-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 六.あぶれたものたち

074.嵐の前の…



 かくして出来あがったスイの料理は…、絶品、という言葉で表すにふさわしいかっただろう。
 あの顔からどうやったらこの味ができるかは…恐らく永遠の謎、である。
 その料理を口にした船員の誰もが、スイをこの船の専属料理人にしたいと思っただろう。
 味の細かい説明は、恐らく文字にしたら途方もなく長いものになると確信できる。

 それにしても、とピュラは思った。
 この船の乗組員はかなり団結力が強い。
 否、団結力といったらそれは違うのか―――、なんとなくそれぞれが仲間を労わり合う意識を持っているのだ。
 何人か、がっつくような勢いで食事を済ませる者がいた。
 別に食事は逃げないのに、と思っていたら…、どうやら交代で食べる者たちが温かいものを食べれるように、と急いでいるのだった。
 また、船の中にはいつも和やかな空気が流れている。
 それは全て…テスタ一人から広がる、穏やかな雰囲気がそうさせるのだろう。
 決して彼に服従しているわけではない。
 ただ、全員が彼を大切に思っているのだ。
 まだ成人していない、幼い面影を残した少年に――。

「ええ、だからこそなのかもしれませんね」
 最後に食事をしにきたクレーブは、付き合うといったテスタをやんわりと断ってピュラたちと5人でテーブルを囲んでいた。
 宝石との契約で使う魔法はかなり精神的に疲れるらしい、…テスタは気遣いを汲み取っておとなしく仮眠室へと向かっていった。
「前の船長は…そりゃもうおっかない人でしてね。自分も何度どやされたか…」
 ふっと笑って温かい茶に口をつける。
「そんなときに親方が来たんでさあ。自分はまだ見習いの頃でね、」

 明らかに航路とはずれた海域に浮かんでいる船を見つけた船長は、危険を顧みず飛び込んでいった。
 そして仲間たちがおろおろとしながら待っていると、…沈んだ、それでも僅かな微笑みを浮かべた顔で、一人の子供を抱きかかえてきたのだ。
 子供は他の者の死に憔悴し、絶望し、死んだように眠っていた。
 しかし船員たちの力で目を覚まし、…この船員として、迎えられた。

「自分たちは皆バンダナを頭に巻いてるでしょう? でも、あのころの親方は頭が小さくてえらい不恰好で」

 クレーブはその時のことを思い出しているのか、こらえきえないようにけらけらと笑みを漏らした。
「だからね、船長が代わりに首に巻いてやったんです。最初は怖がってるだけでしたけど、いつのまにかこの船になじんでいって、」
 その後もテスタは大事そうに宝石を抱きかかえながら成長していった。
 その頃はまだ誰も、テスタが契約者の息子だということも知らず、その宝石も単なる親の形見とでしか思っていなかった。
「…えっと、それで今から10年くらい前ですかね? この船がえらい嵐に突っ込んだんですよ」
 恐らくもう30はいっているだろう彼は、僅かにその顔を険しくさせる。
「あの時は…本気で沈没を覚悟してましたよ…。視界なんか完全に死んでて、外にでたら一瞬で投げ出されるくらいの風で」
 しかもこの船は他の船に助けを求めることは出来ない。見つかったら…それこそ待つのは死、だ…。
「そんなときにね、突然親方が言うんです。『ぼくがみんなをたすけるよ』ってね。そういうなり外に出て行って…あとは、嵐を切り裂いてみせましたよ」
 そんな情景は想像に難くない。暗闇に閉ざされる嵐の中、突如甲板に降り立った一人の少年。目が覚めるような鮮やかさの赤いバンダナを首ではためかせ、いつも大事にしていた宝石を空へ掲げる。
 そうして、つんざくような光の柱が空へと伸び上がる。突然嵐は切り裂かれ、その勢いを落とす。揺れも忽然となくなり、星空が視界を覆うのにそう時間はかからない。
「親方はそれで一度ぶっ倒れちまったんですけど、三日後に目が覚めましてね。親方のお陰で助かったって皆がお礼を言ったら…なんて返したと思います?」
 …まるでいつもののんびりした顔をそのままに、少年は笑って――。

