-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

125.歯車の欠片-2



 薄暗い、赤紫色。
 冷たい背中。
 落ちる影。
 誰もいない、その地下の奥。
 それが今の、世界の全て。

 ――がつん、と何かに殴られたように、平衡感覚が失せていた。
 悪い夢でも見ているようだ。視界があやふやなものとなり、呼吸すら止まる。
 時は止まっているようかにみせかけて――、だけれど、残酷なまでに穏やかに続いていて。
 どのくらい、そのままでいただろうか。
 ピュラはその言葉の半分も呑み込めぬ内に、呟いていた。
「――――は?」
 だがそれが自分でも思いがけないほどに消え入りそうだったのに、心がまた冷えていく。
 体中の力が抜けていくようだった。
 目の前には一杯に、端整な顔。
 じっとこちらを捉えて離さない瞳が、静かに見据えている。
「不思議に思ったことはないか? 自分がどんな家に生まれたのか。孤児院に預けられたっていうのに、どうして――」
 耳元に、悪寒。
 心臓から一気に体が硬直し、更に思考力を奪っていく。
 ちゃりっと音がして、彼の指がピアスに触れた。
「こんな大粒のガーネットピアスを持ってたのかと」
 囁くような声。逃げることを決して許さない、彼の声。
 そっと紅いピアスをなぞるようにして、フェイズは更に口の端を吊り上げる。
「――真実を、知ってみたくはなかったか?」
 心が――跳ねる。
 何かが壊されていく予感。
 ピアスをいじくる彼の手から伝わる熱と。
 全ての選択肢を失ってしまっている自分と。
 ――フェイズは、告げていた。
 引き絞られたままの、橙色の瞳に向けて。
「お前の母親はな、俺の親父の――まあ、いわば浮気相手みたいなもんだった」
 声が、でなかった。
 まるで自分から声という概念が消えてしまったかのように。
 乾ききった喉は、ただ震えるだけだ。
「あの親父は本当に狡猾な奴でさ。奴はもう邪魔者でしかない正妻とさっさと別れて、そいつを後妻として迎えようとしたのさ」
 幾度となく頭の中を引っ掻き回す、彼の声。
 宙に浮かんでいるように、自分の足で立っている感覚がない。
「でもな……現実は儚いもんだ。――お前を生んですぐ後、その人は病気で死んじまった」
 聞きたくない。
 だけれど、目すら閉じられない空間。
 それは、拷問のようにも思えた。
 まるで麻酔もかけずに体を切り刻まれるように――。
「さあ、どうする? 子持ちの医者に嫁がいないんじゃあ世間体が悪い。だが、浮気相手との子供を妻が受け入れると思うか?」
 彼が何を言っているのだか、理解できなかった。
 だが何を望んでいるのかは、それ以上に理解できなかった。
 ただ、一番理解できないのは、何も動けないでいる自分自身。
「まあ情はあったんだろうな。最高級のガーネットピアスをくっつけて、――赤子は孤児院に預けられた」
 相変わらず耳元でもてあそばれるガーネットピアス。
 物心ついたときからずっと持っていて、――美しく煌くそれを手放そうと思ったことなど一度もない。スラム街にいたときでさえ、これだけは肌身離さず持っていた。
 それが今、されるがままに遊ばれている。
 頭の中が空洞になってしまったようだった。
 それでいて、何か白いもので一杯に満たされているようだった。
 母親。
 知らない言葉。
 父親。
 知ろうとしたこともない言葉。
 整理したくない。
 理解したくない。
 そうだ、――もしもそれを理解してしまったのなら。
「――つまり」
 空が落ちてきたように、なにかが崩れ落ちていく。
 このままではいけない、と心のどこかが叫ぶのに。
 ――ただ、現実はありのままに紡がれて。

