-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

129.月のない夜



 琥珀の中に揺らめく萌葱。
 今にも消え入りそうな白い肌。
 痛々しいまでに細い体を、緋色のマントで隠して。
 ――イラルア・アレクサンドリアは、小さな妖精を見つめていた。
 しかしクリュウもその視線をそらさずに見つめ返す。
 もう退くわけにはいかなかった。
 ただ、その見えない何かを越えていくしか、なかった。
「――ここにいたら、きっとイラルアはいつか……殺されるよ。――だから」
「妖精君」
「だって……!」
 イラルアの声を遮るようにしてクリュウは首を振る。
「こんなところにいたって幸せになれるわけがないよ。僕が、助けるから……だから、一緒にいこう」
 ぎっとそらすことを許さない強い瞳で。
 そう……訴えかける。
 ――無論、彼に何か策があるわけではない。
 彼女をどこに連れて行けばいいのかもわからない。
 それに、スイの元を離れるわけにもいかない。
 しかし、彼女をどこか静かな場所に連れて行くまで――、彼は帰るつもりもなかった。
「イラルア……」
 痛みを感じるほど拳を握り締めて、ぐっとクリュウは歯を食いしばる。そうでないと、この重い空気に潰されてしまいそうだった。
「……お願いだよ。幸せになれないなんて、望むことも許されないなんて、そんなの悲しすぎる。嫌だよ、そんなの……っ!」
 涙がこみあげるのを、すんでのところでこらえた。
 泣くわけにはいかない。
 自分のもつ苦しみなど、彼女のものに比べれば万分の一にも満たないだろうから、だ……。
 クリュウには確信がある。
 世があけて戦いがはじまれば――きっと、彼女は――自分たちの仲間によって、その刃にかかるのだろう。
 その細い体から鮮血を溢れさせて、倒れるのだろう。
 ――誰にも救われることもなく、消えていくのだろう。
 そんなことをさせるわけにはいかない。
 そう、させるものか――!
「行こう、イラルア」
 既に声は懇願に近い。
 ――むしろ、悲痛な祈りそのものであったかもしれない。
 じっと目の前の人間を見つめる。
 どうか、この願いが届くように、と。
 そうすればきっと道が開けると――そう信じて。
 ……信じるしかなくて。
 そうして、消え入りそうな空気をまとって佇んでいる彼女は。
 ――イラルアは。
 静かに、それでいてたおやかに微笑んでみせた。
「――ありがとう、妖精君」
 やわらかい声が零れ落ちる。
 そっと、哀しみを一滴滲ませて。
 きっと、誰もの心を癒したであろう優しい声の色で……。
「でもね」
 その音に、ぎちぎちと胸が締め付けられる。
 呼吸ができない。
 苦しい。
 どうして、こんな苦しさがこの世にはあるのだろう。
「わたしはここに残るわ」
 あまりに穏やかなその声に。
 ――世界が、再び暗転した。
 眩暈にも似た感覚。
 心臓を鷲づかみにされたような、ひどい悪寒。
 どうして、と問うことすら許されない。その前に彼女が再び口を開いていたからだ。
「わたしで、全てを――全てを、終わらせるから」
 アレキサンドライト。
 その世界をも生み出した力。
 それを受け継いだ最後のひとりであるイラルアはゆっくりと続けていく。
 あたかもそれは、世界に向けて語りかけているようにも思えた。
 そう、そのような力を生み出したこの世界に向けて――。
「最初にアレキサンドライトを得た人はね……、この力を破壊ではなく、別のことに使えたら、と願って――この血を残したの。――でも無理みたい。ひとは、弱いから。神様の力を欲しがるから。安心していたいから……、力を解き放とうとする。だからわたしで終わらせるの。もう、これ以上悲しみを続かせるわけにはいかないもの」
「イラルア……?」
 ――終わらせる。
 ――全てを、終わらせる。
 その意味が理解できない。
 ――否、頭で理解できても心が受け付けない――!
「きっと、この世は変わるわ」
 まるで預言者のように、彼女は語った。そう、巫女が受け取った神託を、揺ぎ無いものとして言葉に紡ぐように。
「変わらないものはないもの。どんなに時間をかけてでも、世界は変わる。――きっと、平民が勝つわ。これ以上、世界はとまっていられないもの」
 その言葉には確信しかない。
 そうしてそれは同じく、決して変えることを許さない意志を秘めたものであって――。
「――だから、ね」
 目蓋が、下りた。
 伏せられた瞳の奥、そこに浮かぶものをうかがい知ることはできない。
 しかし、だけれども――、彼女は笑って言っていた。

