-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

119.嵐の後に



「ふーん、それで?」
「わるかったなー、どーせ逃げられたさ」
 潮騒の音がたゆたう海辺。
 その景色は、まるで前日に激しい命の奪い合いがあったとは思えないほど穏やかに佇んでいた。
 ゆったりと、いつもと同じようにさざ波が幾度となく打ち付けている。
 リベーブル号は戦闘中はずっと海の中に潜んでいたため、アレキサンドライトの直撃を免れ、ほぼ無傷で残っていた。
 今、船員たちが休む暇もなく駆け回って整備をしている。
 ――そんな中、滅びた町の港に佇む影、ふたつ。
 石畳の広い港には、きっと沢山の人々がいたのだろう。しかし、今は風が穏やかに吹き付けるのみだ。
「ところで、抜け出してきてよかったの? ただでさえ人手不足なのに」
「そっちこそ、たった一人しかいない船長がこんな所で油売ってていーのかよ」
 テスタはそんな堤防から海を正面に眺め、――フェイズは横にしゃがみこんで海に背を向けている。
 ――しかし、笑ったのは同時だった。
 フェイズが右手をはらはらと振る。
「俺の方は、ちょっとは休めって追い出されたのさ」
「そうやって僅かな睡眠時間を割いてやってくる友人を、追い返すわけにもいかないよ」
 ぼくは君の相談役でも懺悔を聞く牧師でもないのにねえ、とテスタは続ける。
「へっ、生まれてこのかた懺悔なんかしたこともねーさ」
「君らしいね」
 くすくすとテスタは笑って、遠い海の果てに目を細めた。
 風に遊ばれる髪を耳にかけると、かすかに振り向いて首を傾げる。
「うーん、フェイズの話聞いてると、世の中色々と難しいなって思うよ」
 首からさげた巾着も、彼ののんびりとした性格を表すかのようにゆったりと風に身をまかせていた。
 フェイズとは出会ってもう3年になる。もちろん、この組織に彼が入ったことがきっかけだったが、――お互いに気が合って、この戦が始まる前もよくこうやって、なんでもない話などをしたものだ。
「確かにね、難しいよ。君のしていることは、とっても」
 テスタの首にまかれた鮮やかな色のバンダナもその茶髪と同時にはためいていた。
 相変わらずしゃがんだままのフェイズは小さく肩をすくめる。
「……でもね、それもいつか叶うかもしれない。君の知らないところで何かが動いてるのかもしれない」
 灰色の瞳が、ふっと伏せられて――。
 友人への諭すような言葉が、零れ落ちる。
「ぼくたちは皆、同じ世界にいるけれど……。見えているものは、ひとりひとり違うから」
「……お前」
 フェイズはちらりと視線を傾けて、言った。
「哲学者にでもなったらどーだ?」
「うーん、実際やるとなると難しそうだしねえ」
 のんびりと、それでも少し考え込むようにしてテスタが返す。
 そのままぐっと腕を伸ばして、気持ちよさそうに風に目を細めた。
「でもね、ぼくがいいたいのは」
