-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 七.想いはちぎれて

093.ピュラと、スイ



 ―――そうねえ、まあ魔物を200匹くらい倒してもらおうかしら
 それが、ピュラの悲劇の始まりであった。
 山の奥につれていかれ、ぽっかりと空いた穴の前に辿りついたときのことである。
 ディリィに笑顔でそんなことを言われたかと思えば、突然背中を勢いよく押されて。
 目の前の怪しげな穴に突き落とされて。
 本人は先に帰っているとかのたまって。
 落ちた穴の奥の洞窟はそのまま、魔物の巣窟になっていたのだった。
 休む暇もなく連戦、連戦、連戦。
 出口への道など分かるはずもない。
 3日、脱出に要した。
 何度か死線を越えそうにもなった。
 文字通り、ボロボロであった。
 それで、やっとのことでふらつく足取りで洞窟を抜け出した彼女だったのだが。
「………―――」
 暫く、俯いたまま洞窟の前で佇む。
 すると……不意にその肩が、震えた。
「ふ…っふふふふふ…」
 恐ろしすぎる笑いが、その可愛らしい唇から漏れる。
 目が、本気だった。
「………ディリィ…」
 呪うべき相手の名を口にする。
 しゅっ、と横の木に向けて拳を繰り出した。
 ―――ばぎゃす。
 仮にも直径40センチはあろうという木が、見事にへし折れた。
 驚いた鳥たちが一斉に飛び立つ。
「今度という今度という今度は許さないわよ……?」
 呪詛の言葉を吐きながら、ピュラは歩き出した。
 今の彼女に歯向かう者には死あるのみ、である。
「何が楽しくて三日間もあんな暗い場所にいなきゃならなかったのよ!」
 ばきょばきょばきょっ!!
 衝撃で左右の木すら破壊された。
 無論そんなものにはお構いなしで、ピュラは足音荒く突き進んでいく。
 さっさとレムゾンジーナに戻ってしまいたかった。
 そうだ、帰ったらディリィの顔に拳の一つや二つ――。
「………―――無理」
 ぼそっと無意識の内に呟いてしまう。
「い…いいえっ! でも恨み言のひとつやふたつ言ってやるんだからっ!」
 空元気を振りまいて、虚勢を張った。
 …虚しくなるだけだった。
 だからもう一言を自身に言い聞かせようとしたそのとき―――。
 不意に彼女は構えをとって後ずさった。
 橙色の瞳が鋭く細み、耳元のピアスがちらっと瞬く。
 背後から、気配がしたのだ。何物なのかはわからない。ただ、気配を全く消していないことからして……もしかして森で迷った者なのかもしれなかった。
 否、人間であるかどうかもわからない。もしかしたら洞窟の外まで追ってきた魔物なのかもしれない。
「…ったく、いい加減にしなさいよね」
 一人そう愚痴ると、ピュラは更に気配を消して様子を伺う。
 がさがさと、草むらの向こうでなにかが動いた。
 そうして…影が、ゆっくりとこちらに近寄ってくる。
「…―――」
 ピュラはますます緊張感を高めてその気配を探った。
 がさがさ。
 がさがさ。
 がさっ。
 地味なブーツが、見えた。
 木に手をついている。
 人間、だ。
 ピュラは目を丸くした。
 その影の正体が……普段からよく知っている者だったからだ。
「――――え?」
 思わず口元に手をやる。呼吸すら忘れて、その姿を見つめる―――。
「スイ?」
 こちらを、海の色をした瞳が見つめていた。
 普段と変わらぬ無表情。どことなく影を含んだ出で立ち。腰には使い込まれたぼろぼろの鞘。
 しかし…その様子がいつもと違ったのが、彼女が次の言葉を紡ぐのを拒んでいた。
 違和感がする。普段の彼とは雰囲気が、違う。ピュラはそう直感する。
 そうだ、この表情は―――。
 あの、グリムリーズの町を出た後の夜明け前の草原。
 そのとき垣間見えた、憔悴しきった表情―――。
「……どうしたのよこんなところで」
 ピュラは努めて冷静にそう言った。スイは……こちらを見つめたまま、動かない。
 ただ……その唇が僅かに動いていたということにピュラが気付くのには十数秒を要した。
「……え?」
 なにかを……呟いている。
「―――どうしたの?」
 ピュラは足を一歩、踏み出した。明らかに様子がおかしい。
「――間に……った…」
「は?」
 ぐらり、とスイの体が傾く。反射的にピュラは駆け出していた。
 だが…近寄って彼の瞳を見つめた彼女は…、思わず背中に冷たいものが駆け抜けるのを感じる。
 その瞳は……何も映していなかった。
 海の瞳が宿しているものは、……虚空。
「ちょ、ちょっとスイ!?」
 このままではいけない、と彼女の心の中でシグナルが甲高く鳴り響く。
 ぐいっと彼の胸倉を掴んで揺さぶった。
「大丈夫!? ちゃんとこっち見なさいよ!」
 幾度か頬を叩いてやると……ぼんやりと宙を彷徨っていた彼の瞳が、こちらを捉える。
「………ぁ…」
「スイ、私のこと…見えてる?」
 彼の服には、血がべっとりとついてどす黒く変色していた。
 恐らくどこかで人を斬ったのだと…ピュラはすぐに理解した。
 彼の瞳を射るようにして見上げる。
 すると……不意に、―――スイの顔が歪んだ。
「―――――っ!?」
 ピュラは思わず言葉を失った。
 彼がこんな表情をするのは、初めてだった。
 苦しそうな、つらそうな――、崩れ去ってしまいそうな顔。
 どくん、と心臓の音が強く跳ねる。
 まるで今にも泣き出しそうな顔をしたスイの喉が…渇いた音をたてた。
「……るし…」
「スイ…?」
 それは、彼の心の叫びだったのかもしれない。
 むき出しになった心が、慟哭に悲鳴をあげる音だったのかもしれない。
 ピュラは、確かにその心を締め付けるような声を…聞いていた。

