-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 七.想いはちぎれて

085.翠雨の時



 ―――ああ、また傍観している。


 薄ぼんやりとそんなことをよく考えたものだった。
 記憶の奥底、長い長いテーブル。一面に雪を降らせたような純白のテーブルクロス、ロウソクがちらちらと煌いている。
 きらびやかな内装の部屋。ひたすら広い。その席のひとつに座っている。
 椅子が大きい。体が沈むような豪華な椅子だ。
 視線を感じて、わずかに意識をそちらに向けた。
 冷たく冴えきった表情をしている義母と、こちらに忌々しげな視線を向ける義兄。
 不意に扉が開いた。横に立っていた者たちが恭しく礼をする。
 自分と同じ金色の髪をした父親が部屋に入ってくる。
 彼の分厚い視線は義母よりも義兄よりも、真っ先に自分に向けられる。
 …単なる妾の息子である、自分に。
『ハル、今度の休日に狩りに行かないか。南の森の方で素晴らしい鹿がとれるというんだ』
 多分、義母も義兄も愛されていなくて、自分だけが愛されてしまったのだと、幼いながらにそう思った。
 いつのまにか、優しく、そして一番残酷な台詞を口にする自分がそこにいた。
『父上。…兄上も連れて行ってはくれないでしょうか、折角の機会ですし』
 ぎん、と義兄の目が剥く。
 悔しかったのだろう。弟に情けをかけられていることが、義理の弟の方が大切にされているということが。
『そうか―――お前がそういうなら仕方ない。ルロイ、お前も来なさい』
『父上! お言葉ながら―――』
 がたん、という音。義兄が立ち上がったらしい。
 義母は凍てついたように真っ直ぐ前を向いたまま、微動だにしなかった。
 何か口論を広げている父と兄。彫刻のような母。
 ―――そこまでくると、きまって自分は一歩足を退く。
 何も喋らずに、黙って佇んでいる。
 そうしてぼんやりと辺りを傍観する。

 多分、愛されていたのだろうし。
 多分、愛してもいたのだろう。

 しかし全てに現実感は欠落したまま……。
 自分は立ち止まって、見つめるまま……。
 本当に、なにがどうなろうと、どうでもよかったのかもしれなかった。


 ***


「今なんといった……!?」
 リエナが驚愕の表情でこちらを見つめている。
 セルピは唇を噛み締め、何かを耐えるような表情で…リエナを見つめている。
「……今、お前は確かにこの子をフィープと呼んだのか…?」
 そうして自分は。
 やはりこうなると、一歩足を退いている。
 状況をふわふわと遠くから眺めている。
 この後どうなろうと自分には関係のないこと、と……。
 まずはじめに動いたのはセルピだった。
「…リエナさん」
 ふわっとロングスカートがひるがえる。
 リエナがいる暗がりに向けて少女は小さく頭を下げた。
「黙っててごめんなさい。ボクの本名はフィープ・セル・エスペシア、確かに現エスペシア家長エディル・レド・エスペシアの娘です」
「……な、……」
 次の言葉を見失っている彼女は、固まったままだ。
 事柄が許容範囲を超していたのだろう。
 当たり前か、彼女は自分を連れて行くためだけにここに来たのだから。
 それに、彼女は優しさを知っているから。
 だからこんなにも、呆然と立ち尽くしているのだろう…。

 ―――やはり自分は傍観している。

 ふと顔をあげると、セルピは立ったままこちらに振り向いてその大きな瞳を映してみせた。
 自分は座っていたから、彼女の顔は少々上の方にある。
 その瞳が、いっぱいの感情をはらんで…そこにあった。
「……やっぱり、ハルさんはボクのこと…知ってたんだね」
「はい、私から見ればあなたのようなご令嬢は一度見れば忘れないものですから」
 きっと彼女の目から見えた自分は流れていく群集の中の一人だったに違いない。
 ハルリオの家、クザナンハ家は確かに位が低いということもなかったが、まさかエスペシア家と肩を並べるような位でもない。
「―――そのころの私は家出をしては連れ戻されを繰り返していましてね…、丁度そんなときにパーティーに引っ張り出されまして」
 小さく笑ってみせた。
 セルピもまた、苦しそうに笑ってみせた。
「…もう8年前になりますか、その会場であなたと挨拶を交わしました」