 海の風を体一杯に受けるようにして、また腕を広げてみせる。
 それはあたかも、彼が呼ぶままに風が吹き抜けているような――そんな光景にも見えた。
「そこまできたんだからさ、諦めるのは勿体無いんじゃないかなってこと」
 いまだに海に背を向けたままのフェイズに向けて、言葉が放たれる。
 フェイズは振り向かずに、……しかし薄く笑って立ち上がった。
「そりゃ、俺を励ましてくれてるのか?」
「うーん、受け取り方によってはそうともいえるね」
「ありがてーこった」
 フェイズはそのまま一歩、二歩と歩き始める。二人とも、元々こんな場所でのんびりしていられる立場ではないのだ。
 山の裾には相変わらず貴族たちのかがり火が見えている。長期戦をも予想しているのか、簡易な砦すら立っているようだ。
「あ、言い忘れてた」
 ふと、後ろからの声に振り向く。
 そこには、変わらぬのんびりとした笑顔を浮かべたテスタが立っていた。
 彼はぴんと人差し指をたてて、かすかに首を傾げてみせた。
「残る時間はあと2日って考えた方がいいかもしれないよ」
「2日?」
 聞き返すと、テスタはこくりと頷いてその笑みを静かに消す。
「あの魔法……アレキサンドライトは、ぼくの魔法と原理は一緒。契約した宝石の力を引き出すんだ。だけど、あれくらいのものになると術者への負担も大きいだろうから――、次に使えるようになるのは少なくとも使用してから3日後――つまり今日から2日後になるね。ヘイズルにもそう伝えたよ」
 リベーブル号の若き船長にして、蒼の玉石を胸に抱く少年は、そこにある現実を語った。
「だからヘイズルはたぶん……、それまでに行動を起こしはじめると思うよ。そうしたらまた戦いで、それどころじゃなくなっちゃうかもしれないでしょ?」
「……」
 フェイズはぴくりとも表情を変えずに聞いている。
 しかし、深刻になったときほど無表情になるという友人の性質を、テスタはよく知っていた。
 だからそれだけ言うと――、あとは一人にしておいてやろうと、彼に背を向ける。
「じゃあ、幸運を祈るよ。ぼくもそろそろ戻らなきゃ」
 もうその声が耳に届いているかも定かではなかったが、それでも呟いて――、歩き出した。
 暫くすると背後で彼も歩き出した気配を感じる。
 テスタは小さく吐息をついて、ほんの少し空を仰いだ。
 まだ空は薄く曇っている。あの魔法で灰が空に巻き上げられた結果だ。いつもだったらのびやかな青が広がっているはずなのに――。
「……あの優しさが、届けばいいのにね」
 ――その呟きを、巾着に入った玉石は聞いていたはずだったのだが、……言葉を発することはなかった。瞑想中だったのか、単に沈黙を守っていたのか、それはわからない。
 テスタ自身、まだ前日の戦いでの疲労がたっぷりと残っている。体は重く、顔色もとても良いとはいえない。
「みんな、無理してるなあ」
 誰にともなくそう囁いたのを聞いていたのは、恐らく海だけだろうか――。
 テスタは再び船の中へと入るために、タラップに足をかけた。


