-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

120.狭間の沈黙



 クリュウはぽかん、と口を半開きにしたまま止まっていた。
 しかも今の状況といえば――、彼自身ぼろ雑巾のような状態でクッションの上で動けずにいるのだから、おかしなことこの上ない。
 日常と非日常が正面衝突したような、夢か現実かもわからない光景だった。
(ぼ、僕、まだ夢見てる……? ほんとはもう死んじゃっててここは天国とか)
 ぐるぐると頭の中をあらぬ方向に思考がまわっていく。だが、普通天国では痛みを感じないだろうとも思う。
「……もしかして地獄に落ちちゃった?」
「どうしたの?」
 おかしなことを口走る妖精に、不思議そうな顔で彼女は首をかしげた。きめの細かい髪がそうするごとにさらさら流れる。
 きっとまどろみの中で見ていた琥珀色は彼女の長い髪だったのだと、クリュウは納得して……、次にかけるべき言葉を捜した。
「あの……えっと、僕」
「いいよ、動かないで」
 痛みに顔をしかめながら起き上がろうとしたクリュウを、彼女は手で制して駆け寄ってきた。
「――ごめんね、妖精ってどんな怪我の治療してあげればいいか、わからなかったから……」
「あ……、そ、そんなこと」
 そこでクリュウは思わず言葉を切った。まだ少し鮮明さに欠ける視界の中、彼女の顔を近くで見たからだ。
 彼は彼女の顔を見て、思いつくままに言っていた。
「――だ、大丈夫? 顔色悪いよ……」
「ぁ……」
 彼女は一瞬かすかに肩を震わせて、その瞳を揺らめかせた。しかし、それを隠すこともなくたおやかに微笑んでみせる。
「ええ、昔から体が弱いの。情けないわね、もう大人なのに」
 日にあまりあたっていない、白い指がそっとクリュウの頬に触れる。
「――妖精君も、人間が使うような回復魔法は平気なの?」
「え?」
 クリュウは目を瞬かせた。もしかしたら、ここには回復魔法が使える人間がいるのだろうか。
 それだったら、羽根を治すことはできなくとも体の傷だけはどうにかなる。
「うん、平気だけど……」
 そういうと、彼女は嬉しそうに笑った。
「よし、それじゃあ目を閉じてて」
「――え……っ?」
 クリュウが逆に目を見開いた、その直後だった。
 ふっと彼女の瞳が閉じられて、少しでも触れれば壊れてしまいそうな繊細な詠唱が零れる。
「――精霊の御名において」
 彼女の指から零れた淡い水色の光が、ゆるやかにクリュウの体に落ちた。
 それは一滴の水が波紋を呼ぶようにして、体中に一気に広まっていく。
 まるで彼女に直接抱きしめてもらったような温もりが、クリュウの心の中を撫でるようにして駆け抜けていく――。
 先ほどのことで、一生分の驚きを使い果たした気がしていたが――これには驚いた。
 素質を持って生まれた、数少ない回復魔法を扱える人間。それが目の前にいるのだ。
 一気にクリュウの傷は塞がれていき、体中の重みと軋みはとれないにしても、痛みがやわらいでいく。
「羽根――酷いことになってるわ」
 しかし彼女は一向に治らない羽根を気にしているらしく、再び詠唱に入ろうとする。
 それをクリュウは首を振って止めて、きしむ上体を起こした。
「っつ……」
 魔法では癒せない気だるさと筋肉痛にも似た痛みをかみ殺しながら、小さく笑顔を作ってみせる。
「羽根はね、1日くらいすれば元に戻るよ。大丈夫、前にも同じようなことになったこともあるし」
