-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

127.願いを秘めた想い



 具体的にどうすればいいだろうと、クリュウは考えていた。
 ここから逃げようと彼女に直接言っても――昨日のようにうやむやにされてしまうだろう。
 彼女は全く抗おうとしていないのだから。当たり前か、彼女の故郷の命がかかっているのだ。
 ――今、自分にできることといえば……片手で数えるほどしかない。
 その中で、どうにかして彼女をこの牢獄から連れ出せる手立てがあるのなら――。
「どうしたの? どこか痛い?」
 難しい顔をしながら悩んでいたクリュウにイラルアが問いかけた。
 クリュウははっとして彼女を見上げ、慌てて手を振る。
「う、ううん。ちょっと考え事してて」
「――そう……」
 イラルアはそれ以上追求することもなく、ベットに腰掛けたままぼんやりと視線を宙に彷徨わせる。
 ――ささいな朝食の後、彼らはずっとそんなままだ。
 お互いに何を話すわけでもなく、沈黙を守ったまま時を過ごす。
 陽は静かにあがっていく。雲があるが、昨日ほどではない。時折日差しが降り注ぐし、薄雲を通して届く光でも明るい。
 なのに、二人の心には分厚い雲がかかったままだった。
 そう、この地は戦場なのだ。刃が飛び交い、血が流される、この世にある地獄――。
 そういえば、とクリュウは思う。
 イラルアは彼がヘイズル側の者であるということを知らないはずだ。
 なのにどうして、こんな激戦地にのこのことやってきて魔法に巻き込まれたのかを問わないのか――。
 そうだ、共にいるはずのスイのことについてだって訊いてきてもおかしくはない。
 ――不可解なものはたちまち彼の胸を黒く満たしていき、不快感を与える。
 だから訊こうと思って、クリュウは意を決し顔をあげた。
「ねえ、イラル」
「妖精君」
 だが、その声は同刻に顔をあげたイラルアの声にかきけされる。
 はっとしてクリュウは口をつぐんだ。あまりに小さな声だったから、きっと彼女には届いていないだろう。
 イラルアは小首をかしげて続ける。
「羽根が治ったら、すぐに飛べるの?」
「え?」
 目を丸くするクリュウに向けて、イラルアは心配そうに問いかける。
「ずっと飛んでいなかったでしょう? 少し慣れておかないと、帰るのが大変なんじゃないかな」
「あ――!」
 クリュウは思わず口元に手をやる。完全にそのことを失念していたのだ。
 背筋に冷たいものを感じる。どうして今までそのことを考えなかったのだろうか。
「う、うん……。うまくコントロールできないかも」
 すさまじい落ち度だった。確かに夜に飛べるようになっても、慣れない動きではうまくバランスを保っていられないだろう。
 ――そういえば、以前スイに助けられた折も、負傷した羽根が治ったときに飛び立とうとして思い切り樹に激突したものだったか。
 すっかり彼女のことで頭が一杯になって、全く気付かなかった。
「――困ったね。わたしが連れていってあげることもできないし、――明日にはまた戦が始まるみたいだし」
 明日。
 クリュウはぎゅっと胸が締め付けられるのを感じる。
 明日、また幾人もの人が殺し合い、死んでいくのだ。
 だから、それまでに――。
「――だ、大丈夫だよ。今から練習しておけば」
「練習?」
 イラルアは不思議そうな顔でこちらを見てくる。
 対してクリュウは頷いて、自らの羽根に触れた。
「うん。多分……もう、飛べるには飛べそうだから」
 それは偽りではない。半分程度にしか生えていない羽根でも、飛べないことはない。
 目を瞬かせながら彼を見つめるイラルアに笑って返して、クリュウは背中に力を込めた。
 魔法を使ったときと同じ、電流が走るようなしびれがその羽根を伝う。
 ぐっと奥歯を噛み締めると共に、彼の小さな体はふわっと宙に浮いていた。
「――……」
 イラルアの瞳がふっとその深みを増して揺れ、驚いた表情でその姿を凝視する。
 だがクリュウ自身は全身全霊をかけて飛ぶことにその精神を費やしていた。気を抜けば瞬く間に力が抜けてしまいそうだ。
 しかし、夜までに飛べるようにするには……苦しくともこうして慣れるしかない。その上、明日からはまた戦いなのだ。
 ……が、彼の気合が持ったのはそこまでだった。
「わっ……わぁああーーっ!」
 ぶんっと体の中で力の流れがはぜたかと思った次の瞬間、一気に制御できなくなった体が前へとつんのめる。
「あ……っ」
 イラルアがとっさに手を伸ばすのは、一瞬遅かった。
 ――べちんっ!!
 弾丸もかくや、という速度。
 自分でも拍手を贈りたくなるくらい勢い良くクリュウは床に顔から突っ込んでいた。
 瞬間、真っ暗になった視界の中で星がはじけて飛ぶのを彼は目撃する。
 まさに瀕死の羽虫のようにその場でぴくぴくと悶える妖精の姿に、イラルアは慌てて立ち上がった。
「だ、大丈夫っ?」
「あ……あんまし……」
 急いでしゃがみこみ、拾い上げてくれるイラルアの手の中で、クリュウは自らの顔面が平らになっているのを感じながら俯く。
 そんな彼に苦笑するようにイラルアは話かけた。
「無理しちゃだめよ。それでまた羽根を怪我したら、それこそ大変だわ」
「う、うん……」
 ふう、とイラルアは軽く溜め息をついて小さく詠唱を唱える。
 直後、クリュウの体を優しい風がとりまいていた。
 すると瞬く間に顔面の痛みが消えていく。
 ――やはりそれは、イラルアのぬくもりを溜めた香りがした。
「ほら、これで大丈夫」
 回復魔法を唱えた彼女はたおやかに微笑んで、手の上の彼を目の高さまで持ち上げる。
 どこまでも澄んだ萌葱色がじっとこちらを見つめるのを間近で見ると、クリュウの頬はたちまち紅潮した。
「わ……っ、あ、その――ありがとう」
「今度からは気をつけてね」
 にこりと。
 優しい、こちらの心を暖める笑顔。
 飛んでみせたいと思う。
 ――もっと自由になることを知ってほしいと――。
 だから、クリュウは再び奥歯を噛み締めて羽根に力を込めていた。
 まだその半分がやぶれたままの、痛々しい四枚の羽根。だが、それでも飛ぶことは出来ると。
「平気。今度こそ飛んでみる……っ」
 いつも当たり前のようにしていたことを一つ一つ思い出すようにして、クリュウは彼女の手から飛び立った。

