-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 八.橙色の記憶

097.Ebony-暗闇の中-



「一緒に来るか」
 兄にそう言われたのは、13歳になる年が訪れたころ―――。
 その日、兄ははじめて『仕事』に自分を連れて行った。


 ***


 人ごみは、慣れない。
 あまりにも命の力が溢れすぎているから。
 それはとても…眩しいものだから。
 息苦しさすら覚える、人の生きる流れ。
 兄の影に隠れるようにして、そうっとその中に足を踏み入れる。
 行き交う人々、華やぐ会話。
 旅人たちも多く出入りする為か、鍛冶屋が繁盛しているらしく鉄を高く甲高い音が青空に吸い込まれる。
 かと思えばこじんまりした店では美しい花々が咲き誇っているし、何処からか流れてきた商人が露店を開いて珍しいものを売っている。
 ひとの声。
 それは耳の奥をかきならす雑音にも聞こえ、…だが雑音と呼ぶにはあまりに明るいもので。
 ふっと瞳を伏せる。
 兄は淡々と歩みを進めている。
 そんな姿に行き交う者たちは度々振り向いた。
 その意味を、…やっと最近になって理解した。
 兄は『孤高の銀髪鬼』と呼ばれていること。
 そのしなやかな剣技で周りから一目置かれていること。
 それは、…尊敬と嫉妬と…畏怖の対象であること。
 …そうだったのなら、一体自分は何なのだろうとも思う。
 最強とまで謳われた兄に拾われ、剣を教わり、そして今はこうして仕事に連れて行ってもらおうとしている。
 自分は一体…どんな目で見られるというのか。
 不安になって、ぎゅっと拳を握りしめた。
 腰の剣は、すっかり使い古されてまるで自分の一部にでもなったかのように収まっている。
 この重さには完全に慣れていたが…、これよりももっと大きく重い剣を軽々と使いこなす兄を思うと、――まだまだ強くならなければならないと、思う。
 空を見上げた。
 白い鳥が力一杯にその翼を広げて飛ぶ空。
 あまりに美しく広がる青と、太陽のひかり。
 そうしてそれらに見下ろされる大地には、ひと……。
 漠然と、不思議だと思った。
 もしかしたら自分が今こうして生きていられることも。
 この町に人が流れていることも。
 この世界があることさえも。
 もしかしたら…それは幾億分の一の確立で成り立った奇跡なのかもしれないのかと――。
 そんなことを考えているうちに、兄はとある建物の前で足を止めたのだった。

「――ここが第二ギルドだ」
 兄はぽそりと呟いて、中へと進む。
 それは少々薄暗く飾り気のない食堂のようだった。ペンキがはげた看板には何が書いてあるのかよくわからない。
 後から聞いた話だったが、この町の正式なギルドは他にあるようで、ここは別名『裏ギルド』とも呼ばれる場所らしかった。
 普通のギルドでは貴族や民衆から依頼された仕事を登録者に紹介し、賞金を与える。
 しかしある程度名が通り、貴族や裕福な者から直接依頼を持ちかけられる場合、このような目立たない店で駆け引きをするのがセオリーなのだそうだ。
 ゆえによほど剣に精通したものでない限り、この第二ギルド――裏ギルドと呼ばれる場所に足を踏み入れることは許されない。
 そこは限られた者にしか知られない、歴史の裏に沈む逸史の世界なのだ。

