-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの
121.曇り空の午後
――次の瞬間、とっさにクリュウがしたことといえば、窓からの景色を伺ったことだ。
しかし、それもそこが窓ではないことに気付いて肩を震わせる。――ガラスが入っていない。外に筒抜けになっているのだ。
そして、……その先に見える光景にクリュウは絶句した。
――巨大な穴のあいた、レムゾンジーナ。
まだあちらこちらでは煙があがっている。空は灰にけぶり、陽の届かぬその景色はまるで全てが死に絶えた墓場のようで――。
(……もしかしてここは)
そう思った瞬間、心臓の位置が自分でわかるほどにそれが波打っていた。なのにぞっとするほどに悪寒が走る。
しかし、レムゾンジーナを見下ろす位置にいる、ということはやはり――。
そう思うだけでクリュウは今にも恐怖に意識を手放しそうだった。
すぐに逃げないと、と思うがそれも叶わない。羽根さえあればこの筒抜けの窓から飛び出していけるのに。
ただ彼は必死で冷静に考えようとしていた。そうだ、きっと彼女は――。
(僕のこと、反乱軍だって気付いてないんだ。だから助けてくれた……)
幸いクリュウはスイと違って敵に容姿が知られていない。彼女は自分を、『誤って魔法にまきこんでしまった知り合い』として助けたのだ。
ぎゅっと唇を噛み締めて思考を巡らせた。このまま大人しくこの地で待って、羽根が治った瞬間に逃げ出せばどうにかなるか――。
(――いや、それよりも)
「どうして……」
だからクリュウは、身を振り絞るようにして訊いていた。
「どうしてあんな魔法を使ったの……?」
ぎゅっと拳を握り締める。胸が痛いのはどうしてだろう。もう外傷はなくなったというのに……。
きっと陽にあたれば透き通る琥珀のように煌くだろう髪を、腰の方まで流してひとまとめにして。
そんな彼女――イラルア・アレキサンドリアは、クリュウから目を逸らすことはしなかった。
まるでそれが自分への罰だというように、じっと彼の言葉を聞いている。
「だって……そんな魔法、いつか大陸をひとつなくしちゃったようなものなんだよ? そんなもの使ったら、どうなったか……わかってたでしょ? 僕は運良く生き残れたけど、他に何人のひとが……っ」
彼女を糾弾することにこの上ない苦しみを覚えながら、それでもクリュウは言わずにはいられなかった。
こんな、今にも崩れ落ちてしまいそうな娘が、その手を振り下ろし幾人もの命を奪ったというのだ。
「どうして……わからないよ、こんなことをするなんて……」
その言葉を聞いて、イラルアは唇を噛み締め、耐えるように手を両腕にまわした。
あまりにその顔が傷ついた、今にも泣いてしまいそうなものだということに気付いて、クリュウは口をつぐむ。
この娘が幾人もの命を奪ったことは事実だ。本来ならこんな糾弾を受けることなど手当たり前のはずだった。
しかし、――それ以上にクリュウは優しい。
彼は、苦しんでいる人間にそれ以上の言葉を浴びせることも出来ずに、顔を俯かせる。
「……ごめん、僕のこと助けてくれたのに、こんなこと言って」
「ううん」
震えた声に、イラルアはかぶりを振って答えた。
そのたびにさらさらと琥珀色の髪が美しく宙を舞う。
やはり、彼女があの行為をしたことも、……彼女自身がそんな魔法を受け継いでいることも、信じられなかった。
心のどこかでその事実を否定する声を待ち望みながら、クリュウは恐る恐る、彼女を見上げる。
――彼女はそれ以上ないくらい真っ直ぐに、クリュウを見つめていた。
その瞳に心が締め付けられるような苦しみを感じ取って、彼は思わず再び視線を床に這わせる。
するとイラルアは細い体をマントに包んだまま、ベッドに腰掛けた。
軽く咳き込むが、先ほどのような酷いものではない。
暫く、あまりに重苦しい沈黙が落ちる。
よくよく耳を澄ませば、外からは喧騒が聞こえてきた。男たちの声、飛び交う指示、金属の鳴る音……。
