-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 六.あぶれたものたち
075.出立
クリュウは、鏡の前でげっそりしていた。
まさかもう一度着ることになるとは夢にも思わなかった、服。
細かい花の刺繍が入った、見目も麗しい、ドレス。
そんなものをまとった自分が、鏡の向こうで虚ろな目をしている。
…本気で、故郷に帰りたいと思った。
――がちゃっ
しかしそんな彼の淡い願いも虚しく、扉は開かれて赤毛の娘が顔をだす。
「クリュウ、どんな感じ………ぷっ」
「…なんとでもいってよ……」
笑いをかみ殺せずにいるピュラを横目に、クリュウはまた海のように深い溜め息をついた。
「まあ、それなら十分女の子で通用するわよ。よかったわね」
「よくないよ…」
「クリュウ〜」
ピュラの後ろからスイとセルピもついてくる。
「わあ、可愛いね〜」
「嬉しくない…」
元々妖精族はあまり雌雄で顔の違いがない、というのが一番の理由だろうが…、いつかの町の女将が彼へと特製に作ったドレスは素晴らしいくらいに彼に似合っている。
まるで花のつぼみのように裾がしぼられたスカートに、舞えば軽やかに宙を舞うであろう長い腰のリボン。
…確かにクリュウの姿は、女といっても十分通用するものだった。
「名前は決めたのか?」
「あっ、そうだね〜、女の子の名前つけてあげなきゃ」
なんだか楽しそうな人間たちをクリュウは斜に眺めることしか出来ない。
「え、クリュコで十分じゃない」
「やだよ、そんな名前…」
「じゃあクリュミ」
「あのねえ…」
「うにゃ〜…クリュミ、クリュミ………なら、クルミとか」
「あっ、それいいわね!」
ピュラはぱんっと手を打って笑った。
「じゃあクルミちゃん、これからよろしく!」
「………」
クリュウは思った。
これは、妖精界歴代から末代まで続く恥だ、と………。
***
それから数十分後、ピュラとセルピも部屋にこもって奮闘中だった。
「うー、足がわさわさするしすかすかするわね…」
全くロングスカートというものにはきなれないピュラが緋色のドレスの裾を軽く持ち上げて顔を引きつらせる。
「こんなんじゃ戦えないわよ」
「仕方ないよ〜」
「目元がゴリゴリするわ…」
「あ、触っちゃだめだよ。崩れちゃう」
「唇もバサバサだし…」
「食べるときは注意してね、口紅ってすぐとれちゃうから」
「ねえ、セルピ…?」
「うにゃ?」
ピュラは、聞いていた。
心の奥底から聞いていた。
「あなたたちは、一体どの星からやってきたの…?」
「うにゃ〜」
化粧など生まれてはじめての経験だった。
確かに一度してみたいと思ってはいたが、高値で取引される化粧にはあまり手がでなかったのだ。
本当に薄い口紅なら買ってみたことがあるのだが――。
顔中にひろがるゴテゴテした感触に折角の整えた顔も、歪んでしまう。
「あっ、座るときはちゃんと膝をそろえて…」
「こんなの着て膝そろえたら暑くて仕方ないわよっ!」
「でも〜」
おたおたとセルピはピュラの服を直しながら四苦八苦したように言う。
「それにしても、あなたよく化粧なんてできたわね」
「うん、皆がしてるの見てたから」
ちなみに服やドレスの一式は一度船を陸によせて、ピュラたちが買いにいった。
どこから金がでてきたのか、かなりの金額だったにも関わらずテスタが払ってくれたときの驚きはまだ覚えている。
セルピは自分が行けないことに負い目を感じているのか、つきっきりでピュラの仕立てを請け負ってくれた。
「ピュラさーん、そろそろ準備できましたかー?」
ふと顔をあげれば、扉の向こうから船員の声。
「ええ、今行くわ」
そう返して、ピュラはベットから立ち上がった。
緋色の髪を軽くなびかせて、一度伸びをする。
「ピュラ、頑張ってね」
「まかせてよ」
