-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 八.橙色の記憶

102.Anemone-薄れゆく希望-



 今、自分が一体何を感じているのかわからなかった。
 それは…哀しみなのだろうか。怒りなのだろうか。それとも……?
 幼い頃から感情の起伏が欠落していた自分にとって、その感情に名をつけることは叶わない。
 ただ、胸の中になにか灰色の、ひどく重く息苦しいものが詰まっている気がしていて―――。
「そいつから離れろっ!」
 鮮やかな動きでこちらに突きつけられた人差し指から、まるで剣で突き刺されるような痛みを覚えた。
 一体どうしたのかと辺りからざわめきが漏れる。
「ど、どうして…?」
 ナタリアが顔を一杯に困らせて首を傾げた。
「お兄ちゃん、いいひとなのに」
「そいつはな…、あの銀髪鬼の弟だっ!」
 少女の言葉を遮るようにして、大声。
 まるで糾弾するかのようにこちらを睨みつけてくる。
「母さんが近付いちゃいけないって言ってたぞ、そいつは沢山のひとを殺しているんだっ!」
「…―――」
 横でフレアの息を呑む音が聞こえた。
 そしてそれを冷静に感じ取ることができるくらいに、―――いくら痛みを覚えたところで心は静かだ。
 ただ、こびりつくようにして言葉は心に広がっていく。
 ざわざわと、ひとの声。

 ―――まあ、あの子がクイールの弟ですって?
 ―――どうしてこんなところにいるのかしら
 ―――怖いわね、命乞いする者にも容赦ないって噂でしょう?
 ―――同じ人間とは思えないわ

 雑音。
 耳の中を――かきならす。
 町の中にいたと思っていたはずが、…いつの間にかやはり町を別のものとして眺めている。
 どうしてこんなにも、体は重いのだろう。
 刺すような視線、怯えの視線、冷たい視線、―――たったそれだけで。
「近付いたら危ないぞっ! ナタリア、早く来いったら!」
「……っがうわよ……」
 横から詰まるような音。
 怒りと哀しみと、…少女の感情が詰まった声。
「違うわ……、スイは…っ!」
「そうなの?」
 ふっ、と体温が…その小さな声によって静かに消し飛んでいくのを、感じていた。
 こちらに向けて、幼い少女の純粋な視線。
 彼女が、不安をはらんだ彼女が、こちらに問うている。
 今、自分はきちんと立っているのだろうか。
 眩暈に似た衝撃が、平衡感覚を鈍らせる。
「……お兄ちゃん……、―――ひとを」
 …心臓が、鳴る音が。
 限りなく―――体を、心を、震わせて…。
「そうだ」
 ――ああ。
 …やはり、自分は。
「……あいつの言うとおり、だ」
 ――この道を選んだときから。
 …もう、元には戻れないのだと――。
「……――」
 少女の足が、一歩、二歩、下がって…。
 目をそらしてしまったから、彼女がどんな顔をしているかもわからなかった。
「ナタリア、はやく行くぞっ」
 ずんずん歩いてきた少年が、彼女の腕をひったくるようにして掴んで連れていく。
 辺りには、ざわめきがまだ残されている。
 それは自分への恐れと怯えと…、様々な思惑が交差するものだった。
 それらは幾度も絡み合い、もつれあってこちらの心まで届いて、染みる…。
「スイ………」
 今にも泣き出してしまいそうな、フレアの声。
 否、彼女はこのままにしておいたら…恐らくそのまま泣き崩れてしまうだろう。
 だから、腕を取って歩き出した。
 辺りから、ひとの視線、ひとの声。
 肌に刺さるように感じる……、ざわめき。
 集団の中で、異質なものを排除しようと、…自分たちの日常を守ろうとしている。
 …そうでなければ、彼らだって生きていけないのだ。
 案の定、歩きながらフレアは泣き出した。
 彼女は全く関係ないのに、自分がそういわれたかのように涙を零す。
 広場を抜けて、そのまま道を真っ直ぐ歩き続けた。
 泣いている少女を連れているというのは人目を引くらしく、…すれ違う人が幾人も振り返るのが見えた。
 しかし足は止まることもなく、そのまま人気の少ない展望台に向いていた。
 夕日が美しいこの町では、夕暮れに展望台に来る人はそれなりにいるものの…昼間は閑散としている。
 やっと坂を上りきった瞬間、彼女はその場に崩れおちた。
「―――ぇうっ……ひっく……」
「フレア」
「………っく……」
 その場にへたりこんでしまった彼女を見下ろす。
 何故だか、自分が民衆の前で糾弾されたことよりも…こうして目の前で少女が泣いていることの方が、悲しく思えた。
「…大丈夫か?」
「……ぅっ…どうして、どうしてスイが…っ」
 彼女は溢れる涙を両手で拭いながら、首を大きく振る。
「―――せっかく…町で、…町…で、楽しく暮らせるって……ぁうっ……」
 彼女の瞳の色は歪んでいた。
 それだけ少女の心が傷ついてしまっているのだと、痛いほどにわかる……。
「…仕方ない」
 だから、言った。
 彼女の心がなるべく軽くなるように。
 痛みを背負うのは、この苦しみを背負うのは、自分だけで十分だった。
「どうして…っ」
 少女は噛み付くようにこちらを見上げてくる。
 そんな少女を、じっと見下ろして、呟く。
「…俺がしたことは、事実だ」
 その手で、兄と共に戦った。
 それが当たり前だと思って―――。
 魔物を、ひとを、当たり前のように斬っていた。
 この手についた血は、二度と消えることがないだろう。
「……悔しいわ」
 フレアは、幾分落ち着いてきたのか…顔一杯に怒りと哀しみを湛えて、呟いた。
「…みんな…わかってくれないなんて…。クォーツさんだって…、クォーツさんだって…とてもいい人なのに…っ!」
 もどかしそうに胸の上で両手を握る。
 どうしていいかわからなくて…自分はただ、…そんな彼女を見下ろすことしかできなかった。
 胸にぽっかりと空いたような空虚を抱いて―――。
「悔しい……悔しい……っ、わたし…!」
 妙に穏やかな午後の日差し。
 そうだ、いつだってこんなにも傷ついて哀しみ続ける自分たちと裏腹に。
 世界はこんなにも、当たり前のように美しく流れていて…。
 自分たちの小ささを、改めて思い知らされる。
 結局自分たちは…ただ、流されるだけかと…そう、感じていた。

