-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

124.歯車の欠片-1



 耳の中に雑音が混じる。
 今までそんなことは一度たりともなかったというのに。
 不鮮明になる視界。
「……、……」
 それとなく不快感を覚えて、その雑音を排除する。
 しかし、それで消えてくれるはずもなくて。
 だというのに、その雑音の正体を突き止めようとすればするほど、それは遠のいてしまうもので。
「……ってば、……」
 気に入らない。
 胸がむかむかする。
 その理由すらわからないのが、更に気分を悪くさせる。
 目を伏せれば見えてくるのはあの紫色の瞳で――。
「ピュラってば!」
「――えっ?」
 ピュラは目を丸くして顔をあげた。
 目の前ではセルピが首をかしげている。
「どうしたの? ――疲れてる?」
 きっと何度も呼びかけてくれたのだろう。心配そうなセルピの視線がこちらに向けられる。
 ピュラは小さく笑った。
「んー、ちょっと寝不足みたい。ぼーっとしちゃって」
「うん……」
 脳裏の更に奥にわだかまる黒いものをなんとか排除して、思考を切り替える。
 いつもと変わりない薄暗い通路。
 今は一体何時だろうか。先ほどからずっと意識を漂わせていたから、時間感覚が失せている。夜だということは確かなのだが……。
「休んでなくて平気?」
「そんなヤワな作りしてないわよ」
 はあっとピュラは息を吐き出した。それで胸のうずきも吐き出せてしまえばいいのに、とどこかで思う。
 そのまま体重を預けていた壁から体を離す。先ほどまで怪我人の手当てを手伝っていたのだが、どうも気分が優れなくて少し休んでいたのだ。
「あのね、連絡だって」
 そんなピュラに向ける心配そうな視線は変わらず、セルピは言っていた。
「明日の昼頃、広間に全員――ケガしてる人も集めて、会議だって。それで、歩けない人を運ぶから昼前に集まってくれって」
「会議?」
 ピュラが怪訝そうな顔をすると、セルピはこくりと頷く。
「ボクもよくわからないんだけど……、作戦の説明をするからって」
 それにしても怪我人まで運んで会議をするのは不思議だ。今日明日の戦闘には参加できそうにない者が多数を占めるというのに――。
「……ま、わかったわ。ヘイズルのことだから、また妙案でも思いついたんでしょ」
「うん」
 耳元でガーネットピアスを煌かせながら笑うピュラに、セルピも小さく笑って再び頷いた。
 しかし、どこかピュラの笑顔に違和感を感じながらのことだったが――。
 あまり心配すると怒り出すのが目に見えているので、セルピは何も言わなかった。
 ただ、心の中では不安を隠せずにいられない。
 もし何かあったのなら仲間として助けてやりたいと思うが……、彼女の最近の行動の違和感はほんのささいなものだったので、それが杞憂なのではないかという疑念がセルピを押し留めていた。
 セルピ自身、あのアレキサンドライトの日からろくに眠れていないのだ。もしかしたら疲労で過敏になってしまっているのかもしれない。
「――大丈夫だよね」
「なにが?」
「ううん、なんでもない」
「……怪しいわね、吐きなさい」
「にゃ〜、なんでもないよ〜」
「うだうだ言ってると頬っぺたつねるわよっ」
「もうつねってるよ〜〜」
 両手でセルピの頬を掴みにかかるピュラに、セルピは腕をばたばたさせる。
 そんなささいなやりとりが、少しだけ心を軽くさせる気がしていた。


