-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

131.予感、前兆



 ……一つだけ心残りがあるとすれば、それはこの町のどこかにいる友人のことだ。
 ずっと遠くを見ていた赤紫の瞳。たった一人で歩いていた彼は、今どうしているだろうか。
 鮮やかな赤いバンダナを風にまかせたまま、少年は彼と初めて出会ったときのことを思い出す。
 ――彼は、孤独だったように思う。
 誰に対しても笑顔で立ち回れるというのに、絶対に他人を近づけようとはしない。
 心の内など、一度たりとも語ったことはない。
 誰に理解されることも望まず、誰にとがめられようと屈せず、ただ、ひとつの願いだけを求め続けていたように――、灰色の瞳にそれは映った。
 ――そう、彼の心などは誰に知られることもないのだ。
 ただ、テスタに出来ることといえば……そっと、そんな彼の幸運を祈ることだけだった。

「――見える?」
 ぽつりと滅びた町の港に佇む影。
 胸に抱いた石を握り締め、リベーブル号船長テスタは水平線の先をじっと見つめる。
 すると、ふっと風が胸の中に吹き込んで、玉石の声となって静かに響いた。
『――25隻。数で潰す策をとったようだ』
「……」
 テスタがゆっくりと瞳を閉じて心の内へと意識を向ければ、その光景が玉石の魔力を通じて伝わってくる。
 波をかきわけ、風を引き裂いて前進を続ける幾重にも重なる影。
「――早いね。この分だと正午には見えるかな」
『何ふり構っていられないということだ。主人よ、今回の戦は厳しいものとなる』
 テスタの口元がやわらかく緩んで、笑みをつくる。
「ぼくが負けてしまう可能性が高いんだね」
『然り』
「……君は、ぼくが死んだら――主人が消えてしまったら困る?」
『――否。さすれば我は再び次の契約者を待つのみだ』
 雲の切れ目から陽光が覗く。
 風はいつもと同じに吹き抜け、海は波にうねる。
『――だが、主人が消えれば悲しむ者がいるだろう』
 目の前に広がる景色のように穏やかに開いた灰色の瞳は、吸い込まれるほどに澄んでいた。
「そうだね」
 海は美しい。滅びの町を前にしても、その煌きは変わることがない。
 テスタはふんわりと、その情景に目を細める。
「ぼくに生きている理由はないけれど、――ぼくが死んでしまえば、皆も消えてしまうね。――だからぼくは戦うんだ。皆に笑っていて欲しいから」
 あるいはそれ自体が、彼にとっての生きている理由なのかもしれなかった。
 顔を横に向ければ、いつだって自分を迎え入れてくれる船の姿。
 朝の陽光に輝いて、堂々と佇んでいる。
「――さ、行こう」
 彼の言葉にあわせるかのように強い風が吹いて、赤いバンダナをなびかせた。
『――我は主人と共に。力を貸そう、汝の身が滅びるまで』
 心に響く声には、小さな微笑みを返して。
 空気を胸一杯に吸い込んで、歩き出した。
 彼にあるのは大切な船と、大切な仲間たち、自分を助け、育ててくれたそれら――そう、それだけだ。
 だから、一生を共にするのは当たり前だった。
 背を向けるときがあるとしたら、それは彼がこの世から消えるときだ――。
 テスタはそれでも振り向くこともなく、海への道を踏み出していった。