 そこには雪をまとったような少女が座っていた。
 モノクロームに焼き付けられたかのような、長い黒髪。
 鈴の鳴るような声、やわらかな笑顔。

「―――先日再会したときに言おうかとも思いましたが……やはりごたごたしていましたから」
 ふるっとセルピの長いまつ毛が震えた。
 言葉を続ける。幾分改まった態度をとって、そっと右手を胸へ。
「…改めまして、……お久しぶりです。フィープさん」
 あれからもう8年。
 高い高い、とても高いところにいたはずだった少女は…今、目の前に。
 背に流していた黒髪は結い上げて、旅人の質素な服をまとって。
 しかしその瞳の強さと、やわらかな雰囲気は隠せずに―――。

 ひゅっと風を切る音がした。

 セルピの、後ろからだった。

 ぴんと空気が張り詰める。
 彼女の首すれすれに突きつけられたレイピア。
 …ふっと彼女はその泉色を隠すように目蓋を閉じて呟いた。
「…ボクを殺しますか」
 レイピアの元を辿ると、真剣な光を帯びたリエナの表情があった。
 そこにはむき出しの感情というよりも―――むしろそれらを全て捨ててしまったような、そんな冷酷な印象さえ伺える色を湛えている。
「……貴族は敵だ、それが上の者であればあるほど…」
 セルピは振り返りもしない。まるで首筋に張り付く冷気を気にしてもないように、すっと空気を吸い込んだ。
 自分はやはり傍観しているだけか。
「…うん、そうだね」
「お前を殺して遺体でも家に送りつけてやったらさぞかし混乱を扇げるんじゃないかい」
「……うん」
 こちらから見えるセルピの顔は、……哀しそうなのに、辛そうなのに、

 …優しかった。

「どうしてだ」
 ねじ込むような声。
 リエナの鋭い表情はずっとずっと変わらぬまま……。
「お前は…分かっているのか? 自分のしていることを」
 いつの間にか木々の間をすりぬけてきた雨が少女の肩を濡らしている。
「もしこのまま計画が進行していったら…『世界がどうなるのか』…」
 答えてみせろ、と吐き捨てるように切った。
 少女の唇が動く。
 最初は空気をはむだけだったその囁きは、いつしか歌となって。
「……世界中の平民がもし一斉に立ち上がって、世界を動かそうとしたら…」
 すらすらと、まるで迷いもせず―――。

「…その300年溜まった怒りは一気に膨れ上がって、吐き出されて」

「そのぶつけどころを人は探そうとするよ」

「ひとは、なにかを悪いものにしたがるから…。自分が正しいんだって信じていたいから…」

「それで、それは全て貴族の責任になって…」

「なんでもかんでも貴族が悪いって、みんなそう思って」

「きっと、貴族狩りがはじまる」

「ひとは、歓声をあげながら位の良かった貴族たちを群集の前で殺していく…」

「あまりにもこの世界に住むひとは多いから…、それはだれにも止められない」

「貴族は『悪』として、滅びなきゃいけない」

 ふわっと結い上げられた黒髪が舞った。
 彼女がくるりと振り向いたのだ。
 切っ先が首筋をかすめて赤い線が走る。
 セルピはそれでも、リエナに向けて歪むように微笑んだ。
「ボクもいつか…殺されちゃうね……」


 ***


 いつだって、自分は義兄よりも出来が良かった。
 背も高くなった。
 勉強はみるみる出来るようになって、喜んだ父親に沢山の教師をつけてもらった。
 剣術などは一番の得意分野で、師さえも腰を抜かすほどだった。
 からっぽの中身を持つ、塗り固められていく外観。
 父親はそれはそれは自分を可愛がった。
 賢くおとなしく従順な自分を、兄の何倍も愛した。
 正妻の子である兄は出来が悪いわけではないものの、
 何をとっても自分に勝てず、ただ憎悪だけを、虚無だけを膨らまして……。
 そんな様子を、何の手を打つこともなく。
 ただ、ぼんやりと眺めていた。