「あなたは、スイさんのところに帰ってあげて」

「――」
 理解が、遅れた。
 ぷつりと、何かの糸が切れてしまったように、全身の力が抜け落ちる。
 足が崩れるな、とどこかで冷静に考えたときには、彼はぺたんとそこに座り込んでいた。
 自然と零れ落ちていくのは――悲鳴の代わりとなった、囁くような声だ。
「――え?」
「ごめんね」
 彼女は謝る。
 誰に対してか。
 それは誰にもわからない。
 ――だけれど、その言葉は現実のもの。
 揺ぎ無い、この空気に放たれたもの。
「ごめんね」
「イラルア――」
「知ってた。スイ・クイールの姿――青髪に蒼い瞳、背の高い剣士――、それを聞いたときに、あの人のことを思い出して……まさかって思ったけれど」
 そんなときに、彼と共にいたはずの妖精を拾い上げて。
 やはり、自分と戦っていたのは……あの優しかった人なのだと、知って――。
「やっぱり、スイ・クイールは……あの青髪の人なのね」
 彼女は何よりも穏やかに呟く。
 スイと同じだ。
 その透明にも思える声。
 それはただ、悲しみを一杯に含んでいるのではなく、悲しみそのものの声だった。
「あの人は――あそこにいるのね」
 届かない空に目を細めるようにして。
 言葉を見失う妖精へ、彼女は再び笑いかけた。
「きっと心配してるわ。もう帰らなきゃ、力になってあげなきゃ」
 ――白い指がクリュウの羽根に触れる。
 七色の煌きを宿す羽根、そのなんと美しいことか。
「きっとね」
 しかし、クリュウは片隅で思う。
 ひび割れた水晶。今にも砕け散ってしまいそうな、だけれど、――それでも光を宿す、美しい、美しい――。
「わたしが助かっても、悲しみは続くわ。何年後、何百年後――、きっとどこかで、力を欲する人に、この力は捕らえられる。そうしたら、また繰り返す。きっと、わたしが味わったことも全て」
 ――だから終わらせるんだ、とイラルアは無言でそう続けた。
 そうして、首を傾げてクリュウの顔を覗き込む。聞き分けのない子供をそっと諭してやるように。
 だが、それでくじけるほどに妖精の意志も弱くはない。
 クリュウは顔を歪ませて首を振った。もう何を拒絶しているのか自分でもわからない。だが、思うことはただ一つ、彼女を助けたい――それだけだった。
「――そんなのって」
「妖精君」
 ただ、それでもクリュウの声が震えているのは、きっと――羽に触れる彼女の指もまた、震えているから、だ……。
「あのね……ひとつだけ、お願いがあるの。聞いてくれるかな」
 歌うようにして、彼女は言葉を紡いだ。
 あまりに穏やかな視線は、教会に佇む聖母の瞳を連想させる。
 そうやって慈悲深い瞳で包み込むようにして、イラルアは続けた。
「妖精君は――とても長い時を生きるんでしょう?」
「――ぁ」
 体に力が入らないクリュウには、頷いているかもわからない仕草しかできない。――どうすることもできない。
 どんなに想っても、彼女の心は変えられない。
 世界はありのままに現実をさらしている。あまりに巨大な流れに抗う術はない。
 そうやって――そう、そうやって。
 これから、長い年月を生きてゆけ、というのか――。
「そう、それなら、とても辛い思いをするね。たくさんの悲しいものも――これからいつまでも見続けると思う。もう、生きてなんかいたくないと思うときもあると思う」
 幾千の時を越えていくであろう妖精へ、言葉を託すために彼女は続ける。
 それは灯火に揺らめく彼女の、最後の輝きであるようにすら思えた。
 だから、言葉は心を刺す。こんなにも想いをはらんで、静かに空気に染みていく。
「でも、見届けることはできるから」