 ***


 呼ばれる声をきいた。
 だから、立ち上がった。
 胸に溜まった息を吐き出して、瞳を開く。
「――ええ、今行くわ」
 イラルアはそう呟いて、部屋を後にしようとして……一度だけ、振り向いた。
 自分が出て行ったら、もう何も残るもののない部屋。
 あの妖精とのささいな夢を過ごした、部屋――。
 ただ、静かに光景は佇んでいる。
 だが得た安らぎは十分すぎるくらいだ。
 救われないと、――もう誰にも救われないと思っていた自分に与えられた、最後の幸福。
 ――それは神が彼女に授けた最後の贈り物なのかもしれなかった。
 萌葱の瞳がゆっくりと伏せられて、揺らめく。
「イラルア様……」
 ぽつりと後ろから降りかかるのはスゥリーの心配げな声だ。
 もどかしそうな表情の彼女へ、イラルアはたおやかに微笑んだ。
「行きましょう。ハルム様が待っているわ」
 まるで一点すらもその声から澱みは見当たらない。
 それほどに彼女は穏やかで――それが一層、スゥリーの胸を苦しめた。
 相変わらず細い体を隠すようにすっぽりと緋色のマントを被ったまま、彼女は外までの道を歩いていく。
 朝のやわらかな陽光の差す道は、光輝く情景を彼女の前に見せる。
 外へと一歩踏み出せば、強い風がぶわりと琥珀の髪を舞い上がらせた。
 眼下に広がるのは穴のあいた町、レムゾンジーナ。
 ――否、既に町としての原型は留めておらず、……三年前の炎、数日前の戦、そしていつしか大陸を消した魔術によって、すっかりがれきの町と化してしまっている。
 もう、かつての華やぎはどこにもない。
 出てきた自分に気付いた兵士たちが次々と敬礼をする。
 だがそれは風景に溶け込んだように灰色で、彼女の心に印象付けられるものではなかった。
 ――吐き気が酷い。
 元々強い体ではなかった。――否、アレキサンドライトを受け継ぐ者は一様にもろく弱い精神を持つ。
 それは、あまりにその身との契約――玉石との繋がりの負担が重過ぎるからだ。
 母も体が弱く、妹を生んだが故に亡くなった。
 その妹も、もういない。
 ――彼女には何もない。
 あるのはこのぼろぼろになった、今にも崩れ落ちそうな体だけだ。
 一度目の魔法を放ったときに朽ちなかったのが、不思議なくらいだった。
 咳き込むと周りの者を心配させるから、不快を飲み下すようにして口元に手をあてるだけに留める。
 草原を歩いていけば、こちらを迎えるハルム・ウッドカーツとファイバーの姿があった。
 静かに頭を垂れ、彼らの言葉を待つ。
 冬の近い風は冷たい。もう雲も消えた空だというのに、陽光の暖かさなど感じられなかった。
「――イラルア・アレクサンドリア」
「……はい」
 彼らとて既に余裕はない。
 この貴族同士が緊迫した状態の中、これ以上ウッドカーツ家が他の貴族につけこまれる事柄を作ることは許されない。
 ウッドカーツ家は神の元、唯一絶対の支配者でなくてはならないのだ。
「正午と共にアレキサンドライトの発射を。今度こそ町ごと破壊するのだ」
「はい」
 事務的な口調とは裏腹にハルムの瞳は迷いを含んでいる。
 一度失敗したからとはいえ、このような力を軽々しく何度も放って良いものなのだろうか。――か弱くそれ以上ないほどに愚かな人間たちにそれを行う資格があるだろうか。
 だが、彼にはどうすることもできない。たとえ彼が彼女の魔法を中止しようと、横にいる忌々しいウッドカーツの犬が代わりにそれを行うだろう。
 町の連中はどうなっても構わない。貴族に歯向かい、治安を乱したのだ。一人残らず滅されるべきだろう。
 しかし、それしか方法がないのだとしても――今まで隠されてきた術を使うことに彼は不安をかき消すことができない。
 ハルムがそんな想いを胸に秘めながらちらりと視線をやると――それこそ冷淡と呼ぶに相応しい目線を町に向けているファイバーの姿があった。
 さらさらと小金色の草原に臨むのは滅びた町とその奥の海。
 町は相変わらず沈黙を守り、その中がどうなっているのか伺い知ることはできない。何度か偵察をやって、敵の拠点はあらかた目星をつけたのだが――。
「ファイバー君、何か気になることでもあるのかね」
「――」
 きろりとファイバーはハルムへ視線を移す。機械めいた光を宿した瞳は、冷たく冴え渡っている。
「――少々海からの風が強いと思いましてね。それに空気も乾燥しています。火を使うには絶好の機会ですね」
「この地域は冬が乾季になるからな。だが連中も火を使うほど愚かではないだろう、ここで火事を起こせば山に火が移って町も燃える」
 そう、ここでもしもハルムたちのいる草原へと火が投げ込まれても、そのまま火は山の森を焼き払い、火力を維持したまま町を取り囲み再び炎の海に埋めるだろう。そんな馬鹿なことをする者がいるわけがない。
 ――そうだ、そんな馬鹿なことをする者が。
 ハルムは、止まる。
 いつか、自分自身が呟いた言葉を思い出したのだ。
『よほどの大馬鹿か……さもなくば、悪魔のように切れる奴か』
「――まさか」
 自滅するほど愚かでもないと思う一方、タールのようにこびりついて離れない――得体の知れぬ不安。
 ファイバーはもう一度、まるで禍々しいものでも見るかのように眼下の町を一瞥すると――ハルムに向けて無機質な声を紡いだ。
「恐れながらハルム様、ご進言申し上げます。予定を繰り上げて今すぐに、アレキサンドライトの発射を」
 明らかにイラルアの斜め後ろに控えていたスゥリーの顔がこわばる。ハルムもかすかに顔をしかめてイラルアの様子を伺った。
 彼女は相変わらず毅然と、しかし消え入りそうなほどに頼りなく佇んでいる。まるで全てを受け入れた表情で。
「スゥリー、彼女の体調は」
「良いとは申し上げられません。今回の発射は――正直のところ、危険極まりないものです。イラルア様のお体が耐えられないかもしれません」
 医者の心得のある彼女は、――きっと本当はハルムに掴みかかってでもアレキサンドライトの使用をやめさせたいのだろう。だが、そうやって傷つくのはイラルアなのだと知っているから淡々と事実だけを紡ぎだす。
 しかしそんな彼女にもファイバーは容赦ない。
「この戦いさえ終わればイラルア様にはきちんと休息をとって頂きます。発動ができるのなら今すぐに」
 機械めいた口調で俯くスゥリーに言い放つ。
「イラルア様、できるでしょうか? それとも――」
 出来なければその報告が議会へ届く、と暗に囁きながらファイバーはイラルア自身に問いかけた。
「……」
 イラルアはじっとファイバーのとび色の瞳を見返して――。
「――はい。やります」
 たおやかな口調で、鈴が鳴るかのようにそう返した。
 スゥリーが息を呑んで黙り込み、ファイバーは満足げに頷いてみせる。
 ハルムも複雑な表情で琥珀の娘を見つめ――小さく息を吐いた。
 きっとこれでこの戦いも終わる。いくら相手が頭の切れる者だったとしても、こんな魔法の前ではひとたまりもあるまい。
 彼女がこの魔法に耐え切れずに死んだとしても、少々事後処理が面倒になるだけだ。そう、この戦いはこちらが勝つことが前提とされているのだ。
 それでは、とファイバーに促されるがままにイラルアはもう一度頷く。
 彼女はそれ以上なく静まり返っていて、言葉も少なかった。
 そのままどこに連れていかれようと、抗う様子もみせない。
 もう、彼女の心は決まっていた。
 これで全てを終わりにするのだ。
 この血が背負ってきた想い、人々、苦しみ――その全て。
 ――そう、全てを断ち切ってしまうのだ。

