-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

128.流れゆくもの



『精霊の女神は言われた』

『子よ、胸を張り進みなさい。あなたたちには力がある。力は、あなたたちを裏切らない』

『子よ、力は思惟である。思惟こそ私たちを作り出すものである』

『子よ、あなたたちの思惟の流れこそが、私である』

『子よ、忘れないようにしなさい。あなたたちはその流れの一部、そして私の一部なのだから』


 この世界が創造される遥か以前。
 黄昏に染まった世は、全ての加護に見放されていた。
 綻び、滅び、消えていく世界に人は生きていた。
 だが、その運命は一人の英雄により覆されることになる。
 その英雄の妻とされ、あるいは母ともされる聖女、フィアラ。
 神の最も近きにいるとされた聖女は、この世界が創造されたときにそんな言葉を残した。
 それが彼女の体験したことなのか――それとも何かの比喩であったのかは定かでない。
 だが、聖女が紡いだ言葉は幾千の時を越えて、薄暗い地下の奥底、ひとりの男によって読み上げられていた。

 聖典エリシュ、精霊の章、精霊の福音1節から5節。

 その、表紙を開けばまず飛び込んでくる、全てのはじまりの言葉を。


 ***


「思惟(しゆい)っていうのは、それぞれの考え、思っていること――まあそんなところだな」
 これからの作戦とはおおよそ関係のないことを、ヘイズルは世間話でもするかのように口にした。
 怪訝そうな顔をする彼らに向けて、まあ聞けという風に腕を広げる。
「――つまり、この文章が何を言いたいか――わかるか?」
 彼はもう一度その5節を唱え、彼らに視線を投げた。
 彼ら――そこにいる人々はそれぞれ呆然としたような顔でヘイズルを見つめている。
「簡単に言えば、何がこの世を動かすのかを言っているのさ」
 あたかも講義をするかのようにヘイズルは腰に手をやった。
 続く言葉には、あらゆるものを秘めた思惟。
 ――力は思惟である。
 そう語った、聖典のように。
 ……彼は、言葉を紡いだ。
「この世に生きる人間はあまりに多い。――そう、多すぎるんだ。数多の人間がこの世界にはひしめきあっている。
 そのそれぞれが自分自身の想いをもつ。感情をもつ。それを聖典では『思惟』っていってるんだな。
 そして――それらが世界中にひしめきあうことで、世界の流れが生まれるといっている。
 それほどに世界ってのはバカでかくて、多くの命を抱え込んでるってことだな。
 だが、もしもその中でたった数人が……そうだな、夜の闇の色が『白』だと言ったらどうなると思うか?
 誰がそんなことを信じる? 闇は『黒』に決まってる。どんなに強制しようと、誰の心の中も変わりゃしねえさ。
 ――だが、もしも」
 まるで世界の中心にいるかのように、ヘイズルはその人々の中央に立ち、続ける。
「――もしも世界にいる全ての人間が、それを白いと信じたとしたら――」
 ふっと口元をゆがめて。
「それが真実になっちまう。
 さあ、どうだ? 世界の数多の人間たちが織り成す巨大な流れはおいそれと変わるもんじゃない。だが、一度変わってしまえば一気に流れは逆方向にだって進む。
 それだけこの世界の流れはでかいのさ。全く争いと無関係に過ごしているようでも、それは世界の一部になる。一部が集まって世界になる。
 この300年、世界を止めたのはウッドカーツ家じゃねえ。いつの間にかそれに従い、それを当たり前として受け入れた世界の流れ――俺たち個人じゃない、それの集合がそうやってきたのさ。
 ――そうだな。世界に住む全ての人間の信念が変われば世界は変わるさ。だが、そんなにこれは簡単なことじゃない。
 何人いるかもわからない大量の人間に、ウッドカーツ家を滅し、貴族を倒せと叫んだって動くはずがない。
 俺たちたった数百人がいくらわめいたところで世界が動くわけがないだろう。笑って済まされる程度だぞ」
 ――誰もが、顔をあげた。
 一瞬、その声があまりにも当たり前に零れ落ちたのが、嘘のようにすら感じられ――。
 誰もが、その現実に言葉を失っていた。
 彼は否定したのだ。
 今、自分たちがしようとしていることを。
 無理だ、と言ってのけたのだ。
「思いあがるな。俺たちのようなゴミみたいな人数で世界を変えられると思ったら大間違いだ」
 冷徹な声。
 それほどに彼の声音は低く、よく通り――それでいて、言葉以上の重みを持っていた。
 だれもが石像のように固まっている。
 凍りついているとでもいえば……彼らの様子を表現できるだろうか。
 彼は当たり前のことを言ったにすぎない。そんなこと、それぞれは前々から感づいている。
 しかし、それでも息を呑んでその場にいる人々はヘイズルを見つめていた。
 この人数を指揮し、勝利へと導くはずだった男を。
 ――そうして、全てを否定した男を。
「そうさ、俺たちはこの世からみればチリみたいな存在だ。歴史から見れば点にすらならねえ。
 ちょろっと奇跡でも起こして名を残す? それが何年後まで残るんだ? 一億年後まで正しく歴史が残るとでも思うか?
 俺たちの存在はその程度さ。残せるものなどなにもない。
 ――それに、世界は一人の力で動くもんじゃない。百人の力で動くもんでもない。想像もできないくらいに巨大なそれぞれの力で移ろい、流れていく。そんな中でその流れを無理矢理方向転換してみろ、飲まれて吹っ飛ばされるのが目に見えてるぞ。
 俺たちは流れを作る億分の一に過ぎない。そんなちっぽけなものさ。だがその流れの全てが変わっていけば、動いていけば――この世界も動く。
 万人が望めば英雄だって生まれる。
 億人が本気で望めば世界なんて一瞬で滅びるぞ。
 この世界の全ての人間が望んでやれば、できないことはないさ。人間は群がってこそ、その真価を発揮するもんだ。
 だが、誰も何とも望まなければ、――同じく何も起こらなくなるんだがな」
 この300年。
 世界は止まった。止まり続けた。
 そこには現れるべき英雄もなく。
 平穏と称された日常に、世界は埋没する。
 そして、そんな世界を作り出したのは――。
 否、今こうして作り続けているのは。
 ――彼ら、自分たち、その全ての人間だ。
「世界を変えようだなんて思うな」
 何かを言おうとしたリエナを、ヘイズルは目で制する。
 しかし辺りには少しでも隙を見せれば誰かが口を挟みそうな雰囲気が落ちていた。
 そうだ、全てを否定されて黙っていられるような者がここにいるわけがない――。
 だがヘイズルは彼らが口を開く前に、言っていた。

