-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 七.想いはちぎれて

092.壊れゆくこころ



 出来ることなら後ずさっていただろう。
 血の味が広まる口の中で、歯を食いしばった。
「こんなところでこんな人に会えるなんて、運がいいな。一度会ってみたかったんだ、…えっと、これでもファンなんだよ? 君のお兄さんの」
 イオは口をすぼめてみせる。
「だってすごいじゃない。『最強』って評されてたんでしょ? 孤高の銀髪鬼…一度会ってみたかったよ」
 うっとりと想いを馳せる仕草は、まるで年相応の少年の姿であって。
 照明につけられた後ろの焚き火が煌々とそれを照らしている。
 上の階からは煙の臭い。ここが煙にまかれるのも時間の問題だろう。
「それで、貴族に雇われていた兄を持つ弟は―――こうして貴族に戦い仕掛けてる」
 くすっといたずらっぽく微笑んだ。
「お兄さんが殺されちゃったの、そんなに根に持ってるのかな?」
 僅かにスイの目が見開かれる。イオは察したように銃を持っていない方の指を軽く振ってみせた。
「知ってるよ、あの町が滅んだことの真実くらい。これでも伊達に町をぶらぶらしてるわけじゃなくて、ちゃんと情報収集くらいしてるんだよ?」
「―――…にが……」
 スイが振り絞るようにして発した声は、彼自身でも驚くくらいに掠れている。
「なにが……したいんだ」
 すると、イオは瞳を丸くしてみせた。
「僕? やだな、僕は別に何もすべきことはないよ。ふらふらしてるだけさ。ただ、僕は―――」
 先ほど振ってみせた人差し指を頬に持ってきて……。
「僕は、知りたいだけ」
 うふふ、と小さく微笑む。
「語り草になってるらしいね、あの夜のこと」
 心底おもしろそうに彼は続けた。
「炎に包まれる町に飛び込んできた孤高の銀髪鬼は止めにかかる人を次々とその手にかけて―――」
 息が詰まる。スイは思わず口元に手をやった。
「そして町を飛び出した弟もまた、止めにかかった貴族の兵士たちを全て斬り捨てていった」
 血を吐くかと思うくらいの衝撃。体中を突き抜けて、彼の体温を奪っていく。
 誰もが口をつぐみ、…そうして密やかに噂され続けていたあの町の夜の真相。
「その姿――まさに怒れる鬼の兄弟が駆け抜けたかのごとし―――だっけ。ねえお兄さん、もう一度聞くよ。『どのくらい殺したの?』」
 まるで今日の夕飯はなんだ、と聞くかのようにイオは首を傾げる。
 しかし唇を噛み締めたままのスイに彼は怪訝そうな顔をした。
「あれ、もしかして罪悪感感じちゃったりしてる?」
 するりと滑らかな動きでもたげられる銃口の先。
「そうか……、お兄さん、だからそんなに傷ついた目をしてるんだね。世の中の哀しみ全部背負っちゃったみたいな」
 納得したような顔。
 心に―――踏み込まれる。一歩足をひこうとするが、それも叶わない。
「苦しい?」
 ぞくり、と胸の奥が冷たさに砕け散りそうになった。
 まるで心に氷の刃を突き立てられたかのように……。
 しかし、言葉は止まらない。
「辛い? 悲しい? ひとを沢山殺して、ひとを沢山傷つけて」
 つうっと細くなる瞳。見透かされる。
「不思議だな、そんなことしなくたっていいのに」
 昼間と同じ、すらすらと動く口元。
 そして同じ微笑みでイオはにっこりと笑ってみせた。
「だってね……命は簡単に死ぬんだよ。今だってほら、僕がちょっと指をひねれば……幾人もの人を殺したお兄さんを、一瞬で殺せるってわけ」
 淡い色の瞳が瞬間、ぎらりと輝く。
「ねえ、…なら命の重みって、なに?」
 じっと、耐えるようにスイは。
「精霊神は聖典で全ての命は神の元に平等だって説いてるよ。だったら、獣も虫も、全ての生き物は平等だってことだよね。その中で、僕たち人間の重みはどれくらいのものだと思う?」
 イオの声が震えた気がした。
 それは、他の何でもない。
 ―――笑って、いるのだ。
「なのに人殺しだけが誇張されちゃってさ。ひとを殺すことだけが罪なんてね、虫を踏み潰すのと何が違うのさ。愚かだ、愚かすぎて笑っちゃうよ」
 口の端が歪むように吊りあがった。狂気すらその瞳から伺える。
「だからね、僕は思うよ。お兄さんのその罪悪感は―――きっと、傲慢」
「……―――」
 なにかを紡ごうとした喉は、はり付いて動かなかった。
「自分を騙してる。自分を追い詰めてる。ひとは――ううん、命はなにかの犠牲なしに生きていくことはできないよ。なのにひとを殺すことだけが罪? それで自分を責めるの? それで……何が変わるの?」
 煙の臭いが深くなる。呼吸が苦しい。
 しかしそれでもイオは全く動じない。
「僕はね、初めてこれを見つけたときに……思った。ひとの命はどのくらいの価値があるんだろうって」
 そろり。
 一歩、イオの足が動いて。
「知りたいな」
 一歩、銃口がこちらに、動いて。
 違和感。
 胸をかきむしりたくなるような、歪んだ感情。
「昼間さ、僕に雇われないかいって誘ったよね。あれ、なんでだと思う?」
 ここまで……ひとというものは、残忍な表情ができるというのか。

