-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 七.想いはちぎれて

084.何かが欠けた笑顔



 ふと、昔のことを思い出していた。
 それはやはり今日と同じように冷たい雨が降る日のことで。
 灰色に染まった視界の中。目に入った雨がやたらと染みて痛かった。
 つう、と頬を伝う雨の水滴。もしくはそれは涙だったのだろうか―――。
 足場の悪い場所など歩いたこともなかったから、幾度も転んだ。
 それでも、立ち上がって歩いた。
 手もいつのまにか傷だらけで、血が滲んでいた。

 なのに雨は容赦なく。
 一度外にでてしまえば世界はあまりにも大きく。
 ただ、ただ……自分の小ささを、知った。

 そして、なにもしらなかった自分を、知った。

 旅に出た日から、もう何ヶ月経ったんだろう。


 そうして今、セルピは空を見上げる。
 テスタの言った通り、あれからしばらくしてしとしとと雨が降り出した。
 木陰でそれを避けながら、すっかり夜に落ちた漆黒の空を見上げる。
 ランプで辺りは照らされていたものの、すっかりその奥の視界は死んでしまっていた。
 この黒の中から雨は生み出され、大地を濡らしていっているような…そんな錯覚さえ覚える。

「リエナさんは……」
「なんだい」
 ぽそりと漏れた言葉に、鋭い返事。
 しかしセルピは怯んだ様子も見せなかった。
「リエナさんは、ハルさんのことが嫌いなのかな……」
「そうだよ」
 やはり、即答だった。
「―――大嫌いだ」
「…理由、聞いてもいいですか?」
 リエナはふっと少女の顔を見上げた。
 灯火に照らされた大きな瞳が深い色を湛えている。幼いはずなのに―――強い。
 磨きなおそうと思っていたレイピアをそっとまた鞘に戻すと…、リエナは小さく目配せをしてみせた。
「そこに座るといい」
「うん」
 リエナのすぐ正面にある樹の根元にセルピは腰掛ける。
 小さい溜め息を漏らしてからリエナは続けた。
「奴とはね、一度だけ仕事を組んだことがあるんだよ。単なる―――単なる、盗賊団討伐だった」


 ***


 当時、レムゾンジーナでは町を震撼させるような大事件が起こっていた。
 とある盗賊団が次々と殺人、恐喝、強盗―――様々な悪事の限りを尽くしていたのだ。
 もちろんすぐにギルドに賞金がかかった。犯人の生死を問わず、捕まえた者には80万ラピスという破格の賞金である。
 しかし依然と犯人たちは足を残さず、幾人もの名乗り出た者たちが血眼になって探したが解決されることはなかった。
 そんな…、そんなときである。

 豊かに栄えたレムゾンジーナには沢山の旅人たちが滞在していた。既に住み着いて仕事をしている者も少なくはなかったという。
 ハルリオも…そんな旅人の一人だった。
 確か彼に出会ったのはヘイズルの仲介だったろうか。

