-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

123.ふたりの夜



「――みんないい人だった」
「ええ、親切なひとばかり」
 帰りの道でクリュウがぽそりと呟いたのに、イラルアは微笑んで返した。
 風は相変わらずごうごうと渦巻いている。
 森の近いこの辺りの気温は低めだ。食べて体温の上がった体には心地良く感じられた。
 ほんの少しだが羽根も回復している。きっと、あと丸1日ほど経てば飛べるようになるだろう。
 それまでに再び戦いが始まらなければいいのだが――。
(……ううん、戦いたく、ない……)
 その一つ一つの言葉を噛み締めるようにしてクリュウは心の中で呟いていた。
 心が震えている。あのパンを分けてくれた人たちが、明日か明後日にはこちらの命をとりにくるのだ。
 怖かった。――不安で体ごと潰されてしまいそうだった。
 ……気がつけばさきほどの砦のところまで着いている。敵の陣営はそこまで広くないのだ、2分もかからなかったろう。
 砦の見張りに軽く会釈して、イラルアは中へと足を踏み入れた。
 すっかり暗くなった夜、中は橙色の灯火に染まっている。
 ずっと眠っていたはずなのに、体は重く、まだ疲労感が拭えない。
 時折頬をくすぐる琥珀の髪を感じながら、クリュウは意識を彷徨させる。
 もっと大切なことを考えなければならないはずだったが、――それよりも疲れが勝っていた。
 何も考えずに眠りにつきたい。
 そうしている内に――突然彼女の足が止まったのに気付いて顔をあげたのは、それからほんの少し後だった。
「――ぁ」
 彼女の喉が小さく鳴って、その萌葱の瞳が僅かに瞬く。
「おや……もう起きても大丈夫なのかね?」
 丁度曲がり角の出会い頭に会ったらしかった。
 目の前に、男。30代半ばほどの、きっちりとした服を着た――。
(―――え?)
 クリュウは直後、それ以上ないほどに心臓が高鳴るのを感じていた。
「はい。お気遣い感謝します――ハルム様」
(……この人!)
 そっと頭を垂れるイラルアの肩口で、クリュウの体が戦慄に震える。
 ライトブラウンの整えられた髪の下――、その瞳が紅に染まっていたのだ。
 世界の覇者、ウッドカーツ家の者の証だった。
 初めて見る、その紅の瞳。
 人工的に染められたものだという。確かに自然な色ではない、まるで血を連想させるような、深紅の中の深紅。
 きっとこの男が貴族の軍の責任者なのだろう。ウッドカーツ家、誰もが恐れ、世界を支配する貴族――。
 心の奥底が、嘘のように震えていた。強い色をした、鮮血の瞳。
 その瞳がふいにこちらにやられた瞬間、クリュウは思考すら白に染めて、イラルアのマントを握り締めた。
 まるで射るような目だ。平民たちが恐れるのも納得できる、すくみあがるほどに印象的だった。
 ウッドカーツ家の男――ハルム・ウッドカーツはそんなクリュウを見て、僅かに目を細めた。
「それは……妖精かね?」
「はい」
 イラルアは震えるクリュウをなだめるようにそっと手で触れながら、小さく頷く。
「……わたしの魔法に巻き込まれてしまったようなんです」
「ほう――」
 再び彼の瞳に射止められる。否、射殺されてしまいそうだ。
 もしも自分のことを知られていたらどうしようか。彼らの何人かに自分がスイと共に戦っている姿を見た者がいるかもしれない。敵に妖精が混じっていると彼が聞いていたら――!
 薄暗い照明のお陰でクリュウの血の気が飛んでいるのに気付かないハルムは、一歩、こちらに踏み出した。
 紅い瞳。
 呑まれそうになる。
(どうしよう――!)