 ―――。

 ……結果は、先ほどと一緒だった。
 あえて違う箇所を指摘するなら、激突したのが床ではなく壁だったということだろうか。
 さすがのイラルアも見ていられなくて目を手で覆う。
「よ、妖精君、そんな無理しなくても」
「平気……」
 額にたんこぶをこさえようと、クリュウはひきつった笑顔で顔を壁から引き剥がした。
 そのままずるずると壁伝いに落ちていって、床でがっくりと肩を落とす。
 だが、それでやめるわけにもかなかった。半分むきになって飛ぼうとする。――ただ、以前のようにいかないのが歯痒かったのだ。
「少し頑張ればきっと飛べるよ」
 自分に言い聞かせるようにして、拳を握る。
 彼女も心配そうにしていたが、止めることはしなかった。ただ、その眼差しが頑張れ、と告げている。
 クリュウはその視線に答えるべく、幾度となく飛び上がった。

 ―――。

 30分後。
 クリュウは、イラルアの腰掛けたベッドの上で伸びていた。
「――ごめん」
「ううん、精一杯頑張ったんだもの」
 無論、最初の方よりは幾分かましになったが……滞空できる時間はまだ10秒に満たない。
 そのたびに壁や床に突っ込んで、――現状である。
 大きな傷はイラルアに治してもらったが、彼女に負担がかかるためそう多くやらせるわけにはいかない。
 ぜいぜいと肩で息をしながら、クリュウは毛布の上で呼吸を整える。
 そんな彼を、イラルアの指がそっと撫でてくれた。その心地良さはまるでそのまま眠ってしまえるくらいに――。
 ふっと遠のきそうになった意識を、クリュウは慌てて引き戻した。今は時間がないのだ。寝ている場合ではない。
 うつ伏せになっていた体を起こして、ふうっと胸に溜まった空気を吐き出す。
 横に相変わらず腰掛けている彼女と自然に目があって――そうして、自然にお互い笑いあった。
「綺麗な羽根ね」
 彼女はじっとクリュウの羽根に目を落として、ぽつりと呟く。
 揺れる琥珀の髪は緋色のマントによく映え、彼女の印象をまた一つ植えつけるものとなる。
「いいな――空が飛べるなんて」
 恐らく人間の永遠の夢であろうことを唇に乗せて、彼女は遠いものを見る目をする。
 人間に翼はない。
 だからこそ持つ、誰しもが持つ、憧れ。
 それを持つのは、目の前の世界を揺るがす力を持つ娘とて同じことだった。
 ――当たり前だろう、彼女はずっと鎖に繋がれたような人生を送っていたのだから……。
 だから、飛ばないといけないと、クリュウは思う。
 こうやって彼女がずっと笑ってくれるように――、と。
 もう、あんな涙を流さなくともいいように――、と。
「イラルアだって」
 クリュウは彼女を見上げる。
 きっと救ってみせると誓った、彼女にむけて。
 その口元に、一杯の笑みを乗せて――。
「きっと飛べるよ」
 ――彼女の瞳が、かすかに揺れる。
 その表情に驚きが混じり――、暫しの後イラルアは、たおやかに微笑んでいた。
「……そうだといいね」
 こちらに向けられた、どこか言いようのない哀しみを覚える彼女の表情にクリュウはこくりと頷く。
 そうして、その羽根を……一度その全てが消し飛んだ羽根を、広げた。
 ――今夜、彼女に手を差し伸べられるように。
(……飛んでみせる……っ)
 ぐっと彼はその羽根に全神経を集中させた。