 ***


 いつ、意識を取り戻したのだかわからなかった。
 ただ、気がつけばそこの景色をぼんやりと捉えていたのだ。
 しかしそうするとまた、まどろみを繰り返す。
 頭がずきずきと痛む。体中が鉛のように重い。
 なにかしなければならなかった筈なのに。
 なにかをしなければ、ならなかった筈なのに……。
(―――なんだっけ……?)
 とても大切なことだった。
 また、まどろむ。
 意識がぼんやりと漂って、時間が流れていることすら把握できない。
 今という時が、まるで一秒を無限に伸ばしたような、それでいて無限を一秒に凝縮したような、――そんな不安定なものとなる。
 自分が何であるかということも忘れて、ただ無のままに漂っているだけ。
 幾度か、夢のようなものをみた気がした。
 琥珀色に彩られた、不思議な色だ。
 夢とうつつの間で幾度となく繰り返される、言葉。
 響いているだけで、何を言っているのかわからなかったけれども――。
 だけれど、この体を預けていられると思えるような、心地良い声だった。
 一体自分は何を成そうとしていたのだか……。
(……なんだっけ?)
 まぶたを……開く。
 その途端に飛び込んでくる光の嵐に、再び目を閉じて……。
「……ぅっ……」
 次の瞬間、体中を襲った激痛に顔をしかめる。――否、痛いという次元の問題ではない。
「つぁ……っ」
 かっと体が熱くなるのを感じた。自分でも驚くほどに息が熱い。体をよじってその痛みから逃げようとするが、それも叶わない。
 あえぎ声をあげながら、しばらくその痛みと戦うことになった。感情と関係なしに涙がぼろぼろと溢れ、頬に染みていく。
「……あれ……、僕……」
 しかしその痛みに、逆に気付かされたことがあった。
(……生きてる?)
 ――クリュウの瞳が、引き絞られた。
「あ……、」
 体中が動かない。とても重く、……そして身を切り裂くような痛みを覚えるが、――それでも。
(――僕、生きてる……)
 暫く、信じられないというようにクリュウは瞳を瞬かせていた。あんな魔法を受け止めて、ただでいられるはずがない。もう死んでしまったと思ったのに。なのに、どうして――。
 そう思った瞬間、――ある発想を思いついてクリュウは左腕を持ち上げようとした。
「……ぅあっ……つ」
 しかしそれは途中で断念される。ほんの少し動いただけで体中がばらばらになるような痛みが走るのだ。
 ただ、それでもクリュウは震える右手を動かして、左手の手首に触れた。ぼろぼろになった指でそっとなぞると……、固い感触が伝わる。
(――この腕輪が……)
 300年の妖精界追放という罰を受けているクリュウの罪を示す、腕輪。それは見るも無残となったクリュウの体の中で唯一、ひびひとつ入らない状態でついたままだった。
 クリュウはこの腕輪について説明されたときのことを思い出す。
『――お前にはないと思うが、罪が嫌だからといって死のうとしたり、腕輪を無理に外そうとしないことだ。どんな苦痛を与えても、お前は300年の間この腕輪に守られる。痛みはそのままに、お前は死ぬことはできない。生きていかねばならないのだ』
(そっか……)
 クリュウは納得して、体中の力を抜いた。もう……なるべくこの痛みを感じたくはない。
 腕輪に守られてしまったのだ。お陰で一度、死の痛みを味わうことになったが――それでも、生きることを強制されているのだ。
 だけれど、まだ良かったかもしれない。まだ死んではいないのだ。生きていれば、また色んな人に会うことができる。
 ただ、この体は暫く動きそうになかった。背中から焼け付くような鋭い痛みがずっと続いている。――羽根が、ほとんどもげてしまっているのだ。
 かろうじて四枚ある中の一枚だけが残っていたが、それも半分以上消失している。
 人間たちにはあまり知られていないが、妖精族の弱点は炎の他に……羽根、というものがあった。
 彼らは人間よりもずっと簡単に魔法を使いこなしてみせる。それは、彼らの持つ四枚の羽根が空気の流れを敏感に読み取るからだ。
 しかしそれが無くなってしまえば、空気の流れを小さな体で読み取ることは出来ない。――つまり、魔法が使えなくなるのだ。
 しかもこの体では、空を飛ぶことも出来そうになかった。
 今できるのは、この酷い有様のままぴくりとも動けずに横たわるだけだ。
(……どこだろう、ここ……)
 鈍痛を覚えながらも、やっとまわってきた頭で辺りを探る。
「……スイ……?」
 知っている人の名を呼ぶが、答えはない。……部屋には誰もいないようだった。
 するとしばらくして、そこが――見慣れない部屋だということに気付く。
「あれ……」
 クリュウの五感が、やっと異常に気付いた。
 見知らぬ天井。横たわっているのは――クッションの上、布の下。知らない窓辺だ、部屋にはベッド、知らない人の匂い――!
(……ここ、あの本拠地じゃない……!?)
