-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 八.橙色の記憶

101.Everlasting-永遠の追憶-



 歌を聞いていた。
 その歌詞は、よく覚えていないが――。
 少女が夕日に向けて歌っていた、旋律。
 この橙色の空気の中で散って、広がった歌声。
 それはいつの間にか心の奥深くまで染み渡って……。
 気がつけば、少女の歌声を探している。
 そうして、それも別に悪くはないかと…そう、思っていた。

 …今まで町といえば、目の前に広がるものであった。
 だが――、今、自分はその中にいるのであって。
 橙にひかる道には、踊るように少女が歩いていた。
 その隣を、自分が歩いている。
 数ヶ月前まではまるで想像もしなかった情景であった。
「んーっ、いい天気ね」
 彼女は他愛もないことを呟く。
 だけれど、それだけで何故だか心が軽くなるような気がするのも、また事実――。
 子供たちが戯れながら横をすり抜けていく。笑い声は空一杯に吸い込まれて、大気を彩った。
 ――だが不意に、腕に小さな衝撃が走る。
「あぅっ」
 そんな小さな声がしたかと思えば、まだ5歳くらいの少女が石畳の上に転ぶところだった。走ってきてぶつかってしまったらしい。
 少女は受身も取れずに思い切り転び、…どうやら膝に血を滲ませてしまったらしい。起き上がると共に突然弾けるように泣き出した。
「………大丈夫か?」
 立ち止まり、膝をついて彼女の傷に目を落とす。大して大きな傷でもないが、…この少女にはきっと泣きたくなるくらいに痛いのだろう。
「あらあら」
 前を歩いていたフレアがそれに気付いて駆け寄ってくる。
 そうして自分と少女を見比べて、…ふぅ、と溜め息をついた。
「あなた、何女の子泣かせてるのよ」
「ぶつかったみたいだ」
「…ったく、本当に困った人よね。…ほら、大丈夫? 一人で立てる?」
 フレアは長いスカートをふわりとなびかせて、泣きじゃくる少女に手を差し伸べた。
「えぐ…っ、えぐ、ごめんな…さぁい……っ」
 幼い少女はしゃくりあげながらも頷いて、フレアの手を取った。
 フレアはそうするとこちらに視線をやって、ぱちりとウィンクしてみせる。
「ほら、スイ。こういうときはね、こうやってやさしーく手を差し伸べてあげるのよ。相手は可愛い『れでぃ』なのよ?」
「そうか」
「……全然分かってないわね」
 自分の態度が気に喰わないのか、彼女はがっくりと肩を落とす。
「ごめんなさいね、このお兄さんちょっと無愛想だけど、根は優しいはずなのよ。だからもう泣かないで、ね?」
「あぅ……」
 フレアに諭された少女は、ゆっくりとこちらを見上げてきた。
 そばかすの浮いた、可愛らしい顔立ちの町娘だ。茶色いおさげにはピンクのリボン、…親の愛情が伺えた。
 ふるっと心が震える。その場にある、あまりもの『町』としての光景に――。
「…傷」
 気がつけば、そう呟いていた。
「…帰ったら洗っておいた方がいい。そのくらいの傷なら、下手に薬をつけるよりもすぐに治る」
「……あんたねえ」
 横でフレアが呆れたように顔に手をやった。
「もうちょっと優しい言葉のひとつでもかけてあげられないのっ!? そんな超無愛想かつ能面で言ったって怖いだけじゃないっ! ねえ?」
 ぽんやりとこちらを見上げたままの少女に向けて、フレアは同意を求める。
 しかし少女は涙を浮かべたままであったものの、ふるふると首を横に振ってみせた。
「ううん、……お兄ちゃん、とっても優しい顔してる」
 舌足らずの、やわらかい声。
 あまりに無垢な微笑みが……ふわっと零れる。
 フレアの瞳が丸くなったのは、言うまでもなかった。
 だがそれもすぐに笑顔に変わり、こちらを腕でつついてくる。
「あら……スイ、良かったわね。優しいお顔ーだってっ」
「…そうか」
「あんたね、そういうときは照れるものなのよっ!」
「…そうか」
「〜〜〜〜っ!」
 一人地団駄を踏んでいるフレアを見て少女は楽しそうに笑った。
「楽しいお姉ちゃん」
 小さな手で涙をぬぐい、えへへと笑う。
 フレアもそんな様子にいらつきも飛んだのか、顔をほころばせて少女の顔を覗き込む。
「ほら、もう夕暮れよ。日が落ちるまでにちゃんとお家に帰らないと、パパやママが心配するわよ?」
「うんっ!」
 少女が大きく頷いた、そのときだった。
「おーい、ナタリアっ! なにやってるんだよ、ぐずぐずしてると置いてくっていったろ!」
 不意に遠くから、仲間たちの声。
 幾人かの子供たちの集団が、そこに見えた。
「う、うんっ! すぐ行くよーっ」
 ナタリアと呼ばれた少女は体を一杯に使ってそれに答える。
 ふと、少女が見た先にいる子供たちの中に、まるで怯えたような顔で自分を見ている姿を見つけていた。
 …もしかしたら、自分の兄のことを知っている子供なのかもしれない。
 何も知らない子供たちにとって、ひたすら剣を振るう者たちは恐怖の対象なのだろう――、そう思うと何故だか少し胸が詰まる思いがした。
 気がつけば、ひらりとその姿がひるがえり、二つのおさげを揺らせながら一気に走っていく少女の姿がもう遠くにあった。
「あらら、あの子あんなに早く走ったらまた転ぶんじゃないかしら」
 はらはらした様子でフレアは遠ざかる後姿を見送る。
 仲間に迎えられ、何か会話をしながら歩いていく幼い影を、自分もぼんやりと見つめていた。
「…いいわね、子供って」
 淡い草色の髪を指で耳にかけて、フレアが小さく囁く。
「…そうだな」