 確か、14のときだったと思う。
 おもむろに食べた食事に、違う感触。
 食事中だというのに席を立って、部屋に駆け込んだ。
 ひどい眩暈と激痛にさいなまれた。
 それが毒を盛られたのだと、やっと体が落ち着いてから冷静に考える自分がいて。
 ただ広いだけのベットに倒れたまま、また薄ぼんやりとしていた。
 その後になって、やっと気付いたのだ。
 自分に刺すような視線を送る義母の姿に。
 ああ、と思った。
 自分はきっと愛されていたのだけれど、
 それと同じくらい、憎まれていたのだと。
 なにかを考えるのが億劫になった。
 考えるよりは、ただ見ている方が楽だった。

 …いや、違うか。

 ずっとずっと、何も考えずに、ただ見ていただけだったのだ。

 今と同じように、自分は舞台を眺める観客であって。
 それを批評するだけの役で。

 それなのに、
 それなのに…。
 そこに、矛盾を共有する。

 そうだ。

 ――――心の、どこかで、

 ――――どこかで、救いを、

 ――――救いを……―――。


 ***


「何故だ」
 リエナの言葉に感情がこもる。最後の最後で彼女は冷徹になりきれないのだ。自分と違って、とても優しいから。
「…それでもあなたは……こちら側で戦うのかい?」
 彼女と対峙するセルピの顔も、それはそれは……穏やかなのだろう。
「家の者が全てなぶり殺しになるのだよ。あなただって…―――」
 その先は、続かなかった。
 きっと彼女はこの娘を殺せない。
 …漠然と、そう思った。
 雨だけが静かに絶え間なく続いている。

 さあさあ。
 さあさあ。

 木陰から離れた二人を、静かに静寂が濡らしていく。
 セルピの白く透けるような頬を雨水が一筋通る。
 ほんの少しだけ見えるその横顔は、泣いているようにも見えた。
 そこにわだかまる哀しさと辛さと、強さと憂いと言葉と―――。
 いくつものものを抱えて、幼子がそこに立っていた。
「…ねえ、リエナさん」

 さあさあ。
 さあさあ。

 雨が冷たいからか、幼子は震えているようにも見えた。
「―――ボクたちは、いつ死ぬかもわからないよ。もしかしたら明日死んじゃうのかもしれないし、…死ぬのは……ずっとずっと、何十年後になるのかもしれない」
 暗闇に浮かぶ面影。闇に語りかけているようにさえ思える。
「それは人も…いのちも、みんな同じこと。理由はそれぞれかもしれないけど、それでも死を持たないいのちはないよ」
 しっとりと濡れた空気が重く横たわる舞台。
 やはり自分はそれを見ているだけか。
 心にぽっかりと開いた隙間をぼんやりと抱きかかえたまま、それを見ているだけなのか。
「今だって誰かが何処かで泣きながら絶えていってるのかもしれない―――…ううん」
 ふるふるとかぶりを振る。水滴がわずかに散って、ランプにちらっと煌いた。
「貴族だってね、今も皆が争ってて、……命の奪い合いだってあるんだ。どこで死が待ってるのかわからない」
 小さな手を、胸の上に持ってくる。
 自らの鼓動を確かめようとしているのだろうか。
「ねえ、それだったら…変わらないんじゃないかな? どんな家に生まれたって、どんな道を生きてきたって、……いつだって、滅びはすぐ傍にあるから」
 終わりがないように見える夜の森。
 幼子の語りだけが、とうとうと紡がれる。
 雨音に消されて響くことすらない。
 しかし、…心にだけは、深く染み入るように響く声。
 幼子は続けた。
「いつ滅びが来るのか分からなくても、…その中でボクたちは生きていくんだよ。生きていかなきゃいけないんだよ」
 最後だけ、少し苦しそうに。
「…生きていくしか、ないんだよ」
 小さな吐息がその唇から漏れる。そうして彼女は、堰を切ったように一際声を大きくした。
「ボクにはやりたいことがあるんだ。哀しいって思う人を減らしたいんだ。その先にどんな現実が待っていたとしてもね―――」

