-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 八.橙色の記憶

100.Burnet-移りゆく日々-



 ―――時は流れて。
 決して戻ることも、よどむことさえなく。
 穏やかに、ゆるやかに。
 例えるなら、静かな川の流れのように。
 ふと気がつけば―――そこは。


 ***


 相変わらず、草原が広がっていた。
 痛みもぬくもりも、全てを抱えて流れる黄金色の海。
 そんな色を吸い込んで、剣の肌もまた黄金に煌く。
 幾度となくその場で繰り返された甲高い音が、再び響いた。遠く遠く、大気を震わす音はどこまでも伝っていく。
 息をつく暇もなく、もう一度剣を薙ぐ。
 一撃目。しかし難なく振り払われる。
 そのまま一度腰を落とし、斜め上に向けて振り上げた。
 …ぱっと銀の髪がたなびく。軽やかな足取りで剣を避けた兄は、隙を見計らって利き腕と反対の方に切り込んでくる。
 とっさに身をひるがえして剣を受け止めた。
 力の強さに腕にびりびりと電流のような振動が走る。
 互いに剣を払うと、一秒の間も置かずに再び打ち合いがはじまる。
 剣の切っ先は振られるごとに夕日に強く煌き、残像が美しい弧を描いた。
 ―――既に拾われてから7年。
 兄と共に仕事に行くことも多くなり、そう簡単に練習のときに剣をとられることもなくなった。
 強くなっている。
 どこかで…そう確信していた。
 そうしてそれが、自分にとっての日常。
 …知らず知らずのうちに当たり前となっていた、日常。
 多分、この時がずっと続くものだと思っていたのだ。
 日々に変わりはなく、時だけがゆるやかに過ぎ去るものだと思っていたのだ。
 ―――だが、しかし。
 ギィン、と音が甲高く打ち鳴らされ、しばらく力の押し合いが続く。
 すぐに兄の力におされて流してしまった頃から時は移ろい、今はほぼ対等に渡り合えるようにまでなった。
 ぎりぎりと金属同士が独特の音をあげて擦れ合う。
 ―――ほぼ、互角。
 そう思ったとき、ふっと兄の瞳がわずかに伏せられて黒よりも濃い蒼の色が深まった。
 そんな兄の表情に思わず剣の力がゆるむ。
 だが兄はそのまま剣を振り払うこともなく、…静かに力を抜いた。
 兄はここ最近よくこんな表情を見せる。
 まるるで何かを考え込んでいるような…寂しげな瞳だ。
「―――スイ」
 ぼそりと自分の名を呼んで、兄は剣を下ろした。
 僅かに乱した呼吸を落ち着けながら、自分も兄を見据える。
 突然止まった二人に遠くでフレアが不思議そうな顔をしていた。
 そう……普段とは違う、変則的な出来事。
 兄は、言った。
「強くなったな」
 当たり前だと思っていた日常は、
「…クォーツさん……?」
 ……まるで、夢のように。
 言葉は一気に心の壁という名のガラスへ亀裂を走らせるほど鋭利であった。
 今まで兄に褒められたことなど一度だってない。
 剣を交えている最中で兄からそれを止めることすら、初めてのことだったのだ。
 すっと背筋を何かが下っていく。
 これから起こることへの―――予感、だろうか。
 兄は初めて出会ったときと同じ、強い瞳をしていた。いつだって変わらない、その強さには今でも圧倒される。
「―――だが、幸せか?」
 ざあ……っ…。
 海から運ばれてきた風が薙いで、黄金色の金色がゆらめいた。
 こんなにもここに吹く風は強かっただろうか。
 こんなにも言葉というものは、心の奥深くまで突き刺さるものだろうか……。
 兄は、自分に問うた。
 自分は、兄に問われた。
 だから答えなければならない。そう思って、答えを探した。それが今の自分の―――全て、だ…。
「…わからない」
 剣を握り締めたまま、そう紡ぐ。
 ただ、何故だかその言葉は自分自身の胸に染み込んで、痛む……。
「…この道は」