 ***


「風がちょっとばかり強いな」
 ヘイズルがぽつりと誰にともなく呟くと、リエナが怪訝そうな顔をする。
「有利なんじゃないかい? 風が強ければ火の回りも速い。空気も乾燥しているし、絶好の機会だと思うけれど」
「ああ――だが絶好すぎるってのも考えものだ」
「――?」
 更にリエナは不可解さを表情に表すが、ヘイズルがそれっきり黙ってしまったから次の言葉を続けられない。
 ――そう、もう緊張を崩すことはできないのだ。
 敵陣は近い。ヘイズルとリエナは二人でかなり危険な地区まで足を踏み入れている。
 がれきの影に隠れるようにして、一歩一歩を敵に気付かれないように進めていく。
 かなり敵の中心部から迂回して進んでいるとはいえ、双眼鏡に見つけられたら不意打ちを仕掛けられる恐れがある。だが、そんなことで弱音を吐いていられる時間はないのだ。
 古の血塗られた魔法、アレキサンドライトを倒す――それが勝利への第一歩。そしてそれを成功させるのに、たった一つの要素も欠けては成しえない。
 まさに背水。もう、自分たちに後はない。
 だが既に彼女から恐怖などという感情は消し飛んでしまっていた。ここまで極限状態を経験すれば、誰でも恐怖どころではなくなるだろう。
「――リエナ、ここだ」
 ほぼがれきの山と化した展望台の影で、ヘイズルは草原の方を伺った。
 リエナもこくりと頷いてヘイズルにならう。
 ポケットから双眼鏡を取り出して覗き込むと、草原で慌しく兵が動いているのがぼんやりと伺えた。
 探すべきアレキサンドライトの術者は見つからない。だが、今日に再び魔法を使うだろうというのがヘイズルの見解だ。
 彼らは早期の戦の終結を望んでいる。それなら術者の体力と精神力がそれなりに回復する今日から明日にかけてこそ、二度目の砲撃がくるだろうと踏んでいるのだ。
 だが、あの地からアレキサンドライトを放つとして……、ここから彼の持つ銃で狙うにはあまりに遠いのではないだろうか。
 軽く500メートルは離れた場所から人一人を狙うなど、それこそ人間が成す技とは思えない。
 しかしヘイズルが出来るというのだから――きっとできるのだろう。彼が出来ると言って出来なかったことは一度たりともない。
 それに先の戦いでリエナ自身も彼の狙撃を目にしている。きっと彼ならやってのけるに違いない。
 不思議なものだった。敵に捕捉されれば確実に命はないというのに、今の彼女の心は驚くほどに落ち着いている。
 ただ、目標はアレキサンドライトへ。脅威を打ち破り、その先の時代に――。
(――どうせ捨てた命だ)
 彼女自身、分かっている。貴族を一人残らず根絶やしにしても、最愛の人が戻ってくるわけでもない。
 だが、その人が望んだ世界を造るために、戦うのだと――。
 ぐっと唇を噛み締めて、草原を睨んだ。
 それから緋色のマントをまとった娘が双眼鏡に映るのは――暫しの後のことだった。


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