-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

130.重苦しい夜明け



 ミラース歴1429年、冬の足音が近付いてくるころ――。
 ディスリエ大陸北部のレムゾンジーナにて、ヘイズル・オルドス率いる平民たちが革命を企てた。

 後の歴史書から見ればたったこれだけで済まされてしまう事件である。
 言葉にすればたったそれだけ、……それだけの、出来事である。

 しかし、そこには数多の人間がいたのだ。
 それぞれの物語を紡ぎ、それぞれの想いを繋いでそこに集結したのだ。
 誰にも伝わらない、あるいは美化され、取り違えられて伝わっていくものであったとしても……。
 そこに渦巻く憎悪の匂い、空気の重さ、染み渡る炎……それらを後の誰が知ることすらなくとも……。
 たったひとつ、これだけは真実である。

 彼らは、――彼らは確かに、その黄昏で戦っていた。

 Bitter Orange, in the Blaze.
 終.真実と、現実と――


 ***


 ……無言、だった。
 ふたり、それぞれ交わす言葉はない。
 気まずいのではない。ただ、お互いにじっと視線を部屋の端にやっているのだ。
 そこに落ちるのは純粋な沈黙。
 まるで何かの音を待っているような、静かな一時。
 ――クリュウが戻ってから数時間、彼はほとんど口を開かなかった。
 笑顔すらほとんど見せず――その上、翡翠の瞳を真っ赤に腫れあがらせていたのが、迎えた者の言葉を失わせていた。
 だからこうして机に腰掛けたままぼんやりとしているのだ。
 スイもまた、その腰に携えた大振りの剣にそっと指を這わせながら黙っている。
 彼はきっと、わかっているのだろう。クリュウがつい数時間前までどこにいたのかも。
 だけれど、何も言わない。それこそ小さな妖精の言葉を待っているかのように、瞳を伏せて佇んでいる。
 部屋にはやはり、沈黙。
「―――スイ」
「……なんだ?」
 かすれた声には、低い声が返った。
 たった数日しか経っていないのに、何故だかとても遠いものとして聞こえる声だ。
 クリュウは膝を抱えなおして、また瞳を閉じる。
「僕ね、……ひとりの人に会ったんだ」
「――ああ」
 とつとつと呟くクリュウに、スイはじっと耳を傾ける。
 彼がどこにいたかを聞いても、責めるそぶりは全くみせない。
 ただ、あの夜に出会った娘の話を――静かに聴いていた。
 クリュウの言葉は、ところどころ途切れていた。
 再び沈黙を置くときもあった。
 だが、物語には必ず終着点があるように、彼の紡ぐ言葉も終わりを告げる。
「……僕は、なにもできなかった」
 そっと瞳を伏せて、クリュウはぽつりと言葉を零した。
 スイは黙ってその様子を見つめている。
「……ねえ、スイ。――みんなにイラルアのことを話して、僕たちの方で守ってあげるなんて……できるかな」
「――多分、できない」
 彼にはただ現実を紡ぐことしかできなかった。
 この組織の人間は、先日の魔法に恐怖し――それに打ち勝とうと躍起になっている。
 そんな中で彼女の保護を訴えても、耳を傾ける者は少ないだろう。――むしろ、彼女の情報を知っているクリュウが危険にさらされる。
 強い力を持つ者は、受け入れられないのだ。人は、弱いからこそ群がって強くなる。
 ――そう、彼の兄がそうであったように。
 無論、クリュウも答えが分かっていての質問だった。体を小さくするようにぎゅっと腕に力を込める。
「……うん、そうだよね」
 口元を歪めた様子は、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
 クリュウは目の当たりにしているのだ。この地に戻ってきてから、そこで苦しむ人々を。
 あの魔法によって傷つけられ、無残な姿で横たわる人々を。
 ――そうして、その術者に吐かれる呪いの言葉を、帰ってきた妖精は否応なく聞いたのだ。
 誰もが希望にすがりついて、光を目指している。
 それは、誰かを殺して勝ち取る栄光だ。
 ……滅びの魔法をこの世から葬り、そうやって与えられる平和だ。
「どうして僕は――こんなに」
 無力なんだろう、と続けようとして――それが何の意味もなさないことに気付き、また口を噤む。
「……そうだな」
 スイは静かに海の瞳を揺らめかせ、そのまま閉じた。
 ゆっくりと背にしていた壁から体を離して、足を踏み出す。
 机の上でうずくまっている妖精には、ほんの少しだけ振り向いて――続けた。
「――時間だ。あとはお前の好きにしていい」
「……」
 それが彼の精一杯の言葉だと痛いほどにわかっていたから、クリュウは頷く。
 一人にしておいてくれる優しさも、どこか心に染みた。
 俯いていると、ぱたん、と乾いた音と共に扉が閉まる音が聞こえる。きっと戦うために出て行ったのだろう。
 地下にいるから詳しい現在の時刻はわからない。だが――もう夜は十分に明け、空はまたのびやかな青が広がっているだろう。
 その目に染みる青さを夢想して……クリュウはぎゅっと目を閉じた。
 ――まだ、何も終わったわけではないと心のどこかが叱咤するというのに。
 そこからぴくりと動くこともせずに――。
 ただじっと、そこに同化してしまったかのようにクリュウは暗がりに身を潜めていた。


