-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 五.眠れる古代都市

066.灰色の時代、橙の大地



 海の匂いがした。
 あたたかな、誰かの匂いがした。
 しかしそれは息苦しさのようにも思えて…、
 やわらかな枕に顔を埋めて、ひとり。

 ふっと瞳に光が差し込めた。
 わずかに潤んでいるようにも見える瞳。まだ完全な覚醒は遠く、ぼんやりとその視界をとらえる。
 口の中からくぐもった声が漏れた。腕を動かす、足を曲げる。
 どことなく体が気だるい。いつものような軽さが感じられない…。
 頬にかかった緋色の髪をうっとうしそうに後ろへやった。
 少し暑いと思えば、自分がベットの中にいるのだとやっと気付く。
「………ん…、」

 ――ピュラは、ゆっくりと起き上がった。
「………」
 ぼんやりとする頭で窓の外を眺める。
 既に夜も一番深いところ。
 満月に近い月が外でいっぱいに星の涙を零していた。
 …随分寝てしまったように思える。そういえば、あの激痛に耐えるうちにみるみる意識がなくなって…?
 ――気がついたように、右手首に視線を落とした。
 …そうして、既に跡形もなく消えている呪いの刻印に小さく吐息を漏らす。
 ひどく喉が渇いていた。
 多分、この時間だと誰も起きてはいないだろう…。
 灯火は月明かりしかない、部屋の中。先ほど見た光景とは雰囲気が変わってみえるが、そこが診療室のベットなのだとピュラはすぐに察知することができた。
 このまま、またベットの中に戻ることもできるのだろうが――、眠気などはなくて、そのままするりと足を床に滑らせる。
 その足に体重をかけて、立ち上がった。
 少々眩暈がするものの歩けないほどではない。
 ブーツはと考えると……、この町は部屋で靴をはかないのだ、と気付いて裸足のまま歩いていった。
 樹を貼った床がぎしぎしと音をたてる。
 窓から吹き込む穏やかな風に、髪が揺れる――。
 まるで暗がりに落ちた、空間。
 灯火は、家の前についたランプと月明かりのみ…。
 彼女の小さな影は、ゆっくりと部屋を後にしていた。


 ***


 しなやかで細い足が宙をさまよう。
 訓練場に面している縁側に腰掛けたまま、ディリィは視線までもを遠くに馳せて、考え事をしていた。
 軽く瞳を伏せれば思い出す言葉。

 ――いいかディリィ、これはお前の仕事だ。

 ――スイが見つかり次第、伝書鳩を使ってお前に知らせる。

 ――まずはスイに会え。

 ――そうして、やつを―――


「どうしたもんかしらねー…」
 膝の上に頬杖をついて、溜め息。
 紺碧がかった青の髪と海の色をした瞳。
 端整な顔立ちに、どことなく他人から一歩退いている近付きがたさ。
 まるで他の者たちに埋もれて隠れたまま流されていってしまいそうな―――。
 もし彼が一人旅だったのであれば、彼女は事を楽にこなせるというのに…、
 ―――零れるのは、また溜め息。

「溜め息なんてついてどうしたのよ」

 ふっとその顔があがって、斜め後ろに向けられた。
 …ピュラが、いつもの顔でいつもの姿で、立っていた。
 耳元のガーネットピアスが深紅の煌きを宿してちらちら煌いている。
 そうして、橙色の瞳は燃えるような彼女の強さを。
「あらピュラちゃん、起きてたの? どっか痛いところとかない?」
「別に平気よ」
 彼女は紫紺の瞳を眩しそうに細めて穏やかに笑んだ。
「――薬湯作ってあげる。ちょっと待っててね」
 そういうなり立ち上がって、長い髪をひるがえしながら奥へと引っ込んでいく。
 ピュラはそんな後ろ姿を見送って、…先ほどの彼女がしていたのと同じように縁側に腰掛けた。
 視線を遠くに向ければ、どこまでも続く海。
 昼間はごたごたで全く気付かなかったが、この縁側からは綺麗な海を遠くに拝むことができるのだと気付く。
 鼻の奥を吹き抜ける潮の風。
 気温を落とした夜のドトラは、昼間の喧騒も夢のように静かに落ちていた。
 もうすぐまたエンゼルティアが来るだろうか…、月はあと少しで満月になろうとしている。
 手を伸ばせば届きそうなほどに星は散りばめられ…、まるでその様子は宝石箱をひっくり返したようだった。
 しばらくピュラはそんな景色の中でぼんやりとしていたが、ふいに足音がしたのに気付いてゆっくりと振り向く。
 …ディリィがいつもの微笑みを零しながら手に二つのカップを持っていた。
「おまたせ」
 小さく囁いて、ピュラのすぐ横に腰掛ける。
 それだけで彼女の持っているカップから、甘い匂いがふわっと広がった。
 その一つをピュラに渡して、ディリィは自分の方に口をつける。
 ピュラもそのカップの暖かさを両手で包みながら、中の液体を口に含んだ。
 少し生姜の入った甘い薬湯だった。普通の茶よりは味が劣るかもしれないが、…飲むだけで暖かくなれるのは嬉しいことだ。
「…こんな時間になにしてたの?」
「うーん、人生の価値と明日の朝食の因果関係について考えてたのよ」
「…それで、本当は?」
「うふふ、秘密」
 ピュラがあからさまに眉間にしわをよせるのに対して、ディリィはにこにこ笑ったまま。
「でも気持ちいいじゃない? こんなにゆったり風に吹かれてるなんて」
 そう言いながら心地良い風に眼を細める。
「…まあ、確かにね…」
 不服といわんばかりの口調だったが、ディリィはさして気にした風もなく彼女の髪をすいてやった。
「どうだった? 一人で旅してて、それでスイ君たちと会って。…もう4年にもなるのよね」
「別に普通よ。こうやって今も生きていられるし」
 本当にピュラらしい答えだと、ディリィは内心で笑った。
 彼女と旅を始めたばかりの頃によく聞いたものだ、――両親を探そうとは思わないのか、と。
 ピュラさえそう思えば、自分も探すのを手伝ってやる、と。
 しかし彼女は言った、今の自分はこうして生きていけるのだから、それは必要ない、と。

