-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 六.あぶれたものたち

079.炎をはらむ瞳に映る



 真なる闇。
 まるで自分の目だけがそこにあって、何をすることもなく佇んでいるような。
 先ほどからぴくりとも動いていないから、既に触れている感覚すらなくしていた。
 どんな美しい色でも、どんな眩しい色でも、光なくては何も映ることはない。
 強いひかりが全てを白に埋め尽くしてしまうのと同じように、ひかり届かぬ場所もまた、虚無に終わるのだ。
 誰の心に刻まれるわけでもない。
 誰の心に焼きつくわけでもない。
 まるでそのまま自分の存在さえも忘れてしまいそうな―――。

 窓の外からは喧騒。
 少女は耳を塞いでいる。
 全て、全てから自らを遮断してしまっている。
 胸の内から溶岩のようにどくどくと湧き上がる、様々な感情。
 何をやっているのだ、これが自分の選択したことであり、目を背けるべきことではないのだ…、そう何処かで憤慨する自分がいて。
 所詮お前には何も出来ないのだと冷笑する自分すら、何処かにいる。
 しかしそうやって外界から自らを遮断していないと、全てが壊れ己の皮膚を突き破ってしまいそうで。
 小さくうずくまるようにして…、闇に解けたまま。

 誰かと共にいるときは、まだ平気だった。
 忘れることすらなかったが、…しかしそれでも、あの優しい仲間たちが傍にいるとどことなく安心できたのだ。
 しかしこうして一人でいると、たったそれだけで心にどす黒いものが沸き起こってくる。
 それは恐怖、畏怖、不安、耐え難い苦痛―――。
 …胸が、張り裂けそうになる。

「…ねえ、イシュト……」

 ぽつりと少女は呟いた。
 怯えた、それこそか弱い少女の声であった。
「…ボク、これでよかったのかなぁ……?」
 耳を塞いでいるから、言葉は自分の体の中だけを伝って…幾倍にも膨れ上がる。
「だって……」
 泣いているようにも、聞こえた。
「これからきっとボクたちは―――」
 小さく嗚咽が鳴る。
 誰もいない。なにもない。
 そして少女は、何一つとしてすることも出来ない―――。
「怖いよ…………」
 一滴だけ流れた涙を、袖で拭った。
 大声をあげて泣きたかったが、そうもいかない。
『でも、それが…ボクの選んだ道なんだ』
 独白を紡いだ唇を切るほどに噛み締める。手が離された耳に届くのは、やはり混乱の音。
 体が、心が、震えていた。
 瞳を固く閉じて、拳を握る。
 この網膜に焼き付けなければならないと思う、今広がっている光景を。
 そうしていく道を、少女は選び、誓ったのだから。
 そして、それが少女が愛する者へのせめてもの償い、なのだろうから…。
 息を大きく吸い込んで瞳を開く。
 立ち上がって、手探りで部屋を後にした。
 暗い廊下を通り、外へ出る。
 既に突入後だったらしく、甲板に人は少なかった。
 その船は既に桟橋に寄せられている。
 特有のふんわりとした潮風に揺れる黒髪を耳にかけて、セルピは屋敷の方を見た。
 繊細で美しい、…観る者を圧倒させる巨大な建築物、力の象徴。
 ごくりと喉が鳴る。少し前までは自分がいるべきはずだった場所だ――。
 きっとここには沢山の知り合いがいるのだろう。
 こちらに笑いかけてくれた人々が沢山いるのだろう。
 しかし少女は思い出したように首を振る。
 あの白い幼子は既に死んでしまったのだ。
 ここにこうしているのはただの…そう、ただの、旅の人。
 だから、この屋敷の中にいる人たちなど関係ないのだ。そうだ、関係ない――。
 ただ…胸のこのちぎれそうになる痛みだけは。
 それだけは、―――真実だった。
 この船を飛び出して、あの屋敷に飛び込んでいきたい。
 そこで何が出来るわけでもないのに…、ただ少女は思う。
 仲間たちが戦っているというのに、そこにいるということしか出来なくて、息が詰まる…。
 空を仰いだ。
 一面に宝石をまいた、どこまでも深い夜の空。
 いよいよ冬の足取りが見えてくる季節である。昔いた北の地ではもう雪が降っているだろうか…。
 そう思うとどこか寒気がしたように感じられて…気がつけば、セルピは自分の体を抱きしめていた。