 ふっと言葉と共に心に流れ込んでくるイメージがあった。
 視界がかすむ。その先に浮かぶのは幾千年後のこの世の姿。だがそれはかすんでいるもので、どうなっているかは想像もできない。
 しかし――それはいつか来るもので、その光景を自分はいつか目の当たりにすることになるのだろう。
 そしてその時に――今知りうる人間は誰もいない。
 ――そう、ひとり、だ……。
「だから、ずっと覚えていて。この世界に起こったことを。――過ちを繰り返さないように。いつか人間が……どんな悲しいことが起こったか忘れてしまっても、あなたが伝えていって。人の煌きとか、優しさ――同じようにこの時にもあったんだって。そうやって、世界を見届けて……そこで出会う人たちに、関わることを恐れないで。人間を怖がらないで。大丈夫よ、あなたならきっと伝えてゆける。生きてゆける。――ただ、ほんの少し」
 ランプの灯火を湛えるのは深みを増す萌葱の瞳。
 かすかに歪むように笑って、だけれどそれでも笑顔で、イラルアは囁いた。
「ほんの少し、わたしのことも覚えていてくれると……うれしいな」
「――――……いやだ」
 その空気を拒絶するようにして、声。
 クリュウは、反射的にそう呟いていた。
 その瞳から零れていくのは、本当に小さな――それでも彼にとっては大粒の涙だ。
「いやだ……っ!」
 振り絞るようにして、噛み付くようにして、クリュウは叫んだ。
 何もかもを否定するように首を振って、ぎゅっと目を閉じる。
「嫌だよ! 嫌だ、そんなこと、したくない……っ! そんなことしたって――!」
 溢れる涙は手の甲でぬぐっても、後から後からふき出してくる。
 それ以上、彼女を見上げていられなくて……歯を食いしばって俯いた。
「そんなことしたって、イラルアが救えるわけがないじゃないか……っ!!」
 ――嗚咽とも叫びともつかない、むき出しの感情が散らされる。
 彼女は黙って妖精を見つめていた。
 その姿を心に焼き付けるように、じっと黙っていた。
 しかし……ふいにその表情を寂しげなものにして、ぽつりと呟く。
「……ごめんね」
 ――再び。
 鈴が鳴るような、消え入りそうな声で、彼女は謝った。
「でも、わたしは大丈夫」
 それでもその瞳に浮かぶものは変わりはしない。
 細い手が緋色のマントに包まれた胸元にそっとやられた。
 口元にはやはり、穏やかな微笑みを。
「わたしにはたくさんの思い出があるから。たくさんの温かさ、もらってきたから。妹からも、スゥリーからも、妖精君からも、――みんな、みんなに」
 また、クリュウの顔が歪む……。
「――わたし、幸せだよ」
 それを心から、彼女は口にした。
 肩から滑り落ちるのは琥珀の色。
 ちらちらと窓から覗く、松明の色。
 その先にはどこまでも続く黒の色。
 時は流れていく。
 それが望まれないものであっても、夜は更け、朝が来る。流れは全てを呑み込んでいく。
 もう何も変わるものはないのだと妖精に気付かせるのに、それはあまりにも残酷だった。
 彼の瞳の色が、どうしようもない絶望に染まっていく。
「……イラルア」
「さ、もう行かなきゃ。今だったら気付かれずに帰れるから」
 促すようにイラルアは言って、微笑みかけた。
 だが、クリュウの足は……動かない。
 ただ、俯いたままじっとしている。
「――僕は」
 その場に座り込んだ状態で、クリュウは視線を床に這わせた。
 しかしゆっくりとその瞳を、目の前の萌葱へと向ける。
 涙にかすんだ景色に、それはきらきらと煌いて映った。
「僕は……」
 再び俯きそうになる顔を、唇を噛み締めることで押さえつけて。
 激する感情に流されるまま、言葉だけが零れ落ちる。