「でも私、あんな風に沢山の子に混じって遊んだことないから…羨ましいのかもしれない」
 少し淋しさを含んだ声に、ふっと心がざわめいた。
「…そうだったのか?」
 そういえば彼女と初めて出会ったのは確か10歳のときで、それから彼女は毎日のように練習を見に来ていたのだから…他に遊ぶべき同年代の友達がいないのかと不思議に思ったものだ。
 フレアはわずかにためらったようだったが、こちらを向いて、言葉を紡いだ。
「私…、実はね。小さい頃、一度お父さんが仕事で失敗しちゃって。ずっと家族中働きづめになっちゃって」
 この町の歴史はまだ浅い。今もまだこの町は成長を続けているのだ。みるみる越してくる人々は増える一方、町の活気も度合いを増してくる。
 そんな中で一度転べば、大きすぎる流れに呑まれるだけなのだ。既にこの町の影には浮浪者がうろつく半分スラム化した箇所があったり、また盗賊も最近増え始めてきていることから、それが伺える。
 ふんわりと陽光をかぶって、少女は小さく笑った。この少女も幼いながらに家計をたてるため、家族と共に戦ってきたのだろう。
「だから友達と遊んでる暇なんかなくて。やっと家が安定したときはもう…時が経ちすぎて、輪の中に入れなかったわ」
 いつだって集団は異質なものを拒絶する。この少女も…異質だったのだ。この世界の暗を知ってしまった、…ひとりでいるしかない存在。
「でもね、誰かと一緒にいたくて」
「…だから来てたのか」
「うん」
 フレアは頷いた。
「…居場所が、欲しかったのかな」
 また、泣き笑いのような顔。
 石畳を並んでふたり、歩く。
 長い坂道を登り、片付けを始める店を横目に、その先まで。
「でも、スイに会えてよかった」
 フレアはこちらを向いて、きらきら笑った。
「私、今―――すごく幸せだから」
 坂の上には展望台がある。
 町の全てを、人々の営みを、その先にある海を、――そして頭上に広がる空を見渡せる、高台だ。
 坂を昇りきるとすぐにフレアは駆け出して石で出来た手すりに掴まり町を見下ろした。
「んーっ」
 腕を一杯に伸ばして伸びをする。こちらに振り向けば、夕日の逆光が普段の幾倍も彼女を眩しいものとして映した。
 遠いところでかもめの鳴き声がする。
 潮風は穏やかに過ぎていく。
 眼下にはそれぞれの道を歩む…ひと。もう夜も近く、各々家路への道を急いでいるようにも見えた。
「わぁー、スイ、見てっ! 船がやってきたわよ」
 弾むような声で指を差す。その先には、海の果てからゆっくりと姿を露にする影があった。
「どこから来たのかしらね、あの船」
 水平線の先を見ようとしているのか目を細めるフレアはそう言った。何故だか声に心が揺さぶられる気がして目を伏せる。
「世界って広いのよね。知ってる? この海の先にある世界」
 まるで歌でも聴いているような気分で、彼女の声をきいていた。
 彼女もまた目と共に心を遠くに馳せて言葉を紡ぐ。
「同じ大陸でもね、この町のずっと南には遊牧民が暮らすみたいな高山があるのよ。北には雪が降るらしいし…。イザナンフィ大陸の深い森の奥にはまだ誰も知らないような民族が住んでるんだって」
 もうその地に行ってきたかのように幸せそうに、彼女は笑った。
「いつか行ってみたいな、スイと一緒に」
 こちらを見て、表情を滲ませて……。
「……そうか」
「うん。――――あら?」
 ふと、フレアの視線が傾く。
 その先には、彼女の足にじゃれついてきた赤毛の猫がいた。その人懐こさや首輪をしていることからして、飼い猫なのだろう。
「わ……、かわいい…」
 フレアは思わず表情を緩ませてしゃがみこむ。
 細い腕を伸ばせば、猫はすぐに彼女の胸に飛び込んできた。
「あははっ、いい子いい子」
 猫を抱いて子供のようにはしゃぐ少女。
「ほら、スイも抱っこしてみなさい」
 しばらく猫とじゃれた彼女は満面の笑みでこちらに押し付けてくる。
 否応もなしに、受け取らされた。
 猫は暫く自分の腕の中で腕の匂いをかいでいたが…すぐにおとなしくなって、顔をこすりつけてくる。
「やっぱ猫ってかわいいわねー、スイとは大違いよ」
 フレアは猫の背を撫でながらそう呟いていた。
 よほど人間に慣れているのか、猫は喉をならせながら心地よさそうに目を細めている。
 そんな姿とそのぬくもりに、穏やかな日常を…感じていた。
 だが、ふといささか荒い足音が聞こえてきたのに二人で顔をあげる。
 視線を向ければ、坂を一気に上ってきたのかすっかり息を切らした少年が、ひとり。
 少年はこちらに気付くやいなや、きっと睨みつけてきた。
「リンを放せっ!」
 明らかに敵意のこもった声で少年は叫ぶ。
 ふと、気付いた。確かこの少年は、先ほどの少女と共にいた子供たちの中で――自分の姿に怯えていた子だったか。
「放せッたら!」
 おそらくリンとはこの猫のことなのだろう。わめきちらす少年が飼い主か……。
 猫を放してやると、猫はナア、と一鳴きしてから少年の方に歩いていった。
 少年は猫をすぐさま抱き上げて、こちらを威嚇するようにねめつける。
「な、なによ……?」
 フレアが困ったような声をだすと、彼はそのまま踵を返して走り去った。
「……どうしたのかしら、あの子」
「………」
 瞬く間にその影は消え去って、そこには夕日の情景だけが取り残される。
 少年の敵意は、あきらかにフレアではなく自分に向けられていた。
 そんな気がして――、目を伏せる。
 また、潮風が山を目掛けて駆け抜けて駆け抜けていって、…穏やかに髪を揺らしていた。