 思わずクリュウはぎゅっと目をつぶった。
 ――しかし、次に聞こえた言葉は思いがけないものだ。
「……巻き込んでしまってすまなかったな。羽根は大丈夫か?」
「え――?」
 一瞬、聞き間違えたかと思って……、しかしその瞳に敵意がないことを知って、クリュウは目を丸くした。
 血の色をした瞳は、静かな光を湛えている。
「なにか治すのに必要だったら用意させるが」
「あ……っ、いえ、少したてば治るので……」
 ひっくり返りそうになる声でクリュウが答えると、ハルムはそうか、と返して頷いた。
 思ってもみない反応に、クリュウはただ慌てるだけだ。
「妖精は群れを作って行動すると聞いているが――仲間たちとはぐれてしまったのか?」
(――もしかして心配……してくれてる?)
 まさか、とクリュウは思って、――しかし彼の目がとても敵意を持っているようには見えなくて、口をつぐむ。
 ハルムの紅は見ていて背筋が凍るようだが、それでも真摯な瞳だ。
「もしも群れに帰ったなら、仲間にも伝えてくれまいか? ここはもう危険だ、――そうだな、ずっと南の森の方へと行った方がいいと。あそこはまだ安全だ」
「は……はい」
 わけもわからず、ぎくしゃくと頷く。
 不安げにイラルアを見上げても、彼女は少し俯きがちに黙っているだけだ。
 不意にハルムの後ろから声が聞こえてきたのは、そんなときだった。
「おや、これはこれは――ハルム様にイラルア様」
 クリュウの長い耳がぴんと張る。それこそ、低く落ち着いたハルムの声ではない。硬度の高い、ひんやりとした氷のような――感情の見えない声だ。
 ハルムが振り向いて、その目を細めた。
「――何か用かね」
 その声に先ほどには見えなかった硬いものを感じて、クリュウはどきりとする。
 しかし、心臓が飛び上がったのはそれだけではなかった。
 通路の暗がりから現れた、細身の人影。
 きっちりと整った、あまりに機械めいた動きでその影は全貌を明らかにした。
 一瞬黒かと思った髪は、美しく黒光りするこげ茶色だ。
 礼服に包まれた、すらりと高い背。そこにいるだけで場の空気ががらりと変わるような――言い知れぬ威圧感。
 クリュウは思わずイラルアの影に隠れるようにして身をすくめた。
 人影は、口元だけで笑んでみせる。きろりと瞳がイラルアを捉えて、その深みを増した。
「いえ、通りがかったものですから。それにしてもイラルア様、あなた様の今なさるべきことは、十分に休んで体力を取り戻すことです。そのように勝手に動き回られては、任務に支障をきたす恐れがあります。お控え下さいますように」
 どこか高圧的な口調で冷たく人影は言い放った。
 その言葉がまるで金属で鼓膜を叩かれるような不快感を覚えるようで――、クリュウはふいに過去のことを思い出す。
(――ヘイズルみたいだ)
 周りを呑むその雰囲気。決して余裕を欠かさない表情。そして――危険な、口元だけの笑み。
 どこかヘイズルに似ている気がしていた。あの、薄暗い部屋で座ったまま不敵な笑みを浮かべている、彼に。
「外の風に少しはあたらないと、治るものも治らない。そんなに彼女を縛り付けては息苦しい思いをさせるだけだろう」
 そんなときにイラルアを庇うようにして立ち、人影を睨めつけたのはハルムだった。
 深紅の瞳の視線を受けて、人影は困ったように肩をすくめてみせた。しかし眉はぴくりとも動いていない。
「困りますね。この戦にはそこらのギルド登録者も参加していると聞いています。――万が一彼らに秘密が漏れては後々厄介なことになることは自明でございましょう」
「そこらの旅人に理解できるわけがないと思うがね。一人二人が気付いても、恐らく誰も信じはしない」
「その『恐らく』が大きいのですよ。危険因子は全て排除すべきです。この間にヘイズルがどんな手立てを企てているか――、早急に次の準備が整うようになさるのがあなた様の務めではございませんか?」
(――えっ?)
 氷の刃を突きつけあっているような会話の中、クリュウは途中で目を見開いた。
 ――この間にヘイズルがどんな手立てを企てているか――。
(ここの人たちは、ヘイズルがこの反乱を企ててるって知ってるんだ……)
 スイの存在は知られていると思っていたが、まさかそこまで探られているとは思っていなかった。
 しかもどうもこの機械のような人影はヘイズルの反撃をなんとかして阻止したいと思っているように見える。
 つまり、――ヘイズルの頭の良さを知っているのだ。
(でも、どうして……)
 元々ヘイズルはレムゾンジーナの単なるギルド登録者のひとりだったはずだ。
 そんな彼が街が滅びて3年後に行動を起こたのを――気付く者がいたのだろうか。
 それにしてもこの人影は一体誰だろうか?