『ぼく、ちょっとかっこよかった…かな?』

「全員呆気にとられた黙ったと思いきや…、船長を含めて爆笑しましたよ。自分、船長があんなに笑ったのを見たのは始めてでした」
 ピュラたちが黙って聞いているのを見て、クレーブはまた舌の先で笑ってみせた。
「2年前に船長が亡くなるとき、船長はこの船の全権を親方に譲ったんです。誰も反対する奴はいなかった」
 そうして現在のこのリベーブル号が成り立っている。
 だからこの船で誰一人としてテスタを船長、と呼ぶ者はいない。
 彼らにとってテスタは船長ではない。しかしその穏やかさと海のような心の広さ、…そして海への想いが彼らに力を与えるのだ。
 テスタについていくのではない。テスタと共に、この船を動かしていくのだ。
 だから、船員は彼のことを親しみを込めてこう敬称することにした。
 『親方』、と……。

「それにしても、人と契約する宝石って世界にほんの少ししかないんでしょ? テスタの父親ってどこで契約したのかしら」
「うーん、宝石は契約すべき人を呼び寄せるともいうんだけどね…」
 クリュウが頬に手をあてながら考え込む。
 彼としても力を秘めた宝石の知識はほぼ人並みに等しい。ただ、妖精たちは自らの力をもってしても太刀打ちできないであろうその力に危険を感じていたのだが…。
「まあなんであれ、親方は親方です」
 クレーブは最後の一口を飲み終えると、席を立った。船長が仮眠室に入った今、彼らが船を守らなくてはならない。
「皆さんの正念場はもうちょっと先になりますからね、それまでしっかり休んでおいてください」
 最後に白い歯を見せてにかりと笑い、軽く敬礼。
 ピュラも小さく手を敬礼の形にして額につけてみせた。
 そうしてクレーブが出て行けば、食堂はピュラたちを残すのみとなる。
「っあー、今日も一日終わったわ…」
 ピュラは広い机にうつ伏せになるようにして大きく伸びをした。
「うん、疲れたね〜」
 セルピも…頭に巨大なタンコブをこさえた状態で、その頬を机にころんと転がす。
 ふあぁ、と猫のようなあくびが出る辺り、もうかなり眠いのだろう。
「あと6日くらい、だったかしらね…」
 ピュラは思う。1人旅から4人旅に変わってどれほどの時間がたったのだろうか、と…。
 あのときはまだ夏だった。もうすっかり秋だ、……そういえば…?
「あら?」
「どうしたの…?」
「今日、何日だったかしら」
「え…っと」
 クリュウは眉間に軽いしわをよせて考える。いかんせん旅をしていると季節の移ろいは分かるものの、正確な日にちを忘れがちだ。
「…薄(すすき)の月の……29日、だっけ?」
「あ……」
「どうかしたか?」
 スイが横目で尋ねると、ピュラは小さく舌をだして笑った。
「私、もう17歳」
「あれ…お誕生日だったの?」
「もう一ヶ月以上前ね、すっかり忘れてたわ。秋桜(コスモス)の月23日よ」
 両手で頬杖をついて、軽く息を漏らす。
「…といっても、孤児院に入った日がそのまま誕生日になってるからね、正確には何日かも知らないし、もしかしたら歳も違うのかもしれないわ」
 この時代ではよくあることだった。
 貴族でもない限り、親を失った子供はそのほとんどが自分の正確な誕生日や年齢を知らずに育つ。
 故にセルピの年齢や誕生日は確かなものだ。しかしスイはピュラと同じく、不確かなものなのだろう―――。
「…でも、自分がそれでいいんだって思えたらそれは誕生日だよ」
 机に乗せた両腕に顎を乗せて、セルピは微笑んだ。
「誕生日おめでとう、ピュラ」
 それにクリュウも続く。
「誕生日おめでとう…。いいよね、僕たちなんか何度となく来るから一度もこういうこと言われないのに」
 ピュラはセルピとクリュウに視線をやって…ふふっと笑みを漏らした。
 自然と言葉が零れる。
「…ありがとう」
 そんな彼女に同調するように、耳元でピアスがちらっと煌いた。
 ―――かたんっ…
 音がした方に視線を向けると、スイが立ち上がったところだった。
「ちょっと待ってろ」
 言いながら隣の調理室へと入っていく。
「……まさか」
 これからケーキでも作るのではないかとピュラは心配する。
 そんなことをしていたら夜もくれてしまうだろう。
 …しかしそれは杞憂に終わった。
 スイは5分もかからずにそこに戻ってきたのだ。
 手には…カップが、一つ。
 もくもくと暖かな湯気をあげるそれが、ことんと彼女の目の前におかれる。
 …溶けかかったチョコレートの乗った、ホットミルクだった。
「わあ、おいしそ〜」
「保冷室に牛乳が少し残ってたから」
「…勝手に使っていいの?」
 ピュラは言いながらもそれに口をつける。
 ふわっと口の中に甘い味が広がって、心に染み入るような温かさが心地良く感じられた。
「…まあ、おいしいからいいわね」
「……誕生日おめでとう」
 ぼそっと掠れるか掠れないか、…そんな彼の声が、なんだかおかしく思える。
 ピュラは、言っていた。
「ありがと」