お互いに頷きあってから、部屋を後にした。
既に船は大陸に近い場所まで移動しているので、海中に潜っての進行を始めている。
もう夕方か、少々辺りは薄暗くなってきていた。
暗い海の中の運転は困難を極める。岩などに当たらないよう細心の注意を払いながらクレーブは後ろから部屋に入ってきた気配でピュラを察知した。
「これから海底洞窟に入りますんで、そろそろ準備の方…―――」
振りむいた瞬間、言葉が、途切れる。
口が半開きにして止まった。
目の前にいる、一人の少女。
否、それは少女という生易しい言葉で表せるものではない。
燃え上がる炎の中の中に咲く花、灼熱の女神―――、
髪と同じ色の服をまとった彼女は、そんな周りを圧倒する雰囲気さえもってして、そこに立っていた。
「……どうしたの?」
「あ、いえ別に…」
「…?」
首を傾げながらピュラはスカートのすそを引っ張ってみる。得になにも変わったところはないはずだ、と…。
「…セルピ、私の顔になにかついてる?」
「ううん、とってもきれいだよ」
ますますピュラは首を傾げるばかりだ。
「ピュラ…」
ふと呼ばれたのに振り向けば、先ほどと同じ姿でクリュウが真っ暗な顔をしている。
「あらクルミちゃん。そんな顔してたら可愛い子が台無しよ?」
「………」
クリュウは穴があれば隠れたい気持ちで一杯だった。
しかしこうするしかないのだと思って、ピュラの肩口のところまでよろよろと飛んでいく。
それに続いてスイも部屋に入ってきた。
クレーブの横で資料に目をおとしていたテスタも配役が全て揃ったことに気付いて、顔をあげる。
「…みんな揃ったね」
にこっと笑って、資料を閉じた。
透き通るような透明感をもった灰色の瞳がランプに照らされて深みを増す。
辺りは既に薄暗い。敵陣も近いため、あまり光も灯せない。
そんな中でテスタは全員の顔を見回した後、確認するかのように頷いた。
「突入はピュラさんたちが出発してから70分後。この海底洞窟から地上に出て、地下室に忍び込むよ」
「そろそろ洞窟内の空間に浮上するんでピュラさんとクリュウさんは用意をお願いします」
「…じゃ、クリュウ、甲板にでてましょっか」
「うん…」
頷きあって歩き出そうとする二人にクレーブは慌てて付け足した。
「あ、あと洞窟内ではなるべく物音をたてないようにしてください。見つかったら終わりです」
「分かったわ。あなたたちもうまくやってよね」
すっとピュラはドレスの上から少々大振りのオーバーコートを羽織った。洞窟の中を通るのに、服を汚すわけにはいかない。
「気をつけてな」
「あなたこそ」
スイに軽く手を振って、ピュラは肩口にいるクリュウを確認して甲板へとでる。
必要以上に物音をたてない為に甲板にいるものは誰一人としていない。
そんな甲板にひとり降り立って、窓の中の者たちに軽く手を振った。
すると程なくして船が空気のある場所へと浮上する。
船を包んでいた空気の膜がはがれ、そこに暗い洞窟が姿を現す。
まるで全てを飲み込むような巨大な洞窟だ。船の僅かな光に照らされて自らの影が巨大なスクリーンに映し出される。
ピュラはそんな光景をじっと見据えて…、クリュウに小さく視線を送った。
クリュウもまた頷いて、そっと手を前に差し出す。
詠唱を唱えることもはばかられたので、なんとか無言で集中力を高め、桃色の煌きを小さな手から放出した。
辺りは耳鳴りがするほどの静寂。冷たい空気が頬をさす。
クリュウがついてくることには中々の利点があった。まずは――。
――ふわっ…
ピュラの体が浮いた。タラップもなしに船から陸地へと舞い降りる。まるでそれは炎の女神が舞い降りたかのようだった。しかしそれは暗がりに隠れて誰の目にも留まらないのだけれど――。
クリュウの扱う妖精特有の千差万別の魔法。きっとこれからも役に立つことだろう。
