-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

118.夢、うつつ



 何の音だろう。
 一体、何の音が心を叩いているのだろう。
 とても冷たい場所にいる。
 鋭利な刃で身を切り裂かれるような……、そんな凍える場所だ。
 体中が欠片もなくなるほどに砕け散ったような。
 それでいて、赤く燃えたぎる溶岩の中に放り込まれたような。
 ……あるいは、呼吸もできない氷の中に閉じ込められたような――。
 そうだ、痛みだ。
 これは……痛み、だ。
 逃げようとしても叶わない。
 身を振り絞るようにして叫んでも、想いの限りに泣き喚いても、だれも気付いてはくれない。
 宇宙の外れにぽつん、とひとり、取り残された孤独感。
 ――だれか。
 そう紡ごうとして、口をつぐむ。
 ここからは誰にも届かないのだから、どれだけ呼んでも仕方ないのだ。
 ――寒い。
 膝を抱きかかえようとしても、それをする腕さえない。
 さらけだされた心をありのまま、数多の刃の前にさらしているのだ。
 恐怖に凍りついた感情は動きもせず。
 肉体のないその心には容赦なく刃が突き刺さり――。
 胸をかきむしる、……そうすることすら叶わない。
 ――だれ、か……っ!
 例え届かないとしても、絶叫せずにはいられなかった。
 いつまでも終わらぬ悪夢があったとすれば、まさにこのことを指すのだろう。
 心が四散する。もう分からなくなるほどに砕け散ったはずなのに、苦しみは終わることがない。
 業火にその隅々まで焼き尽くされ、絶対零度の奥底に押しやられて――。
 ――いやだ……っ!
 その刹那、ぐんっと体が持ち上がった。
 自分の体から抜け出してしまいたいほど、指の先まで激痛がしていたが……。
 もう、どこからどこまでが自分なのかもわからなかった。
 なにを考えることもできない。ただ、その痛みから抜け出したくて――。
 ぼんやりとしている。
 一体、どのくらいの時が経ったのだろうか。
 いつから? どこから?
 そうだ、どこにいた? なにをしていた?
 ……だれ、だろう。
「それにしてもねえ……、これ以上酷なこともあったもんじゃないと思いますけれど」
「……でも、上の方が決めたこと。仕方ないわ」
 とても……痛い。体が、痛い。心も、痛い。
 そこにいるのは、誰だろう。
「ゆっくりと休んでくださいよ。元々あまり強いお体じゃないんだから」
「ありがとう、スゥリー。まだ会ったばかりなのに、色々良くしてくれて」
「何を言ってるんですか。あなたみたいな細いお方、放っておけるわけがありません」
 おと。
 聞こえている。
 でも……なにを言っているのか、わからない。
「さ、それじゃあ私はもう行きますね。なにかあったらすぐに呼んでください」
「ええ……」
 もう、離れてしまいたい。
 どこか遠くへ行ってしまいたい。
 こんな痛みを受けるのなら、こんな苦しみを受けるのなら――。
 どのくらい経ったろう? いつから? どこから?
 なにかをしなければならなかったはずなのに……。
「……ごめんね、このくらいしかできないけれど」
 ささやくのは……だれだろう。
 ふんわりと優しい、白い指がそっと触れる。
 何故だろう、そこから温もりが滲んで、どこかが満たされていくような――。
 ――だれ?
「……こうしたら君をもっと苦しめることになるかな」
 かすかに言葉に涙が混じって。
 だれかがそばにいる。
 灯火に揺れる琥珀のきらめき、萌葱に揺れているのは……宝石?