 ***


 どうしてだろう。
 どうして、こんなに体が重たいのだろう。
(……おかしいわね……、本格的に風邪でもひいたかしら)
 そう思っても、今まで自分が風邪をひいたことなどほとんどないことを考えると――どうもおかしい。
 ピュラはセルピと別れてから、ひとり、豊かな赤毛に手をつっこんだ。
 確かにここのところ睡眠時間が一気に減ったのは確かだ。しかし旅をしている間に睡眠時間が削られることなど日常的にあった。
 この程度で気だるく感じられるなど、自分でも不思議だった。
 一人になるたびに頭の中がもやもやする。
 頭痛といったら違うのだろうけれど、眩暈にも似た気分の悪さがここのところずっと続いている。
 ――いつから?
 ……いつからだったろうか。
 再び、深く溜め息をつく。
 もう休もう。このままでは戦いに支障がでるかもしれない。
 生き残ると決めたのだ、絶対に自分の力で生き抜いていくと決めたのだ。
 目の前にどんな障害があろうと、きっと突き進んでみせると。
 ――ずっと昔、たった一人で町の暗がりに投げ出されたときに誓ったのだから。
 そう思うと、少し頭の中のもやが薄れた気がした。
 そのまま一歩二歩と歩き出す。
 ぼんやりとしていて、おぼつかなくなる足取りをどうにか確かなものとして。
 休憩用にと、怪我人を収容している部屋の脇にある小さな机の上の水を飲んだ。
 そうすれば幾分かすっきりすると思ったのだが――、特に変わるものはなかった。
 濡れた唇を舐めて、妙ないらつきを覚えたまま通路へと向かう。
 この地下の空間はひたすらに広い。実際、あまりの広さに使われていない箇所もいくつかあると聞いている。
 もし下手に奥の方に入れば、出て来れなくなる可能性もあるだろう。
 だから奥まった場所にある大きな倉庫よりも下には行くな、とピュラも念を押されていた。
 ――だけれども。
 今は、一人でいたい。
 どうせ仮眠室には休んでいる人がいるだろう。
 少し……一人きりで眠りたかった。ずっと続けていた一人旅のときのように。
(……倉庫よりも下、って……出てこれる場所なら大丈夫よね)
 そう思うと自然に足がそちらへ向かう。
 一体地下何層になっているのだろうか、倉庫は確か地下2階にあったはずだ。
 誰にも不審がられないように、普通を装ってランプに照らされた薄暗い通路を歩く。
 かつり、かつり、と足音だけがやけに響きわたる。
 辺りに人影は見当たらなかった。皆、怪我人の手当てにせわしなく動き回っているか、それとも体を休めているかどちらかなのだろう。
(――寝てないみたいだったわよね、あの人)
 ふっと脳裏を過ぎる紫色の影。
 真剣な眼差しで治療をする姿、あの肩に触れられた指の感触――。
 刹那、びりっと胸の辺りに痛みを感じてピュラは思わず顔をしかめた。
(なんであんな奴のことなんか考えてるのかしら)
 ――本当に、どうかしている。
 そんな自分に、虫唾が走る。
 仮眠室を通り過ぎてしまえば、すれ違う者などほぼいないに等しくなった。
 辺りに感じられるのは奇妙な静寂だ。
 ――志気が落ちている。
 それは誰にでも一目瞭然だった。
 あんな力を見せ付けられ、そして幾人もが吹き飛ばされ――、不安にならない者はいないだろう。
 一体ヘイズルはこの状況でどうするというのか。
 もう冬も近く、風の吹く外は肌寒いのだろうが……、地下は適温に保たれている。
 階段を下りると、すぐ目の前に倉庫の扉があった。
 初めてきた場所だ。どうやら2階はその全てが倉庫になっているらしい。
 ほんの数メートルの一本道を歩いて、ピュラはその先の扉を開こうとして――。
「――なにやってんだ?」
 直後、体中の血の気が引いた。
 呼吸を忘れて、瞳をレンズのように引き絞る。
 とっさに振り向くと、――階段を下りたところに一番会いたくない人物が立っていた。
 ――フェイズだった。
 今は彼と一言たりとも会話を交わしたくなくて、あからさまに敵意のこもった目を向けてやると、彼は肩をすくめてみせる。
「いやー、怖い顔してずんずん奥に歩いていくのが見えたからさ。どーしたんだ、こんなところで」
 薄暗い照明に照らされる、紫色の笑み。
 見たくもない。
 吐き気がする。
 はじめから好きではなかったのだ。その見透かすような瞳と、満面の笑みと。
 まるでこちらの心に勝手に踏み込んでくるような。
「早く戻らないといけないんじゃないの? どうせまだ仕事が終わってないんでしょ?」
 なるべく早くことを済ませてしまいたくて、ピュラは口早にそう言う。
 しかし、その視線から目は離さない。屈してたまるものか。
 フェイズは構わず更に一歩近付いてきた。お互いの距離はあと、ほんの数メートル。
「そーだな、早いとこ戻らないといけねーな。……でも、気になるんだけどなー、お前なんだか顔色悪いから」
「照明のせいでしょ。ほっといて」
「んで、なんでこんなところにいるんだ? この先には倉庫と使われてない部屋しかないはずなんだが?」
 どくん、どくん、
 心臓が嫌に甲高く鳴っている。
 聞きたくない。
 見たくない。
「あんたの知ったことじゃないわ」
 早く一人になりたい。
 どうして一人になれない?
「うーむ、これでも心配してやってるんだが」
 目の前の画像が――ぶれる。
 胸の一番奥から何かが溢れ出してくる。
 ――ことば?
 しかし、どのような言葉なのかも全くわからない。
 今、自分が何を感じているのかもわからない。
「余計なお世話よ」
 声が震えた気が、した……。
 嘘だ。
 震える理由などあるはずもない。
 後ずさろうにも、背中には扉。
 逃げ出せるわけがない。逃げ出したくもない。
 どうしてこんなに世界が不鮮明なのだろう。
 どうして、この顔が脳裏に焼きついて――離れてくれないのだろう。
「……ほんとに大丈夫か、お前。照明のせいにしても、妙に顔色蒼いと思うんだが」
 何を言っているんだろう。
 早く背を向ければいいのに。
 どうしてこうやってこちらにその目線を向けるのだろう。
 幾度となく追い返したはずなのに。
 わからない。
 危険だという思考だけが、胸の中で甲高くシグナルを鳴らせていて。
 わからない。
 どうしてこんなに、頭の中をかき回されるというのか。
 早くこの状況から抜け出してしまいたい。
 もう、その声を聞きたくない。
 ――どうしてだろう?
 わからない。
「だから、あんたの知ったことじゃないでしょ! いちいちうるさいわね……っ」
 わからない。
 わからない。
 わからない――!



