-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 十.この世を動かすもの

117.焼け野原



 がくり、とまるで糸の切れた人形のようにその細身が傾いだ。
「イラルア様っ」
 とっさに横にいた女性が彼女の体を支える。それと共にぱさっと豊かな琥珀色の髪が舞った。
 その合間から覗く彼女の顔は蒼白もいいところだ。じっとりと汗に濡れた額に髪が何本か張り付いているのが見えた。
 折れそうなまでに細い手が口元にあてがわれて、彼女は激しく咳き込む。そこに赤いものが混じっているのに、支えている女性は思わず顔をしかめた。
「すぐにベッドの用意をお願いします、それから温かい飲み物を」
 目の前で起きた出来事に呆然とする兵士たちに、女性はてきぱきと指示をだす。
 そのまま苦しげに体を折っている彼女の頼りない小さな肩に緋色のマントをかぶせ、心配そうな顔のまま耳元で囁いた。
「さあイラルア様、戻りましょう。ここは風が冷たいです、体が冷えてしまわないうちに」
「……ありがとう、スゥリー」
 ほんの少し触れれば途絶えてしまいそうな、硝子にも似た弱々しい声。彼女は血に濡れた唇で薄く笑って、それでも一度目の前の状況に目を向けた。まるで、それが自分にかせられた使命なのだというように――。

 目下には、焼け野原。

 何もない、そこだけごっそりと何処かへ持っていかれたような、虚無の地帯。
「……――」
「参りましょう」
 そんな自分の犯したことを自身の心に刻み付けている彼女を見かねたのだろう。彼女の従者……スゥリーがやんわりと先を促す。
「……ええ」
 そんな従者の気遣いに、彼女はたおやかに微笑んで返すと、よろよろとおぼつかない足取りで歩き出した。
 今にも崩れ去ってしまいそうなその体をスゥリーが支えて誘導する。
 そうやって連れ添って歩いていく二人を、兵士たちはまだ呆然と眺めるだけだった。
 こんな細くもろい女が、今目の前で起きたことを全て一人でやってのけたなど――、その目で見ていなければ一体誰が信じただろうか。
「―――ぁ」
 しかし、彼女の足は突然止まっていた。
 その瞳が、クレーターの周りに飛び散ったがれきの中に光るものをとらえていたのだ。
「スゥリー、待って」
 とっさに振り向いて、その光を見失わないようにする。
「どうしました?」
 怪訝そうな顔をするスゥリーに彼女は小さく頭を下げると、身を離した。そのまま一歩一歩を噛み締めるようにして歩き出す。
 つんざくような吐き気と凍えるような寒気を同時に感じていたが……、それでも歩いて。
 まるで懺悔でもするかのように、俯いたまま――。
 被害はこちらにも少々及んでいたようだった。
 爆発による爆風でテントがいくつか飛ばされているし、かなり近いところまでがれきが飛んできている。
 漆喰や煉瓦、樹の残骸やもう何だったか原型もわからぬもの――。
 ――彼女はそんな大きながれきの一つの前で、膝をついた。
 真っ白の腕が伸びて、……影で仄かに煌いていたものに触れる。
「……」
 細い指でそれを撫でるようにすると、そっと拾い上げた。
「イラルア様……?」
 後ろの方でスゥリーの訝しげな声が聞こえる。
 彼女は小さく頷いて、……手の中のものを見つめた。じっと、背けることを知らない真っ直ぐな瞳を……。
 そのまま、空を仰ぐ。
 舞い上がった灰が一杯に充満した、陽の届かぬ空だった。
 まさにそれは、けぶり、にごる黄昏の世界――。
 彼女の頬に煌くものが伝った。
 つぅっとそれは零れ落ちて、宙に散る。
 ……それは、彼女の涙だった。

 Bitter Orange, in the Blaze.
 十.この世を動かすもの


 ***


 氷に閉ざされた北の果て、コープフィード大陸。
 聖都リザンドが位置する、フローリエム大陸。
 南部に広大な砂漠を有する、キヨツィナ大陸。
 深い森に覆われ太古のまま存在する、イザナンフィ大陸。
 そして、今いるディスリエ大陸。

