-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの
126.歯車の欠片-3
夢をみていた。
長い長い、夢をみていた。
――ただ夢というものは起きた瞬間に忘れているもので。
たとえ数秒前に見ていたことですら、記憶には全く刻まれずに――。
何かが心にひっかかっているような気もしたが、思いだせるほどに鮮明なものではなく、そのまま置き去りにされていく。
――ピュラは、その瞳を静かに開いた。
次の瞬間に痛いほどに飛び込んでくる光の嵐に思わずぎゅっと目を閉じ、体を丸める。
ゆっくりとそんなまどろみを繰り返していく内に、彼女はその光景をやっと捉えた。
――外。
――しかも、朝。
「…………ぇ」
疑問とも驚きともつかぬ声が、小さく零れる。
知らない光景だった。
自分の寝転がっている布の張った長い椅子……その布は、色あせた緋色。
周りにはところどころ朽ちてがれきと化した、壁――元々室内だったのだろうか。
屋根も抜けていて、朝日が容赦なく光を注いでいる。
(――私……どうして)
こんなところに、と思う前に――脳裏を昨日の出来事が駆け抜けていた。
その途端に、からっぽの胸の中に黒いものが湧き上がる気がして、表情を歪ませる。
そうだ。昨日は外の風に当たりたくなって、夜の町に出て行って。
……この教会の椅子でぼんやりしている内に眠ってしまったのだろう。
やはり、視線を巡らせると、朝の光を受けて微笑む精霊神の像があった。
聖典の置かれなくなった祭壇は朽ち果て、壁はすすけ、壊れ、……風化の進む聖なる場所だ。
昼と夜とでは全く印象の違う、今は光に溢れた地。
そういえば、いつだったかこっそり教会に忍び込んで眠ったこともあった。
――確かそれは、初めてフェイズと出会った日……。
だが、わだかまりをかき消すようにして思考を切り替える。さすがにセルピが心配しているだろう、戻らなくてはいけない。
顔を持ち上げると、頭に鈍痛を覚えて思わず額に手をやった。
陽はすっかり昇っている。どのくらい眠ってしまっていたのだろうか。
そうして手をついて起き上がろうとしたとき――、ふとピュラは止まっていた。
直後、ぱさりと肩から滑り落ちていくものを目にしたからだ。
そこからむき出しになった肩に朝の冷気が当たり、ひんやりと冷えていく。
その滑り落ちていったものが床に落ちる前に……ピュラはそれを拾い上げていた。
「……――」
何かを紡ごうとした唇は、乾ききった喉に遮られる。
こんな冬も近い夜に、やけに温かいと思ったのは……このせいか。
じっと見つめて……出口の方に視線を投げる。そこに何もないと知っているというのに、だ。
そうしてピュラは、自分でも思いもよらぬほど強くそれを握り締めているとも気付かずに――しばらくずっと、そうしていた。
***
寂れた教会から出てみて、唖然とする。
昨日の夜は町を随分と歩いた気がしていたのだが――、その教会はほぼ地下への入り口のすぐ傍にあったのだ。
もしかしたら知らない内に町をぐるりと回ってここにたどり着いたのかもしれない。
一瞬、もしも敵陣に近い場所にいたらどうしようかとも思ったが……、杞憂に終わったようだった。
(……当たり前よね)
ふっとそう思って、先ほどから手にしたものに目を落とす。
そのまま足早に地下へと戻って、見慣れた影を探した。
朝日もろくに差し込まぬ地下の空気はよどみ、夜と変わらぬ状態で落ちている。
そんな中をすり抜けるようにして暫く歩いていくと……その人物を見つける。
ピュラは後姿に声をかけた。
「スイ」
ふっとこちらを振り向く蒼い瞳。
いつもと変わりのない彼は、こちらの姿を見とめると……すぐに歩いてきた。
ピュラもつかつかとその前まで歩いていって、――彼の胸に持っていたものをつきだす。
「これ――」
ふっと橙色の瞳に何かが浮かんだ。しかしそれがどんな感情を表すものかはわからない。
「ありがと」
「……ああ」
突き出された青いマントをスイは受け取って、手馴れた様子で身につける。
きっと昨日の夜中にかけてくれたのだろう。
「あんなところで寝てると風邪ひくぞ」
「その程度でくたばるほどヤワじゃないわよ」
ピュラは腰に手をやって、もう片手で赤毛をはらった。
スイはそんなピュラの顔を見る。いつもと変わらない、強いひかりを湛えた瞳を、だ。
するとふいにぽそりと呟きが漏れた。
「……大丈夫か?」
「は?」
「……顔色が悪い」
ピュラの唇がとっさに何かを紡ごうとする。
しかし彼女は、指を自分の頬にやって不機嫌そうに息を吐き出すだけだ。
「……朝だから低血圧なのよ」
「食欲がなくとも何か食べておいた方がいい」
「わかってるわ」
ぷいとピュラはそっぽを向いて、そのまま踵をかえした。
ふわっと舞う豊かな緋色の髪は、普段の彼女と全く変わりはない。
――しかしスイは、もう一度訊いていた。
「……本当に大丈夫か?」
「いちいちうるさいわね、自分の管理くらい自分でできるわよ」
もちろん、振り返ることなど一度もない。
ピュラは背を向けたままそう呟くと、そのまま足早に歩き出す。
まるで怒っているようなその後姿を、スイは黙って見送っていた。
***
クリュウが目を覚ましたとき、既にイラルアは部屋にいなかった。
おそらく会議にでも行ったのだろう。
首を傾けて背中を確かめると、羽根が半分ほど回復しているのが見えた。
小さな窓から差し込む朝日に照らされて、羽根は弱々しくとも七色の光を宿している。
ほんの少し、動かしてみた。生えたての羽根がゆっくりと動く。だがまだしびれがあるものの、昨日のような激痛はない。
この分だと今日の夜には飛ぶことが出来そうだった。
体もだるいが、随分楽になったものだ。
(……そろそろ魔法が使えるかな?)