 旅人たちの情報交換の場、酒場でリエナがヘイズルと飲んでいたときのことである。
 当時、やはり酒場中が例の盗賊団の噂でもちきりであった。
「…リエナ、お前はやろうと思わねえのか?」
「……そんな馬鹿げた賞金がでてる仕事なんて私には不相応だよ」
「そうだなあ、お前の顔に傷が一つでもついたらリーフがなんて顔するか」
 いい具合に酒の入ったヘイズルは一人でけらけらと笑っていた。
「その口をいつか縫い合わせてやりたいね」
「おお、そりゃ物が食えなくなるからちょっと困るな」
「あなたはやらないのかい、その仕事」
「俺か? 俺もパスだな、町がこの噂で持ちきりな内に手ごろな仕事を潰しとくさ。だがな……」
 運ばれてきたパスタをむしゃむしゃと頬張りながらヘイズルがフォークで天井を指してみせる。
「…お前、金は欲しいんだろ?」
「……」
 リエナは無言でグラスを傾けた。カラン、となる氷の音も辺りの喧騒にかき消される。
 金が欲しいのは事実であった。彼女が介入している組織はまだまだ小さく、…これから大きくなるにはまず資金が必要なのだ。
 しかし彼女一人で仕事をこなすなど到底無理な話だったし、…それに相棒のリーフも指揮力はあるが剣の腕はあまり良いとは言えない。
 だからずっと諦めたままだったのだが……
「知り合いに仲間を探してる奴がいるんだ、まだ若造――お前より3つか4つ年下だったか……だが腕は立つぜ」
「…あなたの知り合いなんて、ろくな奴がいそうにないけれど」
「ふん、聞いて驚け。いつもクォーツの相棒やってる奴だ。ハルリオっていう」
「クォーツ?」
 リエナの片眉が跳ねた。
 クォーツ・クイール。今、既にこの町で彼の名を知らぬ者はいない。否…既にその名前は大陸中に響いているのではないだろうか。
 とんでもないほど卓越された剣術。舞うように剣を振ったかと思えば、次の瞬間に立っている者は一人としていないという。
 ふっとリエナはそんな彼の横にいた小さな影を思い出した。そういえば、彼には弟がいたか。ここ数ヶ月、めっきりこちらの世界に姿を見せていないが―――。
「そんな奴の相棒がどうして? 大体クォーツと組めばいいじゃないかい」
「クォーツは今貴族の依頼で遠くに飛んでるらしいぞ。俺はこの通りやる気ねえし、金に困ってるお前が適役じゃねえか」
「………でも」
 リエナは考える。初めて会う者と共にこんな大きな仕事をこなすということに戸惑いがないわけがない。
 まだ会ったことすらない男に自分の背中を預ける。…それはある意味であまりにも危険すぎることだ。
 しかし―――彼はクォーツの相棒だという。彼ほどの者と共に仕事ができるなら……おそらくは素晴らしい腕を持っているのだろう。
 確かに金は欲しい。彼女の、…そしてリーフの求める世界の為に。
 きっと大金を持っていってやったら喜んでくれるだろう。自分たちの理想により一歩近づけるかもしれない―――。
「……いや、そうだね…。それでは紹介してくれるかい、ヘイズル」
「おっ、乗り気になったな。うまくいったら飯の一つでもおごってくれ」
「一番安いのをね」
 そりゃ酷え、とヘイズルは笑いながらグラスを傾けた。
「よし、それじゃ話を通しておいてやるよ。クォーツと違って無愛想でもないからやりやすいだろうよ」
「…そういえば奴の弟……スイ、といったっけ? 最近見かけないね」
「ああ―――、」
 ヘイズルは僅かに目を伏せる。
 一体何を考えているのだろうか、彼の考えていることははいまいちよくわからない。
 …するとヘイズルは僅かに声音を落として告げた。
「…奴はどうやらこっちの業界を捨てたらしいぞ」
「―――なんだって?」
 また彼女の片眉が跳ねる。
 気がつけばヘイズルの目の前にあった皿の上は綺麗になくなっていた。やはり体の大きさに合わせて食べるのも早いと思う。
 リエナは脳裏に紺碧がかった青の髪を思い描いた。血は繋がっていないのに、何故だか兄によく似た――。
「…あんなに良い腕をしていたのに」
「奴は奴で色々あるんだろうよ」
 ヘイズルは組んでいた足を組み替えた。
「…だがまあ、あんな子が一緒にいるなら無理ねえか……」
「え?」
「いんや、こっちの話さ」
 どこか遠い含み笑いを零した彼は、後でハルリオと会う時刻と場所を教えてやると言って席を立った。

 そうして彼女は出会ったのだ。
 薄い金色の髪と広がる空の瞳をした、すらりと背の高い男に。
 一瞬、貴族かと思った。
 …そう思っていたらやはり、彼の方から元貴族であることを教えてくれた。

「はじめまして、ハルリオと申します。お気軽にハルとお呼びくださいね」
 同性でさえ見とれてしまうであろう完璧な笑顔。絵本の中からでてきたような風貌。
 リエナ程の者であっても、最初は呆気にとられたように彼の顔を凝視してしまった。
 腰には一振りの大剣。一体どんな戦い方をするのか、少し気にもなった。
 しかしまずリエナが驚いたのが彼の情報収集能力だ。
 彼ははじめてリエナに会ったとき―――既に盗賊団の出所を押さえていたのだった。
 涼しい顔でとんでもないことをさらりと口にする様子は彼女も二の句さえ継げなかった。
「―――さすがはクォーツの相棒を務めているだけあるね」
「…いえ、そんなことを言われると調子に乗ってしまいますよ」
 そう彼は返して、苦笑する。
 非の打ち所のない、まさに完璧といえる姿だった。
 ―――しかしリエナは、その『完璧』すぎる雰囲気にどこか不可解なものを感じていたのだが……。