「…ボクに、その中でも強く生きていくんだって、…そう教えてくれた人がいるから」

 また彼女は、僅かに小首を傾げてみせた。濡れた黒髪が頬にかかっている。
「多分……この世界の大きな流れには逆らうことは、出来ないんだろうけど」
 逆らうことすら考えていなかった、自分に気付いた。
「その中で、立っていられるとは思うから…」
 自分はずっと座ったままか。

「滅びが来る日まで、ボクは生きるよ。ボクのやりたいこと、やるよ」

 泉の煌きを宿した瞳は、優しく、苦しそうで……そうして強かった。
「いつ来るかわからない終わりの日に苦しんで何も出来なかったら…それは死んでるのと同じことだから」
 剣の切っ先が僅かに震える。
 雨の滴る切っ先が、静かに、静かに…――。

「この世のシステムを変えたいです」

 幼子はたったひとつの願いをその言葉を持ってして伝えた。
 せめてそれだけは叶うようにと、祈りを込めた言葉を。
 言葉を―――。


 ***


 風景は全て白黒に見えていた。
 一振りの剣だけ携えて、家を出た日のこと。
 何度か従者に見つかって連れ戻された。
 しかし次の日には既にまた抜け出していた。
 父親は確か嘆いていたように思う。
 自分が出て行く理由を義兄や義母におしつけて、散々なじっていたようにも思う。
 ただ最初から観客であった自分にとってそれは単なる舞台上のことで。
 観客はいつだって去ってもいいのだ。
 そう思って家を後にした。
 そうしてうまく従者をまいて、世界を歩いてみた。
 たくさんの人を見た。
 たくさんの風景を見た。
 しかし、いつのまにか自分は舞台の上に登ることを忘れていて――。
 いつだって傍で眺めるだけ。
 与えてもらった知識と剣術で塗り固められた外側は強く、困難などそうはなかった。
 しかし目の前でどんな惨劇が起ころうと、何の感慨も抱けなくなっていた。
 感慨を抱く意味も、理由も、忘れてしまっていた。

 ―――死んでいるのと同じことか。

 怯えているわけではない。…しかし、何の選択もせずにただぼんやりと生きている。
 気がつけば、舞台は遠く……遠く。



 ふっと顔をあげた。
 少女がこちらを覗きこんでいた。
 暗がりであったから薄ぼんやりとではあったが、その瞳の深さは見て取れる。
 その色の奥に沢山の迷いを秘めた瞳。
 きっとこの少女は哀しんでいるのだろう。
 家に置いてきたものたちを。
 こうすることしかできない自分を。
 そうして、…自分をそんな行動に駆り立てた世界を。
 …彼女は哀しんでいるのだろう。
 しかしそれでも、自分の出来ることはたったそれだけと―――。
 既に剣の切っ先は地面に向けられ。
 離れたところに佇む影が視界の端に見えた。
「―――強いですね」
 薄く笑みを湛えたまま、言った。
「…強いのかもしれないけど……」
 彼女も小さく笑って言った。
「でも、ボクは無力だよ」
 そこにいるのはあの貴族の娘ではない、セルピという少女。
 自分とは違う、自らの力で歩んでいく少女。
「家をでてもう何ヶ月も経ったのに、まだ何も出来てないんだ」
 宿題が出来ていないのを反省するかのように、彼女はそう言って笑った。
 その白い手が鮮やかな動きで差し出される。
「―――だからね、ハルさん」
 高みの舞台に立っている少女。
 まだその客席に座ったままの自分。
「ボクに力を貸してください」
 あのときと同じ言葉。
 多分、心のどこかでこの少女のようになりたかったと思っていたのかもしれない。
 しかしそれが本心なのか否かもわからなくなってしまった、この陰鬱な胸の中で。
 もしかしたら、そんな少女の行く先を見届けてみるのも良いかもしれないと。
 もしかしたら、導かれるままに舞台に上がってみるのも良いかもしれないと。
「……そうですね」
 この少女は、いつだったか求めていた自分の理想の姿だったのかもしれない。
 そんな気がしていた。
「…ご婦人の頼みを断るのは気がひけます」
 差し伸べられた手に、手を伸ばして握ってみせる。
 ふっと、突然舞台の上に引っ張りあげられたような錯覚を覚えた。
 ―――それも悪くないかもしれなかった。
「セルピさんがそこまで言うなら――この非才なる身でよろしければ、力をお貸し致しましょう」
 その手は雨に濡れていて、しっとりと冷たい。
 しかし少女はそんな雨もあたたかさに変えるような微笑みを湛えて頷いてくれた。
「うん……ありがとうっ!」