 ***


 腕を組んだまま、ピュラは流れ行く人の群れを目で追う。
 知っている顔がちらほらと見受けられたが、話しかける気も別段起きなかった。
 ふと目をやれば何か隅の方で若者が二人、何かを論議している。
「ちょ……アゼルさんは本気なんですか……っ?」
 何か作戦のことでもめているのだろうか。だが興味も失せ、すぐに視線を外した。
 先の戦い同様、やはり彼女自身は大きな役回りをやることはない。
 ただ、後方での情報伝達や支援などを行う。それだけでいい。あとは生き残る、たったそれだけをすればいい。
 ここ数日の出来事で、心が幾分か高ぶっている気がした。幾度となく修羅場を体験したにも関わらず、何故か奇妙な緊張感が胸を張り詰めさせている。
 ――自分らしくない。
 肩の力を抜くようにして、息を吐いた。
 そうしてきゅっと唇を引き縛り、行く先を睨んだ。
 ――さあ、そろそろ時間だ。
 ピュラはゆっくりとその足を――、
「よう」
 ……先に進めることは叶わなかった。
 その声の音色に、どくりと心臓が波打つ。
 自分でも驚くほどに中心から吹き出しては体に染みていく、黒い液体。
 一気に殺気だった雰囲気をその身にまとい、ピュラはぎっと振り向いた。
 そこにいるのは赤紫の青年。
 幾度となく見た顔。
 ――それを見て、どこか自分とその顔のつくりが似ていると思ってしまった自分に吐き気を覚えながら、ピュラは言い捨てた。
「何か用?」
 絶対に傍には寄らせない。中には入れさせてやらない。
 ――今にも髪の毛を逆立てそうなピュラに対して、フェイズはまるで変わりがなかった。
 それは一瞬、あの地下深くでの出来事が嘘のように思えてしまうほど――。
 彼の笑顔は、いつも通りだった。
「いんや、元気にしてるかと思ってさ」
 あからさまにピュラはその紫の瞳を睨みつけて、踵を返した。
 見たくもない。話したくもない。
 ――その存在全てが、苛立たしい。
 背中から、声がかかった。
「――生き残るんだろ」
 ……足が、止まる。
 息が、詰まる。
 名前をつけられない感情。
 振り向いてはいけない。きっと振り向けば、あの瞳に吸い込まれてしまう。
 だから、背を向けることしかできない。それが彼女を更に不機嫌にさせる。
「頑張れよ」
 ――引き裂いてやりたかった。
 きっと彼女がフェイズに対してそのときにこみ上げた感情は、殺意すら含んでいただろう。
 それほどに、その存在が肯定できない。
 ずっと、ずっとこうやって生きてきたのだから。
 ――だから、きっとこれからもこうして生きてゆくのだと。
 そう決めた胸の内に、それは幾万の刃となって降り注ぐ。
 だが、何かを言い返す代わりに、ぎり、と歯を食いしばった。
 そのままつかつかと早足に彼の元を離れる。
 早く今日という日が過ぎ去ってしまえばいいと思った。
 ――そうすればきっと、明日には笑ってこの町を離れられるだろうから。
 そうやって、またいつものように――好きに世界を旅していられるだろうから。