 盗賊たちは――大胆にも町の中枢にその身をおいていた。
 大体そんな彼らへの奇襲といえば……夜である。
 しかし、ハルリオはなんと白昼堂々の斬り込みを提案したのであった。
 確かに敵の虚をつくには良いかもしれない。なんといったって、彼らはひどく頭の切れる者たちなのだから―――。

 そうして。
 そうして―――。

 戦っているときに雑念が混じる余裕などない。それは明らかな命の奪い合い、その瞬間だけは全てを捨てて戦いに集中せねばならないのだ。
 確かに敵は強かった。相当な手練れもいた。しかしやはり突入した時刻が良かったのか、彼女は思っていたよりもずっと楽にことを済ませることができた。
 地下道を走る。反対側から入ったハルリオと合流するためだ。中々大規模な組織だったらしく、随分の者と戦った気がしていた。
 生死を問わず―――確かにそうあったが、彼女はなるべく殺しはしないようにしている。
 彼らだって……、本来はまっとうに生きるべきはずのものだったのである。しかし、この世のシステムがそれを許さなかった。貧困の差は開いたまま、落ちぶれたものたちは豊かな者に、そして世界自体に牙を剥くのだ。
 だから、そんな彼らを――なるべく生かしてやりたかった。

 地下道を走る。土地勘に自信はあった。知らない道でも、方角を見定めて迷い無く走る。
 しかしそんなとき……。
 彼の辿ったであろうルートに突き当たったときである。
 ―――リエナは思わず足を、止めた。

 血。
 …ひとの、なきがら。
 動いているものなど、誰一人としていない。
 ただ、血だまりの中に没したひとのかたちが、点々と―――。
 細い地下道はまさに、地獄絵図が広がっていた。

 ―――全員……殺したのか。

 リエナは幾度となくそのような現場を目撃しているにも関わらず、眩暈を覚えた。
 あんな顔の男が、ただ温厚に笑っているだけのような男が。
 ここにいる―――全ての者たちを、殺めたというのか。
 嘘だ、と自分の希望を求める部分がそう叫んだ。
 正直に信じられなかった。
 だから確かめる為に―――リエナはまた、走り出した。
 一番奥の部屋。
 おそらくは頭領がいるであろう部屋。
 彼女にしては珍しく息をきらせて、飛び込む。
 そうして彼女は―――その乱れた息を、呑んだ。

 おそらくその光景をこう彼女は推測する。

 頭領は30代程度の男だった。
 おそらくは悪事の限りを尽くしていたのだろうが―――しかし彼には。
 …彼には、たったひとりの娘がいたのだ。
 まだ6歳程度の少女だった。
 ハルリオとリエナがこの隠れ家を見つけ、侵入したとき……この頭領は死を覚悟したのだろう。こんな町の真ん中からは逃げられるはずもない。
 だから頭領は……娘と共に心中を図ったのだと思う。
 しかし―――娘の胸に刃を突き刺した瞬間……頭領に、冷静さと…そして恐怖が蘇ったのだった。

 リエナがその部屋に入ったとき…、そこには胸にナイフを突き刺した少女、彼女を抱きかかえる男、そして―――。
 大きな大きな、血にまみれた剣を携えた、ハルリオの姿があったのだった。
「とっ…通してくれ! まだ息があるんだ、助かるかもしれない…ッ! オレはどうなったっていい、だからこの子だけは、急いで―――!!」
 頭領はぴくりとも動かないハルリオにそう懇願した。
 彼がそのとき、どんな表情をしていたのか……背しか見えなかったリエナにはわからない。

