-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 八.橙色の記憶

098.Plumeria-日溜り-



 意識が一番深いところまで落ちていた。
 陽だまりに包まれたように温かい場所。
 たとえそこに何もなくとも、――それでもその場所にいたくなるくらいの静けさ。
 ふっと心の縁を指でなぞられたような感触を感じる。
 それは振動となって静かにこちらまで届いてきた。
 だけれど…それすらとても穏やかで優しく、まるで子守唄のようにすら思えて。
 流れるままに身を任せて、預ける。
「―――ってば……」
 遠くにそんな声。
 聞いたことのある声。
 一体誰だったろうか―――。
 そんなことをぼんやり考えていると、…突然耳元で大音量の声が炸裂した。
「起きなさいってば!! あんたここで一晩明かすつもりっ!?」
 まるで一気にシャッターを開かれたように飛び込んでくるひかり。
 だがそれもある程度慣れれば、きちんとした情報として取り込むことが出来る。
 そこには、情景が広がっていた。
 橙色に沈む町。
 まばゆいばかりに煌く海。
 燃えるような草原の中―――。
 若草色の少女が、呆れたような顔で……横に、いた。
「――――フレア?」
「ったく、やっと起きたわね」
 むくりと起き上がって額に手をやる。
 どうして寝ていたか考える前に、彼女の手が伸びてきて髪についた草をはらっていった。
 ふわっとやわらかな香りが風にのってかすめる。
 それと一緒に彼女の声が届いてくる。
「あなた、見事にやられたわね。クォーツさん、これから仕事だっていって先に帰っちゃったわよ」
「………」
 思い出した。
 確か今日も同じように兄に剣の練習をしてもらっていたのだ。
 しかし最近になって自分の腕も上達してきたのか――、兄は剣を払うだけではなく向こうから振り下ろしてくるようになった。
 それで、兄の剣の柄の部分が不意に自分の首のあたりに激突して―――。
 そのまま気絶してしまったのだろう。
「はい、お茶。飲むでしょ?」
 こぽこぽとフレアは持ってきた水筒からカップに茶を注ぐ。
 差し出された茶を受け取って、一気に飲み干した。
 乾ききった喉が心地良く潤う。再び差し出された手にカップを返すと、彼女はまたつぎ返して渡してくれた。
 フレアははじめて会った日からほぼ毎日といっていい程、この草原にやってくる。
 普通、同世代の友人などと遊んでいるような年頃だと思うのだが、…彼女がそうやって友人たちと一緒にいるところは見たことがない。
 どうしてだろうと何度も思ったが、訊いてみたことはなかった。
「でもさ、それってちょっとスイが上達したってことじゃない?」
 弾むような声で彼女は言った。
 眼下に町を見下ろし、そうしてその先の海すら見渡せる草原には二人だけ。
 まるで海のようにそよぐ背の高い草がその影を隠しているようにも見える。
 視線を彼女の方にやると、少女は手をぱちんと叩いて見返してきた。
「うん。だってさ、クォーツさんが思わずスイに攻撃しちゃったってことは『手加減できなかった』ってことだと思うのよ。つまり、クォーツさんが手加減出来ないくらいにスイが強くなったとか」
「……そうかもな」
 まるでフレアは自分のことのように喜んでいるようだった。
「なら今日は記念日じゃない? スイが始めてクォーツさんに手加減を許さなかった日」
「長いな」
「うるさいわねっ、いいから喜んでおきなさい!」
 背中をばんばん叩かれる。
 しかしそれも束の間、彼女は怒り顔から笑顔に戻してみせる。
 穏やかな夕日に照らされた、きらきらひかる笑顔だった。
「でもね、本当にスイは強くなったと思うわよ」
「そうか」
「褒めてあげてるんだからもう少し気のきいた返事しなさいよ…」
 軽く瞳を伏せて頬を指でかく。
「全くスイらしいわね。昔と全然変わってない」
 ほんの一瞬、泣き笑いのような顔をして。
 だけれど、それは幻だったのではないかと疑うくらいに次の瞬間にはいつもの彼女がそこに座っていて。
 しばらく二人で落ちていく夕日を眺める。

 そんなフレアは遠い海を眺めながら、不意にぽつりと呟いた。
「クォーツさんはね」
 彼女と同じように海に視線をやる。
 山の向こうから降り注ぐ最後の夕日に照らされて、水面も空も、その境界線ですら橙色に染まっていた。
「小さい頃に家族全員なくしちゃって。それから親戚中たらいまわしにされたらしいのよ」
 ふっとその言葉はまるで心の表面をなぞるような感じがして、なにかが揺らめくのを感じる。
 フレアは続けた。
「でもね、ああいう性格してるでしょ? 結局ひとりになって、…うちのお父さんからも嫌われて…同じ町に住んでるのにね、全く交流がないのよ」
 いつだったか前のことを思い出す。