「なにをそんなに怯えてるんだ、ピュルクラリア」



 ――どうして彼は、ここにいるんだろう。

 それは一瞬のことだった。
 もしかしたら、もっと長い時間をかけてのことだったのかもしれない。
 だけれど、停止した思考の中でそれは、ほんの一回瞬きをした後のことに思えた。
 ふわっと、知らない匂い。
 あの船の上での、抱きかかえられたときと同じ。
 やわらかな、彼の匂い。
 目の前などというものではない。鼻先に、整った彼の顔。
 ピュラの体はくるりとひっくり返されて、その壁に背をつける形で縫いとめられていた。
 もちろん、その華奢な手首を壁に押し付けて拘束するのは、彼の手、だ……。
 思考が一瞬、真っ白に染まった。
 何を考えていいのかわからない。
 どっと頭の中からペンキが全身に流れ込んだように、体が一色に染まって動かない。
 全身が冷たかった。彼に掴まれた手首から先の感覚が死ぬ。
 それ以上に、触れるほどまでに近付いた彼の瞳から目が離せない。
 自分の瞳が、彼の瞳に映っている。
 それでも変わらぬ、彼の笑顔。
 ――何も感じ取ることができない、笑顔。
 なにかをしなければならない。
 どうにかしなければならない。
 しかし、どうすればいいのかもよく分からずに――ピュラは呆然と、フェイズの瞳を見つめた。
 体と心が切り離されたかのように、自分が今この体に留まっている感覚が失せている。
 ぐるぐると、彼の台詞が消えずに頭の中をまわっていた。
 幾度となく繰り返される、その響き。
 ――ピュルクラリア。
 嘘だ。
 彼に自分のこの本名を教えた覚えなどない。
 役所に届ける書類以外は、全てを『ピュラ』で通している筈だ。
 別に気にしているわけではないが――、二つも呼び名があるなど違和感があったからだ。
 なのにどうして、
「どうして俺がお前の本名を知ってるかって?」
 反射的にびくりと肩が跳ね上がる。
 かすれたような声に、胸が張り裂けたように凍り付いていく。
 ひんやりと、背にした壁は冷たく硬い。
 吐息さえもかかる互いの距離。
 何が起こっているのかわからない。
 吸い込まれていく、その赤紫の瞳に――。
 これは、本当に現実なのだろうか?

 フェイズの口の端が、吊りあがった。


「それはな、その名前をつけたのが俺の親父だからだよ」


Next


Back