-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

132.終焉を願う者



 昔のことを思い出すと、どれだけ自分が幼かったかを思い知らされる。
 114年、彼は生き続けてきた。
 しかしその内のほぼ全てが温もりに満ちた、穏やかな人生だ。
 それが一転した、あの森での出来事。
 全てが始まった、旅立ちの日。
 泣きながら、――行かないでと泣きじゃくりながら自分の姿を見送っていた大切な仲間。
 自分を捕まえて貴族に売ろうとした男たち。
 逃げ惑った旅の日々。
 強い風。速すぎる流れ。
 生きていくのはとても辛いことなのだと――当たり前のことを、初めて知った。
 そうして、今もまたそれを噛み締めている。
 既に涙も枯れた。体中に力は入らないし、酷い頭痛が思考をぼんやりとさせている。
 もう、考えることをやめてしまえ。
 そう誰かが囁いている。
 このまま眠ってしまえばいい。きっと次に目覚めたときには全てが終わっているはずだ。
 ――なのに。
「……やだ……」
 かすれて、響くことすら知らない音が唇から零れる。
「いやだ、……そんな……の」
 部屋には誰もいない。スイは戦いにいった。ピュラもセルピも、きっと己が戦いを続けている。
 なのに自分はどうだ。ここに蹲って、全てを諦めて、ひたすら泣いて。
 ――そうやって、助けを求めるだけ。
「……いやだ……」
 今自分に与えられた現実も否定したかったが、それ以上に自分のその弱さをなじりたかった。
 指に力を込める。そのまま腕へ、足へ、力を込めて立ち上がる。
「――っ」
 途端に酷い眩暈を覚えてふらついた。視界が歪む。息苦しく、胸が焼けるように痛い。
 それでも、クリュウは羽根に神経を集中させて飛び上がる。ふらふらと、今にも墜落してしまいそうな様子で――だけれど前進をやめることもなく。
 ――……一体、何処へ行くというのだ?
 それは彼にもわからなかった。だけれど、ここにいてはいけない。ここにいては……ただ、蹲ることしかできない。
 吐き気は、唇を噛むことでこらえた。
「……助けたいよ」
 ただ、思うことはそれだけ。
 ――それを本人が望まなかったとしても、それが彼にとっての唯一の望み。
 半ば体当たりをするようにして扉にぶつかると、キィ、と軋んだ音と共に外への道が開けた。
 鈍痛のする額を押さえて、その先に視線をやる。
(……これで終わりになんか……したく、ない)
 はあっと息を吐いて、歯を食いしばった。
 既にほぼ全員が出払った地下基地。ヘイズルの指示通り、怪我人すらももう運ばれている。
 クリュウが見た限り、その場は無人だった。
 よろよろと壁を伝うようにして外を目指す。慣れない羽根に支えられた体は重い。すっかり体力を消耗した体には、もう何も残ってはいない。
 だがそれでも身を振り絞るようにして先へと進む。
 ぼんやりと、あの魔法のことを考えていた。
 アレキサンドライト。この世を創造せし力。
(――世界を造った力なのに)
 何故、こうやって人間を殺める力となるのだろう、と。
 あの衝撃を思い出すと、体中が怯えて嘘のように震えだす。
 もうあんなものを目の当たりにしたくない、と。
 ――もう、あのような死を体験したくない、と。
 それでもそう叫ぶ心の内とは逆に、クリュウは外へと体をねじ込んだ。
 途端に強い風を感じてぎゅっと目を閉じる。
 今日は風が強い。ごうごうと吹き荒れる風は海から山へと流れゆく。