 兄は右腕を僅かに広げて剣を示した。
 兄の剣は片手で持つには大きく、しかし大剣と呼ぶには細い。
 そんなものを片手で軽々と扱う姿は、いつだって自分の見上げるべき位置にあった。
 迷ったことなど、一度だってなかった。
 ―――それが、今。
「ひとの生きる道の中で、きっと一番辛い」
 幾人ものひとを、魔物を、……命を奪った剣は、それだというのに1日の最後のひかりを反射し、自らが光源になったかのように輝く。
 ―――橙色の剣。
 炎をくぐりぬけ、修羅を越え、――この世界の中で黄昏に染まって。
「どんな生き方よりも、…ひとを殺して生きていくのは、どうしようもなく辛い」
 兄がこんなに物事を語るのは、初めて剣を貰ったとき以来かもしれなかった。
 そうして…その言葉は、ただ夕日と同じように心に染みていく……。
 兄は眼を伏せた。
「本当は生きていくのはそう難しいことじゃないんだ」
 まばゆい銀の髪を風にまかせて。
 こちらを、じっと見つめて……。
「だが、俺たちのようにそうしなくては生きていけない人間もいる」
 世界は……ゆらいで。
 だけれど、やはりそこにあって。
 消えてしまうことなど、あるはずもない。
「だが」
 兄が視線を逸らす。その方向には、じっと佇んで兄の言葉に耳を傾けるフレアがいた。
「…お前は、そんな生き方しかできないか?」
 彼女はいつもと同じように、少し離れたところに影をつくっていて……その真っ直ぐな視線に、眩暈すら覚えた。
 何も感じないと思っていた。
 この世界はあまりに眩しく美しく、だけれど一度だって自分の心にそれらが響いたことなどなかったように思っていた。
 なのに……今。
 湧き上がる、感情。しかしそれに名前がつけられるわけでもなく……。
「お前には違う道があるんじゃないか?」
 兄は小さく笑った。
 どこか遠くを見るような、淋しい瞳で。
 何かの祈りが込められた、言葉で。
 言うべき言葉すら見つけられず、自分はただ喉の渇きを覚えるだけだった。
「―――今はわからないかもしれない。だが――このまま剣の道を行ったらきっとお前は、俺と同じになる」
 指先が……わななく。
 そんな最後の言葉は、こちらの目を見開かせるのに十分すぎる力を持っていた。
 心が震えているのが、自分でも痛いほどによくわかる。
 兄は視線を彼女の方に流した。
「そうなったら、あいつを悲しませるだけだぞ」
 不意に不安げにしていたフレアの大きな瞳がこちらを捉える。
 出会った時よりは幾分大人びた視線。
 兄は限りなく静かに、――いつもと同じように呟くように言った。
「俺から教えられるのはこれで全部だ」
 瞬間、心が驚愕に悲鳴をあげる。
 はっとして反射的に顔を向ける。
 兄は手馴れた仕草で剣を鞘に収めた。
 チン、という乾いた小気味良い音がやけに辺りに響く。
「あとはお前の好きに生きろ」
 突然―――目の前に続いていたはずの道は、途切れて。
 それを、自分自身で選べというのか?
 何一つ言えないでいる自分を前に、兄は背を向けた。
「…お前は俺の弟だが…、それでもお前は、お前だ」
 さらさらなびく草原を、穏やかに歩き出して。
 驚いたような哀しいような、それでいてもどかしそうな表情をしているフレアの横を通り過ぎて……。
「スイを頼む」
 そう呟くと、フレアは拳をぎゅっと握って俯いた。…頷いたのかもしれなかった。
 後姿はみるみる遠ざかる。
 ゆるやかに光を落としていく情景の中、ずっと追い続けていたものが。
 そこにいることを当たり前だと思っていたものが。
 ただ…草原の奥へと消えていくのを、何をすることも出来ずに見つめるしかない。
 自らの剣を鞘に収めることも出来ずに。
 その喉で何かを紡ぐことすら出来ずに。
 心だけが何かをわめくが、それすら何を言いたいのだか自分でもよくわからなくて――。