 ***


「親方、連絡が届きやした!」
 翌日の昼過ぎ頃、そんな知らせをもった船員の一人が船長室へと駆け込んでくる。
 大体の交信は魔法で行われていた。転移魔法と原理は同じでかなり簡単なものだ、情報を暗号化し、空気を伝わせて相手に伝える…。
 テスタはそんな受信の内容が書かれた文章に目を通すと、それを隣にいたクレーブに渡して、小さく頷く。
「皆を集めてくれる?」
「イェッサー!」
 慣れた動作で敬礼すると、すぐに船員は踵を返して船長室を飛び出していった。
「…親方、これ……」
 それから数秒後、文章に目を通し終わったクレーブがいぶかしげに呟く。
 しかしテスタはのほほんと笑っているだけだ。
「うん、あの二人に頼むしかないと思うよ」
「大丈夫なんですか…?」
「うん、多分」
 不安げなクレーブをよそにぞくぞくと乗組員たちが集まってきていた。
 ピュラたちも呼ばれて入ってくる。
 広めにとってある船長室も、それだけの人数が入るとかなり窮屈に思えた。
 彼らが揃ったことを確かめると、テスタは小さく頷いて口を開く。
「えっと、これからダブリス家の計画について話すよ、よく聞いて」
 もう一度クレーブから返してもらった連絡書を片手に…、その灰色の瞳が揺らめく…。
「計画日は屋敷でパーティーが行われてる。ぼくたちの目標は二つ、一つは重火器類の奪取、もう一つは貴族たちの情報収集」
 誰もが黙ってその声を清聴していた。そこに響くのは、テスタの少年を思わせる透明感のある声。
「情報収集は二人で行くのが一番いい。しかも、万が一奪取が貴族に見つかった場合、上で騒ぎを起こして注意をひきつける必要がある。だから、行くのは必然的に戦闘能力の高い人…、」
 ピュラたちが顔をあげた。やはりそれは彼女たちの方が適任だろう。
「…なんだけど、ちょっと問題があるんだ」
 誰もが怪訝な顔をしてテスタに視線をやった。
 彼はぽりぽりと頬をかきながら小さく息をつく。
「…このパーティー、女性しか入れないらしいんだ。だから…」
 テスタの視線が、ピュラとセルピに注がれた。
 誰もが頷けるだろう、この二人は報告によれば戦闘は可能だという。
 しかしセルピの瞳にふっと影がさす。それはいけない、それでは……。
「あ…」
「待って」
 しかし、セルピが言う前にピュラが遮っていた。
「この子はいかせられない、…私一人で行くわ」
 途端に辺りにざわめきが走る。
 そう、誰もセルピがエスペシア家の者だと知らないのだ。
 もし彼女が貴族たちに姿を現したなら…、それこそ混乱の引き金となるだろう。
 しかしそのことを彼らに言うのも、はばかられる。貴族というものは、庶民にとって敵でしかないのだ―――。
「…何か理由があるの?」
 テスタの問いに…ピュラはその瞳の色を深くさせながら、もう一度言った。
「とにかくこの子は行かせられないの。大丈夫よ、私一人でやれるわ」
「でもピュラさん、一人っていうのはいざという時にこっちと連絡がとれなかったりして大変ですよ」
 クレーブが不可解そうな顔のまま正論を言い放つ。
 …辺りは暫く沈黙に閉ざされた。
 あまりにも不穏な沈黙にクリュウはスイの肩口でおろおろするのみだ。
 セルピは唇を噛み締めながら俯き……。
 なんとか打開策はないかと考え込んでいたピュラの脳裏に、不意に光が宿った。
 ぱっと目の前が開けたように彼女は顔をあげ、手を叩く。
「そうだわ!」
 ぱちん、という音に反射して全員の顔があがった。
 彼らが見たのは、彼女の強い意志を湛えた顔だった。人の顔というのはここまで強く見えるのだろうか…、
「スイ、『あれ』はまだあるわよね?」
「なんだ?」
「あれよ、あれ!」
 ぴしゃりと言い放った彼女の前でスイは暫く考え込み……、数秒後にその意味を汲んで納得したように頷くと、無言で部屋を出て行った。
「…どうしたの?」
 首を傾げるテスタに、ピュラは満面の笑みで答えてみせる。
「大丈夫、とってもいい案よ。今スイが持ってくるわ」
 一分もたたないうちにスイは『それ』を持って帰ってきた。
「…これか?」
『それ』を、全員に見えるように掲げてみせる。
 全員の目が、点になった。
 ピュラだけが、満足げに頷いていた。
「そう、それよ」
『それ』。

