-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 八.橙色の記憶

094.Prologue-はじまり-



 自分の手の平を見つめて
 その指を動かせて
 そのまま握り締めて
 血が滲むほどに握り締めて
 自分がここにいるのだと
 そう感じて

 信じて

 起伏のない大地が目の前に広がっているとして
 まだこの足は走れるだろうかと思って
 前に歩き出して
 しかしあまりにも風が強くて
 どこまでも寒くて
 砂嵐に叩きつけられて
 気付いたらもう走れなくなっていて

 膝をついて手を伸ばした

 陽のひかりを手に受けて
 閉じ込めるように握り締めても
 滴るのは垂れ流された血流の紅
 どうすればいいかと考えて

 ひとり泣いた


 Bitter Orange, in the Blaze.
 八.橙色の記憶


 ***


 黒。
 黒が、あった。
 なにもないから黒なのか。
 それとも黒が全てを覆い尽くしているのか。
 ぼんやりとそこにある、意識。
 どこまでが自分なのだかわからない。
 この空間のようなもの自体が意識なのか。
 それとも自分の意識がこの空間に漂っているのか。
 なにも聞こえない。
 耳という器官がないから聞こえないのか。
 それともはじめから無音なのか。
 別人を動かしているかのように、体は動かない。
 どこまでが自分なのかもわからないのだから。
 どこをどう動かせばいいのかもわからないのだから。
 普段は当たり前に無意識に動く体は、

 当たり前が崩れ去って、黒に溶ける。

 そこにひとつ、雫が落ちて波紋を呼んだ。
 一番奥底にある記憶。
 美しいひかり。
 まるでたった一つの命などどうでもいいように、ひかりは全てに降り注ぐ。
 残酷で、穏やかで、やわらかな、
 それは目を開けていられないくらいの橙色。

 そんな、ひかりの中に。

 強い強い、ひかりの中に。


 がさがさ。


 がさがさ。


 細い足が黄昏を迷う。
 今にも折れてしまいそうな影が揺らめく。
 ゆるゆると腕を流れ落つ、深紅の滝。
 もう意識を手放してしまいたい、しかしその痛みが意識を縛り付けて離さない。


 がさがさ。


 がさがさ。


 まばゆい橙色の夕日が照らす草原の中。
 全てが燃えるような橙色へ。
 懐かしい景色。痛んで彩度は落ちているものの、知っている風景。
 自分のいた場所。
 気がつけばいた場所。
 光を宿していなかった、養父。
 そこらの石でも見るかのように蔑みの視線を送っていた、実母。

 おまえさえいなければ。
 おまえさえいなければ、わたしたちはしあわせなのに。

 なにも、なにも、もらうことはなかったと思う。
 振り上げられた手が、体を軽々と弾く。
 血が、口から滴る。
 そこから助かる術といえば、ただ黙って身を固くしているだけで。
 涙さえ流さずに、うめき声の一つもあげずに。
 いつのまにか顔に表情がでることもなくなって。
 言葉も少なくなって、全ての感覚や感情が起伏を伴わなくなって。
 なにもすることが出来なくなって。
 なんとなく、生きていて。
 その痛みが当たり前になっていて。
 そうして、最後は逃げ出した。
 ナイフを持ち出した親の目は、やはりなにも映していなくて。
 あるのは透明の憎しみと、軽蔑の情。
 もうここに居場所はないのだと、

 腕を切りつけられたのを最後に、走り出していた。


 がさがさ。


 がさがさ。


 そうして、森を抜けた黄昏の草原の中。
 草をかきわける音。
 幼い少年が一人で歩けるほど自然は優しくなくて。
 走ることも出来なくなって、どこまでも続く夕日の中を、歩いていた。
 ここがどこなのだか、わからない。
 どちらにいけばいいのか、わからない。
 あのときに、あのままナイフに身を投じていればよかったのか。
 どちらにしろ結果は同じだったか。
 全てがぼやけて見える。
 なにひとつとして、わからない。
 耳が、痛い。
 体に触れるものの全てが、痛い。
 まばゆい夕日だけが、美しくて。
 目に、痛かった。