「ならば灯火になってやればいい」

 声は。
 誰もの耳を等しくうつ。
 ――それはあたかも語り部のように。
「巨大な川の流れを無理矢理捻じ曲げることなんざ不可能さ。だが、その軌道を示してやればいい。道標を作ってやればいい。
 そうすれば自然と流れは変わる。
 俺たちが作った道を、まずは小さな流れが歩み始める。それが段々と大きくなっていく。そうして次第に――世界が、そちらに流れていく。
 世界は勝手に動くものだ。ほんの何人かに動かされるものじゃない。幾重にも絡み合った流れがゆっくりと、巨大な流れをもってして動いていく」
 ヘイズルはにやりと笑って軽く腕を持ち上げる。
 それは一つの合図であった。
「――そう、世界は変わる」
 言い切って、またその栗色の目を細める。
「俺たちは、ただ道を示すだけでいい。あとは世界にまかせておけば――勝手に変わっていくさ。大体、俺たちが何をしなくとも世界っていうものは少しずつ変わっていくんだ。
 大きなことをしようと思うな。思いあがって英雄気取りなんかした日には殺されるぞ。
 俺たちはたった一つの『現実』であればいい。この世界に生きる全ての者たちに――歪みながら、取り違えられながら伝わっていくものでもいい。ただ、……俺たちにはそんな力があるんだと、そう示してやればいいのさ。
 ――この世を動かすものは俺たちじゃない。この世は『この世に生きる人間の全て』が動かすんだ」
 誰かの瞳に炎が灯る。
 それは今までに失われていたものだ。
 それぞれの力を確かめるように、それぞれが拳を握り締める。
 この非力な自分に何が出来るだろうかと。
 そう、そんな自分たちに歴史に残ることができるはずがないだろう。
 ――だが、もしも。
 歴史に残る出来事への、道標になるのだとしたら――。
「世界は変わっていく。俺たちはその進むべき先を照らす灯火だ。
 照らしてやろうじゃねえか。こんなに血まみれになってボロクソになって、それでもその可能性を示した奴らがいると。そう世界に見せ付けてやりゃいい。
 もちろん俺たちだけじゃ世界は動かねえが――」
 連鎖してそれぞれの顔があがっていく。
 だがヘイズルは普段と変わりのない顔で、続けていた。
「俺たちはその世界の一部だ。世界を変えることはできなくとも、――ほんの小さな奇跡の一つや二つ、起こせないなんてことはないぞ」
 人の群れにはどよめきの音すらない。
 しかしそれぞれが、ごくりと喉を鳴らして中心にいる男を見つめている。
 今までで一番張り詰めた緊張。
 そこに集った揺ぎ無い決意と。
 各々の心に秘めた、強かにしなる思惟と――。
「ああ、俺たちは負けない。やることは地味だがな、――だからこそ出来るんだ」
 そんな仲間たちの姿をぐるりと一周見渡して……。
 男は、満足げに笑った。
「よし、いいか」
 ふっと瞳を閉じて、再び開いて――。