 ――ほら〜、せっかく腕によりをかけて作ったんだ。ちゃんと使っておくれよ?
 ――やだ、こっちが好きで作ったんだからね。着てもらえるだけでも嬉しいよ。

 …クリュウの顔が、完璧に蒼白になった。
 いくつも可愛らしいレースがあしらわれた、黄緑色の、鮮やかな、
 …ピュラはそれ以上ないくらいに意志の宿った瞳で、言った。

「クリュウと私で行くわ! それでいいでしょ?」

「ええーーーーーーーっっ!?」
 真っ白になりながらもそんな声をあげたのは、いうまでもなくクリュウだ。
 ピュラはスイから小さなドレスを受け取って硬直しているクリュウにかぶせてみせる。
「ほら、こうしたら女の子に見えるでしょっ。ばっちり!」
「全然ばっちりじゃないよーっ!」
「じゃあ何? スイに女装させて連れて行くの?」
 …ピュラとクリュウ、お互いに想像してしまって吐き気を催す。
「そ、そんなわけで決定ね、異存ある…?」
「うん、それならいいけど」
 テスタは相変わらずのんびりと答え、クレーブも少々不可解そうだったが、…まあよしという具合に頷いてみせた。
 ふとピュラが視線を感じてその方向に向けると、不安そうに瞳を揺らめかせて自分を見つめているセルピの姿。
 歯痒さが顔一面にでた彼女は…僅かに唇を動かせて、ごめんね、と誰にも聞こえないように呟いた。
 ピュラはそんな彼女に笑ってみせ、頭をわしわしと撫でてやる。
「それで、まさか私がこんな姿で行くわけにはいかないでしょ? 服とかどうするの?」
「うん、それはこっちでなんとかするよ。招待券も作れるし」
「中々頼もしいのね」
「そうかな」
 ふふっとテスタは笑って、手にした連絡書を机の上に置く。
「じゃあ、後は皆で地下の兵器庫を襲撃、だね。弾薬庫が近いから、火気は使えなくて―――」