 ***


 まるで舞台の上にいるような、…そんな舞台だった。
 鮮烈な赤色を持つドレスに映えるしなやかな肢体。
 大胆に肩の辺りで切りそろえられた緋色の髪にガーネットのピアスが戯れている。
 瞳は激昂する炎の光を一杯に湛えて――、
 対峙するは、すらりと背の高い男。
 紺碧がかった青の髪。黒よりも深い蒼の瞳がそっと細められている。
 その手に持つのは一振りの大きな剣。常人が持つには重過ぎるであろうそれを、片手で軽々と持っている。
 こうして比較してみれば、片方の娘の方が男よりもはるかに小さい。
 しかしその少女が持つ輝きは、決して彼に引けをとるものではなく――。
 その『出来すぎた光景』に、誰しもが逃げることすら忘れて、ただ見入っていた。
 …最初に口火を切ったのは娘の方だ。
「随分仰々しい入場ね。私たちになにか御用?」
「……―――」
 男はそのまま空気に溶けてしまいそうなほど微動だにせず、暫し沈黙を守る。
 端整な顔には何も映らない。なにか大切なものをずっとずっと昔に封じてしまったままの、凍りついたような表情。
 そんな姿に見とれていた女性たちは、不意にその唇が動いたのにびくりと肩を跳ね上がらせた。
「この屋敷はあと数十分後に爆破される」
 男の少々低い声は、呟きに近いほど小さいというのに天井高い部屋の全てに響き渡る。
 誰もが彼の言った意味が解らず、暫し硬直したまま佇んでいた。
 そうして、それが一つの力ある言葉として彼女らの心に浸透した瞬間――、
 そこにいる全ての者が息を呑み、全ての行動を凍りつかせた。
 蒼の男は続ける。
「この屋敷はただの別荘じゃない。地下には大量の火気類と爆薬が仕掛けてある。――速やかに避難した方がいい」
 ぴくり、とアテネ・ダブリスの手が震えた。
 尚も声は続く。
「それと、最近上級貴族たちがこぞって兵器開発に力を注いでいる。むやみに外にでない方が身の為だ」
 ちらり…と見る先は大きな時計。目線だけで針の位置を確認、また元に戻す。
「何を世迷い言を」
 かつん、――乾いた音をたててアテネが立ち上がった。
 刃のように鋭い視線を男に浴びせかける。
「大体平民ぶぜいで押しかけた挙句、証拠もなしにそのようなことを口走るなど気でも違っているのですか!」
「…信じないならそれでいい」
 瞬間、その瞳に殺気がほとばしった。
 辺りの空気が更に張り詰める。
「誰かあの男を捕らえなさい! あの狂人を誰か――」
 アテネは男を指差しながら辺りの固まる者たちに視線を投げかけ――、その目線と声は、とある一人の娘のところで止まった。
 先ほどまで背を向けていたのに、何時の間に振り向いたのか。
 …鮮烈に咲き誇る、一輪の彼岸花。
 聖女とも、落ちぶれたものとも、――どんな者にも当てはまらないような、そんな笑みを口元に浮かべて。
 その橙色の瞳は、全てをいとも簡単に飲み込んでいく――。
「…あなた、人の動かし方ってのが分かってないわ」
 ぽそっと娘は、呟いた。
 その瞳がそっと時計にやられ……小さく伏せられたかと思うと、娘は顔をあげる。
 それは、全てを解き放つ力を持つ言葉だった。