 その風も冷たく、クリュウは目を細めて敵陣の方を伺った。
 ――ああ、あんなにも遠い。
 彼女はこれから、自らの運命に任せるままその命を、血を、絶とうとしている。
 そんなことがあっていいはずがない。
 そんなこと、許していいはずがない。
 ――だがそちらに向かおうとすることは叶わなかった。次の瞬間の酷い眩暈に、思わずクリュウはバランスを失って地に伏したのだ。
「――ぁ」
 聞こえる。
 彼女の、声だ。
 世界が再び、震えだしたのだ。
 静かに世界の流れが彼女のいる場所へと流れていくのを感じた。
 彼女の魔法が再び行われようとしている。詠唱が始まったのだ。数日前と同じ耳鳴りと、胸騒ぎと――。
 たったひとつ違うのは、それらが既に『耐えがたい恐怖』なのだと分かっているということだ。
「……っぁ……ぅ」
 体中が軋み、そのときの恐怖を思い起こさせる。
 光の連続。襲いくる『世界の力』。嘘のように四散する意識、絶望、絶望、絶望――。
 空気が突如として極限まで張り詰めた。世界の全てが再びあの草原へと集結する。
 体が冷たい。なのに胸の奥が熱さに痛む。首を振っても逃れられない。
 きっとヘイズルが彼女を狙うとしたら、それは彼女があの魔法を使うその瞬間だ。
 もしも彼の狙いが失敗すれば、自分は再びあの光に呑まれる。スイだって今度こそ逃げられない。だが、それが成功すれば彼女は――。
 自身を抱きしめるようにして、ふらふらと立ち上がった。
 視界に映る世界は歪んでいる。体は鉛のように重い。
 辺りにいくつか仲間の人影が見える気もするが、こんな小さな妖精に彼らが気付くはずもない。
 水の中にいるかのように、一つ一つの動作が困難に思えた。
 その苦痛を取り払うようにして大地を蹴る。
 風が次第に止んでいき、また世界が止まっていく。
 上空の空気は冷たく、呼吸をするたびに身が切り裂かれる。
 そんな中、クリュウは敵陣の草原へと目をこらした。
 探す先には緋色の琥珀。彼女にあれを使わせてはならない。そんなことをしたら――!
「……っ」
 突如キィン、と強い耳鳴りを覚えてクリュウは思わず振り向く。
 まるで寒気にも似た金属のようなものが背筋を駆け上る。
 海の方から、もう一つ――力の波動を感じたのだ。
(なに……っ?)
 そちらの方へ目をこらすと、……海の波に合わせるように力が結集されている。
 その力とアレキサンドライトの力が合わさって、更に空気を張り詰めさせているのだ。
(共鳴……してる)
 冬の近い黄金の草原と、同じく冬を迎える冷たい海と。
 まるで一つの楽器にもう一つが伴奏を加えるかのように、大気にエネルギーが満ちている。
 クリュウはヘイズルの今回の作戦を全く知らされていない。ただスイには、夕暮れには必ず港に来るようにと――それを伝えられただけだ。
 そうだ。一体どうやってあのアレキサンドライトを倒すというのか。
 きっと海からの共鳴はテスタのものだ。だがテスタの持っている力でアレキサンドライトに対抗するなど話にならない。
 一体何をするつもりなのか――、だがどんなものであったとしてもその目的が変わらないと思うと、また心が震える。
 だめだ。
 行ってはいけない。
 もう、彼女に別れを告げたのだから。
 彼女が望んだことなのだから。
 なのに――だというのに。
 頭の一番奥が、それをかたくなに拒否する――!
「……行かなきゃ」
 クリュウの翡翠の瞳は、西の草原へ。
 穏やかな彼女が待つ、あの場所まで――。