「―――許して、くれ………」

 まるで、糸の切れた操り人形のように。
 彼の意識は……そこで、途切れた。
 どさり、と力なく倒れた彼の体を受け止めたピュラだったが…女一人で体重を支えられるわけもなく、すぐにその場にへたりこんでしまう。
「ちょっ…スイ、大丈夫!?」
 慌ててピュラは彼の口元に手をあてて呼吸を確認した。首筋に指をやって脈もとる。
 だがどれも異変は見当たらないということを確認すると、彼女はどっと疲れたのか肩を落とす。
 豊かな赤毛に手をつっこんで、溜め息。
「………ったく」
 ぼんやりと呟きながら倒れたままのスイを呆れたように見下ろした。
「…私にどうしろっていうのよ……」
 ちなみにレムゾンジーナまでは、遠かった。


 ***


「おや、ピュラさん」
 出迎えてくれたのはハルリオだった。
「わっ……な、なんでここに!?」
「ええ、ちょっと訳あってご一緒させていただくことになったので」
 にこりと同性でも見とれるような笑顔を浮かべる。
 廃墟の町レムゾンジーナの風は相変わらず強く、ピュラは少々乱れた髪に手櫛をいれながら頷いた。
 するとハルリオが少々怪訝そうな顔をする。
「おや……それは」
「ええ」
 ピュラはにこりと最上級の笑顔で応対した。
「ちょっと山奥で拾ったのよ」
 ただ、少々ばかりその笑顔が引きつっていたのがハルリオに察知されたかは定かでない。
 彼女は、森に生えていたツタで作った即席ロープの末端を握り締めていた。
 その逆の末端には…服はぼろぼろ、髪にいくつも木の葉をつけて体中傷だらけ、という見るも無残なスイの姿。
 腰のあたりにロープが縛り付けてある。
「ほ、ほら、なんか倒れちゃってね、女手ひとつで運んでくるのはちょっと辛いから」
「引きずってきたんですか」
 的中だった。
 ピュラはハルリオの洞察力に思わず拍手を贈りたくなった。
 スイが倒れてしまった後、色々と彼をレムゾンジーナまで運ぶ方法を考えた末の決断である。
 あんな場所で倒れる方が悪いのだし、しかも引きずっていても全く目を覚まさないのも彼のせいだ。
 …そう納得してピュラは、ずるずると山道をスイ片手に歩いてきたのだった。
 気がつけばどこでぶつけたのやら、彼の姿は壮絶なものになってしまったが……見なかったことにした。
 全て、倒れる彼が悪いのである。
 ハルリオは呆れたように笑ってみせた。
「…でも途中で倒れて誰にも発見されないよりはいいですからね。ヘイズルには私から言っておくので、スイを部屋に連れていってやって頂けますか?」
「え…ええ、分かったわ」
 ピュラは少々ぎこちなく頷くとロープを握りなおして、またスイを引きずっていった。