 中はいたって普通の食堂だった。棚にはずらりと様々な銘柄の酒が並んでいることからして、夜には酒もだすのだろう。
 少々薄暗い中には質素な机が並んでいて、…そのいくつかは既に人がついている。
 だがその場にいる者は自分たちのような若者ではなく、そのほとんどがいかつい顔をした大人たちばかりで、こちらに顔が向けられるだけでどきりとしてしまった。
 まるで魔物の巣にでも迷い込んでしまったような心境になって足がすくむ。
 しかし兄はそんな視線を全く気にもせず、つかつかと歩いていって奥の方の席に腰掛けた。
 いかにもな面々が揃った店の中で、十代後半という兄の若さもさることながら、その銀色の髪はとても目立つ。
 軽く視線を投げる者、また睨みつけて舌打ちする者――店の先客たちの反応は様々だった。
 そうして…そんな彼らの視線は、やはり自分に向かう。
 当たり前だ、どうみても自分のような年の者が入るような雰囲気の場所ではない。
 だから、急いで兄の後を追った。
 逃げこむように隣の席に座って、兄の様子を伺う。
 だが彼は黙ってウェイトレスが運んできた水を一口、口に含んだだけだった。
「よお、クォーツ」
 瞬間、背後でした野太い声に心臓を跳ね上がらせる。
 反射的に振り向けば、そこに栗色の瞳が笑みを湛えていた。
 隣の机に座っていた男――20歳半ばくらいの、恐らく仕事仲間だ。
 椅子に座り足を組んで机に手をついたまま、大柄な彼は兄の背中に話しかける。
「今日は珍客を連れてきたじゃねえか。こいつが――噂の弟か?」
 きろりとその瞳がこちらを向いた。挑発的な視線は刺さるようで…目を背ける。
 男は笑ったようだった。
「はっ、無愛想なところはそっくりだな。まるで何年前かのお前がここに始めて来たときみたいじゃねえか」
 けらけら笑ってはいるが、…隙はない。
 直感でそう思う。
 ふと、兄が立ち上がった。
 そうして…男の方に振り向く。
 だから、同じようにして立ち上がった。
 しかし男とは間をあける。危険だと察知したものに近付きたくはない。
「……弟のスイだ。今回の仕事に同行させることにした」
 機械的な説明を口ずさむように呟く。
 とりあえず、会釈だけはしておいた。
 男は背もたれにどっかりと背中を預けて一層その笑みを深くしてみせる。
「――こりゃ実戦が楽しみだな。俺はヘイズル、お前の兄貴の仕事仲間だ。よぉリーフ、てめえも挨拶しろよ」
「あ…はい」
 ひょっこりとヘイズルと同じテーブルに座っていた青年が顔をだす。
 大柄な男にすっかり隠れていて気付かなかった。この場にはあまりふさわしくない、柔和な顔つきの青年だ。
 彼はにこりと裏のない笑みで会釈した。
「クォーツさんの弟さんですね。はじめまして、リーフといいます。仕事で一緒になったときはよろしく」
 リーフと名乗った男の隣にも一人、レイピアを携えた金髪の女性が座っていたが彼女はちらりとこちらを一瞥しただけだった。
 そのまま興味を持った様子もなく、一人頬杖をついて窓の外に視線をやっている。だからこちらも興味が沸かなかった。
 兄もまた、既に席について何をするわけでもなくじっとしている。
 とりあえず、数人による歓迎の言葉を軽く受け流してから元の席に戻った。
 先ほどよりも少し部屋の中に会話が多くなった気がする。
 『孤高の銀髪鬼』や『弟』という言葉がその合間に聞こえてくるのをみると――どうやら自分がここにきたことで話題が生まれているのかもしれないと、なんとなく感じた。