 しかし、次の瞬間。

 ―――ど、っ……。

 リエナに見えたのは、閃光のようなものがぱっと煌くその残像。
 それが剣の動きによるものだったのだとやっと気付いたときには―――。

 その場に新たな血だまりが広がりつつあった。

 少女は息も絶え絶えにそんな父親の姿を呆然と見つめ―――。

 そうして、絶えた。


 ***


 吐き捨てるようにリエナは続ける。
「…私は…言うべき言葉すら見つけられなかった。確かに相手はいくつもの罪を犯した咎人だ、娘だって――あれはもう助からなかった。だけれど―――!!」
 ぎん、とその瞳に怒りの光が走った。歯軋りの音がこちらまで聞こえてきそうなほどに殺気だっているのがよく分かる。
「だけれど―――」
 不意に言葉が小さくなる。
 恐らくリエナという人はひどく優しい人なのだろう。ただ厳しいだけで、本当は情に熱く、だれも傷つけたくないのだろう……。
 セルピは胸が詰まるような気がして小さな手をそっと胸元にやる。
「…そうしてハルリオは…私の気配に気付いて振り向いたんだよ。そのとき―――奴はなにをしたと思うかい……?」
「……―――」
 リエナの表情は、歪んだ。


「笑ってみせたよ」


 それは穏やかに。
 いつもと同じように。
 なにかが…なにかが、欠けた笑顔を。

 ―――おや、リエナさん。そちらはもう終わりましたか?

 ―――こちらも終わりました……。

 セルピはリエナの姿をじっと捉えたまま、僅かに唇を引き縛った。
「奴にとっちゃ人が死のうが生きようが関係ないのさ。殺す理由があれば、他にどんな条件がついていたって―――奴は、殺すんだ…!」
 その声には深い哀しみの色さえ浮かぶ。
「…自分を助けようとした父親が目の前で殺されて……そのときのあの子の顔―――…一生忘れないよ」
 思い出すのも忌々しいという風にリエナはかぶりを振った。
 しとしとと冷たい雨が降り続けている。
 風に当たりたかった。体がどこか重く感じられていた。
 セルピは、そんな自分を持て余しながら膝の上で拳をぎゅっと握る。
「…私は奴が大嫌いだ。奴は―――悪魔もいいところさ。でもそれは私個人の問題、…私の役目は彼を連れて返ること……」
 半ば自分に言い聞かせるかのようにリエナは紡ぐ。
 そうして……ふっと小さく、溜め息をつくかのように笑ってみせた。
「これでわかったかい。あなたが奴にどんな想いを抱いていたとしても―――これが、真実だ」
 そこで語り終わったと断定したのか、彼女はそのままレイピアを引き抜いて手入れを始める。
 既にほぼセルピのことなど視野に入れていないかのようなそぶりだった。
「……どうして」
 しかし少女のささいな呟きに手が止まる。
 セルピは、続けた。
「…どうしてハルさん……貴族を捨てたのかな」
 その言葉が合図となった。
 セルピは一度目を閉じて、そうして開く。
 拳を握りなおして、立ち上がった。
 怪訝そうな顔をするリエナに小さく笑いかける。
「リエナさん、…ありがとう。ボク、これから説得にいってくるよ」
「…本当に説得するつもりなのかい」
「―――ハルさんを力ずくで連れていくなんて…たぶん、出来ないと思うから」
「………」
 リエナは暫しの沈黙を守ったままセルピをじっと見据えた。
 まるで不思議な子だと思う。一体その裏に何を考えているのか――。
「大丈夫だよっ」
 セルピは元気に笑ってみせた。
 その足が軽やかにターンしてハルリオがいる方向へと走っていく。
「いってきますっ」
 最後に振り向いて、そう残した。
 暗い視界の向こう、黒髪が鮮やかに舞うのをリエナはぼんやりと眺める。
 精霊のようにその姿は…夜の闇に、消えていった。
 ふと思う。
 艶やかな黒髪。北にいたものの証。
 澄み渡った泉を奥底に持つ瞳。きめ細かい白磁のような肌。
 とんっと心が何かに押されたような気がした。
 それはなにかの予感がそうさせたのか……。
 ウッドカーツ家の片腕、エスペシア家。
 彼女の憎むべき敵であり、いつかは打ち滅ぼすべき相手だ。
 その家の本筋の娘――確か、あの子と同じくらいの年ではなかったろうか。
 しかも、その少女は現在―――。

