-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの
122.ひび割れた水晶
思えば不思議なことだった。
普通、真夜中の森で迷ったら、暗闇の中を歩き続けるような者はいない。少なくとも夜が明けるのを待ってから行動するだろう。夜の森は危険が多すぎる。
スイとクリュウはあのとき、町が近いことを知っていたから歩いていたのだ。
そんな中、道なき道の草をかきわけていた、おぼつかない足取り。
「……そういえば、どうしてあのとき一人だったの?」
彼女は貴族に囚われてあの地からリザンドを目指していたはずだった。しかし、それにしても従者の一人もつけないのはおかしすぎる。
「あまり多くの従者をつけるのはいけないって言ってたわ。他の貴族がかぎつけて、横取りしようとしてくるかもしれないから、なるべくわたしは隠れて旅をしていたの、従者はたった一人で」
でもね、とイラルアは胸に手をやって目を伏せた。
「やっぱり見つかってしまって。そのときわたしを案内してくれてた人は……わたしを庇って、亡くなったわ。わたしはもう――なにもかもわからなくなって森の中を無茶に走り回ったのよ」
「あ……――」
あの森をスイとクリュウが普通に通っている間、違う場所ではそんなことが起きていたのだ。クリュウは胸の辺りがざわめく気がして、眉をしかめる。
「だめだね、わたし。もう大人なのにあんなに取り乱したりして、夜の森なんか駆け回ったりして」
あたかもささいな失敗に溜め息をつくように、イラルアは小さく笑った。
妹が亡くなったと聞いて、そして目の前で従者が殺されて、見知らぬ森で追いかけられて――。
なのに彼女は困ったように首をかしげるだけだった。
「あの青髪のひと」
「えっ?」
突然彼女が呟いたのに思わずクリュウは肩を飛び上がらせる。
一瞬、彼女がスイのことに気付いたかと思ったのだ。
しかし、その心配はないようだった。
「……あのあなたの連れのひと、元気にしてる?」
「あっ――う、うん。元気だよ、今は少し離れたところにいるけどね」
「相変わらず不思議な喋り方してるの?」
「そ、そりゃもう……相変わらず」
ふふっとイラルアの顔がほころぶ。
「あのときはね、びっくりしたな。突然あんなひとに会ったから」
そのときのことを思い出しているのだろうか、彼女は窓の外に顔を向けて、その先に目を細めるようにした。
「……そう、元気にしてるの。良かったわ、安心した」
今は治安が悪いから、と呟くように続ける。
その瞳はクリュウに向けられて、またたおやかに微笑んだ。
「それなら早く羽根を治して、あのひとのところに帰ってあげなきゃね」
とても温かいのに。
どこかで、破綻している。
「う、うん……」
クリュウはぎこちなく頷いて彼女を上目遣いで見上げた。
こちらを見返す萌葱の瞳は、まるで宝石のようだ。
色素の薄い肌は、ふとしたはずみであとかたもなく消えてしまうように思える。
透き通るように美しく儚げで、それでいて今にも壊れてしまいそうな。
――ひび割れた水晶。
彼女を表現するなら、それが一番適切だろうか。
美しいとは思えるのに、どこかで見ていて心が痛むような――。
――ぐう。
……そんなクリュウの思考をばっさりと断ち切ったのは、なんとも今の彼の表情には似つかわしくない音だ。
イラルアの目がふっと瞬いて……、その音源へとやられる。
クリュウもまた、その部分へと手を触れる。
――ぐう。
再び――腹の辺りから、音。
「わ……わーっ!」
クリュウは思わず恥ずかしさに羽根がないことも忘れて棚から飛び立った。
普段の彼だったらそのまま光速で飛び立っていたことだろう。
無論、現在の状態では重力の法則に従ってそのまま放物線を描いて落下する。
あと1秒イラルアの手が伸びるのが遅かったら、彼は顔から硬い地面に突っ込んでいただろう。
「っと、危なかった」
素早く両手を伸ばして彼をキャッチしたイラルアは、――どうにも笑いがこらえられないようで、くすくすと肩を震わせている。
「妖精もお腹は減るのね」
「……う、うん」
否定できない自分が、とてつもなく情けなかった。
クリュウは顔を俯けているのか頷いているのかわからない返事を返す。
大体、あれから――丸2日眠り続けて、現在に至るのだ。その間、なにも口にしていない。
「そ、その……僕たちは精霊とは違ってちゃんと実体があるから……だから、その……とりあえず、た、食べないと」
「わかったわ」
イラルアは、クリュウを手に乗せたまま立ち上がった。
まだ笑いがとまらないのか、ほんのりと上気した頬が桃色に染まっている。
「行ってみましょう。何か食べ物分けてくれるかもしれないわ」
