-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 九.戦慄の走る時

116.暗転



 山の奥深く、霧に守られ静かに横たわる古代都市ナチャルア。
 ――その守護者ナナクルは、はっとしたように顔をあげて杖を握り締めた。
 しゃらん、と涼やかな音が杖の飾りから奏でられるが……、彼女の顔は険しいままだ。
「……風が―――止んだ?」
 呟くと共に、足の裏から寒気がこみあげてきて、思わずナナクルは駆け出していた。
「チャカル様!」
 大きな鹿のような姿をしたチャカルの元へ駆け寄って、彼女はすがるように体を寄せる。
 一体これは何だろうか。世界が恐怖に震えている。その恐怖がこちらの肌に伝わってくるようだ。
「チャカル様、これは一体……!」
 自分の顔が蒼白になっているのを感じながら、ナナクルは思わずチャカルの体に顔を押し付ける。
 鼓膜に叩きつける、押し寄せる、嘆きの声。……悲しい、苦しい、と嘆く声が、世界中から合唱となって鳴り響いていた。
 風が止み、海が止まる。土が黙り、火が消える。
『ナナクル、顔をあげなさい』
 チャカルは静かな声で、しかし緊張を交えながら言っていた。
 恐る恐るナナクルは顔をあげる。そうして、寒気のくる元凶――北の方を、見つめた。
 チャカルも同じようにして北を見つめる。
 風のないナチャルアは、時が止まってしまったかのような静寂に落ちていた。
 ナナクルが持っていた杖をぎゅっと掴みながら、肩を震わせる……。
「なにか……、なにか、とても悪いことが」
『ナナクル、この世に悪いことなど存在しませんよ』
 怯える幼い守人に、チャカルは穏やかに語りかけた。
 まるで怖い夢をみた子供を、母がやわらかな言葉で寝つかせるような――。
『悪いということは人間が判断すること。本当に悪いことなど、どこにもありません』
「……それでは、一体」
『―――封じられていた力を、解き放とうとしているのでしょう』
 空に流れていたはずの雲ですら、息を潜めるようにして止まっている。
 鳥の鳴き声も、その姿も、見つけることはできなかった。
『この世は全て因果応報。なにかを使えば、その見返りや代償が必ずやってくる。しかしひとは幾度となくそれを忘れ、また同じことを繰り返す……それが、ひとなのです』
 音が死んだ世界。
 全てが怯えているのだ。
 ―――力、という絶対的な支配に。
 全てが恐れているのだ。
 ―――この世を無に還す、絶対的な力に。
『ナナクル、しっかりと見ておきなさい。ナチャルアの守人として、この大地に起きる出来事を』
「……―――はい」
 今にも折れてしまいそうな足を奮い立たせて、ナナクルは北を睨んだ。