 ……スイと鉢合わせになったのは、そんなときだった。
 クリュウが帰ってきたことは既に聞いている。しかし彼自身も何か重いものを抱えて戻ってきたようだったから、面と向かって話すことはしていなかった。
 その妖精の傍にずっといたのだろう。この一番忙しい時に、最後の休息となる時間を割いて彼は傷ついた仲間の傍にいたのだ。
 だが、別段話すことなどない。ただ進行方向が同じだったので、肩を並べて歩くことになる。
 その行く先である地上までの道のりは、やけに遠く感じられた。
 ピュラは知らず知らずのうちに深い溜め息をつく。
 ほんの少しだけ見上げると――彼は相変わらず静かな表情で前を見つめている。
 辺りには緊張が張り詰め、人々は最後の戦いへと備えて走り回っていた。
 ……ピュラ自身、この戦いがどうなろうと知ったことではない。彼女は別に世界が変わろうと変わるまいと関係ない。ただ目の前に続く道を歩いていく、それだけだ。
 ――なのに、いつのまにかそれがどこかで否定されてしまった気がして……、胸の奥がしびれている気がしていた。
 どうしてこんなにかき乱されるのだろうか、わからない。
「……ピュラ」
「えっ?」
 ふいに零れた彼の声に、思わず肩を飛び上がらせる。
 はっとして顔をあげれば、彼の視線は既にこちらに向いていた。
「な、なによ」
 驚かせるな、という意味を込めた目線を送り返すと、スイはこちらをじっと見つめて……。
 静かに、紡いだ。

 最後に、彼女に確かめておかなければならないことがあった。
 スイはその返答を確信として予測しながら、言う。
「――もしもこれからの戦いで本当にこちらが押されはじめたら」
 やはりその先を代わりに彼女が続けてくれた。
「――なによ、セルピと一緒に逃げろっていうんでしょ」
 周囲には聞こえないほどの声の大きさで、ピュラはその続きを紡ぐ。
 スイはどこか真剣なものを含んだ眼差しでゆっくりと頷いた。
「わかってるわよ。私、ここで死ぬつもりなんかないって前にも言ったでしょ」
「……そうか」
 吐息をつくように返す。
 自分がどうなっても、この町がどうなっても――関係なく巻き込まれた彼女が生き残れるなら、それだけで安心できたのかもしれない。
 きっとピュラは必ず危ないと悟ったらセルピを連れて逃げるだろう。それだけの判断をする勇気が彼女にはある。
 そう、……きっと生き延びてくれるに違いなかった。
「――」
 どこかぼうっとしたような目線を遠くに投げながら、ふとピュラが何か小さな声で言葉を零すのにスイは再び視線を斜め下に下ろす。
 最近、彼女はこんな表情をしているときが多い。
 何かを考えこむような、どこか想いを遠くに馳せているような、――何故だか悪い予感をかきたてる表情。
 そう、それがここ数日飛躍的にその多さを増している――。
 まるで夢でも見ているかのようにぼんやりと、誰に聞かせるわけでもなく彼女は呟いた。
「――くってなんだと思う?」
「――?」
 まるで独り言のようにぼそぼそと喋るから、その前の方が聞き取れない。辺りの喧騒にかき消される。
「なんだ?」
 だが、その小さく揺らめく瞳にどこか悪寒を覚えて――聞き返した。
 すると彼女も我に返ったのか、はっとして口元を手で押さえる。そのときに表情が歪んだ気がするのは薄暗い地下だからだろうか。
 彼女自身も突然そんな行動に走った自分に不可解なものを覚えているのか、眉間にしわをよせて何かを考え込んでいる。
「――いえ、なんでもないわよ。ちょっと考えごとしてただけ」
 台詞とは裏腹に有無をいわせぬほど強い口調で言い放つと、ピュラは走り出した。――もう、一緒にはいられない、という風に。
「――」
 スイはその様子を見送りながら、……胸にじくじくと染みる悪寒に思わずそこを手で押さえる。
 ふわりと舞い踊る緋色の髪を網膜に焼き付けて、――彼女の小さな影はみるみる喧騒に消えた。
 恐らく、次に会うのは、この戦いが終わったときか――。
 あるいは、もうこのまま――?
 そう思って、はっとした。
 そんなはずがない。
 きっと彼女はこれからも生きていく。そう信じているはずだ。こんなにも弱い自分と違って、彼女には生きる意志がある。力もある。そうだ、もしもこれが彼女と会う最後の機会となるのだったら――それは自分が死ぬとしたときだ。

 ――くってなんだと思う?

 一体何が伝えたかったのか――。
 それは心の内側にひっかかって取れなかった。
 このままではいけないと、どこかが思うのに、何をする力もないではないか、とまたどこかで思う。
 結局スイは、そこでしばらく止まったまま、動くことができなかった。
 時だけが緩やかに過ぎ去る。
 重苦しい空気に、喉が張り付いて動かない。
 ――だから、今はやるべきことを。
 ――やらなくてはならないことを。
 悪い予感を胸の奥に押し込めて、――ピュラに遅れること数分、スイもまた……再び、歩き出した。
 だから、それが――彼女が発する最後の助けを求める声だったのだと、彼が気付くことは――結局、なかった。


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