 今、このミラースで地図に書かれる大陸はこの5つだ。
 しかし、そんな風に地図が書かれるようになったのは――300年前からのことである。
 そう、今はもうない、6つめの大陸。それは確かに300年前まで、存在していたのだ。
 それは名を、マディン大陸と呼ばれた。
 丁度ディスリエ大陸の西に位置し、面積は現在最大と呼ばれるディスリエ大陸の約二倍。当時は世界の中心として、あらゆる軍備がそこに集結し、あらゆる争いがそこで起きていたという。
 そこから見れば他の大陸など、遠い辺境でしかなかった。
 ――しかし、今。マディン大陸は幻の大陸と呼ばれている。
 きっともしもマディン大陸が現在も存在していたならば、ウッドカーツ家が世界を制圧するということはなかったろう。ウッドカーツ家も、元はといえば辺境の小さな貴族だったのだ。
 そしてそんな強大な大陸は――ひとりの魔道師によって、消されてしまった。
 今から300年前。まだこの世界が戦乱の中にあった、そのときのことだ。
 ひとりの魔道師が、とある宝石と出会ったと、当時の文献は語る。
 その宝石は『力ある石』。内部に強烈な魔力を秘め、契約者を待っていた玉石だった。
 そんな宝石を長年の研究と旅によって見つけた魔道師は、迷わずにそれと契約を交わした。
 宝石は、アレキサンドライト。光によって色の変わる、伝説上の宝石だった。
 それもそのはず、この世を作り出したと聖典に記される、眠れる聖樹――、アレキサンドライトは、その聖樹に抱かれているとされる宝石だったのだ。
 つまり、アレキサンドライトと契約を交わせられれば、眠れる聖樹の力を得たも同然といえた。
 しかし、その魔道師が玉石と契約を交わした、その瞬間。
 玉石は突如として魔道師の心を乗っ取り、暴走を始めた。
 この世を作り出した、神さえも恐れる聖樹の力である。
 留まることを知らないエネルギーは、天を裂き、地を割り、ついにはマディン大陸の中央から大爆発を起こした。

 ―――マディン大陸は、聖樹の力によって吹き飛んだのである。

 それによってマディン大陸は壊滅。ディスリエ大陸西部も、ごっそりとその形をえぐられたらしい。
 その後、かつてマディン大陸のあった場所は爆発によって巻き上がった灰に染まり、陽光の差さない死の大地と化したという。
 しかしそれは誰も確かめることができない。……なぜなら、その大陸の周りの海が300年続いた今ですら、ひどい荒れようを見せているからだ。
 どんな船も、その大陸に近寄ることは叶わなくなり、……そうして世界最大の大陸は、生命の絶滅地域として消滅していった。
 ディスリエの西、そしてキヨツィナの東……。その合間に眠る、滅びの地。
 そして、そこに住む何万という人々を滅ぼした魔道師は―――。
 実際、どうなったのか、どこにいったのか、知る者はいなかった。
 ただ有力な説だったのが、どうにかして再び自己を取り戻し、――そうして自らの犯したことを嘆いて、再びその力が外に漏れないようにどこか山奥にひっそりと隠れるようになったというものだ。
 そうしてその力は親から子に、子から孫に、血によって受け継がれ、彼らはアレクサンドリア家と呼ばれるようになった。
 聖樹に抱かれし玉石アレキサンドライトの魔法を使う一族、アレクサンドリア家。
 今はもう、存在しているのかすら定かではない――。