 冷たい金属のような印象に似つかぬ優しげな口元。しかし目の表情が変わらないので、妙な違和感を与える。
 そして、この底知れぬ威圧感、隙を見せぬ立ち振る舞い――、クリュウはイラルアに体を寄せるようにした。
「――忠告、感謝するよ。ファイバー君」
 ハルムはどこか険しい顔でそう言い放ち、イラルアの方に振り返った。
「君ももう部屋に戻りたまえ。ここの夜は冷える」
「はい」
 イラルアは一度琥珀色の髪で顔が隠れるほどに深々と頭を下げ、角を曲がろうとした。
「――すまないな」
 すれ違いざま、ぼそりと、彼がファイバーと呼ばれた人影に気付かれないように呟くと、イラルアも小さく首を振る。
 そのままイラルアは一度も振り返らずに、部屋へと向かっていった。


 ***


「……イラルア、あれ――ウッドカーツの人、だよね……?」
 部屋に戻ってからクリュウが問うと、イラルアはベッドに腰掛けたまま小さく頷いた。
 仮にも敵陣とはいえ、やっと慣れたこの部屋だけではとりあえず緊張も抜くことができる。
 クリュウはほうっと脱力したようにクッションに体をもたれかけて、イラルアの瞳を見つめていた。
「――ウッドカーツ家の人って、皆怖い人なのかと思ってた」
「ハルム様は優しい人よ」
 イラルアはたおやかに微笑んで言う。
 良いベッドを使っているのか、それとも彼女が羽根のように軽いのか――恐らく後者だろうが――、ベッドはぎしりとも音をたてない。
「ただ、上の人たちに言われて戦っているだけだと思うの。リザンドの人たちには逆らえないから……」
 聖都リザンド。ウッドカーツ家の本家のある世界の中心だ。
 確かに貴族社会ではその覇者であるウッドカーツ家に逆らえば、一族の命はないといわれている。
 いつか出会った少女クリアナの一家も、ウッドカーツ家に目をつけられて皆殺しにされてしまったのだ。
「――でも」
 クリュウはほんの少し肌寒さを覚えて、自らの腕を抱くようにした。
 その翡翠色の瞳を滲むように揺らめかせて――。
「どうしてリザンドの人たちはそういう決断ができるんだろう。同じ人間なのに、こんな酷いこと――」
 心に霧がかかったように、気分が晴れない。そんなクリュウの姿に、イラルアはゆっくりと唇を動かせた。
「それはね」
 ふわっと包み込むようにして、たおやかな声。
 駄々をこねる子供をなだめるように、イラルアは言った。
「上にいる人たちは、血の臭いを知らないから。たくさんの人の嘆きを聞いたことがないから。肌が灼けるような張り詰めた空気の痛みを、知らないから。ずっと文字だけで出来事を見つめてるから」
「……」
 そのひとつひとつが心に染み入るような言葉を唇に乗せる彼女を、クリュウはじっと見つめる。
 彼女は微笑んでいたが、反面泣いているようにも見えた。
「そうだね……。妖精君は、紅の戦を知ってる?」
「――え?」
 唐突にそんなことを問われて、目を丸くする。
 ランプにゆらゆらと照らされる顔に寂しさを湛えて、イラルアは続けていた。
「大草原リ・ルーで起きた、ミラース最大の世界大戦。亡くなった人は数十万って言われてる」
「……うん」
「わたしたちはそのことを聞いて、とても痛ましく思うけれど……。その空気も、亡くなった人の嘆きも、その亡骸も見ることはない。彼らの苦しさを知ることはないの」
「……ん」
 クリュウは頷いたまま、顔をあげることができなかった。
 今のミラースに伝わる戦争の事柄は全て文字に集約されている。数で表された人の数、たった数行で現された死闘の様子――。
「人の苦しみを知ることはできないから」
 イラルアは言っていた。
 琥珀の髪がよく映える、紅いマントに身を包んで。まるで今にも折れてしまいそうな細い体を覆い隠すようにして……。
「だから、そんな決断を下すの。――仕方ないのよ、この世はそういう風にしてできているから」
 たおやかに、微笑んで。
 クリュウはそんな瞳が見れなくなって、顔を再び俯かせた。
 確かにイラルアの言う通りだ。貴族たちから見れば兵は数値で表され、イラルアは駒として表される。一体彼らがどんな気持ちで戦っているかなど、結果を書類だけで知る上流の貴族たちに伝わるはずがない。
 彼らにとって、この反乱は遠い地平の彼方で起こること、つまり現実と区分された場所でのことなのだ。
