったし、数分後だったのかもしれなかった。
 体が張り詰めている。あんなに早く飛んだからだろうか、すっかり冷え切っていて、何も感じることができない。
 黒。
 それは草の上だ。
 さらさらと風にそよぐ、黄金の草の中だ。
 だけれど、どうしてこんなに暗いのだろう。
 どうしてこんなに……温かいのだろう。
「……ぅ」
 頭がぼんやりとしている。体中がとても痛い。
 何が起こった?
 どうして……自分はここにいるのだろうか。
 必死で走って。
 目の前に、探していたものを見つけて。
 そして――。
「……ラルア?」
 ぽつり、とクリュウの喉がかすれた音を紡ぐ。
 暗いが、とてもやわらかな感触。
 そこを抜け出そうとして、動いた瞬間――、一気に再び外の光が飛び込んできた。
「……、」
 何かの音。
 声だ。
 震える細い指が、割れ物に触れるかのように近付いてくる。
 視界の一面には、やはり淡く光を宿し――。
「……リュ、ゥ……」
 まるで体中に感覚という感覚が欠落していた。
 だけれど感じられる。その温もりと、その色と。
 やわらかな、琥珀色――。
「……イラルア?」
 やっと光に慣れた瞳が、その姿を捉えた。
 茶色い土がところどころ見えた黄金の草原は、無残な姿をさらしている。
 あの衝撃ですっかり草は薙がれ、土はえぐれ、――そうしてその中に散らばる彼女の長い髪。
 横たわった彼女は、今にもその草原の中にかき消えてしまいそうなほど、希薄だ。
 だが、そんな姿を唯一印象付けるものになるのが――その体が別の色で染まっているということ。
「――」
 頭の中に、ペンキがぶちまけられた。
 クリュウ自身は、無傷だ。
 それは彼女がとっさに手を伸ばして彼の体を抱きしめ、守ってくれたから。
 そうでなければあの衝撃に小さな妖精など軽々と吹き飛んでいただろう。
 ――そして、目の前に伏した彼女の瞳は、うっすらと彼をとらえて。
「あは」
 小さく、笑った。
 本当に幸せそうに。
 その顔が紅に汚れていようとも。乱れた琥珀がかかっていようとも。
 ただ、目の前で呆然としている妖精に大きな傷がないことを、彼女は心から喜んでいるようだった。
「――よかった、助けられ……た」
 囁きは弱く、まるで揺れる灯火のように。
 霞んだ瞳にその小さな妖精を映して。
「ラル……ア、イラルアっ!」
 何かが堰を切って流れ出すように、クリュウはその名を――呼んだ。
 だが、彼女の胸の穴は、既に塞いでも間に合わないほどにゆるゆると大地に染みをつくっていた。
 彼女という命の液体が、流れ落ちていく。
 クリュウには、ただその瞳の傍で震える彼女の指をそっと握ることしか出来ない。
 もうどんな魔法を使ったって助けられないと、――いかなる魔法を使っても彼女を苦しませるものでしかないと、知っているのだから。
「……イラ……ルア、」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、クリュウは自らが彼女の血で汚れることを知りながら……それでも彼女の頬に触れる。
 冷たい空気にさらされていたそこにもう体温などない。
 薄く開いた彼女の瞳からは、みるみる光が消えていく。
「ね――クリュウ……」
 まるで夢をみているように、彼女は光を宿さぬ瞳で呟いた。
「やくそ……く、」
 ぽそりと血と共に零れた彼女の囁きは、やはり心に染み入るようで。
 返すべきクリュウの言葉が――詰まる。

 ――そう、それなら、とても辛い思いをするね。たくさんの悲しいものも――これからいつまでも見続けると思う。

 ――でも、見届けることはできるから。

「……まもって……くれる、かな」
「――ぁ」
 ふんわりと、彼女の目蓋が落ちて――。
 だから、クリュウは。
「うん。守るよ……絶対、守る」
 あのとき誓えなかったその約束を、――その心に誓っていた。