 そうして次の日から、兄は草原に姿を現さなくなった。


 ***


 隣にフレアが座っている。
 自分はただ、草原の真ん中で何をするわけでもなく。
 時折思い出したように自分の剣に手を触れてみるが、答えなどそこにはなくて。
 じっと、膝を抱えて時を過ごしていた。
「スイ、……まだ待つの?」
 フレアは何度目になるかわからない問いを、再度問いかけてきた。
「…別に帰ってもいいんだぞ」
 だから何度目になるかわからない答えを、再度答える。
「だって…クォーツさんの言ってたこと、忘れちゃったの?」
 彼女は膝を抱えなおして、泣き言のように呟いた。
 そうだ、兄は。
 自分に教えるべきことは全て教えたと…そう言った。
 あとは自分の好きに生きろと、……そう、言った。
 だけれど、わからない。
 突然ぷっつりと途切れてしまった日常に、戸惑うしか術がない。
 今まで、当たり前のように剣を握っていた。
 辛かったけれど、それが普通だと思っていた。
「……まだ、わからないかな」
 フレアの声。
 だけれど、それは心の表面をなぞるだけで…ひとつたりともその奥には届かない。
 自分が一体何をしたらいいのかわからない。
 その先に用意された道は…どこにも、ない。
「……ねえ、スイ」
 再び、声。
 こんなにも草原というものは静かなものだっただろうか。
 風と草の音しかしない。
 ただ、そんな中であまりにも自分の姿は―――小さくて。
 小さすぎて―――。

「どうしてよ」

 ふっと、心の中に…風。
「どうして…」
 ひとつぶ、ふたつぶ。
 横に座った少女の大きな瞳一杯に溜まった涙が、零れ落ちる。
 そして…その少女の顔が驚くほどの怒りを秘めていたことが、…自分の心を急激に張り詰めさせていた。
「フレ…」
「いい加減にしなさいよ!!」
 口答えする前に、少女の華奢な手が振りあがって頬に鋭い熱さを与える。
「あんたねえ……っ!」
 今までに聞いたこともないような強い声。
 少女という命が放つ感情がほとばしり、肌を震わせるのを感じた。
 張られた頬に手をやりながら呆然とする自分に向かって、彼女は容赦なく言葉を叩きつけた。
「今、何を考えてるの…? 何がしたいの? どう思ってるの? 苦しい? 哀しい? そういうの、言葉や顔で表現したことある? 誰かに伝えたいって思ったことある?」
 頬を真っ赤にして、堰をきったような声がぼろぼろと零れ落ちていく。
「あなたはどうして自分の中で全部まとめちゃうのよ…っ! どうして自分の中だけで悩んで、苦しんでるのよっ!!」
 噛み付くような視線で彼女は彼女という存在全てをもってして叫んでいた。
 それはいとも簡単に心の殻を突き破る、刃の言葉――。