 歌を紡ぐように囁きを零すのは、桃色の唇。
「でも、わたしには、このくらいしかできないから……」
 ――ああ、この感じ。
 一度、知っている。
 こんなことが、昔にもあったような。
 同じような……どこかで。
 どこだったろうか、どこだったろうか――。
「ごめんね」
 きいたことのある響き。
 もう、なにもかもが痛くて……、なにもかもがわからない。
「ごめんね」
 だけれど、優しい色だ。
 しかし、どこか哀しい色だ。
 なにが、どうしたんだろうか――。
「もうすこしのあいだ、ここは安全だから」
 意識が……途切れる。
 また、どこかへと。
「だから、もうすこしお休み」
 暗いその奥へと引きずりこまれる中に、ふたたび煌き。
 炎のいろ、琥珀、銀、揺れる萌葱に深い哀しみと。
「おやすみ……」
 その音に後押しされるように、また、意識が沈んでいく―――。


 ***


 ……少し、時間を戻すことになる。
 アレキサンドライトの惨事の、数時間後――。
「いい加減寝かせろっつーの」
 フェイズはぼやきながら、赤紫の髪をかきあげた。
 暇な者は総出で怪我人の看護にあたっているのだが、いかんせん知識に長ける者が少ない。
 回復魔法が使える人間だって、人間族の中では500人に一人の素質を持っている者に限られ、――このメンバーの中には1人しかいない。もう一人、回復魔法を使えると聞いた妖精は現在、行方不明と聞いている。
 そうして今回のメンバーの中でも数少ない『医者』の知識を持つフェイズは、息をつく暇もなくあちらこちらを走りっぱなしだった。
 大体、こんな場所で医療機器や薬剤が揃っているはずもない。薄暗い地下の中、ランプに照らされて行う作業にも限りがある。
 血や汗など様々なものが混じった嫌な臭いに、完全に嗅覚が死んでいる。うめき声やわめく声で、耳もおかしくなりそうだ。
「フェイズ、お前ちょっと顔拭けよ」
「ん?」
 ふと顔をあげると、仲間の一人が疲労を強く残した顔をこちらに向けているのが目に入る。
「お前、血のついた手で汗とかぬぐったろ。せっかくの顔がオンボロ」
 フェイズは僅かに目を瞬かせて指を頬にやる。確かに先ほどから多忙を極めていたから、きっと顔が彼の言うとおり血まみれになっているのだろう。
「へーへー、美形が台無しってことか」
 手早く近くにあった布で顔を拭うと、すぐにまた治療にとりかかる。
 既に治療室は足の踏み場もほとんどない惨状だった。床に倒れたまま必死で痛みと戦っている男の腕の傷をぬぐってやり、消毒してから丁寧に包帯をまいていく。
「おーい、こりゃちょっとこれから右腕に支障がでるぞ。軽い痺れ程度だろうがな、剣は握れないかもしれない」
 そんなことを言うのも医者としての務めだ。すると伏したまま男は悔しそうに顔を歪める。
「畜生……! あんな魔法なんかあってたまるか……っ」
 恐らくあの魔法にあってこの傷をうけたのだろう。右腕は無残な状態だし、他にも目を覆うほどの傷を負っている。
「今は自分のことだけ考えな、絶対に右腕は動かすんじゃねーぞ」
 それだけ言うと、包帯や消毒薬などの一式を持って立ち上がり、隣の患者の元へと向かった。ひとりひとりに時間をそこまで割いていられないのだ。
 まだ十分に処置できていない人はかなりいる。これはそれこそ徹夜の作業だろう。
「あー、この見目も麗しい顔にクマでもできたら、どーしてくれるんだ」
 そんなことを言いつつも、一番働いているのがフェイズである。仲間からの処置法に対する質問を受け、足りなくなった薬を大急ぎで調合し、一番酷い傷の患者を手当てし――。一番愚痴が多いというのに、まるでその手は休む様子がない。
 器官が傷ついてヒューヒューと鳴る音、痛みに耐え切れずに暴れだす者、ひたすら貴族に対する憎悪を漏らす者から、泣き言を零しはじまる者まで――、その部屋一体に重苦しい空気が横たわっている。