 とっさに動こうとするが、電流のように走る激痛に再び脱力するだけだ。
 頭の中だけが氷水でもかけられたかのように冷たくなっていく。
(ど、どうしよう……! あの衝撃でどこかにとばされたのかな、早く戻らないと……)
 しかしこの体で何が出来るだろうか。そもそも、助けたのがスイでないなら、誰が自分をここまで連れてきたというのか――。
 しばらくクリュウは一人でうろたえて、――しかしそれが何の意味も成さないことに気付くと、再びおとなしく体の力を抜いた。
 この体では何をすることもできない。なるようにしか、ならないか――。
(スイ、心配してるだろうな……。皆も大丈夫かな? きっと逃げられたよね、無事にしてるよね……)
 なるべく物事を明るく捉えるようにして、クリュウは知っている人の顔を次々と思い浮かべた。あの魔法は、あの後どうなったろうか。出来る限り抑えたつもりだったが、――ただスイたちが安全な場所まで避難できたことを祈るばかりだ。
(そういえば)
 ふと、昔の記憶を思い出してクリュウは顔をかすかにほころばせる。こんな緊急事態になんて悠長なことを、とも思ったが、そのくらいしかできることもなかった。
(――いつかスイに助けられたときも、こんな感じだったな……)
 2年前のことだったか。
 はじめてスイに会った日のこと。
 魔物にやられて羽根を傷つけられ、意識を失った自分を彼は皮袋に入れて宿屋まで運んでくれたのだ。
 そのときも、意識を取り戻したとき、スイが丁度出かけていて……、突然見知らぬ部屋で驚いたものだった。
(あのときは……人間なんて、って思ってたけど)
 ずっと絶望したままだった。妖精の森を出て、人間というものを知って、その醜さを目の当たりにして。
 しかし、スイと出会って、彼のわけの分からない言動や、真面目ともお茶目ともつかない行動をみている内にいつの間にか、また人間が好きになっている自分がいた。
 人間はやはり――とても、とても優しい生き物なのだと、今ならクリュウは胸を張って言う自信がある。
(……皆に会いたいな)
 扱いは酷かったけれど、いつでも鮮烈な笑顔で引っ張ってくれたピュラ。
 歳の割に幼いところがあって、いつ転ぶかと目が離せないセルピ。
 本来、目立たぬようにしてきただろうに、妖精という目立つ連れが出来ても嫌な顔など一瞬も見せなかった――スイ。
 きっと、森で閉じこもっていたら一生会えなかっただろう。大好きな、大好きな人間たち。
(僕、どうなるんだろう……)
 腕輪の力で死ぬことはないだろうが、痛みを味わうことにはなる。今でも精神がおかしくなりそうだったのに、これ以上のことがあれば――本当に狂ってしまうかもしれない。
 それは全て、自分を拾った人の人柄によるだろう。一体、どんな人に拾われたのか――。
 そう思った、――丁度そのときだった。
 ――ぱたん。
 扉が……開かれる。
(来た……っ)
 クリュウは心臓が飛び上がるのを感じて、思わず痛みも構わず身を縮めた。
「あ……――」
 入ってきた人影は、そんなクリュウの姿を見止めて、声を零す。
 さらっとその肩を、琥珀色の髪が流れて――落ちた。
「――あれ?」
 その瞬間、クリュウの胸を何かが押す。心の表面を羽根で触れられたように、何かがかきたてられる。
 そうしてクリュウが人影の全貌を捉えた瞬間、彼は目をそれ以上ないくらいに丸くしていた。
「あっ……」
 自然と言葉が零れる。
 そこには、女性が立っていた。
 丁度スイと同じか、もう少し上か……。20歳くらいの、優しげな顔をした娘だ。
 魔道師が着るような、緋色のマントで体をすっぽりと覆って。
 その姿に、クリュウは一度、見覚えがあった。
 確か、ピュラと出会う前、まだスイと二人で旅をしていたときのことだ。

 ――だれだ
 ――きゃっ

 夜の森。近くを通る気配……。
 ランプに照らされた、影。

 ――た……、旅人さん……ですか?
 ――そうだ
 ――よかった……。連れとはぐれてしまって迷っていたんです。あの……町まで連れて行ってくださいませんか?

 そうやって、ほんの数時間を共に過ごした――。
「……あっ、あのときの!」
 叫ぶと共に、腹筋が裂けそうになる。しかし、それ以上に驚きが彼の顔から色をなくしていた。
 彼女は、その声にふんわりと頷いて肯定する。紛れも無い、あのとき道に迷っていた旅人だ。
 艶のある琥珀色の長い髪。白い肌に、――あのときは暗がりだったからわからなかった萌葱の瞳――、緋色のマント。どれも全く変わりない。
 固まるクリュウに向けて彼女は、たおやかに微笑んでみせた。
 その唇から零れるのは、とても優しく心地良い、彼女の言葉――。
「――久しぶりね、妖精君。……あの青髪の人は、元気にしてる?」


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