 ハルリオは、静かに首をかしげた。
 暗がりと雨でよくは見えなかったが――。

 その顔は、もしかしたら本当に泣いていたかもしれなかったから―――。

 少女は若々しさを一杯に振りまくような動きでリエナの方に振り向いた。
「リエナさん」
 不可解な表情で彼女を見つめるリエナに向かって、…少女はぴんと背筋と伸ばして手を敬礼の形にしてみせる。
「…ハルさんの説得、成功したよっ」
 すごいでしょ、といわんばかりに笑顔を浮かべた。
「……―――」
 リエナは暫くその顔を半ば呆然と凝視していたのだが……。
 最後は、呆れたように肩をすくめた。
「せいぜいこれからは気をつけることだね、向こうでその身分がばれたら一瞬で切り捨てられるよ」
「うん―――」
 涙か雨か―――、よくわからないそれを、セルピは手でぬぐった。
「大丈夫だよ。ね、ハルさん……」

 さあさあ。
 さあさあ…。

 やはりその顔をまた、雨が濡らしていく。
「ボクはセルピだから」

 さあさあ。
 さあ、さあ。

「そうですね―――セルピさん」
 舞台の上で何が出来るのかなど知るわけがないけれど、それでもこの少女を眺めていようと思った。
 この少女は―――ずっとずっと、強いのだ。

 セルピは笑って、もう一度ありがとうと、そう言った。


 ***


「―――――んん」
 長いまつ毛が小さく震える。
 ふっと開けば飛び込む日差し、思わずもう一度目蓋を閉じる。
 そうして、…やっと目覚めたテスタは樹の根にすっぽり収まるようにしている体をそのままに、視線だけを動かした。
 もう雨雲は通り過ぎてしまったようだった、…濡れた青葉がきらきら煌いている。
 …美しいと、ただ漠然とそう思った。
「……うん?」
 そういえば、と昨日のことを思い出す。
 自分はすぐに寝てしまったが、あの後あの少女はどういう行動にでたのだろうか―――、
 すると石が僅かに共鳴して、情報を送ってきてくれる。
 彼は胸の上の巾着を握り締めて、暫し遠くを見つめた。
「――――そっか」
 ぽそっと呟いて、やっと身を起こす。
「うん、良かった」
 座ったまま、軽く伸びをした。
 そうしているとぽたっと頬に頭上から降ってきた水滴がかかる。
 朝のそれはとても冷たく、心地良く感じられた。
 軽くぬぐって振ってきた空を仰ぐ。
 まだ雲があるものの、もう雨の心配はなさそうだった。
「あ―――」
 ふと後ろからの声に振り向くと、黒髪の少女が一人、木陰に立っていた。
「起きてたんだね、おはようテスタ君」
「おはよう」
 お互いにくすりと笑いあう。
「あのね、昨日―――」
 言い出した彼女を一瞬テスタは止めようかと思ったが、…そのまま言わせてやることにした。
 もちろん全て今さっき石から教えてもらったことだったのだが、口にだして言えばそれだけ彼女自身の整理がつくと思ったのだ。
 やはり彼女はそこのことを全て言い終えると、…青葉を濡らす翠雨のように鮮やかな笑みを浮かべてみせた。
「ごめんね、迷惑かけちゃって」
「気にしてないよ」
 ふんわりと笑ってみせる。
 辺りは一面に小さな輝きを湛える青葉の色。
 少女はその足でそんな大地を蹴って、自分のすぐ傍まで歩いてきた。
「難しいことがたくさん―――たくさんあるけど」
 どこへともなくそう呟きながら。
 自分の横で彼女はふいっと伸びをする。
 風のない森の中、―――それでも朝のひかりを浴びた姿はとても美しいと思った。
 ああ、また一日が始まる……、どこか遠くでそんなことを思う。
「…でもボク、頑張れる気がするよ」
 少女はそう言って、やはり鮮やかに笑った。

 今日も良い日になりそうだった。


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