 ***


 広間は、静まり返っていた。
 誰一人として、物音の一つもたてることなく。
 呼吸さえ、止まっているかのような――そんな、沈黙。
 そこには既に数百人の人数がひしめき合っているというのに、だ……。
 誰もが、そこに来るべき最後の一人を待っていた。
 この戦の全てを指揮する男を待っていた。
 ある者は救済を求め。
 ある者は既に諦めながらも――しかし、希望を捨てることができず。
 この、今彼らが進んでいる道が、正しいのだと。
 ――そう肯定してくれるだろう男のことを、待っていた。

 ――男の名は、ヘイズル・オルドス。

 並外れた英知を持った頭脳、決して余裕を崩さない態度。
 あの底知れぬ力量を持った男が――決して貴族などに屈するはずがないと、そう思わない者はいないだろう。
 誰もが、予感していた。
 ……この会議が、この戦で最後のものとなると。
 戦闘の再開は、明日になると聞いている。
 きっとそれで、全ての決着がつくだろう。こちらの状況では、長期戦になればまず勝てない。
 不安と恐れと、……希望が入り混じった表情で、彼らはそれぞれその場の主役を待っていた。
 一番奥の方で壁を背にしているのはスイだ。その隣にピュラもほぼ同じ体勢で立ち、セルピもじっとピュラの横で待機している。
 ピュラはちらっとその人の群れに視線を投げる。
 ――すぐに見つかる、よく目立つ赤紫の髪。
 こちらから見えるのは……その横顔。だが、人ごみに紛れて全貌は掴めない。どのような表情をしているのか、わからない。
 しかし、彼がどんな顔をしようがこちらに関係はない。
 だが、もし彼が今、彼女の視線に気付いてその紫色の瞳を向けてきたら――そう思うと、自然と顔をそむける。
 それが自分らしくないとどこかで分かっていながらも、ピュラは胸にわだかまるものを否定できなかった。
 早くこの戦を切り抜けて、自由になりたかった。彼から離れられるだけでいい。
 そうすればきっと――普段の自分に戻れるだろうから。
 だから、戦う。
 ――生き延びるのだ。
 スイはじっと腕を組んだまま目を閉じている。
 その眠っているかのような無表情に、彼の内面を伺うことはできない。
 まるでそのままそこに同化してしまいそうなほど、彼は微動だにしなかった。
 しかし瞳を閉じたその奥では、恐らく様々な感情が入り乱れているのだろう。
 ――この地で散った、あらゆる命。
 ――こうして戦っている自分の姿。
 ――まだ戻ってこない、大切な仲間――。
 それらの想いを胸の奥底に封じ込めて、彼はまた剣を振るうのだ。
 セルピはピュラの影で静かに目の前を見つめていた。
 その瞳には一杯の不安が垣間見えるが……、彼女は泣き言など一言たりとも口にしない。
 心が締め付けられるような息苦しさを覚えても、ほんの少しだけあの懐かしい顔を思い出せば、自然と苦しみはやわらぐから。
 だから、そのたびに約束は守ると決意する。
 唇を噛み締めて、幼い少女は最後まで自身で選んだ道を貫くと、誓っていた。
 どれだけの緊張にも、恐怖にも、押しつぶされないように。
 ――彼女にとっての戦いは、まだ始まったばかりなのだから。

 ……ざわめきが、漏れた。
 誰もが顔をあげて、一点を見つめる。
 その先には、広間の入り口に立つ、深緑の髪をした男。
 栗色の瞳は地下だと更にその深みを増し、彼の底知れなさを印象付ける。
 彼はそこにいる全員の視線を受けても、その堂々たる風格を消すことはなかった。
 自然と広間の奥への道が開く。誰も、何も言わずともそこにいる者は彼が歩く道を作るのだ。
 それだけの無言の威圧を、――ヘイズル・オルドスは持っていた。
 固唾を呑んでその姿を見守る人々。
 ――全ての平等と世界の平和を望み、この地へ集結した人々。
 その中をヘイズルはまるで乱れのない足取りで進み、奥へとたどり着いた。
 そこに控えているリエナに軽く一瞥をくれると、くるりと振り返る。
 ――それで、舞台の準備は整った。
 最後の集会の、はじまりだ。
 にやりと彼の口元に笑みが走る。
 栗色の瞳はぐるりと辺りを一周見渡し――。
 誰もが、その第一声に耳を傾けようと緊張するその中。

「聖典エリシュの最初の節を知っているか?」

 ――地下に潜み続けた男の話は、そのくだりから始まった。


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