 ***


 とりあえず、部屋には無事についた。
 ベッドがひとつに机がひとつ、という質素極まりない部屋だった。といっても仮眠室なので必要以上の設備がないのは当たり前だ。
 ひとまずはスイのロープをほどいて、彼を起こしてやることにする。
 すっかりディリィに文句を言うことなど忘れてしまっていた。
「スイ、着いたわよ。いい加減に起きなさいってば」
 軽く揺さぶったり叩いたりしてみるが……反応は、ない。
 考えてみればロープで山道を引きずっていっても全く起きる気配もなかったのだ。よほど深い眠りに落ちているのだろう。
「……仕方ないわね」
 ふう、と軽く溜め息をつくとピュラはとりあえずこのままスイをベッドの上にあげることを決断した。
 流石に着替えさせるわけにはいかないが、剣だけは外しておくことにする。
 腰のベルトから金具を外して大振りの剣を持ち上げる。
「って、重……っ」
 思わずその重さにピュラは剣を取り落としそうになった。
「こ、こんなに重い剣使ってたの…?」
 記憶によれば…スイは確かこの剣を片手で扱っていたはずだ。
 ずしりと重い鋼の塊は、常人であれば両手でやっと持てる程の重みがあった。
 …暫し呆然としていたが、なんとかベッドの横に剣を立てかける。
 その後、少々手荒ではあったがスイの胸倉を掴んでベッドの上に乗せることに成功した。
「ったく、どこまで世話が焼けるのよ」
 ぴくりとも動かずに眠り続ける彼にシーツをかけながら、思わず悪態をつく。
 しかしそれも束の間、ピュラは一つの疑問を自身に投げかけていた。
(…そういえばスイ、なにしてきたのかしら? よっぽどダメージ大きかったみたいだけど)
 首をひねる。返り血を浴びていることからして、誰かと戦闘になったのは察することが出来るが――。
 部屋は…静寂だ。彼の規則正しい寝息だけが僅かに聞こえる。
 ピュラはふとスイに視線を落とす。
 あまり表情の動かない端整な顔立ち。ぴくりとも動かない。雑に切った紺碧の髪が目蓋にふわりとかかっている。
 こうしてみると、スイはとても幼く見えた。まるで年上とは思えない。むしろ疲れきって眠ってしまった子供のような印象すら与える。
 不意にあのときの歪んだ表情が思い出された。
 ただひたすら苦しそうな…崩れ落ちてしまいそうな、危うい顔。
 ずっとずっと、彼はそんな内側を隠してきたのかもしれなかった。きっと……誰にもその心を伝えることも出来ずに。
 それがスイという人間なのだ。
(まあ……ゆっくり眠れば体力も戻るだろうし、余裕もでてくるでしょうからね)
 そう納得すると、ピュラは踵を返して部屋を後にした。
 きっと明日にはいつもの彼が部屋から出てくるのだと、そう信じて―――。


 ***


 部屋の外ではハルリオが待っていた。
「スイの様子はどうですか?」
 ピュラは肩をすくめてみせる。
「すーっかり眠っちゃってるわよ。あれは大地震がきても起きないわね」
「おやおや」
 彼は苦笑しながら持っていたカップの一つをピュラに渡す。
 ピュラは礼を言って受け取ると、傍にあった椅子のひとつに腰掛けた。
 仮眠室の近くだからか、人通りは少ない。辺りは静まっていた。
 ハルリオもピュラの隣の椅子に座る。
 暫くは二人でカップの中の茶を飲んでいた。
「ピュラさんは休まなくても平気ですか?」
「ええ、そんなにヤワじゃないし」
 スイもあんなことになってるし、と付け加えるとハルリオはまた僅かに苦笑した。
「でもおかしいのよね、スイ。なんか森の中で会ったかと思えば意味不明なことぶつぶつ呟いてるし」
「意味不明なこと?」
 ハルリオが怪訝そうな顔をする。
 ピュラは頷いてちらりとスイの眠っている部屋の方に視線をやった。
「ええ。なんか…間に合った、とか…許してくれ、とか……」
 言葉を聞いていく内にハルリオの瞳の色が一層深まる。
「………そうですか…」
 彼は溜め息をつくように、呟いた。
 茶を一口、口に含んでからハルリオは続ける。
「ピュラさんは、昔のスイがどんなことをしていたか知っていますか?」
「え?」
 出し抜けに問われて、ピュラは首をかしげた。
 見上げたハルリオの空色をした瞳は…深い。
 しかしさしてピュラはそれにたじろぐこともなく答えていた。
「えっと……孤高の銀髪鬼の弟として…お兄さんに剣を習ってたんでしょ?」
「―――フレアのことは知りませんか」
「フレア?」
 ピュラは聞き返す。
 ハルリオは、ふっと穏やかに微笑んでから視線を宙に彷徨わせた。
「……そんなひとが、いたんですよ」
 そういえば、とピュラは思い出した。
 ハルリオは孤高の銀髪鬼クォーツ・クイールの友人であった者なのだ。
 つまりは、スイの過去もよく知っているということか……。
 ―――ということは。
「ハルは……どうして孤高の銀髪鬼が死んだのか、知ってるかしら?」
 ピュラはそう問うていた。
 ずっと気がかりだったことだ。
 最強とまで言われた孤高の銀髪鬼は、一体誰に殺されてしまったのだろうか。
 スイには聞くに聞けなかったが…ハルリオになら聞くことが出来た。
「そうですね―――」
 彼は遠い記憶に想いを馳せているのか、瞳を閉じて呟く。
「見たわけではありませんから、真実は知りません。ただ……予想はつきますよ。彼とは長い付き合いでしたから」
 ピュラは次第に興味を持ち始める。
 今までは噂でしか聞いたことのなかった、孤高の銀髪鬼の本当の物語に。
 人は強くなくては生きていけない。こんな時代で生きていくには、強くあるしかない。彼女はそう思っている。
 だから―――最強とも言われた孤高の銀髪鬼には元々興味があったのだ。

 ピュラにそう乞われたハルリオは静かに語り始めた。
 クォーツ・クイールという、とある一人の人間の物語を。
 そして……その影にいた、スイ・クイールという―――小さな少年の物語を。

 橙色に染まりきった、眩しい眩しい…記憶、を。

 -Bitter Orange, in the Blaze-

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