「皆、逃げないとここは危ないわ!!」

 ―――混乱は、はじけた。


 ***


「…し、心臓が止まるかと思った…」
「それはこっちのセリフよ」
 不機嫌極まりない、という顔でピュラはちらりと視線を横に向けた。
「……」
 スイがそれに気付いてこちらを向く。
「あんたがセリフ間違えたらどうしようかと思ったわ」
「そうか」

 隣の部屋からは喧騒。既に大混乱の極みとなっている。
 高いところでアテネが何かわめいているが、この大騒ぎの中では誰にも伝わらない。
 既にスイ以外の仲間たちは退かせてある。屋敷から逃げ出した貴族たちはこぞって自分の船に飛び乗っているのだろう。
 最初のピュラの演説からスイに告げられる事実まで…、これで不安を抱かぬ者はいない。
 会場にいるのは元々女性ばかり――煽られた恐怖は、どんな力よりも威力を発揮する。
 そんな中、一同は混乱に乗り通路の影に潜むようにしてやっと落ち着いたのだ。
「でもまあ、不安は煽れたから成功でしょうね。私たちも早く離れましょ、悪いけど爆死は御免よ」
「ああ」
 スイはこくりと頷くと、辺りを見回して立ち上がる。
「あの中を通るのは危険だね…ちょっと待ってて」
 クリュウもそれに続いて窓際に寄っていって――そっと手をもたげた。
 ぽそぽそと口の中で詠唱を呟くと、手の中から煌きが零れだし――、

 ――ばうっっ…!

 同じく甲高い音が響き渡って、窓ガラスの一枚が砕け散った。
「あーあ、高そうなガラスなのにね」
「そ、そんなこといったって…」
「…ま、どうせ爆破されちゃうんだから何言っても始まらないけど」
 ピュラは小さく笑うと先にスイに出るように促す。
「急ぐわよ」
 予定時刻までもうあと数分もないだろう。元々ピュラたちの『茶番』も、爆破時刻にあわせる時間稼ぎでしかなかったのだ。
 ――否、そして恐怖に煽られた者たちを多く外へと逃がす時間稼ぎでもあった。
 刹那、背後でずん、と地響きが突き上がるがした。空気が衝撃として辺りを震わせ、まだ人が逃げ惑う最中の広間から悲鳴があがる。頭上のシャンデリアが大きく揺らぐ。
 …一度目の爆破だ。
 予定では、三度目の爆破でこの屋敷を吹き飛ばすことになっていた。時間差で一人でも多くの貴族を逃がそうとしたのだ。
 そうすれば逃げ帰った者は他のあらゆる人々に吹聴するだろう。上の階級の貴族が危ない、――彼らは兵器などを開発しているのだ――、
 そうして貴族界が一気に揺さぶられるのは目に見えることだ。
 庭の外は暗がりが広がっている。悲鳴だけが鳴り響く、静かな静かな月の夜。
 スイとクリュウが先に外にでて、ピュラもまた窓に足をかけた。ドレスの裾がガラスの破片にひっかかって裂けたが、気にしていられなかった。
 外に身を乗り出すと香る海の潮。ふわっと潮風が頬を撫でて髪を揺らす。
 軽く飛んで、芝生の上に着地した。スイがそれを確認して走り出そうとしたので、ピュラもまた走ろうとする――、

「待って!!」

 ―――ずん………っっ!!