「俺がお前の、腹違いの兄ってことになるんだな」

 眩暈がした。
 息苦しさなど感じない。元々呼吸など忘れている。
 影に隠れて光を失った橙の瞳。
 やわらかな香り。
 まるで夢の中にいるような、浮遊感。
 硬い壁が与えてくれる、首筋の冷たさ。
 なにもかも、必要のないものだ。
 今の自分には、必要のないものだ。
 そうだ。
 どうしてこんな場所にいるのだ。
 どうして、こんな男に押さえつけられているのか。
 言葉を聞かなくてはいけないのか。
 ダムから溢れたように流れ込んでくる、不快感。
 いらない。
 いらない。
 胸が、はじける。
 はねのけるようにして、心がうずいた。
 そうしている内に何かが無尽蔵に沸き起こって、体中を満たす。
 壊されてたまるものか。呑まれてたまるのもか。
 弱い自分など――世界で一番大嫌いだ。
 こんなところで立ち止まるなど――自分は一体何をしていのだろうか。
 橙色の瞳に、不意に鋭い色が混じる。
 ぎり、と音がするほどに歯を噛み締めて。
 感情が、ほとばしる。
 目の前にあるものなど。
 今、この目の当たりにしているものなど。
 そんなものなど、消えてしまえばいい――!


 ――ぱんっっ!!


 閃光のように翻った腕が、――腕が。
 その音を打ち鳴らした。
 地下に響き渡る、空気を震わせる音。
 フェイズとしても不意のことで、――彼は思わず彼女から手を離して数歩ふらつく。
 その腫れあがる頬に手をやりながら彼女の方を向くと。
 ――そこには、逆鱗に触れられた紅い獣が、ぎらぎらと目に光を宿しながら立っていた。
 しなやかな白い手が、怒りに震えて握り締められる。
 緋色の豊かな髪の下に覗くのは、地獄の業火を秘めた憎悪の瞳――。
「――……だから、なに?」
 その小さな唇が、低い声を紡いだ。
 聞き逃してしまいそうなほど小さいのに、身の毛がよだつほどの感情がほとばしる音だ。
 唇が震えていた。もちろんそれも、今にも破裂しそうな激情をはらんで、だ……。
「……それがなんだっていうの?」
 それはまさに、全身に怒りの感情をまとった美しい猛獣と呼ぶにふさわしかった。
 捕まえて檻にいれようとする人間へ、全身全霊をかけて逆らうかのように。
 ピュラは、壁を背にしたまま、声を荒げた。
「何? それで私にどうしろっていうの? それで私にやるべきことなんてある? 私に何の利点があるっていうのよ!」
 思うままに、噛み付くようにして想いを吐き散らす。
 何かを考える、そんな余裕もなかった。
「あんたが私の兄? そう、でもそんなこと知ったことじゃないわ! 私は私、こうやって与えられた世界を生きてきた――」
 自分の胸倉を掴むようにしてピュラは一層怒気を強める。
 その足が崩れ落ちないように、自分を守るために。
「私の親はどんな理由があったにしろ私を捨てたのよ。もう私と接点なんか一つもない。それでいいじゃない、私は一人でも生きていける」
 何かを踏み潰すように足を踏み出して、彼との距離を一歩詰めた。
 彼は表情も浮かべずにこちらの様子を眺めている。まるで何の表情も伺えない。それが更に気に喰わない。
「あんたは何がしたいの? 私を家族の中に引っ張り込みたいの? 冗談じゃないわ!! 今更生き方を変える気なんてないわよ!」
「でもな」
 ふっ、と、あらぶ声が響く中に静かな声。
 彼は別段、取り乱すわけでもなかった。
 そのほとばしる激情に、怖じ入るわけでもなかった。
 ただ、その無機質にも思える紫色の瞳で、彼女の燃え上がる瞳をじっと見つめて。
「――お前が何を思おうと、それが真実だ」
「真実なんて」
 ピュラは吐き捨てるように声を遮る。
 おさまらない感情だけが、体中に不快感となってとりまいていた。
 いくら彼に言葉を叩きつけようと、それが消えることはない。
 だが、彼女は言わずにはいられなかった。
 彼の瞳をそれ以上ないほどに鋭く睨みつけて、言い捨てる。
「真実なんて、何の役にたつのよ。何が残るっていうのよ」
 彼女の感情を表すかのような紅い髪が、その肩で揺れていた。もちろんその中で、美しい煌きを宿すガーネットピアスも――。