 ―――ナア

「え?」
 不意に、少女の怪訝そうな声。
 ゆらめくように迷ったその視線が、…ゆっくりと、へたりこんだ彼女の傍までやってきた影にやられる。
「あ―――」
 瞳にひとつ、ひかりが宿った。
「……あなた、昨日の…」
 ふんわりと…久しぶりとも思えるくらい、自然な微笑みが浮かぶ。
 自分もまた、じっとそれを見つめていた。
 昨日、同じようにじゃれついてきた赤毛の猫、だ。
 フレアが迎えるようにその腕を軽く広げると、…やはり猫はナア、と鳴いて飛び込んでいく。
 彼女は暫く苦しいようなもどかしいような顔をしていたが、…それも次第にやわらかな表情に変わっていった。
「…あはは、あなたまたご主人さまに怒られるわよ。昨日のこと、覚えてないのかしら」
 嬉しそうに頬を摺りよせてくる猫に目を細めて、小さく笑う。
「あなた、確かリンって呼ばれてたわよね。ねえ、リン?」
 猫はナア、と間延びした音で一鳴きして、再びフレアに身を寄せる。
 フレアはその喉をくすぐってやりながら、泣き笑いのような表情で首をかしげた。
「あなたはいいわね、…優しくしてくれるひとが沢山いて」
 それと共にさらりと長い若草色がカーテンのように揺れる。
 穏やかな日差しをその身一杯に浴びて、フレアは言っていた。
「私たち……どうしたらいいかな」
 まるで詩のような、口ずさむような声。
 歌っているかのようにも見えた。
「スイは、優しいのに」
 とんっと軽く指先で背中を押されたような感覚を覚える。
 少女の言葉は、いつだって力となって心に波紋を呼ぶ……。
 そうして、その言葉をずっと聴いていたいと。
 そう思っている、自分がいる…。
 半分、町の者たちにどう思われているかなど、どうでもよかったのかもしれなかった。
 ただ…、この少女が笑っていてくれれば。
 それだけで、自分は。
「とても…優しいのにね」
 不思議と穏やかな少女の仕草。
 猫を抱いたまま、立ち上がる。
「このままじゃ、いけないわ」
 呟きながら、猫を解き放った。
 猫は高台の縁にするりと駆けていって座り込み、こちらの様子を伺う。
 その元で、涙に濡れて、紅がさした頬でフレアが空を仰ぐ。
 それは一瞬、まるで天使が空へと羽ばたこうとしているように見えて…我が目を疑う。
 彼女の強い…、とても強い、決意をはらんだ横顔だった。
 海から吹く風が少女の頬を乾かしていく。
「そうよ、このままでいいわけがない……」
 じっと、何かを耐えるようにフレアは一度瞳を閉じた。
 そうして再び開いた瞳には、少女の様々な想いが溢れんばかりにこもっていて…また、心に波紋を呼ぶ。
 彼女がこちらを向いた。
 展望台。
 その眼下には、道行くひと。
 その頭上には、のびやかな青。
 片手には広大な、海。
 もう片手には、陸を繋ぐ、山。
 そして、目の前には…―――。
「スイ」
 幾度となく見つめられたはずの瞳が、また一段と強いものとしてこちらの網膜に映った。
「私はね、……嫌よ。スイがそうやって、町のひとに嫌われていくの」
 風と共に言葉が流れていく。
 それはまるで人の口から零れているとは思えないほどに透明で、それでいて激情を含んでいる…。
 そしてそれが今の自分の、全てだった。
「だから、私は頑張りたい。スイが、いつかなんでもない町のひとになれるように…」
 彼女の手が、こちらに差し出される。
 あの日と同じ、華奢で白い腕だった。
「スイは…そうしたくない? このまま…町の隅っこで生きていきたい?」
 こちらの心の奥までを覗き込もうとする視線が、そこにあった。
 それはこちらの答えに、嘘を許さない…そんな揺ぎなさが込められている。
「…頑張れないかな、私たち」
 手を差し出したまま、彼女は続けた。
「なにもしなかったら、逃げるのと同じことよ。なら、最後まで戦わなきゃ。ただ受け入れるだけじゃいけないわ」
 彼女はそこまで言い切ると、ふいにこちらの手を取る。
 その手に吸い込まれるように、まるで先ほどの体の重さは嘘のように消えていた。
 そうだ、少女はいつだってこうして自分の苦しみを共に背負ってくれる。まるで自分のことのように、笑って、泣いてくれる―――。
「私も、一緒に頑張るから」
 いつだって自分のことを真っ直ぐに見てくれていた少女は。
「…だから、スイも頑張ろう?」
 自分の手を、しっかりと握り締めて……そう、歌った。
「大丈夫、きっといつか…こんな悲しいことも、懐かしめる時がくるから」
 そこに不快があるはずもなく。
「だから、仕方ない…なんて、言わないようにしよう?」
「――――そうだな」
 いつの間にか、そう呟いている自分がそこにいた。
 彼女と共にいるのなら、どこまでも行ける。
 そう、思っていた。
 フレアの瞳からまた涙が一滴だけ転がり落ちて、滴った。
 だけれど、それは太陽に照らされて美しく思えて…。
「うん、頑張ろう」
 握られた手と共に生きていこう。
 青空の下で、少女の歌声を聞きながら…そう感じていた。