「――換気すっかな」
 フェイズはぼそりと呟いて、一段落ついたところで入り口に向かった。この部屋のむせ返るような臭いをあまり外に開け放つのは良くないが、少しは換気しないと中の患者にも良くない。
 ただ、ふと――その足は一つの影を見つけて止まっていた。
 紫色の瞳が僅かに引き絞られて、その姿を捉える。
 丁度、簡単な医薬品が置いてある場所だ。
 ここに寝かされているのは重度の怪我人だけで、軽症の者は各自治療をすることになっている。だから、ここまで包帯などを取りに来る者が先ほどからぱらぱらと見えていたのだが……。
 フェイズの口元に小さな笑みが走り……、彼はそちらに足を向けていた。

 ――その光景にピュラはほんの少し瞳の色を揺らめかせただけだ。
 人のうめき声や血の臭い、……まるでスラムと同じような空気だった。
 だからさして気にも留めず、包帯がまとめておいてある場所の近くの椅子に腰掛けて、包帯の一つを手にとる。
 本来なら自分で持っていた包帯を使うところなのだが、先ほどのセルピの傷に使ってしまって、なくなってしまったのだ。
 丁度、様々な機材が置いてあるからか、その一帯だけは患者が寝かせてあることもなく、きちんとしたスペースが確保されている。
 しかしそこにいるだけで看護をしている者たちの邪魔になることは確かだった。だからすぐに済ませてしまおうと、右肩の袖をたくしあげる。
 あの悪魔の魔法の瞬間、セルピと共に吹っ飛ばされたときの傷だった。
 叩きつけられて、風圧のまま引き裂いて、よくよく見ればかなりの広範囲に傷口が広がっている。
 先ほど丹念に洗ってきたから、後は包帯を巻いておくだけだった。
 広範囲とはいえ傷は浅い。この程度の傷で貴重な消毒薬を使うのは阻まれた。
 ただ右肩に包帯を巻く、というのも結構難しい仕事である。慣れてはいるが、自分自身に巻くのは少々苦戦する。
 包帯の片方を口でくわえながら、左手で肩にまきつけようとして――。
「や、無事だったかー?」
「きゃっ!?」
 突然背後からかかった声に、ピュラは肩を飛び上がらせて包帯を取り落とした。
 振り向けばそこにフェイズの笑顔。
「な、な、な」
 きっとここが屋外か何かだったら猛烈な勢いで怒声をまき散らしているところだろう、――怪我人が寝ているだけあって彼女は無言で怒りの形相を露にしてみせる。
 しかしまるで彼女の激昂など見えぬように、フェイズは彼女の肩に目を落とす。
「あっはっは、そんなに怒るくらい元気なら心配ないなー。どれ、見せてみろ」
 ふっと紫色が一層深くなる。
 そうしてその瞳が小さく瞬いて、――『医者』としての眼光をもってして彼女の方に向けられた。
「……消毒、したか?」
「こんな程度で消毒なんてしてられないわよ」
 するとフェイズは驚いたように肩をすくめてみせる。
「いかんなー。肩っつーところはな、何気によく衝撃受けるところなんだ。すぐに治さねーと後々響くぞ?」
「あんたの知ったことじゃないでしょっ」
 牙を剥くようにピュラは言い放って、包帯を拾いなおした。
 こんな男からは早く逃れて、仮眠室に入りたかったからだ。
 本来ならもう少し早く処置に来れたはずなのだが、怯えるセルピが寝付くまで傍にいてやったら結局こんな時間になってしまったのだ。
 もう夜中もとうに過ぎている。これでは明日が辛いだろうと思うと、……自然と溜め息が零れる。
「ちょっと待ってろよー」
 ピュラが再び包帯をまこうとしたのと、フェイズがポケットから軟膏を取り出したのとは、丁度同じ瞬間のことだったろう。
「………」
「………」
 双方にらみ合ったまま――もっともフェイズは笑顔のままだったが――、数秒の時を過ごす。
 先に行動を起こしたのは、フェイズの方だった。