 あまり良い気分ではなかったが、何をすることも出来ないのでじっとしている。
 兄はいつもと同じように、まるで空気に溶けてしまうのではないかと思うくらいに微動だにしなかった。
 それから十数分経ったろうか……、一体何を待っているのかと兄に問おうとした…そのとき。
 ぱたん、と扉が開く音。
 誰かが入ってきたのに気付いて顔をあげた。
 ―――その瞬間、言葉を見失う。
 貴族だ。
 喉の奥が、そう無意識に呟いた。
 まるでこの場に似つかわしくない金髪。薄い空色の瞳に、人形のような整った顔立ち―――。
 年は十代半ばというところか…、だが幼い自分にとってはそれでも随分と大人びて見えたものだった。
 彼はそつのない動きで辺りを見渡すと――こちらに気付いてにこりと微笑みかける。
 横でかすかに兄の気配が動くのを感じた。
 どうやら兄は彼を待っていたらしい。
「すみません、遅れてしまいました」
 こちらに歩いてきた彼は反対側の椅子に座って軽く会釈。
 腰に携えていた大剣を優雅な物腰で机に立てかける。
 そんな仕草といい、髪の色といい、彼に一瞥しかくれない兄とは正反対のような人だと思った。
「おや…、そちらがスイ―――ですね?」
 彼の視線がこちらにやられる。…やはり、あまり人に見られるのは快く思えなかった。だから視線を返せずに軽く目は伏せたままだ。
「ああ」
 兄は短く答えた。
 どうやらこの金髪の青年はこちらのことを知っているらしい。貴族だとばかり思ってしまったが、剣の鞘の使いこみ方からしてもしかしたら兄と同じ仕事仲間なのかもしれない。
 その考えは、ほぼ的中していた。
 彼はハルリオと名乗った。
 元々は貴族だったらしいが、色々とあって今はこの町に半ば住みつくようにして仕事をしているらしい。
 恐らくこの場にいるのだから、随分腕はたつのだろう。…というよりも、もしかしたら兄と同じくらいに名声があるのかもしれない。金髪と銀髪の、しかも若い青年二人という姿はこの場であまりに目立つ。
 しかし、それ以上に幼い自分の方が目立っているのだと気付くには…自分はまだ幼すぎた。
「それで今回の件ですが―――」
 彼は荷物から一枚の地図を取り出して机の上に広げる。どうやらこの町周辺の地図のようだった。
「とりあえず手続きは全て屋敷の方で済ませてきました。向こう、目を丸くしていましたよ、あなたに弟がいただなんて」
 ハルリオは小さく瞳を伏せて笑う。
「是非今度会ってみたいと言っていました」
 その顔がこちらに向いた。
 だが、その瞳の深くはよく読み取れない。
「…仕事の詳しい内容は」
「はい」
 ハルリオの人差し指が地図の上をなぞる。丁度このレムゾンジーナの北部辺りだった。
「シェリオル家の屋敷建設がこの辺りに計画されているそうです。ですが少々凶悪な魔物が出没するとのことで、殲滅を依頼されました」
 それから彼は周辺の状況やそこに生息する魔物について穏やかな口調で説明してくれた。
 恐らくきちんと教養がなっているのであろう言葉遣いには、自分の知らないような単語もあって分からない部分もあるが、兄と同じく黙って聞いていた。
「これから森に入りますよ。準備はよろしいですか?」
 別段気にすることもなかったから、こくりと頷く。
 ハルリオは穏やかに微笑んだ。
「それでは――行きましょう」