「アレキサンドライトを、破るぞ」

 ――大音量の喝采と歓声が、一瞬にして部屋中を満たした。


 ***


 くるっと空中で羽根をひるがえして、クリュウはぴたりとそこで静止してみせる。
 するとぱちぱちと小さな拍手が耳に届いた。
「すごいね。朝は全然飛べてなかったのに、もうそこまでできるなんて」
 たおやかにイラルアは微笑んで、眩しそうに目を細める。
 既に夜。一日中練習を積み重ねたクリュウの羽根は完全に回復し、うまくあやつることも可能となった。
 クリュウとイラルアは顔を見合わせて、どちらからともなく、くすくすと笑いあう。
 だが、二人とも理解している。きっとこの時が最後になると。――この夜のうちに、別れの時が来るのだと。
 だから、二人とも何も言わない。
 ただ――なんでもないやりとりを繰り返して、時を過ごす。
 この瞬間が永遠になることを祈りながら、しかし当たり前に流れていくものを心で感じながら――。
 もしもここが何でもない町の宿屋の一室だったら、――二人を仲の良い人間と妖精の仲間だと思わない者はいないだろう。
 そのくらいにお互いの存在は自然で、穏やかだった。
「――夢みたい」
 イラルアはベッドに腰掛けたまま、ぽつりと呟く。
 クリュウがその傍まで飛んでいって見上げると、小さく笑ってみせた。
「わたし、もうこんなに笑えないって思ってた。こんなあったかい気持ちになれるなんて思ってなかった。――きっと、妖精君のおかげね」
「―――」
 もどかしさと嬉しさがまじったクリュウの頬を、白い指がそっと撫でていく。
 ――彼女は、幸せそうだった。
 だが、それがまた一つ針となって彼の心を突き刺す。
 時が近いことを、二人とも予感していた。
 もうたった一言呟けば――その合図で別れのときがやってくる。
 これ以上、彼が彼女の傍にいることは許されないのだ。
 ――明日からはまた戦いがはじまる。彼女は再び戦場にかりだされる。
 夢は、今夜限り。
 ――誰にも変えられることのできない、現実だ。
「……ありがとう」
 イラルアは、滲むように笑ってから立ち上がる。
 そのままその細い体は小さなガラスのない窓へと。
 本当に小さな窓だ。クリュウ一人なら抜け出せるが、彼女にとっては腕をだすのが精一杯の程度。
 そんな窓の前で彼女は立ち止まり、クリュウを見返す。
 その瞳が、無言で告げていた。
 ――もう帰りなさい、と。
 窓の外には暗闇が広がっている。
 きっと、そこから出たらもう二度とここに戻ることはないのだろう。
 この娘と、明日には敵として対峙することになるのだろう。
 ――だから。
 言わなければいけないところまで、きていた。
 クリュウの喉がごくりと鳴る。
 翡翠の瞳に映るは、琥珀色の煌き。
 意を決するのに、数秒の時を要した。
 そうしてクリュウは――静かに羽根を動かして、彼女の元まで飛んでいく。
 初めて目覚めたときと同じ、窓際の棚の上に立った。
 彼女と視線が、あう。
「……元気で」
 そう呟くイラルアは、微笑んだままだった。
 それは全てを悟りきった笑みだ。何もかもを諦めている笑みだ。
 ――もう、彼女にとってクリュウは『思い出』でしかない。
 鮮やかな、だけれどもう二度と届くことのない記憶でしかない。
 だけれど――。
(そんなの……)
 クリュウは唇を噛み締めた。
(そんなのって、ない……!)
「イラルア」
 だから、彼女に話しかける。
 彼女は首を傾げて続きを促してくれる。その琥珀の髪がさらりと美しく流れた。
 そうして、クリュウはその一言を――呪文を呟くようにして紡ぐ。
 ずっとずっと胸に秘めていた、……全ての祈りがこもった声で。

「――逃げよう」


Next


Back