「……本当にそのアレキサンドライトだっていうのかい……!?」
 悪夢の1日が終わり、また陽が明けて。
 普段から色白の顔を更に蒼白にしたリエナが、戦慄の表情を隠すことなく聞き返していた。
「――あれだけのエネルギーを魔法で生み出すなんざ、そのくらいしかないぜ」
 ヘイズルも普段の笑みを消して、不機嫌そうに椅子にどっかりと腰掛けている。
「それで、損害は」
 問われるとリエナは、ぎゅっと唇を噛み締めてから……淡々と報告書を読み上げた。
「最悪だよ。西地区一体が完全に『消えた』。他も半分以上ががれきの山、負傷者約300名、戦死者89名。まともに動けるのはもうほんのわずかだね」
 自分で言っていて腹がたってきたのか、リエナは短く切った髪に手を突っ込む。
「―――悪夢でも見ているみたいだ」
「奇遇だな、俺も同じことを考えていたぞ」
 リエナに渡された詳しい報告書に目を通しながらヘイズルは呟く。
 まさかこんなことが起きるとは、一体誰が想像できただろうか。――突然魔法でこの町ごと吹っ飛ばされそうになるなど……。
「なによりも心配なのが志気だね。これじゃあ一気に落ちるのが目にみえてる」
「それなら策はある」
「え?」
 怪訝そうな顔をしたリエナが聞き返した、そのときだった。
 かちゃり、と扉が開いて外から人影が入ってくる。
 ―――スイだった。
「よぉ、運が良かったな」
 ヘイズルはちらりと一瞥だけをくれて、再び書類に目を落とした。
 しかしスイが生きていたのは不幸中の幸いだ。あのとき装甲車の暴走により彼があの中に乗っていなかったら、爆風が北地区まで届き一緒に吹き飛んでいたかもしれない。
 装甲車はあくまで敵の陽動用だったから、フェイズがスイを勝手に乗せたことは本来咎めるべきことだったが――、それが返って幸いした。
「……あれは一体何だったんだ」
「この世を作り出した力さ」
 ヘイズルは短く切って、スイに視線を向けようともしない。
 しかしそこでリエナがふと訝しげな表情をつくった。
「でも、何故だろうね? それだけの力があるのならこの町を全てなぎ払えるのに、わざわざ西地区だけに留めるなんて」
「―――クリュウが」
 ぴくり、とそこではじめてヘイズルの文字を追う手が止まる。淡々と言葉を紡ぐスイに、彼は栗色の瞳を向けて――。
「クリュウが防いだんだと思う」
「あの妖精か?」
 聞き返すと、スイは目を伏せる。彼の肩にいつもいたはずの小さな妖精。しかし、今はまるでぽっかりと穴が空いているように、彼の肩口にとまるものはない。
「――何かが来る、と言って……出ていった」
「そうか、それでひとまず説明がつくな」
 あくまで事務的な口調でヘイズルは返した。まるでそこに相手の気持ちを汲むような思いは欠片もない。
 黒に近付く栗色の瞳が、その奥で精密な機械のごとく事柄を分析し、ひとつの結論を導き出す。
「アレキサンドライトはそれこそ『神の力』だ。奴らも、その気になればこの世界ごと滅ぼせるだけの力を持ってるってことだな」
 スイは誰にも気付かれないところで拳を握る力を強めながら、その声を聞いていた。
 エスペシア家がナチャルアを狙ったのも、……つまりはこのアレキサンドライトに匹敵する力を手に入れたかったからなのだろう。
 この世の覇者、ウッドカーツ家は……覇王が持つにふさわしい剣を見つけてしまったのだ。
「だが、害虫を駆除するのに家ごと壊す馬鹿はいない。力を制限して、この町を跡形もなく消す程度の威力でそれを放った」
 くるくると手の中でペンをもてあそび、言葉を続けながらもヘイズルは書類に文字を書き込んでいく。
「それをあの妖精が防ごうとして、ぎりぎりであの規模に抑えられた――」
 ふっと口元を歪めて、男は笑った。
「つまり、次はないってことだな」
 あまりにも軽薄な口調が、逆に心を刺す。
 スイは黙って俯いた。クリュウは――、あの後戻ってくる気配がない。もし次、あの魔法を使われれば、この町は今度こそ跡形もなく消し飛ぶだろう。
 そんなスイの佇まいに、さすがのリエナも僅かに表情を曇らせた。彼女も知っているのだ、普段から当たり前にいたものが突然消え去ったときの喪失感を――。
「――テスタの魔法じゃ対抗できないのかい?」
 それでもどうにかして希望を見つけようと探し出したリエナの発言は、次の一言で無下に斬り捨てられる。
「確かに原理は同じだ。だが、そこらの財宝と神宝じゃ差は目に見えている」
「それじゃあ……」
 どうすれば、と続けようとしたリエナの目の前に、有無を言わさぬ鮮やかさで書類が突きつけられた。
 先ほど彼女が提出した損害報告書である。その白紙部分の至るところに何か文章が打ち込まれている。
「ここに書いてあるものを至急用意しろ。テスタ・アルヴを大至急ここに。それから、――そうだな、後で時間を知らせるから、その時間に怪我人を含めた全員を広間に集めろ」
「―――はっ?」
 面食らった顔でリエナは不思議そうに瞳を揺らす。この男の辞書に動揺という文字はないのだろうか、……いや、それよりも全員を広間に集めるというのは?
 ヘイズルはそれ以降、思案にふけっているように頬杖をついたまま沈黙を守った。リエナがいくつか言葉をかけたが、まるで反応を見せない。
 ――はあ、と軽く溜め息をついてリエナは折れた。仕方なく書類を片手に部屋をでる。
 スイもまた……、もうその場に何を見つけることも出来なくなり、部屋を出て行った。