やはりここは、敵陣の中なのだ。
「……羽根が治ったら出ていって方がいいわ。ここはとても危険だから」
ふいに零れた声に、クリュウの顔があがる。
イラルアは膝の上で手を組んで、続けた。
「もちろん、わたしに然るべき制裁を与えても構わないよ……それは、君の自由」
すっと立ち上がった彼女にクリュウは何かを言おうとして、……しかし何を言っていいかわからない自分に気付く。
クリュウはただ、もどかしそうに首を振ることしかできなかった。
彼女はゆっくりと部屋を歩いていって、扉のかわりにカーテンがひかれた入り口のところで振り返る。
午後だというのに陽のささない部屋の中、それでも琥珀色の髪は美しく見えた。
そうして、彼女の口元にはたおやかな微笑みを。
どこまでも苦しんだ、こちらまでもが苦しくなるような微笑みを――。
「あ……っ」
今まで言葉を忘れていたかのように声を詰まらせて、クリュウはその姿を呼び止めようとした。
しかし、彼女の足は止まることを知らない。もう、遅すぎる。
「ごめんね、会議の時間だから」
直後、彼女の体は部屋から消えていた。カーテンの向こうで、誰かが彼女を呼ぶ声がする。
「イラルア様、もうお体の方は?」
「ええ、大丈夫よ。行きましょう、スゥリー」
「かしこまりました」
そのまま消えていく気配。……否、そもそも彼女に気配などあっただろうか。どこまでも透き通っていて、現実的ではなくて……。
クリュウは暫くじっと彼女が消えた方向を見つめていたが、……ふっと瞳を揺らめかせてまた俯く。
苔色の髪の合間から見えるのは、……歯を食いしばった彼の表情だ。
いまだに羽根の辺りに火傷に似た痛みがあったが、胸の痛みに比べれば微々たるものだった。
(優しいひとなのに)
どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと、思う。
そして、それは当たり前だとも思う。彼女は糾弾されて当然だ。
しかし、あの瞳で見つめられたとき――、そこに滲む優しさに、心が満ちていくのを感じたのは、確かだった。
だがそれでも、彼女は敵側の人間なのだという意識がどこまでも付きまとっていて――。
もう、わけがわからない。
(僕、どうしたらいいんだろう……)
羽根が治ったら、すぐに戻ってしまえばいい。また何食わぬ顔で貴族と戦えばいい。――否、むしろ敵陣の真ん中に堂々といるのだから、そこで何か行動を起こせばもっと事が有利に運ぶかもしれない。そうすればきっとスイの役に立つことが出来る……。
そうしてしまえばいいのかもしれない。
そうしてしまえばいいのだ。
(……わからないよ)
誰かに助けを求めるように、そう呟いた。
しかしどこからも返事は聞こえない。相変わらず部屋の中は沈黙に支配されている。時折聞こえる喧騒は、むしろ耳障りだった。
筒抜けになっている窓に手をかけて、外を覗く。
レムゾンジーナと向こうの海がほぼ正面に見える。どうやらここは町の西に僅かに広がる草原のようだった。
どうやら貴族たちは戦いの合間に、そこに小さな砦を建てたらしい。小ぶりだが、きちんと石で出来ている。
――長期戦の準備だって整えているのだ。
ふっと海からの風が吹き込んできた。髪をさらさらと揺らせて、窓から中に抜けていく。
しかしレムゾンジーナの墓場のような静けさと、痛々しい大穴が、クリュウの心をまた一つ、震わせる。
アレキサンドライト。聖樹に抱かれた、伝説の神宝。
仲間によく聞かされたものだ、あの悲劇の大陸の物語を。
普通、何かの契約で魔法を使うとき、術者はその宝石を持ってして魔法を唱える。テスタの持っていたサファイアがいい例だ。
しかし、アレキサンドライトは、『この世には存在しない』。
――否、むしろこの世そのものだと言った方が正しいか。
だから術者はアレキサンドライトを召喚し、その力を地に降り注がせるのだ。
(……どこから来たんだろう、あのひと……)
ぼんやりと体を壁にもたれさせたまま、クリュウは視線を外の遠くに彷徨わせる。