「は、まさか……」

 否定した直後に、それが根拠なき確信となって心に定着していくのを感じた。
『―――どうしてハルさん……貴族を捨てたのかな』
『…ボクたちに力を…、力を、貸してください』
 思い当たる節はいくらでもある。その瞳の強さ、博識な頭脳、どこかに感じる――貴族の匂い。
 しかし、と必死にこの仮定を笑い飛ばそうとする。
 そんな高貴な家の者が、こんなところで革命に加担しているわけがない。
 偶然もいいところだ。証拠もないのに断定してはいけない。
 大体、あの笑顔が――敵なはずが……ないのだ。

 …それでも。
 まさか……まさか。

 リエナは大きくかぶりを振った。混乱している。不安がぬぐえない。
 気がついたら立ち上がっていた。
 再び少女の消えた方向に視線を投げる。
 ふらりと足が動いた。
 そうして―――また、リエナの姿も……闇に、溶けた。


 ***


「―――ハルさん」
「はい」

 いつもと同じ声。
 いつもと同じ微笑み。
 何かが欠けた、…欠けてしまった、そんな笑み。

「ハルさんは…元々貴族だったんだよね」
「そうですね、…そう呼ばれる種族でした」

 しとしとと振りゆく雨の中、他の気配はない。
 ランプだけがたった一つの灯火になる中、雨だれの中――。
 それは予感だったのかもしれなかった。
「…前会ったときはあまりこういうこと話せなかったよね、どたばたしちゃってて……」
「無理もないですよ」
 セルピは口を結んで一度瞳を閉じた。開いていても閉じていても変わらない、辺りはそれほどまでに暗い。
 しかしそれでも彼女は瞳を開いて、ぼんやりと浮かぶハルリオを見上げた。
 笑みを浮かべたままの顔をひたと見据える。
「―――どうしてハルさんは、貴族を捨てたの?」
 ハルリオは一瞬、顔から表情を消し去ったようにも見えた。
 瞳は空の色をしているはずなのに、この暗がりの中ではそれさえけぶる。
「……教えて、くれないかな……」
 ふっと、彼の口元に笑みが走った。
「…そんなことはありませんよ」
 僅かに目を伏せるようにして続ける。
「捨ててはいませんね……捨てられた、というのも違いますか」
 またその顔に笑顔が戻った。いつもの彼の顔だ。
 まるで心地良い歌を口ずさむかのように、その唇に言葉を乗せる。
「セルピさん。世界には――あなたのように正直に生きられる人など、そうはいないのですよ」
 ―――セルピの瞳がふっと揺らいだ。
 心の中に濃い色のインクを落としたかのように、一気に何かがなだれ込んでくる。
 それが何なのか考える前に、ハルリオは続けていた。
「…私は単に、逃げただけです」
「そ―――…っ」
 セルピは思わず言いかけて、…押し留める。――それは自分も同じこと、と……。
「別にこの身を呪ったことなど生涯一度もありません。ですが、この身を呪う者は沢山いましてね……」
 不意にハルリオの視線が遠いところに向けられた。今度こそ、…己の心の中を見ている瞳だった。
「なんだか、どうでもよくなってしまっただけです。つまらないから逃げたんですよ、私は」
 何かが欠けている。
 セルピはそう思う。
 何が欠けてしまったのだろうか。
 …彼女には、それがよくわからない。
「あなたは」
 心に冷たい雨が染みた気がした。

 さあさあ。
 さあさあ。

 この雨はいつごろ止むのだろうかと、心の隅で考えて…。

 全ての世界から、遮断されてしまっているようにさえ思えた。

「……あなたはどうなんですか? ―――フィープさん」

 最初、その意味がわからなくて彼の瞳を見上げた。
 それは変わらぬ笑みだった。
 深い夜の色を含んだ瞳が、…雨の冷たさまで含んだ瞳が―――。

 なんだか、彼に欠けているものが分かりかけた気がした瞬間―――、

「……ぇ……っ?」

 喉が、鳴った。
 すぅっと体から何かが抜けていくような。
 代わりに入ってくるのは冷たい雨か。
 草が香っている。
 夜のにおい。
 みるみる消失していく、現実感―――。

「今、なんて…」
「今なんて言った…!?」

 少女の声を遮って、鋭い声が響いた。

 さあさあ。
 さあさあ。

 振り向けば……細身の女性の姿。

 さあさあ。
 さあさあ―――。


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