 キャップを手早く外して指で軟膏をすくうと、ピュラの肩に触れようとする。
「ちょ、ちょっと!」
「ん、どーした?」
「どーしたじゃないわよっ、誰がそんなことしろなんて頼んだのよっ」
 声のボリュームは控えつつも、殺気だけは惜しみなく発しながらピュラが噛み付くように睨む。
「うむ? このフェイズさま特製の外傷用軟膏薬を使ってやろうと思ったんだが」
「そんな怪しげなもの誰が使うかってのよっ」
 傷を隠すようにしながらピュラはそっぽを向いた。
 しかしそれで諦めてくれるフェイズではない。変わらぬ顔のまま腕を掴んでくる。
「そーか? でもまあついでだし、指ですくっちまったし、ここはひとつ」
「あのねえ」
「早くお前の傷の手当てして、元の仕事に戻らないとやばいのだがな? 俺の治療を待っている人が沢山いるのさ」
「……」
 まさに射殺さんばかりの目線とは、このことを言うのだろう。ぎりぎりと歯軋りしながら見上げてくるピュラの瞳に、フェイズの満面の笑みが映る。
「ま、騙されたと思ってやってみろって」
 そう言うなり、フェイズはピュラの右腕を軽く持ち上げて肩のところに指で触れた。
 その軟膏を塗られるどこか冷たい感触に、ピュラの肩がぴくりと震える。
 しかしもうこうなっては仕方ないと、ピュラは黙ってじっとしていた。あとは一刻でも早くそれが終わるのを祈るばかりだ。
 手際よく薬が塗られたかと思えば、次には包帯が魔法のような鮮やかさで巻かれていた。やはりそこは医者の息子というべきか、驚くほどに手馴れている。
 しかし……そのときも、ピュラは感じていた。
 少し前のときと同じ、不可解なもの。自分の知らない、なにか、なにか――。
 肌に触れる指。手のぬくもり。
 紫色の……髪、瞳、ずっと深い深い――その奥に。
(―――なに……?)
 ピュラはふいに心の表面を何かがなぞったような気がして、眉を潜めた。
 さらりとした、肌の感触。思っていたよりもずっと大きな手、――心をまた、何かがなぞる。
 ざわざわと耳元がうるさい気がする。彼がまた何かを言っているのだろうか? だけれど、何故か……聞き取れない。
 心の奥底――ずっと触れてはいけないと思っていたものが、ざわめくような。
 それでいて、突然現実と夢がまざってしまったような。
 ささいな歪みが、至るところに広がって、ついには心全体を揺さぶる。
 それは、眩暈にも似た衝撃だった。
 目の前が白くなる。否、黒くなっているのか?
 わからない。だけれど、わかるのはただひとつ。
 それが――とてもとても、危険であること――!
「――はなしてっ」
 気がついたときには、腕をもぎとるようにして取り返していた。
 はっとして目を落とすと、その腕を抱くようにしていることに気付く。
 そんな自分の行動に自分自身で驚いてしまったくらいだ。
 フェイズもまた、瞳を瞬かせて首を傾げていた。
 一瞬、言葉を失って瞳を揺らめかせる。
 自分らしくない。一体、自分はどうしてしまったのだろうか。……もしかしたらほんの少し疲れているのかもしれなかった。
「……あとは自分でできるわ」
 ピュラは短く切って、残りは結ぶだけとなった包帯を手早く始末すると、立ち上がってフェイズに背を向けた。
「――他に痛むところはないか?」
「ないわよ」
 まるで言葉に感情がこもらない。
 背を向けてしまったから、彼がどんな顔をしているのかもわからない。
 でも、それでいい筈だった。
 彼がどうしようと、何を考えようと、自分の知るところではないのだ。
 だから、ピュラは何かを断ち切るようにして歩き出した。
 しかし妙に手当てしてもらった包帯が温かくて――、心が、震えていた気がした。


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