 ***


 既にテスタの額には玉のような汗が浮かんでいる。
 その指に抱かれるのは蒼き根源、海の玉石。
 少しでも乱せば滅されるのは自分の方だ。膨らむ大気の流れにそっと這わせるようにして、力を流していく。
 それはまるで巨大な鉄球に泡をはるような作業だった。ほんの少しでも鉄球が泡に気付いて拒否すれば、跡形もなく消し飛ぶに決まっている。
 だから、力を込めてはいけない。氷の彫刻をするように、丁寧に、確実に。
 海のように穏やかに。
 当たり前に、そこにあるように。
 ゆったりと侵入を試みる。
 海にたゆたう船で甲板に立っているのはテスタ一人だ。
 他は皆、船内で固唾を呑んで見守っている。
 それも全て、彼の緊張を乱さないようにするためだ。
 テスタは詠唱すら唱えずに、ただそこから溢れる力を放出していく。
 静かに目を閉じ、俯きがちになったその姿はまるで神に祈る者を彷彿させた。
(――はじまった)
 ぽつりと彼は心の中で呟く。
 それと共に大気が震え、再びこの世を作った玉石が世界に召喚される気配を感じ取った。
 相手の――アレキサンドライトのケタ違いの力には圧倒される。彼自身、強大な力を使う者だからこそ身にしみてそう思う。
 こんな力を止めようと思ったら、それこそその力のぶつかり合いで世界自体が崩壊しかねない。
 ゆるやかに始まった破壊の詠唱の響きはそのひとつひとつが心に直接語りかけてくる。
 その中で意識をこらすと、――数キロ離れた場所だというのに、手にとるように術者の姿が見て取れた。
 術者は――女だ。彼女自身の魔法の技術量はそれほどでもない。しかし、その腕の前には世界もがひれ伏すほどの力が秘められている。
 それを探るようにして、テスタはもう一段階意識を深い場所へ持ち込んだ。
 ふっと周りの景色が黒にとろけ、上昇するエネルギーは意識だけを高みへいざなう。
 肉体から離れた彼の思念のスクリーンは、更に鮮明に術者の姿を映し出す。
 テスタは幾重にも重なる力の波の中から、その強大な一つを伝って術者へと忍び寄った。
 本来なら『力の流れの世界』となった視界から一人の人間を見つけ出すことは無理に等しい。だが、今回はその人間の放つ力こそが道標になるのだ。
 すると嵐の中のように駆け巡る波の中に……。
 彼の瞳ではなく、心に直接映ったのは――琥珀色の娘だった。
 穏やかに瞳を閉じて詠唱を続ける、……そこに殺意など欠片もない娘。
 テスタは一瞬止まって、その姿をじっと伺った。
 見つかったら終わりだ。術者はかき集めた力を今のむきだしの自分の心へ向けて放出するに違いない。そうなれば――テスタの精神は跡形もなく消し飛ぶだろう。
 だが、テスタの視線はその彼女の顔に吸い込まれていた。
 恐らく甲板の上にある彼の体と同じく大粒の汗をかいているのは当たり前だろう。集中力は多大な精神力を奪い取る。
 しかし、その顔の白さは尋常ではない。体も消え入りそうなほどに細い。こんな体であの魔法を使わせているというのか――。
(……無理だ)
 一瞬でテスタは判断する。大体、テスタでさえ玉石の魔法をフルで使えば一週間は休まないと全快しないというのに、あんなか弱そうな娘が数日で再びアレキサンドライトを呼び出すなど、力量の前に精神と肉体が持つはずがない。
 やはり、娘は途中で唇の端から血を零す。がくがくと体は震え、精神のあげる悲鳴がこちらまで届いてくる。
(――あんな体で使わせるから)
 テスタはわずかに顔を歪めた。アレキサンドライトといえば、山奥にひっそりと、誰にも見つからないように生きてきた一族だと聞く。
 恐らくそれをウッドカーツ家がひっぱりだしてきて、軍用にしたのだろう。
 向こうは知らないのだ。人が自らの限界を超えた超えた力を操るということに、どれほどの負担がかかるのか。
 ――だから、テスタにできることは。
 すぅっと瞳を細めて、狙いを定める。せめて彼女が苦しまないように、そしてこの苦しみから解放させるために。
 といっても今の状況で彼女を殺めることなどできない。彼の玉石の力は、彼を精神世界にとどめることで精一杯なのだ。
 テスタがするのは全ての足がかりだ。
 目の前を駆け巡る強大な力の渦に吹き飛ばされそうになりながらも、彼はその意識を前へと突き出した。
 ――今まで俯きながら詠唱を唱えていた彼女が彼の方に視線を向けたのも――ほぼ、同刻だった。