「―――殺してみようかな、って思ったんだ」

 不意にスイは、気付いた。
 この少年の胸にわだかまっているものを。
「教えてよ。殺す罪って何? いくらお兄さんが速く動いたって、僕は先に引き金をひくことが出来るよ。たったそれだけでお兄さんは死ぬ。そんなものに、価値はある?」
 イオは、そう笑った。
 ―――人間というものはとてもとても愚かなもので。
 少年が持っているような、指一本で人を殺せるようなものをたやすく作り出してしまう。
 それはこれからも続くのだろう。これから人間たちが欲するのは、人間離れした少数の勇敢な剣士ではなく―――いかに多数の人間を簡単に殲滅できるかという兵器なのだ。
 そんなものの前では、剣など全く役にたたないだろう。ひとは、ひとを簡単に殺せるものを欲してしまうのだから。
 この少年はきっとわからなくなってしまったのだろう。
 ほんの少し手をひねれば砕けてしまう命のもろさを。
 当たり前にそこにあるようにみせかけて、実際は簡単に壊れてしまう世界の姿を。
 だからこそ、そこには大切なものがあるのだと―――彼に気付かせる者はいなかったのだろう。
 命に価値などはない。ひとが一人消えたって、明日が来なくなるはずなどない。そしてそんな命は限りなく、弱い。
 ただ、世界の価値の為に、世界があることの価値の為に、ひとが、命があるのだと……。
 ――しかしそう言おうとしたスイの喉は動かなかった。
 剣を持つ手が……凍ったように感覚がない。頭の中に異物が入ったかのような違和感。眩暈を感じる。今、しっかりと前を見据えていられているのか、それすら不明瞭になる…。
 それほどに少年の放った言葉の弾丸は、スイの心を簡単に引き裂いていた。
 嫌になるくらいの強い動悸。心臓が波打つ音が自分でも聞こえる。
 今にも崩れ落ちそうになるのを必死でこらえることしか、スイに出来ることはなかった。
 ただ、自分の弱さを噛み締めながら―――。
「お兄さん、興味深いよ」
 もう煙が静かに部屋に充満し始めている。上がいつ崩れてきてもおかしくはない。
 なのに少年は、とても晴れやかな笑顔で。
「剣はあんなに強いのに…こんなにすぐに弱っちゃうんだもんね。人間って愚かだけどおもしろい」
 何も映していない瞳。
 自分と世界との折り合いをつけられなかった少年。
 それも全て……この世のシステムに作られたものなのだろうか。
 作られて、しまったものなのだろうか。
「さあ、死んでみせて」
 再び彼の人差し指が引き金にかかった。無論、その先にはスイの額。
 ぎらりと瞳が輝く。
「命に意味なんてないということ――証明してみせて」
 笑顔。
 動けない。
 指がほんの数センチ。
 静かに動いて。
 鉄の塊から
 火薬にまみれた

 飛び出す

 風。
 ―――だんっ!
 音。
 なにかが
 なにかがほとばしって
 現実感が
 希薄に
 限りなく、ゼロに
 炎が
 あのときと同じ炎が
 焼け付く、橙色
 黄昏を覆う
 美しく残酷な色
 呼吸すら忘れるような
 ゆらめく
 ひかり

 ――だんだんっ!!

 音が、遠ざかった。
 何故だ、と考える前に。
 視界の奥に、吹き出す血潮を見ていて。
 誰かの声がする。
 なにを、言っているんだ?
 なにを、叫んでいるんだ?
 ――なにを、望んでいるんだ?
 望むものは。
 望むものは――。

 ―――あんたね、話すときはちゃんと人の目を見て話しなさいッ!