まるで別の世界に来てしまったような、灰色の空気がそこにあった。
(……どうして、ここに来たんだろう……)
ぼうっとしている内に、いつのまにか遠のいている意識に気付いた。
しかし、現実から離れるということが余りに甘美なことに思えて、――そのまま身を委ねる。
いつ意識が落ちたのだかわからない。
クリュウは、いつの間にか身を丸めるようにして眠っていた。
***
――ごめんね。
――わたし……お姉さん失格、だね……。
ふっと心の中に吹き込む唄。
祈りのような、懺悔のような、流れ落ちる言葉たち。
――あなたのことも守ってあげられなくて。
――また、たくさんのひとを傷つけてしまった。
――リナは優しいから、きっと怒るわね。
――あの、妖精君みたいに……。
このひとの心は、とても傷ついている。
それが手にとるようにわかるくらい、哀しい声。
――ごめんね。
――ごめん、ね……。
灯火に、影。
ゆっくりとそれが鮮明になっていく。
覚醒していく意識の中、クリュウは思った。
なんて哀しい唄なんだろう、と――。
「……あれ、」
クリュウが思わず声を零すと、びくりと跳ね上がる肩があった。
いつの間に眠ってしまっていたのだろうか、クリュウは眼をこすりながらその方に視線を向ける。
「――あれ?」
そうして、目を丸くした。
……その先のベッドに腰掛けたイラルアもまた、目を丸くしていた。
だがクリュウと違って、彼女の瞳はとめどもない涙で濡れているということに気付いたクリュウが、――普段の癖で飛ぼうとしてしまう。傷ついた羽根は動かせば痛みを覚えるだけだ。
びりっと背中を走る痛みをかみ殺して、クリュウは声をかけた。
「……イラルア?」
「あ……――」
彼女は次の瞬間、自分が泣いていることにやっと気付いたようだった。
その顔が、元から紅潮していたのに――、更にリンゴのごとく真っ赤になるのは直後のことだ。
「わっ、……あ、あの」
固まっているクリュウの目の前で慌てて服の裾で涙を拭う。どうやら相当恥ずかしかったらしい、顔は俯かせたままだ。
目をぱちぱちと瞬かせるクリュウに向けて、彼女はぶんぶんと頭を振った。
「わ、わたし、泣いてないから。泣いてないよ。大人が泣くなんて、恥ずかしいものね」
「……え、」
必死で虚勢を張っているようだったが、鼻をすすりながら言う台詞ではない。
クリュウは暫し呆然とそんな姿を見つめていた。
「で、……でも、さっきも泣いてたし」
すると彼女は更に下を向いてぼそぼそと言葉を漏らす。
「だって……さっきも泣いてて、今も泣いてるなんて、わたし――泣き虫みたいだもの」
「……」
いつの間にか、もう夕暮れのようだった。
だが、空は曇ったままで橙に染まることはない。
ゆっくりと闇に侵食されるように今日は夜が落ちることになるだろう。
彼女はひとしきり泣き顔を拭うと、やっと普段と同じようにたおやかに微笑んだ。
「うん、もう平気」
「……」
「――何か食べたいものがあったら言ってね。少しだったら分けてもらえると思うから」
「う、うん……」
クリュウは未だに不思議そうに頷くのみだ。
何故だろうか、こうやって見ると案外と――。
「……普通の人だ」
「え?」
今度はイラルアが目を瞬かせる番だった。
その様子は、何処にでもいるような娘の姿で、……やはり、アレキサンドライトの継承者とは思えない。
先ほどのことは全て夢だったのではないか――、そうとさえ思えてくる。
「……あの」
「うん?」
「どうして泣いてたの?」
イラルアの萌葱の瞳がふっと丸くなった。
そうして、そのままゆっくりと伏せられて、閉じられる。
「……昔から泣き虫だから、わたし」
ふふっと笑って、視線を遠くに馳せた。
「よく妹に怒られてたわ、お姉ちゃんでしょ、って」
「――え、」
クリュウは首をかしげる。
「妹がいるの?」
「ええ」
そうするとつまり、その妹もアレキサンドライトが使えるということだろうか。クリュウはその妹の姿を思い浮かべる。
