-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 六.あぶれたものたち

078.蔭り心



 まるでそれは、心の一番奥底を指でなぞられたかのように感じられた。

 ――汝、信じるものは如何に

 そのときもきっと彼は、じっと目の前だけを見つめていたのだと思う。
 不安定な揺れ。荒ぶる大嵐に葉のように揺れる船。
 それでも必死になって駆け回る、ひと、ひと。

 ――だれ?

 心の中でもそう呟いた。
 突然の呼びかけに動揺しなかったのは、彼がそれだけ幼かったこともあったのだろう。
 彼の周りは既にそれどころではなかったから、誰一人として気付くことはない。
 空気に蕩けそうなほどに透明感のある少年は、それに負けないくらい透明な灰色の瞳で手の中のものに目を落とした。
 たった一つ、自分が持ってきたもの。
 父親から、…あの父親から、託されたもの。
 この宝石があったから、きっと自分の家族たちは壊れてしまったのだと思う。
 ただ、魔術学研究者であった父親が――そこまで出来はよくなかったというのに、この力ある宝石に認められてしまって。
 それから、親類の目つきは変わっていった。
 親族へと向ける目から、財宝を持つ者へ向ける目へと。
 嫉妬と、憎しみと、…あらゆる負の表現が折り重なって。

 そうして幼い息子は父親に連れられて、海へと旅立った。
 母親でさえ、父親の力を恐れて逃げていってしまった。
 最後に父親のことを化け物、と言った姿を少年は覚えている。

 漂流したあの悪夢の船で生き残ったのは、少年と父親だけだった。
 少年は黙ってみていることしか出来なかった。
 あの悪夢を。あの光景を。
 なにもない、なにもない、ただの怒りと憎しみを。
 ――父親が最後のときに、まるでやつれた顔で言った言葉たちを、少年は覚えている。

 そうして、あの笑顔も、少年は覚えている。


 たったひとり、奇跡的に助かった少年は、言葉を失っていた。
 誰に呼びかけられても答えることができない。
 泣きもしなければ、笑いもしない。
 ただ、その小さな小さな両手に、海の青さを秘めた宝石をしっかりと握り締めて。
 そこに…存在するのみ、だった…。

 しかし船長はそれでも笑って小さな少年を迎えてくれた。
 目が覚めるような赤いバンダナを首に巻いて、やはり笑ってくれた。
 少年は何をするわけでもないのに。
 そこにいるだけなのに。
 幾人ものひとたちが、笑いかけてくれた。

 少年は相変わらず灰色に染まった瞳で。
 ただ、ずっと、ずっと、
 そこに、いるだけで。

 ――汝はかの血を受け継ぎし者。汝の信じるものは如何に?

 かの血。
 あの父親の血だというのか。

 ――どうしてそんなことを聞くのかな

 ――汝は我が力を託すに相応しいか定めなくてはならぬ

 ――よく、わからない……

 ――幼子よ、この船は間もなく沈む

 ――うん

 ――我が魂は汝と共にある。汝がかの血をひくただ一人の者故に

 ――ぼくと、共に?

 ――幼子よ、汝は何を望む

 ――ぼくの、望むもの…

 少年は静かに辺りを見回した。
 表情に絶望を交えながらも、必死に荒ぶる海と戦うものたち。
 いつもの笑顔が、今は強張っている。
 自分を拾ってくれた船長がせわしなく指令を飛ばしていて…。
 ひとり、自分だけが隅に膝を抱えている。

 ――ぼくは、たぶん

 ――たぶん、死んでもいいのかもしれない

 ――世界が消えてしまってもいいと思ってるのかもしれない

 ――ぼくなんかいなくなればいいと思ってるのかもしれない

 ――でもあのひとたちは優しいから

 ――とても優しいから

 ――だから優しいひとたちでいてほしい

 ――死んでほしくない

 ――笑っていてほしい

 ――ぼくはなにも信じられないけれど

 ――でもぼくは、あのひとたちを


 たすけたい


 心の中に噴水のようになにかが湧いて、散った。
 血液の中に異物でも混じったのだろうか、…からだが、熱い。
 石もまた、―――熱い…。


 ――我は汝の魂が果てるまで、汝と共にいよう

 ――我が名は蒼き根源、我が力を汝に―――


 静かに、少年は立ち上がった。
 大きく船が揺れる。転びそうになるが、それでも歩き出す。
『坊主ッ! 何処にいくんだ、ここにいろ! 危ないぞっ!』
 船長の大声が飛ぶ。
 少年は振り向く。
 灰色の瞳は普段のままに
 相変わらず手には大きな大きな宝石を。