 二回目の爆音が、屋敷を大きく揺さぶった。屋根の彫刻がどこかで落ちたのか、何かが割れる音が遠くでする。ガラスが勢い良く割れて、辺りに飛び散った。
 それに重なってつんざいた、悲鳴に近い声。
 振り向いた。
 橙の瞳が深みをまた一つ、増す…。
 人の影がひとつ、窓辺にいた。
 恐怖にがたがた震えて、目に涙を溜めて。
 窓の縁に手をついてしがみつくように、すがるように――、ガラスの破片がまだ完全にとれていなかったその縁は容赦なく彼女の白い手を傷つける。
 ――リリカだった。
「あ………――」
 立ち止まったピュラにスイが振り向く。
 ピュラはじっとその影を凝視していた。
「…どうするんだ?」
 限りなく小さな声でスイは問う。
 ピュラは、振り向かずに返した。
「…先に行ってて。私もすぐに行くから」
 …数秒、間が開いた。
 スイは僅かに瞳を伏せて呟くように言う。
「――気をつけろ」
「わかってるわよ」
 ちらっとピュラはスイに目配せを送ると、もう一度屋敷に近付いた。
 スイはそのままクリュウを連れて闇に消えた。
 …リリカは窓辺から一杯に涙のこもった瞳をピュラに向けている。
 しかしピュラが数メートル離れたところで止まり――改めて見つめてくるのに、やはりリリカは怯えた。
「…あな…た……、」
 消え入りそうな声だ。
 ピュラは何も言わない。
「…なによ……何者なのよ……」
 すい、とその橙が細くなった。
「…早く出ないと、危ないわよ」
 次の爆発は――屋敷の全壊を示す。
 ぎっ、とリリカは歯を噛み締めた。それは悔しさにだろうか、恐怖にだろうか…、
 あるいはその両方か。
「死にたくないんだったら飛び降りなさい」
 2メートルもない高さ。しかしそんな場所から飛び降りたこともない貴族の娘にとって、その高さは未知なるものだ。
 ――セルピも最初は、…こんなささいなことでも怖かったんだろうか。
 ふっとそんな考えが過ぎって…今はそれどころではないとかき消した。
「…飛び降りないんだったら私は行くわよ」
「と―――」
 リリカはそれでも、必死に虚勢を保ってわめくように言った。
「飛び降りるわ…!」
「だったら急いだら? いつこの屋敷が潰れるかもわからないのよ。…私はあなたとここで心中はしたくないわ」
 足を一歩、後ろにだす。
 草が踏まれてかさり、と小さく鳴る。
 そしてリリカは震える勇気を振り絞って、足をかけた。
 瞑ってしまいそうになる目を薄く開き、その場から、飛ぶ。


 瞬間、けたたましい爆音が一気に辺りを煙と共に襲った。


 反射的にピュラは飛ぶようにして――否、爆風と一緒に飛んで、植え込みの影に着地する。
 耳を塞いで痛いほどの音量に耐えた。地鳴りが酷い。地下から吹き飛ばしたのだ、当たり前だろう。
 見上げれば、屋敷が火を噴いていた。一気にその屋根がひしゃげ、形を失くしていく―――。
 数十秒そうしていただろうか、もうもうとあがる煙の中、やっと音も収まってきたのでピュラは立ち上がる。
 目を細めながら腕を口元にあて、…その奥を凝視した。

 ――泣き声が聞こえる。

 ――ああ、ひとの泣く声だ。

「……リリカ」
 初めてピュラは、少女の名前を呼んだ。
 薄くなってきた煙の中からそれらしき影を見つけると、そっと近寄る。
 深夜の暗がりの中、灯りは炎上する屋敷のひかり。
 紫色の長い巻き毛を持った少女は、奇跡的にも瓦礫に埋もれることもなく、その場にへたりこんでいた。
 あちらこちらを切って肌に血がにじんでいるが、それ以外に怪我はなさそうだ。
「…足は怪我してないわね」
 それでも変わらぬピュラの声に、リリカはそろりと視線をあげた。

 まるで生まれたての小動物のような、
 か弱く、怯えた、
 幾重にも涙が濡らす…

 救いを求める、瞳。


「立ちなさい」

 吐き捨てるように、ピュラは言った。
 裂けたドレスの裾から覗く、真っ白な足。
 体中すすで汚れている。汚れてはいるものの――。
 しかしそれは、本来あるべき彼女の姿のように思えて、リリカは息を呑んだ。
 猛々しい野生の獣のような少女。風にさらされて、その中で前を向き生きてゆく少女。

 ぎらぎらと炎をはらんでひかる瞳で、その娘は言っていた。

「悔しいなら立ってみなさい。それでも生きたいなら…自分のその足で、自分の力で立ってみなさい!」


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