 がさがさ。


 がさがさ。


 背ほどもある草原の中。
 辺りは全て森が広がり。
 その全ては橙に染まって。
 燃えるようなその橙に。
 ふと、煌くものを見つけていた。

 銀。
 きらきら煌く、銀色の髪。
 思わず見入る綺麗な色。
 それが人だと気付いたとき、思わず身を固くしていた。
 彼の目の前に、巨大な魔物。
 明らかに敵意を持って彼を見落ろす、獣。
 しかし怖じのひとつも見せずに、
 彼が持っていた剣が、弧を描いた。
 美しい銀が、宙を舞う。
 鮮烈な紅が、それを彩る。
 まるで夢でも見ているような気分で。
 夕日に煌く剣の肌と。
 倒れる魔物を、じっと見つめていた。
 演劇かなにかを見ているような錯覚に陥っていた。
 そのくらいに迷いもなく、物事が当たり前のように進んでいた。
 返り血で汚れた頬をゆっくりと拭った彼は。
 こちらに気付いて、目を細めた。
「―――だれだ」
 他から見れば、まだ14程度の少年が。
 こちらにとっては、ずっとずっと高みにいる人に見えていた。
 自分の姿を見留めた彼は、なにを考えているかもわからないような顔で。
「――迷ったのか」
 剣をしまって、こちらに近付いてくる。
 強い瞳。圧倒される。
 夕日で橙がかった銀髪は、きらきら煌いて。
「…怪我をしているのか」
 独り言のように呟いた彼は、こちらと同じ目の高さまでかがんだ。
「みせてみろ」
 みせるほかに選択肢はないように思えていた。
 なにひとつ、言葉を漏らすことも許されないように思えた。
 だから、切りつけられたままになっている右腕を、差し出す。
 血が、夕日にてらてらと照らされていた。
「――よく我慢できたな」
 彼は言って、布と包帯を取り出した。
「痛むぞ」
 薬品が塗られた布が、傷口をこする。
 体中に電流を走らせたかのような痛みが走る。
 しかし、うめき声の一つもたてずに、ただ唇を噛んでいた。
 丁寧に血はぬぐわれて、細い腕に包帯が手際よくまかれた。
「泣かないのか」
 最後まで動かなかったこちらの顔を伺うようにして、彼は言う。
「――帰るところはあるのか」
 …ためらった後に、やっと分かるくらいにかぶりを振ってみせた。
 相変わらず、顔にはなにも浮かばなかった。
 なにひとつ、感じなかった。
 全ての感覚が、脳にたどり着くころには苦痛にすり替わっているようにさえ思えた。
「これからどうしたい」
 これから。
 …これから―――。
 夕日は眩しく照らしていた。
 世界は美しかった。
 汚れのひとつもなかった。
 なにも感じないと思っていた。
 しかし美しさは変わらずそこにあった。
 自分はだれなのだろうと思った。
 どうすればいいのだろうと思った。
 そうして大地を踏みしめる足に気付いた。
 こんなにまで傷ついて苦しんで。
 しかしまだ歩いている。
 まだ歩ける。
 走ることはできなくとも―――。
 自分を、もう少しだけ信じていられると、思った。

 だから。

 願うこと。
 想うこと。
 ひとつだけ、口にした。


「つよくなりたい」


 一瞬だけ、彼の目が揺らめいた気がした。
 橙に照らされた瞳が、その深みを増していく…。

「―――歳は」

「8歳」

「名は」

「スイ」

「―――この時代に生きていけるくらいに強くなりたいか」

 頷いた。

「―――どんな苦しい道であってもか」

 再度頷いた。

 彼もまた、頷いた。

 言葉が紡がれた。

「お前は今日からスイ・クイールだ」

 ゆっくりと、その顔を見上げた。
 自分とほとんど同じ、青の目をしていた。

「―――俺の弟にしてやる」

「―――俺の名はクォーツ・クイール」

 銀の髪は橙に染まって、ひかりを湛えていた。
 ふしぎな強さを湛えた瞳だった。
 そして、小さく垣間見える寂しさが、印象的だった。
 それが自分と同じったのだと気付くには、まだあまりにも彼は幼すぎた。
 ただ、そこに希望を見つけた気がしていて。
 ちらりと見えた彼の口元の笑みが、全てを解き放った。

「来い」

 迷いなど全て消えてしまって、

 この人ならついていけると

 もしかしたら全てがうまくいくのかもしれないと

 そうやって運命に甘えて

 その背中を追った。

 橙色の夕日が、美しかった。
 まぶしく、まばゆく、心地良かった。

 スイ・クイール。

 自分の名前を唄うように口ずさんで、草原を歩いた。
 長い影も気にならなかった。


 今なら、まだ間に合う。

 強くなれる。

 この地を歩いてゆける。


 大きな背中を見上げて、そう思った。

 どこまでも、どこまでも。

 …歩いていこう、と。



 ―――いつか、また走ることができるように。


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