「そう……――っ」
 ごほごほと彼女が激しく咳き込み始めたのは次の瞬間だ。
「だ、大丈夫!?」
 とっさにクリュウは飛ぼうとして……それをするための羽根がないことに気付く。
 彼女は何かを言葉にしようとしているのだが、苦しげな口元からは乾いた音が鳴るだけだ。
 しかしクリュウは事態の深刻さを目の当たりにしていた。
(血……っ!)
 彼女の口元にあてがわれた手にべっとりと紅い血がついているのだ。
「へ、平気!? どうしよう……っ」
 しかしそれで何ができるというわけでもない。ただ一人で狭い棚の上をおろおろすることしか出来ないのだ。
「大丈夫……」
 そうしているうちにやっと、彼女のかすれた声が漏れた。
 青ざめた顔のまま、彼女は布で口元をぬぐって、荒く息をつく。
 よくよくみれば、緋色のマントから覗く彼女の手はぞっとするほどに細かった。
 いつか会ったときは暗がりでわからなかったが、その顔も病的に蒼い。
「ごめんね、心配させて」
 布を紅に染めながら、彼女は苦しそうに笑みをつくった。
 無理をしているのが傍からみて手にとるようにわかる。
(さっき、僕に魔法を使ったから……)
 魔法というものは、瞬間的にかなりの集中力を必要とするため、その分精神力も削り取られる。それは体力に直結し、体への負担ももちろんかかるのだ。
 体が弱いといっていた彼女に、人間には難しいとされる回復魔法は酷い負担がかかるのだろう。
「ご、ごめんね……僕に魔法を使っちゃったから」
「ううん」
 クリュウの言葉を遮るようにして、彼女は首を振った。
「違うの……」
 俯いたまま、再び首を振る。
 一向に顔はあがらず、クリュウはその表情を伺うことができない。
「違うのよ……」
 おかしいな、と思ったそのとき……、彼は息を呑んでいた。
「……わたしが君を助けるのは、当たり前――ううん、こんなんじゃ全然足りない」
 名前を呼ぼうとして、彼女の名を知らないことに気付く。
 彼女の頬を、透明な雫が流れ落ちていた。
 血を拭った布を鼻先に押し当てるようにして、彼女は俯いたまま呟く。
 それは、懺悔のようにも聞こえた。
「わたしが……、わたしが君をこんな目にあわせたから……」
 ――はじめ、彼女が何を言ったかわからなかった。
 クッションの布を掴んでいた手の感覚が、消失する。
「――え?」
「ごめんね」
 濡れた萌葱の色が、クリュウを捉えた。
 水晶のように美しく透き通っているのに、……なのにどこかで破綻してしまったような――。
「ごめん……なさい……」
 声は震えてはいなかった。
 しかし、哀しみそのものの声だった。
 ――スイと、同じだ。
 クリュウはその瞳の色に、あの海の瞳を思い出す。
 全てを胸に秘めて、その痛みを背負って。
 そうやって生きていくひとの、目だ。
「……僕をこんな目にあわせた、って……」
 クリュウはその答えをどこかで予感しつつも、訊いていた。
「それじゃあ……っ」
 その唇から、最悪の答えがでてこないことを祈って。だけれど意識が遠のくほどに予感が胸を突いているのを感じて――。
「わたしの名はイラルア」
 ふわっとクリュウの頬をなでて、イラルアはたおやかに微笑んだ。
 細くとも、生きていることを感じさせる温もりを持った、……ほんの少しつめたくやわらかな指。
 だが、その指が震えていたことにはクリュウしか気付かなかったろう。