「よ、よろしくお願いします……」
悲しいかな、どんなに深刻になっていても空腹感だけは避けられない問題だった。
スマートに物事を進められない自身をクリュウは全力で呪う。
イラルアは彼を乗せた手を肩のところまでもってきた。つまりは乗れということなのだろう、大人しく乗り換えて緋色のマントに掴まる。
「ふふ、落ちないようにね」
「うん、大丈夫」
いつか一度、こんな風に肩に乗って移動したことがある。
もちろんスイと初めて出会ったときだ。あのときも羽根を怪我してしまって、彼の肩に乗せてもらっていた。
そんな彼のことを気遣ってくれているのだろう、イラルアは静かに部屋を後にする。
もう辺りは薄暗く、松明の光が簡易な砦の中を照らしていた。
ここは一体どんな構造になっているのだろうか。聞いておけば後で役にたつかもしれない――そう思ったが、彼女を騙すようでクリュウは問うことができなかった。
自分が敵であることすら隠しているのだから、既に彼女を騙しているのは確かだったが……。
彼女を傷つけたくない。
そう思っている自分に、彼は気付いていた。
***
外にでると、ぶわっと風が翻って肌に当たった。
ひんやりとした夜の風は心地良く駆け抜けていく。
やはりここは西の草原に間違いなかった。テントが張られ、それぞれに兵士がついて見張っている。
彼らは皆、イラルアの姿を見つけると敬礼をしていた。
きっと彼女はここでは別格扱いなのだろう。実際はどこにでもいるような娘だというのに――。
クリュウは視線をレムゾンジーナの町に向けた。
スイはきっとあのどこかにいるだろう。皆、無事にしているだろうか。
夜の街は暗がりに覆われ、まるで闇が塊になったように思えた。
「――あそこにいるひとたちと戦っているの」
きっとクリュウが何も知らないと思って説明してくれているのだろう、イラルアが短く呟く。
空を見上げた。雲に覆われて、星のひとつも見えない。
そんな中、辺りのかがり火に照らされている彼女の顔は、やけに白く見えた。
歩いていても、まるで地面に重みがかかっていないようだ。ふわふわと宙を歩いているようにも思える。
彼女はとあるひとつのテントの前につくと、見張りの兵士に会釈をして中に入っていいかと尋ねた。
「はっ! どうぞ中にお入りくださいませ、イラルア様」
きびきびした態度で兵士が敬礼すると、彼女もまた礼を言う。
そのままテントの入り口を持ち上げて、中へと体を滑り込ませた。
直後、鼻をくすぐる様々な匂い。
それと共に、人々のざわめきの音。
クリュウは思わず目を見張った。
そこには、――沢山の男たちが各々椅子に座って食事をとっていたのだ。
しかも彼らにはどうも統一感がなく、きちんと揃った兵士には見えない。
それぞれ携えている武器も剣から弓、槍、格闘家のような者も見受けられる。
彼らが食べているのは粗末なパンと豆のスープだったが、それぞれ会話も弾んでいるようで笑い声まで聞こえてきた。
その一人がイラルアの姿に気付いて、ぱっと顔を輝かせる。
「おっ、女神さん!」
言葉に反応して、その場にいる50名もの男たちの視線が一斉に彼女へとやられた。
すると一斉に歓声が沸き、彼らが口々に彼女を歓迎する。
「よくもまあ、こんな男臭いところに!」
「さ、どうぞどうぞ」
「……ありがとう」
彼女はたおやかに微笑んで、案内されるままに一つの椅子に腰掛けた。
クリュウはその肩口で目を瞬くのみだ。
「……このひとたちはね、ギルドで兵士募集をされているのを見てここに来たひとたちなの」
そんな彼にイラルアが小声で説明をしてくれる。
クリュウは、はっとして顔をあげた。
彼自身も、スイに付き添っていたときにギルドで見たことがある。
こんな反乱などに、貴族たちは旅人たちの参戦を呼びかけるのだ。
その賞金もまた破格で、――スイは一度もそんな仕事を請けなかったが――旅人たちは、生きていく金を得るために、鎮圧に参加するのだ。
きっと今回の反乱でも、ギルドで仕事状がでたのだろう。彼らはそれを見てここに集まってきたのだ。
そして、2日前の戦いではこちらに殺意を持って襲い掛かってきた――。
……同じ、旅人なのに。
クリュウは顔を歪めて顔を伏せた。
「いやー、それにしてもイラルアさんの魔法はすごかったな!」
きっとあれがアレキサンドライトだということは知らされていないのだろう。剣士の一人が目を輝かせて言う。
元々アレキサンドライトなど半分伝説となった魔法だ。よほど魔法に精通していない限り、見分けるのは難しい。
「そうそう、奴らきっと、ひとたまりもなかったろうぜ」
髭をたくわえた大男が笑いながら、酒でも飲むかのようにカップの水を飲み干す。
「次は奴らなんて、ばーんと全部吹き飛ばせちゃって下さいよ!」