 そうして、少年は。

 ふんわりと、笑ってみせた。

 小さな喉が、言葉を紡いだ。


『もうだいじょうぶ。ぼくがみんなをたすけるよ』


 ***


「大変です!」
 ふっと会場からざわめきが途切れた。
 ばん、と唸りをたてて入り口の扉が開き、ひとりの女性が駆け込んでくる。
「何事ですか、騒々しい」
 瞬時に立ち上がったのは家長でありこのパーティーの主催者、アテナ・ダブリスだ。
「はい、それが…!」
 まるで泣きそう、ともとれるような顔つきで侍女らしき女性は言った。

「敵襲が……今、今…外で兵士たちが応戦中ですが…!」

 すっかりパニックに陥ってしまっているのだろう、声が震えている。
「なんですって……!?」
 瞬間に、辺りは騒ぎに覆われた。
 敵襲、応戦――それは彼らの心を怯えさせるには十分すぎるくらいの言葉選びだ。
 不安と恐怖は一気に伝染していき、…そうして、各々弾ける。
 怖気づいて屋敷を出ようとする者が人ごみを縫って走り出す。
 しかし外では戦いが起きている。入り口に近付けば、赤く燃える炎と兵士たちの叫び声が聞こえ…途端に足がすくむ。
 そこへまた人の波が押し寄せ――…会場は瞬く間のうちにパニックに見舞われた。
 あちらこちらで悲鳴や罵声があがり、中には窓から外へ駆け出そうとする者までいる。
 がしゃん、と音がしたかと思えば人の波にテーブルの一つがひっくり返った音であった。
 突然爆発した混乱は増すばかりだ、彼女たちを誘導できる者などその場には誰一人として―――。