「イラルア・アレクサンドリア、……17代目アレキサンドライトの継承者よ」

 クリュウは、愕然とした。


 ***


 ――皆ね、外の世界に目を向けたがらない。
 ――外の世界?
 ――そうさ。例えば、大陸を渡ってみたいとか、どんな町があるのか知りたいとか。
 ――貴族たちが民の移動を禁じているからね。とことん世界は閉鎖的だよ。
 ――だからさ、世界が解き放たれたら――、沢山のひとが大陸を行き交うようになって、一気に時代が流れ始めるんだ。
 ――まるで夢みたいな話だね。
 ――ああ、でもきっとできるさ。いつかきっと、それが夢じゃなくなる。

 ――そうしたらリエナ、一緒に世界旅行にでも行かないかい?

「……もう夢で終わってるのにね」
 リエナは書類をまとめながら、誰にともなく呟いた。
 その途端に肩の辺りに痺れを感じて手をやる。その服の中の肌には酷い火傷の刻印が刻まれていた。あの忌わしい、悪夢の夜の消えぬ記憶だ。
 レムゾンジーナが落ちた夜。どうすることもできないでいたリエナを、あの人は迎えにきてくれた。
 二人で生き延びるために、必死で走った。
 ――その結果が、今の光景だというのか。
 全てを失っても諦めきれず、夢中で上り詰めて、全力で戦って。
 そうして、圧倒的な力の差を見せ付けられて、自分の無力さを思い知る――。
 ……短く切った金髪に手をつっこんで、――その指に力をこめている自分に気付いた。
 ぐっと唇を噛んでも、血の味がするだけだ。
 あの惨事から、2日。立ち上がって、無造作に書類を掴むと部屋を後にする。急ぎ足に通路を抜けて、目指す扉のノブに手をかけた。
 ほんの少し力を入れればかちゃり、と呆気ないほど簡単に扉は開き、中の机に座る男の姿を彼女の瞳に映す。
 しかし男――ヘイズルの方は、入ってきたリエナにはちらりと一瞥をくれただけで、また頬杖をついたまま視線をさまよわせる。
 リエナはつかつかと彼と机越しに正面に立つと、書類を彼の目の前に置いてやった。
「……書いてあったものは、地下倉庫に全部残ってたよ。でも古いものだから、使えるかは定かじゃないね」
 ただ、それでもどこか遠くに視線を投げている彼の口から漏れたのは、全く別の言葉だ。
「いかにも弱音を吐きたげな口調だな」
「――――は?」
 リエナの瞳が引き絞られ、揺らめく。
 しかしそれが、むきになって怒りはじめるのも時間の問題だ。
「私が弱音をいつ吐くっていうんだい? 大体ヘイズル、あなたはここで何をやっているんだ。運よく五体満足で生き残れたんだ、酷い怪我人の看護でもできないのかい? フェイズなんかあの日からほとんど寝ていないんだよ」
 それこそ流れ落ちる滝のごとく、ヘイズルに棘そのものの言葉が吐き散らされる。
「おぉ、こんな老いぼれに労働させようってのか」
「それで老いぼれだったら世界中の人間はほとんど死にかけだよ。ヘイズル、いい加減にふざけるのはやめてくれないかい? これはあなたの道楽じゃない。皆本気なんだ、やらなくちゃならない。ここで勝たないといけないんだ!」
 気がついたときには、リエナは机に両手をついて身を乗り出していた。
 思った以上に自分が感情を外にだしているのだと気付いて、息が荒くなっていることにまで気付く。
 ――が、ヘイズルは。
「はは、元気になったな。それでなんだ? おお、倉庫に入ってるのか、運がいいな」
「……」
 けらけら笑ってやっと書類に手を伸ばすヘイズルに、リエナは危うく脱力しかけた。何もかも極限状態だというのに、頼みの綱がこれではペースも乱れてしまう。
「……あなたと話してると死にたくなってくるよ」
「その歳じゃ死ぬにはまだ速すぎるだろ。――ということは……いや、間に合わねえか。だがそれさえ仕留められれば結局は2日後でも」
「……何を言っているんだい?」
 突然ぼそぼそと口を手で覆ったまま呟き始めるヘイズルは、怪訝そうなリエナを完全に無視してまた思考にふけっているようだった。
 だが――非常に認めたくないことだが、彼の頭脳こそがこの戦いの要なのだ。リエナは緊張した面持ちのまま、彼の思考が止まるまでその場で待つ。