「スイは、ひとりじゃないのよ?」

 まるで今まで知ることもなかった言葉は。
 がづん、と頭に鈍い衝撃を加えて――自分に与えられる。
 まるで灰色だった心に、突然鮮烈な色が焼きついたように。
 雨風の中にさらしてあったものが、不意に太陽の下で掲げられたように。
 そうして少女は、こちらを睨むようにして言葉を続ける。
「…私に、あなた自身のこと話してくれたことなんか…一度もないじゃない」
 それは痛みだった。
 今までに感じたことのない、痛みだった。
 この世にはこんなにも息苦しく、泣きたくなるような痛みがあるのだと―――。
 思わず自分の胸元を握り締める。
「―――ずっと傍にいても、私には何も伝えてくれない? 伝える価値がない?」
 ぽろぽろと煌く涙をぬぐいもせず、彼女は自分に更に詰め寄った。
「そうやって一人で苦しんでいて、誰が救ってくれるっていうのよ!!」
 全身でそう叫ぶと、…彼女は崩れ落ちるように小さな声で呟く。
「スイはそんなに哀しい人じゃ、ないわよ…」
 こちらを離さず見つめ、首を振る。
 そのままこらえきれずに、自分の服を掴んできた。
「だから、言って…。あなたの想うこと、なんだっていい。誰かに伝えようとして。…一人で世界を終わらせたりしないで」
 掴んできた手は、少女の激情を表すかのごとく震えていて、また心にひとつ波紋を呼ぶ…。
 彼女は、座り込んだままこちらを見上げてきた。
 いつだってこちらを見つめていた、大きな瞳が今は一杯に潤んでいる。
 まるで空気のように感じていた存在が、今やっと…ひとつの命として、脳裏に焼きつく。
「ねえ、スイ? ひとは…ひとりだったら戦わなきゃいけないけど、二人だったら戦わなくてもいいときだってあるのよ?」
 半分かすれた声。
 だけれど、言葉の一つ一つに託された溢れる想いが、少女の紡ぐ音と重なって…。
「クォーツさんは、自分はもう後戻りが出来なくなってしまったけれど、あなたはまだ後戻りできるから…そう思ったから、あなたを置いていったのよ」
 ――スイ、人を殺すのは良いことだと思うか?
 ――なら…人を殺せる剣はあっていいものだと思うか?
 ――それでも俺たちは生きる為に剣を振るう。
 ――何度だって苦しい思いをする。血を吐くような思いをする
 ――それが…お前が選ぼうとしている道だ
 兄の言葉。
 剣を持つ道のり。
 それを進むことの…哀しさ。
 何も感じなかった自分は、やはり何も感じてはいなかった。
 それが……今。
 兄の願いが、…聞こえた気がした。
 孤高の銀髪鬼と謳われた兄の、たったひとつの願いが。
「私じゃ…いけないかな。あなたの傍にいるの。あなたの言葉を聴くの」
 若草色の髪が一房、さらりと肩から落ちた。
「…あなたを一人にしておかない役目、私じゃだめかな」
 幾度かしゃくりあげながら、彼女は尋ねる。
 断れる理由など、どこにもなかった。
 ずっと、傍にいてくれたのだから。
 ずっとずっと、自分のことを見ていてくれたのだから。
「いや………」
 かすかに首を振ると、彼女は暫し呆然としたようにぼんやりとした表情を見せると……ふっとその顔をほころぶように花開かせた。
「うん」
 目じりに溜まった涙を弾かすようにして、笑う…。
 ふわっとそれは心に触れて、ぬくもりを残した。
「…今まですまなかった」
 かすれた喉でそう呟くと、彼女は一瞬きょとんとした顔をする。
 それが一変し、眉間にしわをつくり…、平手で軽く自分の頬をはたいてきた。
「そこ、謝るべきところじゃないわよ」
 むくれたような表情で言う。
「なら……どう言えばいいんだ?」
「んー、それはね」
 彼女の瞳が自分の顔をじっと見つめる。既に涙は止まっていた。
 そんな少女はふふっと笑って、跳ねるように立ち上がった。
 軽やかに腰まである長い髪が宙を舞って、彼女の姿を彩る。
 一瞬その光景に目を奪われていると、少女はくすくす笑いながら手を差し伸べてきた。
「町に行きましょう!」
 ……まるで、背中を押してくれるような声。
 溢れる温もりを含んだ、フレアという少女の声が、草原に染みて渡った。
 じっと、差し出された手を見つめる。
「…町に?」
「スイっ!」
 言った傍から怒声。
 彼女は頬を膨らませて、座ったままの自分の顔を覗き込んできた。
「人と話すときはちゃんと目を見て話しなさいよ!」
 それが基本ってものでしょ、という言葉と共に人差し指を鼻に突きつけられる。
「……ああ」
「じゃないと一生誰とも仲良くなれないわよ?」
 ひとりの人としてのやわらかな微笑みを、少女は浮かべていた。
 しっかりと道を指し示す、陽のように明るく優しく猛々しい微笑みを―――。
「孤独なままでいいの?」
 僅かに表情を曇らせて、だけれど次の瞬間には腰を手にやって…。
「ほら、私が人生の先輩としてこれからも色々教えてあげるわよっ」
 自慢げに胸を張ってみせた。
 自分はただ、そんな少女の目まぐるしい動きをぼんやりと見つめていて。
 だけれどそこに、不快を感じることはなくて…。
「だから、もう…―――」
 それが優しさなのだと、生まれてはじめて気付いて―――。
 彼女は、…フレアは、小さく小さく言葉を紡いだ。
「…そんな目を、しないで」
 彼女の瞳を見返す。
 その奥に、自分の姿が映っているのが見えた。
「一人で哀しい目をしないで。哀しかったら誰かに伝えればいい。伝えようとすればいいわよ。一杯に淋しさがこもってる目は…見てて、こっちが辛いもの」
 わかった?、という風に首を傾げてみせる。
 そうして再び、彼女の手が差し出された。
 自分はまたそれを…見つめて。
 ―――今度こそ、自分の手が……その手を、取っていた。
 小さく頷くと、フレアも一杯の笑顔を返してくれる。
 その度に、心はふんわりと温かくなる―――。
「よし、じゃあ行きましょっ!」
 少女の手にひかれて、自分もまた、草原を後にした。

 さらさらと流れる聞きなれた音はいつだって優しくて。
 何故だか、漠然と、どこまでも走っていけるような…そんな気が、していた。


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