 ――だから、ずっと覚えていて。

「ずっと、ずっと守るから……」

 ――ただ、ほんの少し、わたしのことも覚えていてくれると――

「忘れないよ……いつまでも」
「……、」
 イラルアが何かを言おうとした。
 しかし、もうそれは言葉にならない。
 ただ、唇がかすかに動くだけだ。
 だが――彼女は、最後に、小さくこくりと頷いて――笑った。


 ――……うれしいな


「――っ」
 嘘のように晴れる空の下。
 ……あとは、彼の言葉も言葉としての意味をなさなかった。
 彼を守るようにして伏すもう動かない彼女の傍で。
 焼け爛れた黄金の草原の中で。
 ただ、そこにいることしかできなくて――。
 ――たったひとつの誓いを、胸に。
 散らばる琥珀は荒れた土に映える。
 秋も終わる草原は黄金の色。
 空は青く。――穏やかに、青く。
 幼い妖精の深い哀しみの声が終わる時を知る術など、どこにもなかった。


 ***


 ぞわりと悪寒が走った次の瞬間のこと。
 ヘイズルが放った弾は、――恐ろしいほど的確に相手を捉えた。
 相手は打ち倒され、恐らくは衝撃で吹き飛んだだろう。
 だが、次の瞬間のことだ。
 リエナも元々目がきく方だったが、これほどの距離があったので影だけしか見えなかったのだが――。
 激鉄があがったその刹那、敵陣の方で誰かがこちらを振り向いた。
 次の瞬間、耳元で風の唸り声。
 一瞬、何が起こったかわからなかった。
 チュンッ、と心臓を鷲づかみにするような音をたてて、銃弾が背後の石畳に跳ねる。
 だがそれよりも彼女の瞳を見開かせたのは――彼女の頬にぱしっ、とかかった血潮だった。
「――、」
 何より最初に思い出したのが、……恋人が死んだときのことだ。
 あのときも彼は――自分を庇って、その身を剣にさらして。
 彼の血潮が、――この身に降りかかって――。
「ぁ――」
 錯乱状態に陥る前に、何かに腕を強くひかれた。
 倒れるな、とどこか遠くで思ったときには、展望台の影に隠れるようにして転がっている。
 起き上がる前に、凄まじい衝撃が町中を震撼させた。
 それは一体何秒のことだったろう。
「――チッ」
 舌打ちが聞こえた。
 やっとそこで――彼女は本来の彼女自身を思い出す。
 既に地震は止まっていた。あちこちでまたがれきが増えたようだが――、町は崩壊していない。ヘイズルの策が成功したのだ。
「――、」
 そうして顔をあげて……、
 ――絶句した。
「ヘイズル」
 相変わらず彼は口元だけで笑っている。
 だが、その右手が彼のこめかみにやられていた。
 そこから流れていく、紅い鮮血――。
「ヘイズ――!」
「大声をだすな」
 リエナははっとして口を噤む。
 じっとその傷口を見つめて大した傷ではないと知ると、小さく肩をなで下ろした。
 だが、一体何が起こったというのだ。ヘイズルが引き金をひいてから、建物の影に隠れるまでは5秒もなかったはずなのに――。
「急ぐぞ。置いていかれたくなかったら走れ」
 ここで処置している暇などない、という風にヘイズルは早々に立ち上がって影に隠れるようにして走り出す。
 リエナはぎゅっと唇を噛み締めてその後姿をにらみつけた。
「言われなくても走るよ」
 敵の攻撃がここまで届いたのだ、すぐに離れなくてはいけない。
 二人は町の影に身を潜めるようにして、すっかり原型を崩した町を走り抜けた。
 やはりアレキサンドライトの軌道をそらすといっても被害は免れなかったらしい。既に家としての原型を留める建物は――ないに等しい。がれきの山々と、かろうじて立っている壁、家――もうこの町は完全に再起不能だろう。
 そんな中、ヘイズルはこめかみから流れる血が頬を伝うのを感じながら、一瞬だけ鋭い視線を敵陣へと向けた。
「――相変わらずいい腕してやがる――ファイバー」
 だがその笑みに含まれるものは、この上ないほどに牙をむいた殺気。
 彼と同じ『天才』へと向けられた、凍てついた感情――。


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