イラルアは自らの胸元に手をやって、ふんわりと笑った。愛しい妹のことを思い出しているのだろうか……。
「歳の離れた子でね、――なのにしっかりしてるの。でもとても優しくてね、……妖精君にちょっと似てるかな」
「僕に……?」
彼女はほんの少し遠い目で頷く。
しかし、ふうっと息をついて、彼女はその先を紡いでいた。
「もう、亡くなってしまったけれど」
「……―――」
あまりに彼女が流れるように呟いたのに、クリュウは一瞬ついていけなかった。
しかしそれをゆっくりと呑みこんで、……目を見開く。
「……亡くなった?」
呆然と呟く彼に、イラルアは穏やかに頷いた。
「ええ、もういないわ。アレキサンドライトを受け継いでるのはわたし一人、父も母も妹が幼い頃に亡くなったから」
「あ……――」
クリュウの瞳の色が揺らめく。直後、彼は顔を俯かせていた。
「ご、ごめんね……。辛いこと話させちゃって」
「ううん、いいのよ」
たおやかに笑む彼女の肩を、長い髪がさらりと滑り落ちる。
萌葱の瞳は相変わらず優しいひかりを湛えていた。
「でもね、ほんの少し……後悔してるの。さっき泣いてたのは、そのことを思い出してたからよ。あのときにね、リナシア――妹を、わたしは守ってあげられなかった」
まるで独り言のようにイラルアは呟く。
クリュウはじっとそんな彼女を見つめていた。やはり、彼女はとても寂しそうに見えたから――。
「わたしたちはね、ずっと山奥で住んでたの。小さな村の中で、ひっそりと」
手を膝の上で組んで、イラルアは続けた。
「でも、ウッドカーツ家がわたしたちのことを知って、突然村を襲ってね。村のひとたちも、最初はわたしたちを守ろうとしてくれたけど、――最後はわたしたちを差し出すしかなかったの」
世界の覇者、ウッドカーツ家。その軍隊が辺境の小さな村を蹂躙するなど、赤子の手をひねるよりもたやすかったろう。
村人たちは、村を守るためにそうするしかなかったのだ。
「でもね、わたしたち……こんな力を持ってるでしょう? だから狙われるって、別々のルートで聖都につれていかれることになったわ」
クリュウの目が、ゆっくりと見開かれた。
引き裂かれる姉妹、……歳が離れているといったから、きっと妹はまだほんの子供だったろう。
イラルアは笑みをわずかに歪めて、膝の上で固く拳を握る。
「一緒に行こう、離れちゃいやだ、って泣きじゃくるあの子に、わたしは――きっと会えるからって、説得するしかなかった」
貴族の兵士に取り囲まれて、恐怖に涙する幼い少女。そんな少女をじっと抱きしめて、なだめる姉の姿。
「リナシアの乗った船は――沈んだわ」
クリュウはその言葉に寒気すら感じた。
あまりにも簡潔な言葉で表された、事実。しかしその重みは、自身を軽く踏み潰してしまうほどのものだ。
イラルアはもう泣いたりはしなかった。ただたおやかに、その事実を淡々と語る。
「……でも、それは不慮の事故。貴族が悪いんじゃないのよ、嵐に巻き込まれてしまったそうだから」
「だ、だけど……貴族がイラルアたちを連れてこなかったら、そんなことには……!」
クリュウは思わず言い返していた。こんな酷いことがあっていいのだろうか。
「それなら、――あのときわたしがあの子だけでも逃がそうとしなかったことだって、原因よ。わたし、お姉さんなのにね。――あの子を守ろうともしなかった」
「そんな……」
ぎゅっと唇を噛み締める。彼女はそんなクリュウの頬にそっと指で触れて、たおやかに微笑んだ。
「あの子の訃報を聞いて、枯れるほど泣いて……。そんなときよ」
クリュウの胸に、とんっと何かが触れた気がした。
その次の言葉への予感が、風のように駆け抜けていく。
「――あの夜、あなたたちに出会ったの」
萌葱の瞳はとても哀しげだったが――。
それでもそこには、心を暖める彼女の優しさがふんわりと、滲んでいた。
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