 ***


「いたい〜〜〜!!」
「うるさいわねっ、騒ぐんじゃないわよっ!」
「にゃ〜〜〜!!」
 とある通路に絶叫がとどろく。その元凶は、通路に設けられたベンチで怪我の治療に悶えるセルピと、それを取り押さえるピュラの二人だ。
 セルピの腕の怪我は思いの他深かった。クリュウの姿が見あたらなかったから、仕方なく自分たちでどうにかすることにしたのだが――。
「しみるよ〜!」
「じゃあそこから化膿して腕が腐ってもげてもいいっていうの!?」
「それもいや〜〜!」
「だったら静かにしなさいっ!」
 袖をまくった白い肌に痛々しく残る矢の痕に、ピュラは手馴れた様子で消毒薬を塗りこんでいく。
 そうして泥を綺麗にぬぐって、細い腕に包帯をきつめにまいてやった。
「いたいっ」
 最後に容赦なくぎゅっと包帯を縛り上げたピュラに、またセルピの悲鳴があがる。
「ほら、今日はこれで終わり! これから毎日包帯変えるからね、覚悟しなさいよ」
「うう〜〜〜」
 大きな目に涙を浮かべてセルピは傷の部分を抱くようにした。
「あとで服だけだしときなさいよ、切れた部分縫っといてあげるから」
「うん……」
 ふぅっとピュラは小さく溜め息をつく。
 先ほど通りがかった怪我人の治療部屋は――、惨絶もいいところだった。
 なにしろあれだけの攻撃をくらったのだ。被害はあまりに甚大すぎる。
 だから軽い怪我人などあの部屋に入れるわけもなく、こうやって各々の処置に任されることになったのだが……。
 セルピもその光景が目に焼きついて離れないらしい。その顔は薄暗い地下でもわかるくらいに青ざめている。
「……ね、ピュラ」
「うん?」
 セルピが見上げた先には、いつもの橙色。
「なんだったんだろう……あれは」
「さーね、あんなの見たこともないし。わからないわ」
 ふとそこに違和感を感じて、セルピは僅かに首を傾げた。
 何故だろうか、ピュラの反応に感じるこの違和感は。いつもと全く変わりないというのに――。
 そうしてそれが、『いつもと変わりなさすぎる』からなのだとセルピは数秒の逡巡の後に悟った。
 自分でさえ、あんな力を見せられて……、震えが止まらないというのに。
 ――彼女は全く変わったそぶりも見せない、いつものまま……。
「ピュラは、怖くないの?」
「え?」
 いつだったか、彼女の師に言われたことを思い出す。
 この赤毛の娘は、一つの感情が欠落してしまっている。
 だから彼女はいつだって、目の前を見据えて逃げることもしない――。
「別に」
 まるでいつもと変わりない答えに、セルピは胸がうずくのを感じた。
「そりゃびっくりはしたけど、起こったことは仕方ないじゃない」
 ぐっと腕を伸ばして、ピュラは薄く笑う。
「ただこれから面倒なことになりそうだけどね、全くどうなるのかしら」
「うん……」
 セルピは言葉を濁して俯いた。
 先ほどの惨事に衝撃を受けなかったのはピュラぐらいなものだろう。
 一気に志気が落ちているのが手にとるようにわかる。このままいけば、こちらの敗北が確実となる――。
「あら、スイ」
 突然横からあがった声に、セルピは顔をあげた。
 すると通路を歩いてくるスイの姿が目に入る。
「……無事だったか?」
「ええ」
 スイの方も傷は少ないようだった。あの中でほぼ無傷でいられるなど、ほぼ奇跡に近かったろう。
 しかし……、ふとピュラが違和感に気付いて尋ねた。
「あら、そういえば」
「クリュウを見なかったか?」
 言葉が終わる前に、スイの一言が被さる。
 ――そう、いつも彼の肩口にいたはずの妖精の姿がどこにも見当たらないのだ。
「見てないけど、――何処に行ったの?」
 怪訝そうな顔になるピュラとセルピに、スイはあのときの状況を伝えた。
 そうして――そんなクリュウの行動に、二人とも目を丸くする。
「……それじゃあ、クリュウは」
「………」
 ピュラが呟いたが、スイは答えない。
 セルピも自らの腕を抱くようにして、不安げに瞳を揺らめかせていた。
「で、でも……、まだ決まったわけじゃないよね、……だいじょうぶだよね……?」
 かろうじて震える声で呟くが、かえってそれが心を握りつぶすように痛々しく思える――。
 暫く、誰ひとりとして喋る者はいなかった。


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