 ***


汝の右手に再生 汝の左手に破壊

汝の右目に慈愛の碧 汝の左目に無慈悲な深紅

原理はここに さあ祈るがいい 汝望むままに

真理はそこに さあひれ伏すがいい 汝想うままに



 弾かれたようにクリュウは目を見開く。
 キィン、と甲高い耳鳴りに襲われて、吐き気を覚える。体中の五感の全てが違和感を訴え、恐怖に震える。
「―――なに?」
 おもしろいくらいに声が震えるのを感じて、クリュウは自らの体を抱くようにする。
 心臓をわし掴みにされたように身の毛がよだち、寒気による不快感がその全てを支配していた。
「―――なに、これ……」
 もう一度クリュウは消え入りそうな声で、誰にともなく尋ねていた。
 がたがたと肩が震えている。空気はこんなにも冷たく重いものだったろうか?
 呼吸すらままならないほどに大気が張り詰めている。足の裏から凍りつくような嫌な予感が、背筋を這い上がる――。
「……クリュウ?」
「とめてっ!!」
 スイが異変に気付いたその瞬間、クリュウはわめくようにして叫んでいた。
「ん? どーした?」
 突然の大声にフェイズも振り向く。
 しかしクリュウの顔色は白を通り越して蒼白なまでになっており――、何かに怯えるその様は、事態が尋常でないことをフェイズにも悟らせたようだ。
 フェイズは一度その場でエンジンを止めた。彼も気付いていたのだ、先ほどから突然敵たちが少なくなり――、今はもうほとんど姿を見せないということに。
 確かにこの装甲車を見れば逃げる者もいるだろうが、それにしても敵がすっかり消えてしまうのはおかしい。
 スイがクリュウのやりたいことに気付いて金属の扉を開けてやると、彼は一直線に外に飛び出した。
 そのまま閃光が走るかのごとく、空へと飛び上がる。
 ――そうして、その顔が凍ったようにこわばるのに、そう時間はかからない――。
「……風が、ない……?」
 気を抜けば自らもどこかに吸い寄せられてしまう気がして、身を震わせる。そうだ、これは……朝から感じていた違和感だ。
 風は消えたのではない。この世にある全ての動き、流れが――どこか一点に集められてしまっているのだ。
「どこ……っ?」
 クリュウは翡翠色の瞳が怯えるのを叱咤して、辺りを見回す。海の方ではない。空――違う、山の方だ。
 ……そうしてその視線がある一点までたどり着いたとき、クリュウの表情は何かに殴られたかのように固まっていた。
「……っぁ」
 そう勝手に喉が呟いた瞬間には、彼は落下するようにして降下している。そのまま装甲車の中に向けて、全身を使うようにして叫んだ。
「逃げてっ!!」
「――っ?」
 突然のクリュウの剣幕に、スイが目を瞬かせる。フェイズも怪訝そうな顔で振り向いていた。しかしクリュウの焦りようはそれこそ尋常ではない。
「みんな……っ」
 小さな妖精は、我を忘れたように言っていた。
「みんな、死んじゃうよ……たくさん、たくさん…っ!」
 握り締めた拳は真っ白になり、それ以上に彼のほとばしる感情が、その目じりに涙すら浮かばせる。
「……どういうこった?」
 この後に及んで冷めた瞳のフェイズが冷静に問う。その目の色はどこかで見た気もしたが、クリュウはそれどころではなかった。
「来る……、なにか、とても大きなものが来るんだ……っ、とにかく全力で逃げて、急いでっ!」
「―――」
 フェイズはクリュウの顔をしばらく見据えた後……、頷いてエンジンを再びかける。敵の行動からして一度下がった方がいいと判断したのだろう。
 クリュウはその間にも再び外に飛び出そうとしていた。
「クリュウ!」
 その後姿をスイが引き止める。
「どこにいくんだ?」
 クリュウは一度だけ振り向いた。
 既に涙すら浮かべた恐怖と怯えの顔で、しかしそれでもスイをしっかりと見つめて……。
「……皆、死んじゃうのはいやだよ」
 耳元の大きな金のリングピアスが小さく揺れる。2年前、初めて会ったときにクリュウからスイに向けられた目は、怯えと嫌悪――、人に支配された世界をたった一人生き抜いた妖精の絶望の表情だった。
 それほどまでに人間に失望していた彼の瞳は、今――。
「――止められるだけ、止めてみる。なるべく海に近い場所まで行って、生き延びて」
「クリュウっ!」
 スイが手を伸ばしたときにはもう遅い。クリュウは小さな笑みをかすめるように残すと、狭い出入り口から外に向かって飛び出していた。
「振り落とされるぞー、入り口をしめないと」
「………」
 すでに発進を始める装甲車の中で、スイは何かを言おうとした。しかし、その喉が空気を震わすことは、ない……。
「今はあの妖精を信じるしかないってやつだな」
 フェイズの一言に押されるようにして、スイは唇を噛み締めながら扉を閉めた。そのまま何かを耐えるように沈黙する。
「よーし、エンジン全開で行くぞー、しっかり掴まっててくれ」
 どぅん、とそれだけで体が圧迫されるような唸り声をあげて、装甲車は元来た道を走り出す。それはぐんぐんとスピードをあげていき、一直線に本拠地を目指す。
「……ほんと、恐ろしいくらいに静かになったなー」
 フェイズの目が窓の外の様子を捉えてついと細くなる。
「これは本格的にやばいってことか」
 彼も感じているのだ。なにか……何かが、おかしいことに。
 誰も気付かぬほどに小さなよどみが、いつしか世界を震わせるほどの巨大なものへと変わってしまったように――。