「黙って!!」

 水を打つような声は、その部屋の隅々に渡るまで響き渡る。
 しん、と辺りは瞬時に静まり――、
 ナイフが突き刺さったかのように、誰もの動きが止まっていた。
 そうして、彼らはその凛とした声の先に目をやる…、
 そこには、紅の彼岸花がひとつ。
 …ピュラだった。
 辺りはまた時が止まったような静寂を取り戻す。
「あ、あなた…」
 怯えているリリカを軽く一瞥し、ピュラは静かに一歩歩み出た。
「落ち着きなさい。下手に怪我人でも増やしたら後が面倒よ」
 ちらっと耳元のピアスが煌く。
 色とりどりの宝石の中でも一番鮮烈に輝く赤、だ…。
「今の状況で外にでるのは自殺行為よ、世の中にはあなたたちの姿を見るだけで殺意が湧く人がいるってことを忘れないでほしいわ」
 その腕がすっと持ち上げられる。まるでその姿はこの世のものでないように思わせて――誰かが息を呑む音が、聞こえる。
 そうして、…その指の先に小さな煌きが宿った。
 違う、―――妖精、だ。
 七色の羽根を見事にはためかす一人の妖精を、娘は従えている。
 そして、その妖精は。
「……ピュラ、どーするの……」
 …影でそれ以上ないくらいに情けない顔をしているのであった。
 確かに会場にいる数十人の女性の視線を一手に受けている状況であるのだから仕方のないことなのだが。
 そんなクリュウにピュラは不敵に笑ってみせるのみである。
「え、ピュラ…?」
 耳ざとくそれを聞いたリリカが首を傾げるが、どうでもよかった。
「それなりにこの屋敷は腕の立つ人雇ってるんでしょ? ならまだ抜かれるまでに時間はあるわ。とにかく今は落ち着いて詳しい状況を――」
「お待ちなさい」
 ピュラの声はもう一つの声によって遮られた。
 丁度階段の下にいたピュラは、遥か上を見上げる。
 …老境を迎える家長アテネが不快甚だしいという様子でこちらを見下ろしていた。
「あなたは身の程をわきまえるということを知らないのですか。この場を勝手に仕切ろうなどと無礼にも程がある」
「あら、それじゃあなたに仕切れるっていうの?」
 灰色の髪をきっちりと結い上げた凛々しい風貌のアテネはあからさまに顔をしかめてみせる。
「下賎な娘は黙っていなさい。大体あなたは何処の家の者?」
 ピュラの橙色の瞳の色が、一段と深くなった。
 まるで娘の命のひかりを象徴するかのように、またピアスが揺れて煌きを放つ。
 それは野生の獣――そう比喩するのが一番正しいだろうか。
 ぴんと背筋を伸ばした、猛々しい紅の獣。
 口元には小さな笑みさえ浮かぶ。
「いないわよ、家族なんて」
 肩口にいるクリュウが思わず何かを言いかけた。しかしそれは泣きそうともとれる顔で俯くだけに留まる。
「私に家族なんていないわ」
 吐き捨てるような声で、娘は繰り返した。
 アテナの瞳が僅かに見開き、…不可解そうな顔になる。
「…あなたは何者? からかうのもいい加減にしなさい!」
「家がなんだっていうのよ!!」
 声の鋭さは、娘の方が勝っていた。
 否、それは心の強さの象徴か……。
 思わず口ごもったアテナに向かって、赤毛の娘は向き直った。
「私だって好きでこんな身に生まれてきたわけじゃないわ。…でも生まれてきたからには、――仕方ないじゃない。だから生きてきたのよ」
 少女は気がついたときに既に一人だった。
 小さな町の施設の中、少女は生きていた。
「あなたたちはどうなの? 本気で生きていきたいって思ったことある? 世界にはどんな人たちがいるか、考えたことがある? 知ろうとしたことがある?」
 いつのまにか町を焼け出され、少女に残された道はあまりにも険しく。
 少女は知っていた。
 何故この世がこうなってしまったかを。
 だから、少女は選んだ。
 その中に抗うことなく、…ひとり、毅然と自分の足で立っていることを。
「私は家がなくたって生きていける。そう信じてる。…どの家がどうなのかなんて、関係ないわ」
「下賎な血の者が何を言うかと思えば…!」
 くすんだ色の瞳が憎悪を湛える。
 女性にしては低い、しかしよく通る声だ。
「人はとても弱いもの。だから誰かが上に立って導いていかなければならない。私たち血族はその任を果たしているのです! それが由緒正しい家に伝わる生き方」
「違うわね」
 娘の口調はあくまで冷めている。しかしその瞳は熱い炎に燃えたぎって――。
「確かに人は弱いものよ。でもだからこそ、自分よりも弱いものを造りたがる。あなたたちは単に自分たちが優位に立っていたいだけよ」
 誰もが止まっている。娘を中心として、そこだけ世界は止まっている。
「…それが人間だもの。…仕方のないことよね」
「それじゃあ…」
 ふとピュラは視線を傾けた。
 リリカが、怯えたような、不安げな…そんな瞳をこちらに向けていた。
「あたしたちにどうしろっていうの…? あなたに何が変えられるっていうの? 何も出来ないくせに偉そうなことをいわないで! あたしたちを侮辱しないで!」
 お互いの視線が、重なる。
 しかしその瞳が揺らいだのは…リリカの方だった。
 まるで射止めるような娘の視線。体が知らず知らずの内に震えていく…、
「甘ったれてんじゃないわよ。なんで私があなたたちの為にしてあげなきゃいけないの? それだけの恩を売られた覚えはないわよ」
 外から戦いの音が聞こえてくるというのに、誰一人として動くものはいない。
 娘はその二本の足で立って、辺りのその存在を知らしめている――。
「別にあなたたちがどうしようと構わないわ、…ただ私はそう思ってるだけ」
 物事の考え方など、それこそ人の数だけあるのだから。
 娘は周りがどうしようとも構うことをしない。
 彼女はいつだって、目の前のものが何であろうと立ち向かっていくのだから…。
「ピュラ……」
 かすれたような声でそっとクリュウは呟いた。
 彼は思う。恐らくこの場にとがめられるべき者は一人もいないのだと。
 全て生まれた家と、その身に降りかかったことによって考え方や人格が形成されてしまうのだ。
 ―――同じ、人間だというのに……。
 一体何がいけないのかと思う。
 どうしてこうなってしまうのかと、思う…。
(……それでも、僕は―――)
 しかしクリュウの思考はそこで中断させられた。
 誰かの悲鳴が会場をつんざく。
 ピュラはその来るべき時を察知して、振り向いた。
 クリュウもそれに習うようにして扉の方に視線を投げかける。
 それはまるで決められた台本が舞台の上で展開されているように――。

 …剣を携えたスイが、そこに立っていた。


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