 ―――…でも大丈夫なのか、お前
 ―――お父さんには言わせておけばいいのよ。私のすることなんて、私の自由だもの

「クォーツさんは、きっと不器用なだけ」
 若草色の長い髪を肩から流して、少女は誰にともなく呟いた。
「孤高の銀髪鬼、とか呼ばれてるけどね…、ただ人一倍、ひとのことがわかるんじゃないかなって思う」
 ひとつ、ひとつ。
 言葉が―――零れていく。
 その言葉の流れを。
 ただ、じっと見つめて―――。
「だから、ひとの哀しみとか苦しみとか――知っているから、どう付き合っていいんだかわからなくなって」
 白くしなやかな指が髪を耳にかける。
「だからいつも一人……そういうの、私の思い込み、…かな?」
「……―――」
 答えられない。
 そうだ。
 いつだって自分は…自分のことしか考えていなかったから。
 自分が生きることしか――考えていなかったから。
 兄がどんな想いで生きているかなど―――。
「わからない」
 小さく、呟く。
「―――俺は」
「だぁかぁらぁね、スイ! 私が言いたいのは!」
 彼女の手がのびてきて、頬を思い切りつねられた。
 否応なしに彼女の方に顔を向けさせられる。
「あんた、弟なんでしょ! 弟だって、クォーツさんに言ってもらったんでしょ?」
 強い瞳だ。
 兄とはまた違った、射抜くように輝く瞳。
「なら、あんたまでそんな根暗ぶっこいててどうするのよっ! もうちょっと人生簡単に考えたって誰も責めやしないわ!」
 夕日に包まれて、橙色に包まれて――。
「人の顔色じろじろ伺って行動してたんじゃ暗くなるだけよ。どーんと構えてなさいっ!」
 座ったまま器用に胸を張ってみせる。
 この少女は、生きている。
 そう心から思えるくらいに、生命の力がその瞳からほとばしっているようだった。
「そのくらいのびのびしてた方が、きっとクォーツさんも喜ぶわよ」
 不意にふんわりと笑みが滲む。
 夕日の似合う微笑みだった。
「それにね、多分クォーツさんは――――」
 ふっと頬をつまんでいた指を離して、再び眼下の町を見下ろす。
 その情景に見入っているのか、彼女はじっと口を閉ざして――。
「…ううん、なんでもないわ」
 独り言を言うかのように、呟いた。
 僅かに俯いて、自身の手を眺める。
「スイはさ、どうして剣を習いたいって思ったの?」
 彼女の手が自分の手をとって、見比べてみせた。
 相次ぐ戦闘と、日々の練習のせいでぼろぼろになった自分の手と。
 小さくてやわらかな、少女の手。
 ただひとつ共通点があるとすれば、どちらも夕日で染まっているということ。
「…強くなりたいから」
 無意識と思えるくらいに自然に言葉が零れていた。
 そうだ…、そうでないと生き残れないくらいに。
 ――この世界は、美しく厳しいものなのだから。
「ふーん、…どのくらい強くなりたい?」
 擦り傷や切り傷、まめの潰れた痕など…お世辞にも綺麗とは言いがたい手を、彼女はじっと見詰めていた。
 自分は、ただ視線を遠くの空に彷徨わせながら答えを呟く。
「…クォーツくらいに」
 フレアは瞳を伏せた。
「クォーツさん、…多分、そんなに強くないわよ」
「――――?」
 不意に彼女の声が小さくなる。
「…ただ、強く見えるって…それだけのことだと思う」
 少女の手が、自分の手と重なって。
 風は草原を撫でることはできても、影を撫でることは出来なくて。
 静かに…穏やかに時が流れる。
「スイだって、強いわよ」
 噛み締めるように、その声は聞こえた。
 だけれど心の奥底まで届いてくる、…嫌ではない音。
「スイの強さは――こうやって、頑張れること」
 したたかで、真っ直ぐで―――。
「どんなことだって、くじけたり逃げたり…しないこと。真っ直ぐ生きれること。それって、すごいことだと思うわ」
「―――でも」
 あの家からは逃げたんだ、と呟こうとした声は、少女の声にかき消された。
「でも、じゃないのっ! だからね、褒めてあげてるときは素直に受け入れるっ!」
 噛み付くようにそう言われる。
「ほぉら、立って。そろそろ帰らないと真っ暗になっちゃうわよ」
 フレアは勢い良く立ち上がると、くるりとこちらを向いて手を差し出した。
 空になったカップを渡して、こちらも立ち上がる。
 いつだったか必死に持ち上げていた剣は、既に重みを感じられなくなるくらいに軽く思えるようになっていた。
「――――それでも」
「うん?」
 いつのまにか、心がそう呟いていた。
「…それでも、クォーツは強いと思う」
 ふわっと吹き抜ける風が、少女の髪を軽やかに躍らせる。
 それはとても鮮やかで、目に焼きつくような光景だった。
 フレアは暫くじっとこちらを見つめていたが…、最後に小さく頷いてみせる。
「……そうかもね」
 体の重さを感じていないような軽やかな足どりで、前に進んで。
「でも、…とても哀しい強さよ」
 流れる髪に手をやって、こちらに振り向く。
 だから、潤んでいるようにも見えるその瞳を見つめて言った。
「……それでも…俺は」
「スイは…っ!」
 突然彼女はわずかに声を荒げた。
 1日の最後のひかりをその身一杯に浴びて。
 はっとするほど深い視線で。
 ほんの少し、寂しげな瞳が、何の濁りもなくこちらを見つめていた。
 囁くように…彼女は問う。
「―――スイは、そういう生き方しかできない……?」
 その言葉に、胸が締め付けられるような気がした。
 しかしその理由が…見つからない。
 やはり、夕日は相変わらずとても綺麗で。
 こちらを見つめる瞳を、ただ見返すことしか、出来ない―――。

 そんな自分たちのことを知らずに。
 季節は穏やかにゆるやかに、移ろい過ぎてゆく。
 …決して、後に戻ることはできないのだ。


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