 ***


 兄は、家にいる時間が極端に短い。
 だがその日から数週間経ったある日の朝…、ふたり、鉢合わせになった。
 これから出掛けるのかと問うと、兄は静かに頷いて返した。
「戻るのは多分三日後だ」
 聞けば魔物討伐だという。この辺りも次第に貴族たちが家を建てはじめてきたから、その分仕事も多いのだろう。
 兄はいつも変わらない。初めて会ったときと、印象は寸分も違わずにそこにあった。
 ただ、それはとても淋しい姿に見えて…、心が、締め付けられる。
「……町ではどうだ?」
 不意に兄が呟いた。兄からこちらに話しかけることはここのところ更に少なくなっていたから、幾分ばかり驚く。
「…特に変わりない」
 そう言うと、兄は静かに眼を伏せて続ける。
「―――俺の弟だから、と疎遠されていると聞いている」
 不意に、心に―――ざわめき。
 兄の方を見る。
「…町の噂くらい大抵耳には届く」
 兄は変わらぬ瞳でこちらを見据えていた。
 海よりも深い蒼の瞳。窓から覗く朝のひかりに反射して輝く銀の髪。
 それはいつだって見上げていた、…手を伸ばそうとした場所にあるものだった。
 兄の腰には、剣。
 自分が捨てたものを、兄はまだずっと持ち続けている。
 こうしていると…、あのとき、そのまま剣を捨てずにいた方がよかったのかもしれないとすら、思う。
 兄は、呟くように言葉を紡いだ。
「……辛かったら兄弟の縁を切ってもいい」
「――――」
 まるでそれは、突然突風に横からなぐられたようにも感じられた。
 体が横に薙がれた気がして、僅かに足がよたつく。
 しかし兄は当たり前のことでも言うかのように、続けていた。
「それはお前の自由だ」
 孤高の銀髪鬼。
 既にその名は大陸を越えてとどろいているという。
 最強、と呼ばれて。
 人々の畏怖の対象となり―――。
 それでも、やはり兄は剣を持ったまま。
「……あのとき」
 だから、返した。
「あのとき、拾われてなかったら……俺は、死んでいた」
 既に過去の記憶となってしまった情景。
 どこまでも続く背の高い草原。
 夕日に煌く兄の姿。
 剣の肌の、まばゆいひかり。
「…俺は……クォーツの、弟だ」
 誇りといったら違うのかもしれない。
 ただ、いつまでも一人で走っていく兄に。
 これ以上孤独にはなってほしくなかったから……そう言ったのかもしれなかった。
「――――そうか」
 兄は小さく笑った。
 人前では兄の笑みをみたことがない。
 ただ、兄は…自分の意思を伝えたときにだけ、静かに微笑む。
 それは―――もしかしたら、自分の幸福が嬉しいのかもしれなかった。
「お前がいいと思うなら……それでいい」
 兄は言って、家の扉を開いた。
 朝の限りなく鮮やかな空気が家の中に入ってくる。
 もう夏の真っ只中で……、太陽はひたすら眩しかった。
「行ってくる」
 兄は誰にともなく呟き、家を後にした。
 足音もすぐに消え、家の中には再び静寂が残る。
 自分はじっとその名残を探すかのように兄の去った扉を見つめていたが…、静かに日常へとまた埋もれていく。
 ずっと続いていくと信じていた、日常へと―――。
 そしてそれが、…兄との最後の会話らしい会話だったのだと―――自分は知る由もなく。

 16歳の、夏の日のことだった。


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