スイの元に帰っても、足手まといになるわけにはいかない。
少しこつを取り戻さないと――そう思って、クリュウは手をかざしてみた。
ぴりっと電流に似たものを感じながらも、目を閉じて心を鎮め、精神を集中させる。
辺りの空気の流れを読み取り、それを手の平に集結するのだ。無理矢理従わせるのではない。あくまで、その流れに沿うようにして……。
すると、体中に水が流れていくような久しい感覚に覆われる。少々違和感が残るが、これはすぐに慣れるだろう。
次第に弱々しいが、肉眼で見てとれる煌きが手の平からぽろぽろと零れ落ちる。
もっと強く――そう思うが、それだけで限界だった。一瞬でも乱れが混じれば、一気に手の平に集束した力は四散してしまう。
やはり威力が激減しているのが確かだ。普段の彼だったら、少し手をかざして目を閉じれば、それこそ闇夜を照らすような光を放つことができたのだ。
たとえ見た目に羽根が復元されても、魔法まで元通りに使えるようになるのは恐らく一ヶ月……否、完全に全てを元通りにするには数年の時を要するだろう。
(そうだよね、本当なら死んでたんだ……)
今でもあの光の中にいるときのことを思い出すと、体中が凍るような恐怖を覚える。
あの光の一瞬のときから、『死』というものがずっと近いものとして感じられる――。
クリュウは思わず光の放出をやめて、自分の体を抱くようにした。
もちろん、わかっている。自分をそのようにしたのは、あの琥珀色の娘だ。それは変えることのできない事実。
しかし、あの細い体が血に染まり殺されることを考えると……吐き気のようなものすら感じる。
皆、剣を向けるだろう。
現在に蘇った悪魔の呪法を倒そうと、襲い掛かっていくだろう。
脅威に打ち勝つために、その刃を剥くのだろう。
そして、それをするのは紛れもない自分の仲間たちだ――。
ふっと、物音に気付いて顔をあげると、イラルアとその従者が戻ってくるところだった。
従者は40歳ほどの優しげな女性だ。
イラルアの良き相談相手になってくれるのだと昨日彼女が言っていた。
二人が連れ添って部屋に戻ってくると、クリュウの姿を見つけてそれぞれ顔をほころばせる。
「まあ、すっかり顔色も良くなって」
従者――スゥリーがにこりと笑いかけてくる。
「妖精君、起きてたの」
「――うん」
朝日がかった彼女の長い髪は、本物の琥珀のように思える。
萌葱の瞳が優しく微笑むのに、クリュウも自然と笑っていた。
「羽根は平気?」
「だいぶ良くなったよ。今夜にはなんとか飛べそう」
「良かった……」
胸を撫で下ろすと肩から髪が滑り落ちる。
その姿はまるで、たった今空から降ってきた天使のようだった。
全てを包み込むようなたおやかな微笑みと、消え入りそうな細い体と。
「……ではイラルア様、ごゆっくりお休みくださいね。――今度こそお体を壊されます」
「ええ、ありがとうスゥリー」
「いえ……」
微笑んだイラルアに対して、スゥリーは目を伏せて首を振る。
その瞳にどうしようもない憂いとやるせなさが垣間見えるようで、クリュウの心をまた一つ震わせる。
「申し訳ございません。私の力ではあなた様の助けになることもできない――、イラルア様がどんな負担を強いられていると思うと」
「スゥリー」
しかしイラルアはその声をやんわりと遮った。
そっと自らの胸に手をあてて、言葉を紡ぐ。
「わたしは大丈夫。ありがとう、心配してくれて」
「……」
スゥリーはしばらくイラルアを痛ましげに見つめていた。しかしそれ以上に口を開くことはなく、ゆっくりと頭を垂れて部屋を出て行く。
「どうぞ、私めに出来ることがあれば何でも言いつけくださいませ」
最後に小さく、それだけ残して……。
――彼女もイラルアを心配しているのだろう。クリュウはそう思って、ぎゅっと唇を噛み締める。
そうだ。イラルアは救われなければならない。こんなことがあっていいはずがない。
助けたい。幸福を知ってほしい。
――彼女を、争いのない世界へ連れていきたい。
クリュウは自分の手の平に目を落とす。
この弱い力で何ができるだろうか。
貴族たちの手から彼女を救うことなどできるだろうか。
(……ううん、やらなきゃいけない……)
きっとこのまま帰ったら後悔するだろう。あの笑みが忘れられない哀しみとして残るだろう。