「私が欲しいのは真実じゃない、――現実よ」

 噛み付くようにそう残すと、彼女はくるりと踵を返して走り出した。
 もうこんな場所にいたくない。あの瞳に見られていたくない。
 全てを切り離してしまいたかった。否、もう切り離していたのだ。
 なのに、――今になって再び繋げようなど、冗談ではない。
 こうやって生きてきたのだから、これからも同じようにして生きていく。
 それで、十分だった。
 階段を一気に駆け上がって、そのまま一度も後ろを振り向かずに通路を歩いていく。
 噛んだ唇からは血の味がした。気分が悪い。吐き気がする。
「――あれ、ピュラ……」
 脇で何か音がしたが、振り返っている余裕はなかった。
 地下にはいたくない。早く、外にでたい。
 風にでもあたって心を落ち着けよう。急にあんなことをされて、少々血が上っているのだ。
 再び背後で同じ声が呼んだ気もしたが、結局足を止めることはなかった。むしろ段々と早足になっている。
 その瞳の先にあるのは出入り口の扉だけだ。
 最後の階段に足をかけて、一気に上り詰める。
 次第に空気が新鮮なものに変わっていくのが、匂いでわかった。
 外は暗い。ところどころ切れているものの、まだ空のほとんどが曇っているから、月明かりさえ少ない。
 ――敵に見つからないように外には全く灯りがなかった。
 そんな暗がりの中に、恐れもなしにピュラは飛び込む。
 元々夜目のきく方だ。しばらくすれば目が慣れて、辺りのものが見えるようになってくる。
 冬の近い、海からの冷たい風は幾分か熱くなった体を冷ましてくれた。
 だが、じっとしていられなくて――再び歩き出す。
 辺りには貴族の兵が潜んでいるかもしれないことなど、全く念頭になかった。
 ただ頭の中をぐるぐると回っているのは、あの紫色の視線と……その言葉たちだ。
 思い出したくない。だから歩いた。暗いから、方向感覚が鈍る。しかし、足を止めたら――何かが瓦解してしまいそうだと、何故だかそう思った。
 大丈夫、生きていける……、自分にそう言い聞かせて、ピュラは赤毛を軽くかきあげる。
 そうだ。今までも生きてこれたのだから、そうやってこれからも生きていけるはずだ。
 強くある限りは、きっと、きっと――。


 どこをどう歩いたかわからなかった。
 途中から、まるで眠りについてしまったかのように――意識が抜けている。ぼうっとしている間にこんなところまで来てしまったのだろう。
 ――ピュラは、見上げた。
 その先に何かの像――それは、精霊神の像だ。
 焼け残っていた教会のようだった。
 しかし、天井は半分壊れて空が見えるし、壁も半分以上がすでにない。すっかり辺りはさびれてしまって暗がりに落ちている。
 ただ、その目の前にある精霊神の像だけが、そこが教会なのだと主張しているかのように佇んでいた。
 ほんのわずかな光に照らされている精霊神の像は、静かな微笑みを湛えている。
 しばらく像を見上げながら、何かを想う。
 しかし、一体自分が今、何を考えているかもわからなかった。
 ほんの少し冷えた体を抱くように、腕を回す。
 だがもう、先ほどのような怒りはでてこなかった。
 どんな感情が自分を支配しているのか、――ぼんやりとしていて、わからない。
 そうしている内にどっと疲れが押し寄せてきて、ふと横に視線を向けた。
 きっと、週に1度の礼拝ではそこに沢山の人が座って牧師の説教を聴いていたのだろう。そこにはやはり半分朽ちた椅子が並んでいる。
 しかし最前列のものは、まだほとんど綺麗に燃え残っているようで、……そこに腰掛けてみた。
 ぎしりと椅子は音をたてるが、崩れはしない。細い少女一人の体重を支えることなど、たやすいことだ。
 ピュラは暫く放心したようにそこでぴくりとも動かなかった。
 心臓の音だけが、静かなリズムをもってして響いている。
 ちらりと視線をもたげれば、相変わらず精霊神の微笑み。
 夜の暗がりに支配された中、精霊神は闇から浮かび上がったかのように青白く見えた。
 神の存在を信じたことなど一度たりともない。
 神というものは、人の心の拠り所だ。
 救いを求める者、あるいは自らの創造主を求める者……彼らは神に祈り、神を称える。
 それを否定したこともない。そうしたい人がそうすればいいと思っていた。考えることなど、人それぞれだ。
 自分は神を信じたりはしない。
 自分の力で生きていくと、信じている。
 下手に神にすがっているよりは、この二本の足で歩いていきたかった。
 ――それなのに?
 口の中で何かが呟いた気がした。
 しかし何を考えていいのかもわからないまま。
 今の自分がどう考えているのかもわからないまま。
 ピュラはじっと、その像を見上げていた。
 決して、離れることもなく。
 ただ、ずっと。