今は早く屋敷に向かわなければいけない。タイムリミットは午後8時、全員撤収の時間までに一つでも多くの情報をかき集めるのだ。
そう思うと自然に口元に笑みが浮かぶ。こういう風に忍び込むのは中々好奇心をくすぐられるものなのだ。
いつかも情報収集の為に貴族の馬車に忍び込んだことがあった。あの時も荷物の影に隠れて貴族たちの会話を聞いているときに、えも知れぬ恍惚感に浸ったものだ。
たんっと細い足が大地を蹴る。動きにくいことこの上ない格好なのだが、こればかりはどうしようもなかった。
クリュウが照らしてくれる先を走っていく。普段から旅をしている彼女にとって岩場など平地とさほど変わらない。
冷たい空気が肺の中に送り込まれてきて、気分が良かった。
自然に出来た洞窟の中を駆け上がる。道はいくつにも分岐していたけれど、下調べをしてくれたテスタたちのお陰でルートは頭に叩き込まれている。
静寂の黒い空間に、靴の音だけがささやかな響きをもたらした。
濡れた岩場が灯火に照らされててらてらと煌く。体を支えるために手をつくと、白い手が少々黒く汚れたがこれはあとで洗うしかないだろう。
二つの影はお互いを見失わないように寄り添いながらひたすら暗い洞窟を走った。
小さな唇から漏れる息が、白く染まって後ろへと流れていく。
もうそろそろ冬の足どりが確かなものとして近付いてくる季節なのだ…。
―――とん、とその足が草むらへと下りた。
「…ふー、やっと地上ね」
「うん……」
ピュラとクリュウは針葉樹林の片隅にぽっかりとあいた洞窟の穴から姿を現す。
すると彼女は手早くコートを脱ぎ捨てて、それを落ち葉で見えないように隠してしまった。
露になる真っ白な肌と、それを覆う緋色の衣。
顔には絶対に触るなとセルピに念を押されていたから、代わりにピュラは膝をたたいてみせた。
「よし、出発」
「大丈夫かな…」
「ここまで来ておいて何言ってるのよ」
「うん……」
まだ不安半分、といった様子のクリュウを手招きして、ピュラは歩き出した。
ポケットから小さな地図を取り出す。辺りは薄暗いが、見えないほどでもない。
「早くしないと森から出られなくなるしね」
言うなり、彼女は方位磁針を確認してから歩き出した。
あでやかな服の裾が波のように揺れる。
リリリ、と虫の音が辺りを包み込む夕暮れの森。夕焼けはなく、静かに空の青さは鈍くなっていく。
樹にでもひっかけたらそれこそ一大事なので、ピュラは裾を軽くたしくしあげて走った。まだ今はブーツで走っているが、向こうについたらこっそりとスカートの中に忍ばせたヒールに履き替えなければならない。
…数分、走っただろうか。
「見えた、あれじゃないかな…?」
クリュウがぼそりと呟くのにピュラも止まってその方向を見つめる。
確かに視線の先に白い壁らしきものが見えていた。
「…いよいよね」
すぐにブーツを脱ぎ捨てて踵が高くなったヒールに足を通す。
ぱちん、と小気味良い音をたてて金具がとまると、服についた葉を何枚かはらった。
「多分ここは裏口だから、表に廻らないと…」
辺りに誰もいないかきょろきょろ見回しながらクリュウが言う。
ピュラも頷いて、迂回するためにまた歩き出した。
ヒールの踵がやわらかな森の土に沈む。森の合間を伝う風に、緋色の髪が豊かに揺れていた。
「待って…!」
突然肩でした声にピュラは足を止めた。クリュウがその長い耳をぴんと張って辺りをうかがう。
「…誰かいるよ……」
ピュラの耳元で囁く。瞬時に彼女は獣のように瞳に光を宿し、辺りの様子を探った。
しんとした森の中で、虫の音だけが妙に耳に残る。
「…誰かそこにいらっしゃるのですか」
どきりと心臓が飛び上がった。
男の声だ。恐らく20代か、ランプを持って辺りの様子を伺っている。
ピュラは一瞬自分の姿に唇を噛み締めそうになって――紅を塗っていることに気付いてかわりに歯軋りをした。