 ***


汝 神にして我が創造主

汝 主にして我が君主

我 汝の御心のままに

我 汝の調停のままに


 ***


 日当たりの悪い路地。生きているのか死んでいるのかわからない人、ひと……。
 赤い血を見るのには慣れてしまった。むせかえるような酷い臭いすら、当たり前になった。
 生きることだけが、目的だった。昔は何の為にだか生きていた気がする。しかし……全ては凍り付いてしまい、ただ自分は抜け殻のように生きているだけだった。
 ――ピュラはその惨状に、そんな昔の情景を思い出していた。
 頬についた血を手で拭う。幼い頃は吐き気を催したその嫌な臭いも、今の彼女の心をほんの少しでも震わせるものではない。
 何も、感じなかった。たった今、そのしなやかな腕が無慈悲に命を葬ったというのに。
 しかし、それも当たり前だと思う。彼らよりも自分の方が強かった、たったそれだけだ。
 この世界は強くないと生きていけない。それがこの世のシステムだからだ。
 ピュラは男たちの屍に一瞥をくれて、そのまま走り出した。
 しかしその足が妙に急いでいたのは、彼女が何かの違和感を感じていたからだ。先ほどまで至るところで弾けていた爆音が、今は全く聞こえなくなっている。
 戦闘が終わるにはまだ早すぎるだろう。何かがおかしい、一体どうしたというのか――。
 道を曲がりくねってセルピの元へ向かう。
 このような横道での方向感覚には自信があった。幼い頃、スラム街の入り組んだ路地で生き抜いたことがあるから、だ……。
 先ほど男たちからセルピを連れて逃げ出したときも、がむしゃらに走ったわけではなく、きちんと考えて動いていた。
 だからセルピをひとまず安全なところに連れていけたのだ。
「セルピ」
 角を曲がったところでピュラが呼びかけると、塀の影で身を小さくしていたセルピが顔をあげた。
「ピュラ……」
 小さな声が、安心とも不安ともつかぬ音で零れ落ちる。
「もう大丈夫よ。―――でも」
 ピュラはセルピの方に歩いていきながら、表情を険しくさせる。
「……何か、おかしいわ」
「うん……」
 セルピも同じことを感じていたらしい。何かに怯えているのか、肩を抱くようにして震えている。
「なんだろう……空気の流れが、なんか変だよ」
 既に腕の怪我の出血は止まったらしい。――しかし早く消毒して手当てしてやった方がよさそうだった。クリュウが戻ってくれば魔法で治してもらえるだろう。
 今は早く本拠地に戻ることを考えた方がよさそうだった。
「早く戻りましょ、ここから結構近いわ。歩ける?」
「……ん」
 セルピは差し出された手をとって、小さく頷いた。
 ピュラからは血の臭いがしていたし、いくらかその身に返り血を浴びているのが見えるが、そのことには触れないでおく。
 仕方ないと思うしかないのだ、彼らを帰したら危険にさらされるのはこちらなのだから……。
 少女二人は連れ添って、裏路地を歩き出した。


 ***


天界には天使が嘆き 地上では黄昏に人が泣く

制裁の時は今 与えられるべき滅びを



 その瞬間、世界はまさに止まっていた。
 全ての音が消え、静寂に満ちる。
 人々はふいに訪れる不安に顔をしかめ、各々家路を急ぐ。
 旅人は突然風が止んだことに寒気を覚え、身を隠すようにしてその場に佇む。
 太陽が雲に隠れ、海の波間ですら限りなく無音と化す。
 獣たちは恐怖に震え、息を潜めてその時間を過ごした。


その行く先に 精霊の恩恵を 慈悲を


 彼女は歌うように詠唱を並べる。
 ふわっと舞い上がる琥珀色の長い髪。その指が糸を紡ぐような細やかな動きをみせるだけで、大陸一つを揺るがせるほどの力が動く。
 なのに、それだというのに、――その瞳はたおやかだった。
 煌きをまとった彼女は今、世界の中心となっている。
 世界の全てが彼女に怯え、畏怖し、従おうとしている。
 その華奢な右手が持ち上げられると、天が裂けるかのごとく煌きが空を駆け抜けた。
 何かがそこに生まれようとしているのだ。――生まれる? ……違う。
 召喚されているのだ。


天地の合間深く 神と眠れる聖樹よ


 クリュウは町が一望できるところまで飛び上がっていた。
 普段だったら風の強さでそんな高さまで飛び上がるのは困難だったが、今はおかしなことにそんな風も止んでいる。
「……怯えてるんだ」
 クリュウは呟いていた。長い耳をぴんと張って世界の音を聞こうとするが、まるで全ての動くものが恐怖にその身を隠してしまったかのように止まっている。
 彼は小さな瞳でじっと敵中を睨んだ。
 心臓が自分でもわかるほどに強く脈打っている。世界の空気はただひたすらに、重い……。