 ***


 セルピがたった一人でいるのを見つけて、スイは足を止めた。
 何かを考え込んでいるように、彼女はじっと視線を床に這わせている。
 そういえば、いつもその横についているはずの娘が見えなかった。ここのところ、ずっと二人で一緒にいたはずなのだが――。
「――どうかしたか?」
「ふぇっ?」
 ふと、泉色の大きな瞳が瞬いてこちらにやられた。
 しかしこちらの姿を見止めると、少し安心したように肩をなでおろす。
「ピュラはどこに行ったんだ?」
「うん、それが……」
 問うとセルピは顔を曇らせた。何かあったのかと思い、こちらも訝しげな顔になる。
「なんかね、さっき……ちょっと姿が見えなくなったかと思ったら、ずんずん歩いてきて、そのまま外に行っちゃって」
「……外?」
 セルピはこくりと頷いた。
 変な話だ。外は危険だということは彼女も承知しているだろうに、飛び出していくなど――。
「ちょっと様子がおかしかったんだ。ボクが声かけても耳に届いてなかったみたいだし……」
 だから不安そうにしていたのだろう。追いかけて外に出ようとしても、暗い中ではすぐに見失ってしまう可能性が高い。
「どうしたんだろう」
 心配そうに出口の方に視線を向けるセルピに、スイもならった。
 外はすっかり暗闇に覆われている。もう真夜中なのだ、この曇り空では星明りも少ないだろう。
「……わかった、少し見てくる」
 ぼそりと呟いたのにセルピはぴくりと反応して見上げてきた。
「だったらボクも……」
「いや、今は休めるだけ休んでおいた方がいい」
 スイも旅が長かったから、夜でも多少は目がきく。
 彼が言うと、セルピは暫く悩むように逡巡して――、そしてこくりと頷いた。
 セルピとスイでは体力の差は歴然だろう。その上セルピ自身、すっかり疲れが溜まっている。
 足を引っ張るよりは、待っていた方がいいのかもしれなかった。
「うん……ありがとう」
「気にするな」
 スイは小さく頷いて、腰の剣を確認してから出口の方に足を向けた。
「スイ」
 後ろから呼び止められたのに、一度足を止めて振り向く。
 そこには小さな少女が一人、不安そうに佇んでいた。
「……クリュウは、まだ戻ってこない……?」
 消え入りそうな声で問いかけてくる彼女から、かすかに視線をそらす。
「――ああ」
 そうとしか答えられない自分が、どこか腹立たしかった。
 そのままスイは再び踵を返して外へと向かう。
 そう遠くへ行くつもりはない。とりあえず、近くを一周だけ探してみるつもりだった。
 ――どうして突然出て行ったのだろうか。
 スイは不意に胸の奥底に嫌な予感を感じて――、それが次第に膨らんでいくのを感じながら、足を速めていた。


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