こんな自然色の中で自分の緋色はあまりに目立ちすぎる。
不安そうに瞳を揺らめかすクリュウの横でピュラは瞬時に思考を巡らせた。こちらからアクションを起こした方が得策だ、このままだとますます怪しまれる――。
そう思うと、ピュラは背筋をぴんと張って歩き出した。セルピがやってみせてくれたあの歩きかたをなるべく忠実に再現してみる。
すると樹の陰から、礼服を着込んだ男の姿が瞳に映った。恐らくは警備の者だろう。
その男は――不審物だったらすぐに持っていたナイフを突きつけようと思っていたらしいのだが―――。
男がはっとして息を呑む。視線が全てその姿を現した少女に吸い込まれていた。
まるで全てを焼き尽くす炎が一滴、命を吹き込まれて滴ったかのような娘だ。
すらりとしたしなやかな肢体、野生の獣を彷彿させるその猛々しい瞳。
豊かな緋色の髪を鮮やかになびかせる…それと同じ色の唇が、彼女の声を紡いだ。
「こんばんは」
年頃の貴族の娘たちがこぞって使う鈴が鳴るような高い声ではない。
それは驚くほどに自然体で、そして透明感のある――どこか辺りを圧倒させる声であった。
「…ど、どうなされたのですか?」
すっかり暗くなってしまった森を背景にした少女は、その全てを従えているようにも思え…精霊をも彷彿させる。
「人ごみが苦手で、少し散歩をしていたの。そろそろ戻ろうかと思って…」
「…失礼ですがお名前を」
ピュラの瞳がその深みを増した。
男はその視線の強さに思わず飲まれてしまう。
「これでいいのかしら」
彼女はポケットから一枚の紙を出してみせた。
羊皮紙に書かれたそれを見て、…男の目が丸くなる。
「こ…これは失礼しました、シェリナ様」
瞬時に右手を胸にして頭をさげた。
「エスコート致します」
「ありがとう」
差し出された手にピュラは自分の手を重ねる。
はっきりいって尋常じゃないくらいに鳥肌が立ちそうだったが、我慢するしかなさそうだった。
クリュウもはらはらした様子を隠しながら肩口にとまってついてくる。
―――テスタに貰った招待券には、『シェリナディア・サン・マンシェリド』と印字されていた。
最近力をつけてきた貴族の名前だ。本来は本物のシェリナがここにやってくるはずだったのだが…、どういう裏工作をしたのかは、ピュラの知るところではない。
ただ、現実として……今宵は、彼女がシェリナなのだ。
真実など、知らなければそれまでの話。
ピュラは連れられるままに屋敷の中へと招かれた。
どうやらここは別荘となっているらしい、辺りに他の家は見当たらない。
森の一角を切り開かれた純白の屋敷。隣の港には今は沢山の船が来航している。
「屋敷内への男性の立ち入りは禁じられております。申し訳ないですがどうぞここからはお一人で」
「ええ」
ピュラは一瞬でも早くこの手を離したいと思いながらもやんわりと手を戻し、屋敷を仰いだ。
見るものを圧倒させる贅沢さで作られた屋敷だ。外壁からして様々な彫刻が施されていて、庭には噴水が涼しげな音をたてている。
辺りには一面に花が咲き乱れ、屋敷の中からは洒落た音楽まで流れてきていた。
そんな様子に彼女は僅かに目を細めて……一歩、踏み出す。
時折すれ違う人々が目を見張るようにしてこちらを見ていたが…、気にもならなかった。
心は朝の泉のように静まっていて、一点の揺らぎもない。
歩くごとに、流れるような音楽の音も大きくなり、人々の談笑も聞こえてくる。
窓から零れる明るい光。美しい衣装を思い思いにまとった人たち。
食物連鎖で、常にその頂点にいる、ひとびと……。
しかしそれが近付けば近付くほど、…驚くほどに少女の心は静まり返っていくのだった。
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