 この地の臭いも、そして集結した想いも、何も伝わらない。
 そして、残るものも何もない。
「……ねえ、イラルア」
 彼女はやはり、物静かだった。
 見上げてくる小さな妖精を優しく見返して、小首をかしげてみせる。
「うん?」
 もしも、この人と違う場所で出会っていたのなら。
 ――そう思うと、胸が締め上げられたように苦しくなる。
「もう一度、訊いていい?」
 クリュウは一瞬ためらって、しかし絞るようにして先を続けていた。
 震える喉を、必死に動かして。
「……どうして、あの魔法を――使ったの?」
 一つ一つの言葉を呟くと共に、心に一つずつ傷が刻まれていく。
 もう彼女を糾弾する気はなかった。しかし、どうしてもわからなかったのだ。
 悲痛な叫びにも似た彼の問いに、イラルアは沈黙する。
 じっと、目を伏せるようにした表情に混じるのは悲しい憂いだ。
 しかしそれが彼女を一枚の絵のようにして、不思議と美しく見せていた。
 ただ、それはひたすらに胸を締め付けるような美しさであったけれども――。
「わたし、弱いから」
 ふっと、涙のように転がり落ちる音色。
 長い髪がぱさりと頬にかかったかと思えば、彼女はその中の表情を細い指で覆っていた。
「――だめだね、本当に」
 笑ったのかもしれなかった。しかしクリュウの目にはただ顔を歪めたようにしか映らない。
 静かに彼女の慟哭が辺りの空気に染み渡る。ただ、それでも彼女は振り払うようにして顔から手を離していた。
「ごめんね」
 泣き笑いのような顔で、呟くように言う。
 やはり彼女の口から直接理由を聞くことはできないようだった。
「……辛そうだよ」
 気がつけば、クリュウはいつのまにかそんなことを口にしている。
 彼女はそんな彼に、一瞬きょとんとした顔を見せた。
 クリュウは歯を食いしばって、イラルアを見上げた。スイによく似た、哀しみを一杯に湛えた瞳を――。
「だって――苦しんでるようにしか見えないよ。どうして……、どうして、助けを求めないの? 無理して笑ってたって、僕は――嬉しくないよ」
 半分まくしたてるようにしてクリュウは言って――、はっと我に返って目を逸らした。
 何故だか息があがっている。体中がひたすらに熱かった。
「――ご、ごめんね、今日会ったばかりなのに……こんなこと」
 イラルアは暫く目を瞬いていたようだった。
 暫く重たい沈黙が二人の間に、落ちる。
「……イラルアはさ」
 だからクリュウはそれを破るように――それでいて祈るようにして呟いていた。
「アレキサンドライト、つかってみたいって思ってつかったの?」
 もしここで彼女が頷いたらどうしようか。
 ふっと体中が嫌なもので満たされていくのを感じながら、それでもその翡翠の瞳で。
 今にも消え去りそうな、娘に向けて――。
 そうしてイラルアはかすかな間の後。
「いいえ」
 首を、横に振ってみせた。
 クリュウは幾分かそれに救われた気がして、胸を撫で下ろす。
 だが、新たな謎が生まれたのも確かだ。
 どうして使いたくもない魔法を使ったのだろうか。
 しかし直接訊いても答えてくれるはずはない。
 だが、もし彼女が使うことを拒んだ魔法を放ったというなら、――きっと貴族たちに強要されたのだろう。しかし何を材料にしてだろうか。
(――脅迫の材料になるもの……)
 そう考えていると、ふと先ほど彼女が言っていたことを思い出した。
 ――わたしたちはね、ずっと山奥で住んでたの。小さな村の中で、ひっそりと。
「……ぁ」
 それが呼び水となり、クリュウは思わず目を見開く。
 そのまま、彼女を見上げていた。勝手に口がその予感を紡いでいく――。
「まさか――」
 しかし、その次の言葉は喉の奥に吸い込まれてしまう。
 彼女がそんな彼に向かって、たおやかに微笑んだからだ。
 それが、全てを物語っていた。
「わたしね、とても弱いから」
 そっと緋色のマントの中から白い手が伸びて、クリュウに優しく触れる。
 小さな夜の灯火に照らされて、彼女の影は今にも消え去ってしまいそうだった。
「ほんとうにだめだね、わたし……」
 ――きっと、彼女がおかしな行動をとれば、彼女が生まれ育った村に害が及ぶのだ。その村人が彼女にとっての人質なのだ。
 故郷の村人の命と、得体も知れぬ反乱者の命。もしもそれを天秤にかけたのなら――?