汝の紅き花をここに咲かせ


 ……ふっとそこに、一風が吹き込んだ。
「―――きた」
 クリュウは小さく切って、空を仰ぐ。
 彼の目下には、守るべきひとがいるのだ。守らなければならない。この小さな体で出来ることは少なくとも――。
 だから、抗ってやろうと思った。ひとりでこうして、空へと飛び上がったのだ。
 そうして……。
「―――うそ」


我かの血を継ぎし者 汝と契約を交わし ここに制裁を下さん


 体中の力が消し飛ぶような戦慄。
 それで彼の味わったものの万分の一でも表せるだろうか。
 ――ちから、だ。
 空一杯に、『世界が集まっていた』。
 極限まで凝縮された、力の塊。
 それは太陽よりも強く輝き、それでいて月よりも冷たい。
 そんな強大なエネルギーの塊が、張り詰めた大気の中に浮かんでいた。
 まるでむき出しの心をそこにそのまま突きつけられたような気がして、クリュウはよろよろと遠ざかった。逃げてはいけない、と頭の隅で思っていても、体がいうことをきかない。
 何億年という時を重ねた時代の全ての情報。世界という力。
 視覚を潰すようにそれは、輝きを噴出しながら大きくなっていく。
 神が光臨するかのごとく、地に裁きを与えるかのごとく――、大地を見下ろす。
「――――ぁっ」
 クリュウの恐怖に歪んだ顔が、一滴の涙を生んだ。
 ぱっとそれは散って、地へと落ちていく。
 生そのものを恐怖させる何かが、そこにあった。それはこの世にある生も死も、全てを消しうるものだからだろうか?
「ぅぁあああ……っ」
 クリュウは半ば錯乱状態で、両手を開いた。そこから無理矢理大気に残る力を引き出して、凝縮させていく。
 こんなものを目の前にして正気でいられる方がおかしかったろう。みるみるその体積を増していく光の塊は、いつこちらを飲み込むかもわからない――!
 普段は出せるはずもない、半端ない力がクリュウの両手から生まれつつあった。彼の頭にあるものといえば、この町を守り通す、たったそれだけだ。
 ただがむしゃらに力を集めていく。彼の周囲に風が集い、煌きの膜がそれを覆う。
 それが単なる気休めにすらならないことも、どこかで肯定しながら――、クリュウはそれでも、逃げることはしなかった。


汝の紅き花弁をここに散らせ


 ひとり、高台の上に立った彼女の瞳がすぅっと細くなる。
 その足元から風が生まれ、吹き出しているかのように彼女を中心として力が天空へと昇華していく。
 あたかもそれは、地に降り立った彼女の穢れを風が優しく清めているようにも見えた。
 そうして、その彼女がそのまま天へと昇っていくようにさえ――。
 しかし、彼女の足が地を離れることはない。
 その手が、わずかに動いた。その細い指に、世界もがひれ伏す。
 それと同調して彼女の頭上、天空に生まれた光の塊が何の妨害も赦さぬ迫力を持ってして動き出した。
 空がぽっかりと空白になったような白に染まる。――違う、その光の強さに色すら失っているのだ。
 彼女の髪の一筋一筋に煌きが宿り、彼女を空から舞い降りた天使のように彩る。
 そうして、彼女の手がゆっくりと振り下ろされる――。


神の御心のままに 今この地を引き裂かん


『――――来る!』
 電流が全身にほとばしったように体がかっと熱くなった。
 引きちぎれるほどまで広げた腕を、目の前であわせて前へと押し出す。
 すると彼を中心として光の膜がぱぁっと花開き、傘のような形状となって町全体を守る形となる。
 その中心にて、小さな妖精は歯を食いしばって近付く光の塊を迎え撃った。
 しかしまだ触れてもいないのにもう目を開けていられない。あまりに強い光が、視界に容赦なく注ぎ込まれる。
 クリュウは限界まで目を細めて更に腕に力を込めた。その全身がぱっと光り輝き、更に強い力が煌きを散らせながら広がっていく。
 一定のスピードを持ってして迫ってくるエネルギーの塊は、無表情に見えた。