 噛み付くような視線。
 こちらを見上げる、

 ――そうね、そうやって笑ってればもっと近寄りやすくなるわよ。

 残像が……瞬く。
 手を伸ばそうとしてもかすめるだけ。
 わずかな残り香だけがそこにあって―――。

 ざ……ざ、ざ

 ノイズ。
 雑音。
 意味をなさない音。
 意味をなさない?
 違う。
 それは…心に届いていないということだ。
「……―――れ……っ」
 ことば?
 ことばが。
 ひとの作り出した、意味をなす音が。
 意味をなして。
 ああ。
 心に

 はじける

「斬れっっ!!!」

 視界は、橙に彩られた白と黒。
 腕を振り上げる。
 自分は今、なにかを叫んでいるのだろうか。
 それすら不明瞭だ。
 腕を振り下ろす。
 違う感触。
 幾度となく経験のある、とても嫌な感触。
 どうして、自分は。
 こんなことを…しているのだろう。
 血がほとばしって、頬を汚す。
 視点が定まらない。
 どうなった?
 わからない。
 どうして自分はここにいる?
 わからない。
 倒れた影。
 橙に染まって。白と黒に照らされて。
 視界が暗い。
 血だまりの中に…自分の姿を見つける。
 だけれど、立っている。
 その二本の足で、剣を両手に、立っている。
「―――おい、大丈夫だったか?」
 声。
 意味をなす言葉。
 視線をやると、崩れ落ちたひとがひとり。
 手にした大槍と褐色の肌には見覚えがあった。
 しかしそれも、すっかり赤に染まってしまって。
 足元には倒れた陰。
 自分が切ったのか。きっと、そうなのだろう。
 黒き天使の刃を、自分は殺してしまったのだ。
 どうして、だ?
 意識が揺らぐ。理解出来ない。自分が、世界が、今どうなっているというのか。
 血溜まりの中で、大槍を持った男は僅かに微笑んでいる。
 胸には、穴。
「危機一髪だった」
 繋がれたように動けない自分と、もう動かない彼と。
「行け、もうここも崩れる」
 思考が止まっている。
 なにをしろと言っているのだ?
「まだアンタは走れるだろ、う…」
 最後の言葉を言う前に、その口から血の塊が吐き出される。
「……――――、」
「いい、オレが望んだことだ」
 笑おうとするも、歪むことしかできない口元。
 網膜に焼きついた光景がフラッシュバッグする。
 前にも、確か。
 こんなことが――――。
「礼なんか言うな。このクソ坊主がむかついた、それだけだ……」
 どくどくと流れ落ちる血液。
「とっとと出ていけ」
 煙の臭いで呼吸が苦しい。いや、今の自分は呼吸をしているのか―――?
 意識が…はぜる。
 消えて、しまう…。
「阿呆、死にたいのか」
 真っ直ぐな言葉が、突き刺さる。
 だがそれでほんの少しだけ…現実が見えた気がした。
 真実にどうなっているのかはわからない。
 だけれど、そこには確かに自分の姿があって。
「行け」
「――――ぁ」
 やっと、瞳が彼を捉えた。
 銃弾を受けて、壁にもたれるようにして血を滴らせている彼が。
 きっと、あの瞬間に飛び出してきたのだろう。
 黒き刃を持った少年に斬りかかって。自分の代わりに銃弾を浴びて…。
 心がまたひとつ、ちぎれるのを感じた。
 自然と言葉が零れ落ちる。

「―――すま…ない」

 褐色の肌の男、エイドは小さく笑ってみせた。
 スイは剣を鞘に収めて、走り出した。
 こびりついた痛みを抱えて。
 炎の中を、孤独に……。
「――どうしてアンタはこんな時代に生まれたんだろうな」
 残されたエイドは、ひとり、そう呟いて……。
 決して強くなどない彼に向けて、そう呟いて……。
 ―――静かに、息を引き取った。


 ***


 走る。
 息が、切れる。
 喉から、血の味。
 夜の道を、ただひたすら。
 騒音がずっと耳の中に響いていた。
 ざ……ざざ、……ざ、
 かきならす……音の波。
 立ち止まって耳を塞いでしまいたい。
 蹲って、世界の全てから自分を遮断してしまいたい。
 そのまま…朽ち果ててしまいたいとさえ……どこかで思う。
 しかし立ち止まったらきっと溺れてしまうから。
 波に、さらわれてしまうから。
 そうなったら…きっと二度と戻ってはこれないだろうから。
 だから、走る。
 逃げるように、走る。
 いつだったか、あの夜と同じように。
 遠すぎる場所目掛けて、必死で走り抜ける。
 そうだ。
 いつだって、先は遠すぎる。
 必死で走っても、届かない。
 指にほんの少しかすめるだけで…更に遠くにいってしまう。
 そうして想いはちぎれて。
 散り散りにひきさかれて。
 痛みだけが…そこに残る。
 その先は、遠い。
 とてもとても…遠い。
 とても、……とても―――。


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