「妖精君、朝ごはん……少しもらってきたの。お腹減ってる?」
たおやかに笑いながら、イラルアはパンを取り出す。きっともう明日にはまた兵器として繰り出されるというのに、だ……。
「……うん、ありがとう」
――このひとを守りたい。
たとえ敵だとしたも。
幾人の人を殺めたのだとしても。
今日の夜、羽根が癒えて返るまでに、どうにかして――絶対に。
***
――何処か娘を取り巻く空気が変わっていることを、ディリィは見逃さなかった。
いつだって見ている弟子のことだ。目の色が違うことなど、見た瞬間一発でわかる。
(――あの子はいつもそうね)
壁を背にして、腕を組み、じっと視線を床にやっている赤毛の娘。
誰も寄せ付けない、極限まで張り詰めた空気をまとって、まるで世界に自分以外がいなくなってしまったかのように佇んでいる。
……スラムで初めて出会ったときも、彼女はたった一人で佇んでいた。
それが当たり前だというように、自分の足だけで立っていた。
その存在に踏み込めば踏み込むほど、彼女は息苦しさに跳ね除けるのだ。
――そして、それは今でも変わらない。
氷った瞳。光を宿しても、冷徹に輝く。
そうやって誰の介入をも許さない、全てを拒絶した瞳。
依存など絶対にしない。彼女にとってはきっと、誰がどれだけ近付こうと『他人』よりも進展することがないのだろう。
だから彼女は生き残ったのだ。
幼い手に刃を持ち、鋼鉄のように冷たく冴えた心をもってして、あのスラムで生き抜いて、この世界を渡り歩いたのだ。
(……フェイズ君となにかあったわね)
そんなピュラを遠くから眺め、ディリィは心の中で呟いた。
いや、きっとフェイズは全てを彼女に伝えてしまったのだろう。危惧していたことが現実になってしまった。
――ディリィ自身、ピュラとフェイズはもう少し時間をかけて付き合うべきだと思っていた。ピュラを一度連れ出したのもそのせいだ。
……しかし、現実は――。
ディリィはそのまま踵を返して、歩き出した。今は――ひとりにしておいてやりたかったからだ。
信じるしかない。あの娘なら、きっと――。
「――深刻そうな顔してどうかしたのかい、ディリィ」
「あら?」
ふと顔をあげると、リエナが相変わらず書類片手に立っているのが見える。
ディリィは一瞬目を丸くしてから、にこりと笑って首をかしげた。
「うふふ、乙女には秘密が沢山あるのよ。それにちょっとは憂いてた方が魅力的じゃない?」
「あなたを魅力的にするんだったらその前にその性格をどうにかしないとね」
普段だったら滅多に笑わず毅然としているリエナだが、長く付き合っている親友の前になると自然と穏やかになる。
進行方向が同じだったから、自然と並んで歩く形になった。
「それで、相変わらず忙しそうねえ。そういえばもうすぐ会議よね」
「ああ。ヘイズルは一体全員集めて何を話すんだか」
くえない上司に肩をすくめるリエナ。ディリィは紫紺の髪に手を突っ込んで、ふうっと息をついた。
「それじゃあ、そろそろ広間に行きましょっか。ヘイズルの演説なら興味もあるし」
「あんなのが好みなのかい」
青ざめたような顔でこめかみをひきつらせるリエナに、ディリィは再び笑ってみせる。
「うふふ、だってあの人のことだからまたとんでもないこと言い出しそうじゃない?」
「そうなってほしくないけれど同感だよ」
リエナは諦めたように肩を落とす。だが次に瞳を開いたとき、そこに宿るのは新たな闘志だ。
ぴっと背筋を伸ばしたまま、リエナは目の前を睨んだ。あたかもそこに仇がいるように、だ。
「――何にせよ、私は負けるわけにはいかない」
そのまま二人して広間に入る。ばらばらと人が集まってきているそこに、数日前のような活気はない。
中には諦めが浮かんでいる者まで見受けられる。このままでは勝てる戦いも勝てないのは必至だ。
だが、――ディリィは予感していた。
あの悪魔のように狡猾で、腹に一物どころか百物を秘めた男が、この程度で音をあげるはずがない。
――さて、どうするか。
ディリィがじっと考えている間にも、広間にはぞくぞくと人が集まってきていた。
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