「あーあー、イラルアさんのお陰でオレたちのカッコいいところはないなあ。イラルアさんに惚れてもらう時間もないなんて」
どっと辺りに笑い声が広がる。
イラルアはただ、たおやかに微笑んでいた。
「この、抜け駆けは許さねえぜ!」
「そうだ、いつか俺がイラルアさんを白馬に乗って迎えにきてやるって決めてるんだからな!」
「なにいってんだよ、お前茶髪じゃねーか。ここは金髪の俺様が」
「お前が馬になんか乗ったら馬が潰れるって」
「なにおう!」
斧使いであろう太った金髪の男の腹をばんばん叩きながら仲間が笑う。
笑顔。
一時の休息に、それぞれが笑っている。
まだ10代の若者から、白髪の混じる者まで。
生きる為に旅をしている者。生きる為に戦う者。
「……おや、イラルアさん。その肩のちびっこいのは」
「あ――」
クリュウはぱっと顔をあげて、男たちを見上げた。
皆、興味深そうにクリュウを見つめている。
「へえ、妖精じゃないかい」
誰かがそう言って、クリュウに顔を近づけてきた。
顔に十字の傷がある男だった。仮にも数日前はこちらに刃を見せてきた敵なのだ。クリュウはびくりと肩をすくませて固まる。
「ははっ、そんなに怯えるなって」
「お前みたいな悪役ヅラでそんなこと言っても説得力ないぞ」
また笑いが沸き起こる。
クリュウに声をかけた男は、照れたように後頭部をかいて肩をすくめた。
すると不意にやわかな風が吹いたように、彼女の声が零れる。
「申し訳ありませんが、この子にほんの少し、食事を分けてくれませんか? お腹をすかしているの」
一瞬、辺りのざわめきが止まった。
クリュウは思わずイラルアのマントを掴む手の力を強める。まさか、彼らの中に自分を知っている者はいないはずなのだが――。
しかしそれは、杞憂に終わったようだった。
わっと歓声があがるようにして男たちが身を乗り出してくる。
「おうおう! まかせとけっ、イラルアさんの頼みとあらば」
「妖精って何喰うんだ? ハチミツとかか?」
「おおい、誰か皿持ってこい!」
クリュウはぱちくりと目を瞬かせる。
その間にも、神速ともいえる連携プレイでイラルアの目の前に皿がおかれる。
「あ、あの……別にちょっとパンを分けてくれれば」
「なにいってんだ、ちゃんと食べねえと大きくなれねえぞ!」
「いや、僕たちに成長はな」
――どんっ!
恐らく人間一人前分あるパンが皿の上に容赦なく盛られる。
……体積が、クリュウの4倍はありそうだった。
「あわ……あわわ」
クリュウは目を白黒させながら怯えたように後ずさ――ろうとして、そこがイラルアの肩の上だということに気付く。
イラルアはくすくすと笑いながらクリュウをそっと手にとって、机の上におろしてやった。
「珍しいなあ、妖精なんて。俺、初めてみたぞ」
「おれもだ。おう、羽根がぼろぼろじゃねえか、大丈夫か?」
「う、うん……」
すっかり見せ物状態のクリュウは机の上にへたりこむようにして、機械のごとくかくかくと頷く。
「それなら尚更、沢山喰って治さなきゃな。ほら、遠慮するな。喰え喰え」
「あ……ありがとう」
その間にイラルアが、パンをちぎってクリュウがもてる大きさにしてやる。
「はい、どうぞ」
「うん……」
クリュウはぎこちなく頷いて、パンを手にとった。
そうして辺りを見回す。
それぞれ、クリュウをじっと見つめていた。
しかし、嫌な感じはしない。むしろ――温かいくらいだ。
焼きしめた、日持ちのするパンだから、香ばしい匂いもなにもなかったが――、クリュウはそれに小さくかぶりつく。
からっぽの胃の中にそれは落ちて、染みた。
「……おいしい」
ここは、敵陣のど真ん中だというのに。
皆、目の前にいるのは敵だというのに。
――そうして、彼らとは数日後……命を賭して戦うというのに。
どうして、こんなにも優しく、ぬくもりを感じられるのだろうか。
どうして、こんな彼らと戦わなければならないのだろうか。
だって彼らはこんなにも、笑って、ふざけて、そして――スイたちと同じ人間なのだと気付かせてくれる。
じわりと瞳に涙が滲んで、クリュウは誰にもわからないように俯いた。
「あ……ありがとう」
「なーに言ってんだ、好きなだけ喰ってけ」
「うん……」
クリュウは涙を悟られないように手の甲で拭って、……顔をあげた。
皆、誰もが屈託なく笑っている。
あまりにそれは、身を委ねてしまいたくなるくらい優しくて……。
振り返ると、イラルアのたおやかな笑みがあった。
「……良かったね、妖精君」
「……うん」
クリュウは、やっと、ここにきてから初めて――笑うことができた。
しかし、ほんの少し……そんな表情をすることが胸を刺すような気がしていた。
Back