 ***


 森は、逃げ出してきた日のことを思い出させる。
 かきわけてもかきわけても、同じ景色。
 兄が元から無口だからか、ハルリオも別段会話を投げかけてくるわけでもなかった。
 ただ、淡々と三人で進んでいく。

 そうして1時間ほど歩いたとき。
 不意に風に嫌なものが混じったのを感じた。それを察したのか兄もハルリオも足を止める。
「―――少々多いですよ」
 ハルリオの言葉に兄は無言で剣を引き抜いた。続いてハルリオも大剣を引き抜いたのを見て、自分も同じように抜刀した。
 気がつけば鳥の囀りさえ聞こえない。

 ぴんと張り詰めた静寂は―――突然大地を蹴った兄によって切り裂かれた。
 刹那、ハルリオも兄と反対方向に飛び出す。
「…―――っ!?」
 どうしていいかわからずに二人の飛び出した方向を見渡した瞬間、殺気を感じて慌てて背後に飛ぶ。
 コンマ3秒の違いで木の上から灰色の影が飛び掛ってきた。
 反射的に横に凪いだ剣に、ガキン、という感触。
 相手は野犬の二倍はあるかという犬のような魔物だった。今の感触は丁度その巨大な牙に剣が当たったのだ。
 すぐさま一度剣を引いて、切りかかる。既に展開の速さに恐怖すらとんでしまっていた。
 魔物の赤い瞳がギョロリとこちらを見据え、唸り声をあげながら爪の生えた太い腕を振り上げる。
 しかしそれが振り下ろされるよりも速く、突くようにして振るった剣は魔物の喉笛を捉えていた。
 ―――ドスッ!!
 次の瞬間、剣から腕にかけて伝わる――鈍い感触。
 肉を切り裂いた感覚は、吐き気をもよおすくらいの不快を与えた。
 そうだ、今…自分は。
 兄との練習で戦っているのではない。
 命を、斬りつけている。
 剣を引き抜いた一瞬、足がふらついた。視界が数秒、―――死ぬ。前が見えない。
 顔をわずかにしかめて平衡感覚を保とうとする。
 ぴっとなにかが頬をかすめた。生暖かい感触にぞくりと心臓が震える。
 跳ねる動悸を抑えて、前を見ようと顔をあげた。
 瞳が動くものをとらえる。歯を食いしばって、前を見据えて――。
 これが、自分の選んだ道なのだから。
 自分は自ら、この道を選んだのだから。
 こうしないと、生きられないのだから――。
 視界がぐるぐるとまわる。
 むせかえるような血の匂い。
「――――っ」
 目の前に、既に次の魔物が迫っていた。
 鋭く光る牙がこちらに向く。剣を急いで振ろうとするが…手が凍りついたように動かなかった。
 張り付いた喉が声をだすことも許さない。
 こちらの肩にかぶりつこうと、魔物が大地を蹴って飛び掛かってくる。
 その速さに、――思わず本能が恐怖を覚えた。
 手が真っ白になるくらいに握り締めた剣を、前に掲げる。
 次にくるであろう衝撃を待って、歯を食いしばった。

 ――――。

 ふっと瞳を開く。
 魔物との激突による腕への負担は…なかった。
 目の前の視界には……銀色の、兄の姿。
「…戦闘中に目を瞑るな」
 ぼそりと、そんな声がした。
「――――…?」
 ようやく辺りを見回す。
 既に目の前の魔物は兄の剣によって絶命していた。
 しかも、辺りには既に十数匹もの魔物の死骸が散乱している。
 もう生きている魔物はいないようだった。
 ―――これの全てを兄とハルリオだけで、しかも…恐らくは1分もかからずに倒してみせたというのか。
 思わずごくりと唾を呑む。自分などやっと一匹倒しただけだというのに。
「…でないと、一人で戦ったときには誰も守ってはくれない」
「でも初めての実戦だったのでしょう? それだけ戦えただけでも上出来ですよ」
 剣についた血のりを拭き終わってチン、と小気味良い音と共に鞘に戻したハルリオがこちらに歩いてくる。
「――それにしてもこの辺りでは見かけない魔物ですね」
 彼はかがんで魔物の姿をじっくりと観察した後、そう呟いた。
 少々不思議に思って尋ねてみる。
「…ならどうしてここに?」
「ええ」
 ハルリオは苦笑した。
「おそらくは『嫌がらせ』でしょうね。この辺りに貴族が屋敷を立てるということを知った貴族に敵対する方々が、この魔物を放ったりでもしたのでしょう」
 世の中どうにもなりませんね、と肩をすくめる。
「ですが、この魔物は群れで行動するのでもうこの辺りに他はいないと思いますよ」
 兄の方を見ると、既に剣を仕舞っていつもと同じように無言で佇んでいた。
 ハルリオはにこりと笑う。
「――早めに終わってよかったです。スイもはじめてでしたからね―――」
 その笑顔に覚える違和感が、…まるで今魔物を斬ったというのに顔色一つ変えない所から来ているということに気付くのは―――、まだもう少し後のことだった。


 ***


 やはり実戦というものは兄と練習しているものとは違うもので。
 相手が殺気を持ってして襲い掛かってくると…まず迫力が違う。
 しかし、それも何回か仕事に連れて行ってもらうごとに慣れていった。
 そうして…自分は、兄の強さを改めて知ったのだった。
 どんな相手にも容赦がない。ただ淡々と剣を振り下ろす。
 銀色の髪を血で汚してでさえ―――彼は剣を振るい続けた。
 自分はそんな後姿を見つめながら……。

 まだ、暗闇の中。


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