 ***


 次の日、自分たちはナタリアと呼ばれていたあの少女と再び会っていた。
 というよりも、ナタリアの方がこちらを訪ねてきたのだ。
「あの…、昨日はありがとうございました」
「あら、わざわざ言いにきてくれたの?」
 ナタリアは頷いてこちらを見上げてきた。
 無垢で大きな瞳を瞬かせながら、ふんわりと笑う。
「お兄ちゃん。ちゃんと怪我、洗ったよ」
「…そうか」
「ナタリア、いい子?」
 首を傾げてみせる。
「…ああ」
 たったそれだけで、少女の顔は一気に花開いた。
「うんっ」
 そんな少女の頭をフレアが優しく撫でてやる。
 静かな昼下がり、町の広場。
 行き交う人、威勢良く客を呼び込む露天商、美しい水しぶきを煌かせる噴水。
 そうして目の前には、不思議と優しい風景。
 もしかしたらこれが『普通』なのかもしれない。
 人々が歩むべき、道。
 迷っても、苦しんでも、……それでも笑っていられる道。
 ひとを殺すやるせなさなど、どこにもない。
 今の自分は、そんな道を歩いているのだろうか……。
 ふと、兄のことを思い出した。
 兄は、自分が剣をとらなくなってから数週間後、…一気に町中にその名を響かせた。
 当時に誰にも倒せないだろうといわれるほど凶悪な魔物が町の近くの鉱山採掘所に現れたのだ。
 すぐさまギルドに仕事状がだされ、幾人もの登録者が討伐に出た。
 しかし、誰一人として倒せる者はなく、死傷者もみるみるその数を増し――。
 そんなときに、兄が現れたのだった。
 あとのことは、ひとに聞かなくとも想像がつく。
 兄はきっと、たったひとりで―――。
 そう、たったひとりで、その道を進んで。
 ひとつだけ、自分に願いを託して。
 自分に、『普通』の民になることを…願って。
 ひとり、まだ……戦っている。
 ここ最近は貴族からの仕事の依頼が飛躍的に多くなっている。
 家にいないときが、いるときよりもはるかに多い。
 だから、そのことを思うと……目を伏せずにはいられない。
 例えそれが兄の願いだったとしても。
 兄は今も、ひとりで黄昏を走っているのだから。
 あの…とても重い剣を、携えて。
 こんな目の前に広がる優しい光景など、まるで知ることも、なく―――。

「ナタリアッッ!!」

 突然の大声に、反射的に顔をあげた。
 辺りの人々も、一体何事かと振り向く。
「ふぇ?」
 ナタリアは、驚いたように振り向いて……。
「リュートくん……どうしたの?」
 そこにいた、少年に向けて首をかしげた。
「あなた……」
 フレアが思わず口元に手をやる。
 その少年は、…昨日、猫と遊んでいたこちらに向かって怒鳴りつけた少年であったのだ。
 彼はやはり、昨日と同じようにこちらに向けて敵意をむき出しにしていた。
 驚いた顔をしているナタリアへ、少年は大声で叫んだ。
「そいつから離れろっ!」
 そうして、少年の指が跳ねるような動きで―――こちらを、差す……。


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