 ***


「――っう……」
 彼女の細い体は、その負担にもつわけがなかった。
 嘘のような量の鮮血が彼女の唇から吐き出され、横に控えていたスゥリーの顔を蒼白にする。
「イラルア様!!」
 慌てて近寄ろうとするが、叶わない。彼女は今、あまりに強大なエネルギーを召喚しようとしているのだ。そんな場所に生身の人間が侵入する術があるだろうか。
 あまりに強い風に5メートルほどの地点から近寄れないスゥリーは悲痛ともとれる叫びでハルムに訴える。
「ハルム様、即刻魔法の中止を! このままではイラルア様のお体が持ちません……!」
「なりません」
 しかし冷酷な音で対応するのは風になびく茶髪を押さえるファイバーのものだ。
 ぎり、と敵意をむき出しにしたスゥリーの視線を受けて、彼は小さく溜め息をついてみせる。
「ここで奴らを殲滅しておかないと、後々どんな形で巻き返されるかもわかりません。それよりも恐らくヘイズルはこの瞬間を狙ってイラルア様を亡きものにしようと企んでいるでしょう。周囲の警戒を怠らないように願います」
「――!」
 無機質な音声にスゥリーの表情が色を失う。だが彼女が声を放つ前に低い声が被さった。
「……いや、魔法は中止だ。すぐにやめさせろ」
「ハルム様」
「それが議会の決定かね? こんな町の殲滅に彼女を失うほどの価値があるとでも? 本家としても折角押さえたアレキサンドライトをこんなにも早く手放したいとは思わないのではないのかね」
 紅の瞳でハルムはファイバーを睨めつけると、たった一人高台の上で詠唱を続ける彼女に向かって声を張り上げた。
「アレキサンドライトは中止だ! すぐに詠唱をやめ、戻るがいい」
 ライトブラウンの髪が彼女を中心として巻き起こる風にたなびく。
 だが、ハルムは――その風の中に、思いがけないものを見ていた。
 彼女が……首を振っているのだ。
 まるで全てを拒絶するかのように、彼女の意思をもって、――彼女は彼の言葉を拒否していた。
「イラルア……様……?」
 スゥリーも呆然としたように手を口元にやる。
 琥珀の髪を風にまかせ、彼女は再び崩れそうになった体を立たせて詠唱を紡いでいた。
 言霊となった彼女の言葉はまた新たな力を生み、また力が膨らんでいく。
 彼女の体が軋みをあげようと構わずに。精神が散り散りに引き裂かれようと、止まることなど知らないように――。
「駄目です! イラルア様、今すぐおやめください!!」
 スゥリーの悲痛な叫びも届かない。
 七色の輝きを放つ指が持ち上がり、更なる膨れた力が彼女の体を押しつぶそうとする。
 ――だが、彼女は穏やかにその様子を見守っていた。
 まるで聖母がこの世界を見下ろしているような目つきで。
 その口元には、笑みさえ浮かべて――。


 ***


 はじめ、気付かれたのかと思った。
 だからまずテスタがしようとしたことは、すぐに身を引いて元の体に戻ることだ。
 ――しかし、彼がそうする前に……その耳を打つやわらかな音色を聞いたことが、彼をその場にとどめることとなった。
『待って』
 その姿に相応しい、たおやかで静かな声。
 あまりに敵意のない、……置き去りにされた幼子のような声。
 思わず立ち止まって彼女を見つめ返すと、――琥珀色の娘は寂しげに笑った。
『……行かないでください』
 ふわっと思惟の声がテスタの心に染みる。
 テスタはその様子をじっと見詰めて……静かに紡いだ。
『君は、これからぼくがすることが分かってる?』
『ええ』
 かすかに細められる瞳は萌葱。
 対して透き通った灰色の瞳は静かに視線だけで頷いて、かすかにその色を揺らめかせる。
『――わたしはあなたをどうするつもりもないわ。ただ、あなたはあなたの成すべきことをして』
『……君は』
 娘は、たおやかに微笑んだ。
『ええ、……きっとこのときがくるって、待っていた』
 もはや喋ることも辛いのだろう。かすれた声は、今にも消え去ってしまいそうだ。
『ここで、終わりにして。全て――全て』
『……』
 テスタはじっと彼女の瞳を見つめて、ふっと表情をやわらげる。
 寂しげともとれる、何も浮かばぬ表情だった。
『……君がそれを望むのなら』
 娘――イラルア・アレクサンドリアは、たおやかに微笑んだ。


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