精霊の御名において


 ―――――暗転……。
「わぁぁああああああっっ!!!」
 ぱんっと目の前に突然闇が広がったかと思った次の瞬間、クリュウは光の渦の中にいた。
 完成した光の塊は、まるで隕石が衝突するかのような勢いを持って突っ込んできたのだ。
 全身の骨が悲鳴を上げて、きしむ。彼の放った光の膜にその塊が触れると、そこから幾重にも折り重なった光の筋が放出される。
 激しい力のぶつかり合いに、世界中の空気が轟音をあげて震えた。荒ぶる風が容赦なく叩き付け、体を一点に集めようとするかのように何かの重みが四方八方から襲い掛かる――!
 前に突き出したクリュウの腕は、それに耐えるにはあまりに弱かった。
「――ぁあっ…!」
 悲鳴ですら喉の奥で消えてしまう。目など開けられるはずもない。耳ですらその光のはじける音に完全に感覚を壊されている。
 まるで固まりはクリュウごととりこむようにして形を変え、迫ってきた。みるみる内にその膜をすり抜けようとする――。
 四肢が引きちぎれるような激痛を感じる。ほんの少しでも気を抜いたらその瞬間、吹き飛んでしまうほどだ。
 ……否、確実に押されているのはこちらの方だった。
(―――抜かれる………っ!!)
 クリュウは全身における全ての力を振り絞るようにして突き出した手の先に集める。しかし、止められない。わかっていた、最初から止められるはずなどないことなど――!
(……スイ、―――ピュラ、セルピ……っ)
 視界が染まっていく。
 全てを真っ白に染めあげる力の前で、クリュウは想った。
 肌が今にも吹き飛びそうになる中、――何故だか穏やかに彼らのことを想う。
 何もかもが包まれていく。
 人間。人間たち。笑顔、涙、怒り、憎悪、―――笑顔。
 最後に、ほんの少しだけ笑って。
(みんな……)

 その瞬間、クリュウの意識は弾けて、四散するように砕け散っていた。


 ***


「……………っぅ…」
 ぴくり、と指が動く。
 その瞳が、……ゆっくりと覚醒していく。橙色の瞳が、ゆるやかに光を取り戻す。
「……な……、なに、……?」
 体中に激痛を覚えながらも、ピュラは腕の中を確認した。
 そこではセルピが意識を失ったままぐったりと倒れている。しかし――息はあるようだった。ほっと胸を撫で下ろす。
 それにしても一体何が起こったのだろうか。先ほど、二人で走っていたら――突然空が真っ白に染まり、そうして……。
(―――何があったの……?)
 ピュラは肩の辺りに焼け付くような痛みを感じて、そちらに視線を傾ける。
 そこは無残に肌がやぶけて血が滲んでいた。恐らく、先ほどの尋常ではない衝撃にセルピともども吹っ飛ばされて……、地に叩きつけられたときに擦り剥いたのだろう。
 きっと飛ばされたときに意識を手放してしまったのだ。どれくらい意識がなかったのだろうか。
「……セルピ、」
 叩きつけられたからか、ほんの少し動くだけでも悲鳴をあげる体でセルピの肩を揺さぶる。
 すると、セルピもゆっくりと目蓋を開いた。
「……ピュラ……?」
「生きてるみたいよ」
 本人もまだ何が起こったか把握していないらしい。ぼんやりと地に頬をつけたまま、瞳を揺らめかせる。
「……ほんと、一体何が起き―――」
 そうして、腰をさすりながら辺りを見回そうとしたピュラの言葉は―――途中で、途切れていた。
 橙色の瞳がレンズのように引き絞られる。


 そこには、『無』があった。


 否、それは無の空間が広がっているというのが正しいか。
 恐らく、この世界が生まれて間もない頃……、その原始の風景が、そこにはあった。
 ――ほんの数分前には、『町があった』場所に。
 まるでごっそりとそこだけ抜き取られたようにして、そこが消え去っていた。
「………なに……これ」
 横でセルピも同じ光景を捉えたらしい。今いる場所はほとんどの家が崩壊した程度で済んだが――。
 何もかも、跡形もなく消え去ってしまった直径2キロメートルにも及ぶクレーターを。
 風が……戻ってきていた。当たり前のように吹き抜ける、穏やかな風だ。
 しかしそれはただ、髪の隙間をぬって、唇を乾かしてゆくだけ―――。
 なにもない。……そう、なにもない。
 その光景を見ていられなくなったのだろう、セルピがぎゅっとピュラに体を押し付けるようにして顔を埋めてくる。
 ピュラは……そんな幼い少女をそっと抱きしめてやりながら――。
 ――ひとり、目を逸らすことはしなかった。
 その橙色の瞳は普段と全く変わらない。彼女はいつものように、その光景を見渡していた。
 まるで現実感が吹き飛んだ、虚無の光景でさえ――、炎の色に映しこんで。
 穏やかな風に、ちらっと彼女のガーネットピアスが煌いていた。

 -Bitter Orange,in the Blaze-


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