「僕は、人間が好きだよ」

 ――どうして、そんなことを言ったのか。
 それを口にしてからも、クリュウはわからなかった。
 ただ、それが心から伝って喉を震わせたのだ。
「酷いことをしても、殺しあっても、傷つけあっても、――それでも人間はとても綺麗だよ」
 つっかえる声で、紡いでいく。
 握り締めた拳には既に血が滲んでいた。
「だって、皆……皆、生きようとしてるから……っ、生きる為に生きているから……」
 ――生きる為に戦う人々。
 そうやって生きていく人々。
 その営み、優しさ――それらを目の当たりにしてきた妖精は、ぎゅっと目を閉じて呟く。
「――きっと……これからもずっと、僕は人と生きるよ」
 ふわり、と。
 クリュウは、飛び上がった。
 そのままイラルアの瞳の前まで上昇する。
 部屋のランプ、外の松明、そして月――それらに照らされた彼女の額に、そっと唇を寄せた。
「……だから、――イラルアのことも、大好きだ」
 一滴だけ涙は、彼女の額に落ちた。
 彼女は瞳を閉じて、ゆっくりと微笑む。
「ええ――ありがとう」
 ――それで、全てだった。
 クリュウは涙を拭って、静かに離れる。
 胸がちぎれるほどに苦しく、息苦しい。
 だが、それでも笑顔を見せた。
 もしかしたら、それは彼女に向けての餞(はなむけ)だったのかもしれなかった。
「……僕の名前は、クリュウ。クリュウ・ニルア・グ・エフェランス。――ずっと名乗ってなくて、ごめんね」
「クリュウ――」
 イラルアはその名前を呟いて、そっと指で彼の頬に触れる。
「――綺麗な名前ね」
 だから、彼女も笑った。
 時は既に夜の深く。
 その暗闇へと続く窓の縁にクリュウは立つ。
 彼女の笑顔はあまりに純粋で、やるせなくなるほどに優しくて。
 ――だけれど、その頬に零れる涙だけが一つ、胸を苦しめた。
「あなたに……ずっと、ずっと、精霊の加護がありますように」
 彼女の声に、とんっと体が押される。
 もう、二人の距離は縮まることもなく。
「……さよなら」
 クリュウの喉が、かすれた声で、そう紡いだ。
 ――紡ぐしか、なかった。
「さよなら、クリュウ」
 また明日、とでも続けるかのように彼女は謳う。
 もしも、今ここで彼女と連れ立ってゆけるのなら。
 ――そうぼんやりとどこかで夢想しながら、クリュウはもう一度だけその姿を焼き付けた。
 琥珀の髪は腰まで流れ、緋色のマントを彩る。
 そんな中、どこまでも続く自由な草原のような瞳は、やわらかく微笑んで。
「―――ぁ」
 何かを伝えたかった。
 だけれど、何を伝えていいのかわからなかった。
 だから、もう振り返ることは許されない。
 クリュウは小さな小窓からその身を暗がりの中に投じた。
 彼女に言われた通り、見つからないように一直線に飛び立つ。
 ぶわり、と風が体をさらうようにして吹き抜ける。
 空気は冷たく、ひんやりとした空気の上空には星々が瞬いていた。
 まるで閃光のように駆け抜けていったクリュウに気付く者はいない。
 そのままレムゾンジーナの町の上空まで、たった数秒で飛び上がった。
 相変わらず海からの風は強い。
 そうしてクリュウは、その風に自らの涙が運ばれていくのを知った。
 ――また、自分がまだ泣いているということも。
 上空で彼の体は止まる。
 風を全身で受けながら、その体を自分自身で抱きしめる。
「――――ぁっ……」
 もう、彼女の姿はどこにも見えなかった。
 目下にあるのは暗がりに沈む滅びの町、そして草原に広がる松明の光、――そしてどこまでも広がる海の黒。
 ――なにもない。
 ――なにひとつとしてできることはない。
 涙だけが勝手に零れ落ちていく中、――それが何の意味も持っていないことも知りながら、目を固く閉じた。
「……っぐ……ぅぁあっ……あっ……」
 胸をかきむしりたいほどの感情が体をつきあげる。
 もう風の冷たさなど感じることができない。それほどまでに体は熱い。
 頼りない小さな肩を震わせて、クリュウは嗚咽を漏らす。
 泣き叫び、全てを消してしまいたかった。こんな世界になど、いたくもなかった。
 しかし、約束してしまった。
 ――見届けると。
 ――この行く先を、見届けると。
 ――長い、長い年月の先――。
 もし彼が忘れてしまったら、一体誰があの娘のことを覚えているというのか?
「……ぅああっ……っぐ……」
 嘘のように次から次へと流れる涙を拭うこともせず、クリュウはその身を丸めるようにしてよじる。
 だが、そんなもので胸の痛みなど消えるはずもなかった。
 涙に濡れた頬で空を仰ぐ。
 まだ雲がかった空は、その切れ目から星が見えるものの――月を見ることはできない。
 夜を照らす天使の星は、今、どこにもいない。
 小さな妖精の声は、誰にも届かない。
 時間だけが、静かに流れていく。
 だけれど、クリュウは泣き続けた。
 たったひとり、まるで何かに懺悔をするかのごとく、身をよじって泣いていた。
 もちろん、それで何が変わるわけでもないと知りながら。
 それでも溢れる感情はどうすることもできなくて――。

 月のない夜が、明けていく。
 また、一日が――始まっていく。

 -Bitter Orange, in the Blaze-


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