 すると暫くの時の後、ヘイズルは書類から目を離して一つ、溜め息をついた。
「――明日の正午だ。全員広間に集めろ。それまでは相手に手をだすな」
「敵がいつ攻めてくるかもわからないのにかい?」
 突然の上司の命令にリエナは目を丸くする。
 ヘイズルは得意の不敵な笑みを浮かべ、講義するかのような口調で続けた。
「2日前の戦いで地の利がこっちにあるってことを向こうは知っている。大体な、立てこもりっていうのは案外時間稼ぎには強いもんだ。あんな無茶な魔法を使われない限りはな」
「じゃあ、その魔法がその間にやってきたら……!」
「テスタが言うに、明日一杯までは使うのは厳しいそうだ。流石にあんなのは連発で打てないだろうさ」
 後頭部をかきながら、ヘイズルは目を閉じて肩をすくめた。
「……それで、その明日までの1日は何をすればいいんだい」
「ああ、爆薬の設置だ」
「――――はぁ?」
 仮にも『世界を作り出した力』と戦うというのに、倉庫の奥深くから予備用として昔から保存されている爆薬を持ち出して、一体どうするというのだろうか。
 不可解そうな顔をしているリエナに、ヘイズルは町の地図にいくつか点を打ち込んで手渡した。
「ここに書いてある分だけだ。敵に近いところまで行くから見つからないように注意しろ」
「……」
 リエナは黙ったまま地図を受け取って覗き込む。そこには――丁度、アレキサンドライトによってできたクレーターを取り囲むようにして西地区に赤い点がいくつも打ち込まれている。
「こんなもの、一体何に使うんだい。それにこんな場所に設置したって、うまく敵を倒せるとは思えないけれど」
「敵を倒すんじゃねえよ」
 ヘイズルは笑って、指を軽く動かした。その仕草で紙を裏返してみろといわれたのだと察したリエナが、ぺらりと紙を裏にひっくり返す。
「それが装置の作り方だ」
 そこには達筆な字で材料と作り方が明記されていた。
「……爆薬に導火線、外装に――木? 中にも油と着火剤と布……ってこれ、燃やす為にあるみたいじゃ」
 そこでリエナははっとして言葉を切る。
 その顔からみるみる色が消えていくのには数秒もかからなかった。
「ヘイズル、これは……!」
 ぎん、と眼光鋭いその目線に、ヘイズルは肩をすくめてみせる。
「アレキサンドライトはどうにかするとして、この被害状況でこれ以上やるには、このくらいしか策がないもんでな」
「だからって……」
 リエナは俯いて唇を噛む。数日前の集会のときに不思議に思った、あの町の赤い点はつまりこのことだったのだ。
 それのいくつかがアレキサンドライトで吹っ飛ばされてしまったから、これから補充を行うのだろう。
「――この町を、もう一度炎で燃やすのかい?」
 声は、押し出したようにも聞こえた。
「そうだ」
 間をおかない返事。
「――奴らは3年前ここを襲った奴らと同じ連中だ。だから知っている、あの炎の中を走り抜けた『鬼』の恐怖をな」
「そんなことをしたら、私たちだって」
「勝手知ったる炎と、そうでないものはかなり差があるじゃねえか。そんな中からスイが飛び出していってみろ、奴らどんな顔するんだろうな」
 かなり危険な賭けだがな、とヘイズルは冗談でも言うように軽く言ってのけた。
「確かに海から風が吹くからこちらの方が優勢になるけれど……」
 あまりにも思い切った作戦に煮えあがらないリエナが小さく呟く。
 だが、確かにそのくらいでもしないとこの状況を打開することはできそうになかった。
 リエナは重い溜め息をついて、こめかみに手をやる。
「……やれるだけやってみるよ」
 うめくようにそれだけ言うと、踵を返して部屋を後にした。
 手を金髪につっこんで軽くかき回しているのは思い悩んでいる証拠だろう。残されたヘイズルはひとり、苦笑する。
「――さて、どんなもんかな」
 頬杖をついて口元を隠すようにすると、彼はついと目を細めた。
「……嫌な臭いがするぜ。ファイバー、――まさかお前がきてるなんてことはないよな?」
 無論、彼の問いに答える者など、どこにもいない……。


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