 そうして、監視中だった数名を除く全員が見守る中、テスタはその計画を確かめるように語っていった。


 ***


 ピュラたちが部屋に戻ったとき、まず始めにセルピが頭をさげた。
「………ピュラ、…ごめんね…」
 自分の存在で、船員からの不信感を煽ってしまったのは変えられない事実だ。
 しかしだからといって自分の正体を明かすこともできない。
 全て悪いのは、この小さな体に流れる忌まわしい、血…。
「なにいってんのよ、そういうのは行動でツケを払ってよね」
 対してピュラはあっけらかんと言ってみせて、…もう一度セルピに向き直ってその瞳を見つめる。
「…それよりセルピ、そのツケとして頼みがあるのよ」
「え?」
 突然のことで首を傾げるセルピに向かって、ピュラは言った。
「あなたにしか頼めないの。もしかしたらあなたにとって苦痛かもしれないけど、」
「うにゃ……?」
 その瞳が、閃光のような光をもってしてセルピを見つめる。
 そうして、唇がゆっくりと開かれてその喉が言葉を紡いだ。
「……貴族たちの礼儀とか挨拶の仕方とか、私ぜんっぜん知らないから、教えてくれる?」
 …セルピは一瞬、きょとんとした様子でピュラを見つめた。
 そうだ、自分にも出来ることがある……?
 そう思うだけで、心の中に何か温かいものが溢れてくる気がした。
 自然と表情に笑みが戻る。
「う……うんっ、頑張るー!」
「よろしく頼むわよ」
 ピュラも軽く屈伸してから、ぱん、と自分の頬を叩いて気合をいれた。
「じゃあ、まずは……」


 数分後。


「わわわ、それじゃダメだよ〜。本当に足音を鳴らさないように、つま先から地面につけて…」
「こうかしら?」
「…ピュラ、それは泥棒さんの歩きかただよ……背筋はのばさないと」
「だーーっ!! なんで一々歩き方まで気をつけなきゃいけないのよーっ!!」
 …指導は前途多難もいいところだった。
 全身でいらつきを発散させるように叫ぶと、ピュラは脇にあるベットに倒れこむ。
 ピュラ自身、全く作法を必要としない生活をこの16年間続けていたのだ。
 そんな彼女を令嬢らしく仕立てるには……おそらく眩暈がするほどに途方もない作業であろう。
 セルピは、次に教えるべきこと――挨拶の仕方、食事の仕方、礼の言い方、男性にエスコートしてもらうときの仕方――と指を折りながら数えて、長すぎる道のりに小さく溜め息をつく。
「うーー」
 ばたばたと足を何度か動かせた後、ピュラは起き上がってもう一度習った通りに歩こうとする。
 しかしどうもいつもの癖で足をぺたぺたとつけて歩いてしまうのだ。しかも歩きやすさに甘えて油断すれば少々がに股になってしまう。
 どうせこんなこと以外にやるべきことはない。ヒマを持て余すよりはこちらの方がましといえた。
 …が、いらつくものはいらつくのだった。
「あっ、なるべく肩はゆらさないようにして…、腕も極力自然にね、わああまた足音が鳴ってるよ〜」
「こんなの人間の歩きかたじゃないわ…」
「仕方ないよ〜……」
「セルピ、もう一度見本」
「う、うん…」
 セルピはそっとロングスカートの先を持ち上げて足がよく見えるようにし、…静々と部屋の端から端まで歩いていく。
 まるで舞っているかのような足取りだった。
 そこには一点の濁りもなく、まるで精霊が歩いていったかのように足音もない。
 …かなり、サマになっていた。
 当たり前か、彼女はずっとそんな場所で生活していたのだから体がそれを覚えてしまったのだろう。
「…ボクは旅はじめのときに、貴族だってばれないようにぺたぺた歩くのに苦労したんだけど…」
「正反対ね…」
「うん…」
 …揃って、溜め息。
「…じ、じゃあ、もう一回見ててもらえるかしら…?」
「うん、頑張って〜」
 ファイト、と言わんばかりにガッツポーズをとるセルピに苦笑しながら、ピュラは足へひきつるほどに神経を注ぎながら歩き始めるのだった。

 貴族の館までは、あと5日。
 彼女の修行は、始まったばかりだった。


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