「そんなことって……」
 クリュウは思わず膝をついて、体を折るようにした。
 なにか。なにかをしなくてはいけない。このままではいけない。いけないと、いうのに――。
「……でっ、でも……イラルアの力があるなら、逃げることだって出来るじゃないか……っ。貴族だってその力で牽制すれば、なんとか――」
 振り絞るようにして、彼は言っていた。
 しかし返るのは、とても優しい彼女の声。
 そのあたたかさに、また心がひとつ痛んで震える。
「――優しいね」
 ふわっと両手が、体を小さくした妖精を包み込んだ。
 親指でその頬から髪を撫で付けるようにしてやりながら、イラルアはたおやかに微笑む。
「ありがとう、とても嬉しいわ。わたし、ここにきてずっと一人だったから――心細かった。でも、妖精君がきてくれて、――久しぶり、こんなあたたかい気持ちになったの」
 やっぱり妖精君は妹に似てるな、とイラルアは呟いた。
 彼女は、笑っていた。
 やはり、ほんの少し顔をほころばせるような、たおやかな微笑みを。
「さあ、もう寝ましょう。妖精君もしっかり休まなきゃ」
 ね?、と諭すように小首をかしげてみせる。
「きっとあのひとも……心配してるわ。早く羽根を治して戻ってあげなきゃね」
 その言葉に触発されたように、クリュウの脳裏にあの蒼い後姿が過ぎった。
 そうだ、今ごろどうしているだろうか。きっと、きっと、無事にしているだろうが――。
(……でも)
「さ、ランプ消すよ」
「……うん」
 暖かな指が離れて、そのままランプに伸びた。
 ふっと灯火が消えれば、辺りは窓からかすかに入る外の明かりがささやかに影を落とすのみの世界になる。
 とても暗い、――それでいて、重たい空気。
「おやすみなさい」
 イラルアの声が聞こえた。
 先ほどまで触れられていた指の温かさを思い出して、クリュウは無意識に頬に手をやる。もうそこにあの温かさがあるわけでもないのに、だ……。
「うん……おやすみ」
 暫く、わずかにイラルアの堰の声が聞こえたが――、きっと彼女も疲れていたのだろう。すぐに辺りは夜の帳に包まれる。
 クリュウはそんな暗がりに抱かれるようにして、体を丸めた。
 膝を抱えて、そこに顔を押し付ける。羽根はまだ……痛い。
(僕は……どうしたらいいんだろう?)
 彼女を傷つけたくないのに。
 彼女を助けてやりたいのに。
 本当の笑顔を、見てみたいのに。
 ――だというのに、彼は羽根が治ったのならまた彼女と敵として対峙せねばならなくて。
 その氷のような時を、ただ……待つしかなくて。
 だけれど、――スイの元に早く帰りたい。
(わからない……)
 思考がぐしゃぐしゃになる。何を考えていいのかもわからない。
 ――部屋の中はまるで何もないかのように暗がりに。
 その傍ら、――妖精の少年は小さく震えるばかりで……。


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