 …望むものは、生。

 たった、それだけだった。
「ピュラちゃんは強いからね」
「あら、そうじゃなきゃ今ここで生きてるわけがないじゃない」
 決して後ろを向かない瞳と、それに見合った生きる技。
「――で、あなたの方はどうだったの? 新しい弟子でもとったとか」
「弟子は今のところピュラちゃん一人よ。…というかピュラちゃん以外にとる気なんてないもの、あなた以上の人になんか会ったこともないわ」
「あのねえ…」
 つくづくこの親バカならぬ師匠バカにピュラは閉口するばかりだ。
「ディリィにはちゃんと家もあるでしょ、旅に目的はないじゃない。あるとすればそれが弟子をとるためなんじゃないの?」
「目的はあるのよ?」
 不意にピュラは首を傾げてディリィの方に視線を向ける。
 ディリィは視線を海へ投げかけたまま、カップを手の中で転がしていた。
「ピュラちゃんも大きくなったわねー。人の旅の目的まで考えるようになったなんて」
「悪かったわね、前は幼くて」
「あら、ちっちゃいときのピュラちゃんもとっても可愛かったわよー? こーんなくりくりしてて」
「残念ね、もう私は16歳よ」
「うふふ、16だってまだまだ子供よ。今でも十分に可愛いわー」
 いかにも楽しそうなディリィの口調にピュラは思わず溜め息を零す。
「…なら、あなたの旅の目的はなによ」
 …少しだけ不可解に思うことがある。
 自分には家族がいない。帰る家もない。だから生きるために旅をしていく。
 しかしディリィは家族もいるし、なんら不自由のない暮らしをしているはずだ。
 なのに、何故危険な外界にでて旅をするのか…、
「――友達の頼みごとをしてるの」
 風が、吹いた…。
 髪を揺らせて、唇を乾かして、そうして過ぎ去っていく…。
「…ともだち?」
「そ。幼馴染よ、その子の頼みであちこち旅してるの」
「頼みって?」
「それはひみつ」
「あっそ…」
 いたずらっぽく口元に人差し指をあてる仕草は彼女を歳相応に見せることがない。
 もう20代も後半に差し掛かる年齢なのにこのどことなく漂う少女らしさは否めないとピュラは思う。
「でもね、」
 しかしだからこそ、その言葉の中でふいにその歳まで生きてきた重みが滲むのも、また事実…。
「…ピュラちゃん…、もしも戦争に巻き込まれたりしたら、どうする?」
「え?」
 またカップの中に口をつけようとしていたピュラはその格好のまま小首を傾げた。
 ディリィの瞳は月夜に照らされて深い光を湛えて…、
「世界中が大戦争になって、治安なんかなくなちゃって。…そんな真っ只中にいつのまにか迷い込んでたりしたら、…どうする?」
 無音、なにひとつとして音のない世界。
 風もそのときは止んでいて、…そうすれば完全なる静寂に大地が落ちる。
 …ピュラは暫し黙って薬湯を飲んでいた。
 夕飯も食べていないから少し空腹していたのかもしれない、少し飲みづらい薬湯もゆるゆると喉を通っていく。
 そうして、少し熱い吐息をかすかに漏らしたあと…静かに目線を暗がりにやって、呟いた。

「…別に、いいんじゃない?」

 瞳を、ディリィに向ける。
 こちらを見つめる紫紺の瞳、それを見返す橙の瞳。
 その瞳の中では絶えず光がはじけ、鮮烈な色がまき散らされている――。
「それが私に与えられた現実なら…、私はそれで構わない。その中で生きる道を見つけて生き抜くわよ」
 呟きのような、囁きのような、静かな声だった。
 まるで地底深くに根を下ろした大樹のように…。
「…………――そう」
 ディリィは何故だか悲しみを含んだ瞳で微笑んだ。
 諦めたような、もどかしいような、そんな顔で。
「…そういえばナチャルアの人も『世界が動くかもしれない』って言ってたわね…。本当にそうなったりして」
「なるかもしれないわよ? 世界は広いから、どんな場所で反乱が起きるかもわからないわ」
「でもどうせ貴族に潰されておしまいでしょ」
 空になったカップを横に置いて、ピュラは空を仰ぐ。
「そうねえ、貴族が庶民に破られたことなんてないものね」
 ディリィも膝に頬杖をついて呟いた。
 また風が吹き始め、髪と静かにたわむれていく。
「…じゃ、ピュラちゃん、そろそろ寝た方がいいんじゃない?」
「そうね…、明日寝坊するわけにもいかないし。あのベット、あのまま使っていいの?」
「ええいいわよ。…でも病院の方で一人で淋しくない? 一緒に寝てあげましょっか?」
「謹んで遠慮しておくわ」
「あら残念」
 本当に残念そうにディリィは肩を落とすと、二人分のカップを持ってくるりと身をひるがえした。
「じゃ、また明日ね。おやすみなさい」
「ええ」
 ピュラもまた背を向けて、歩き出した。
 まるで迷いもなく、ただ一直線に。
 恐らく彼女はこれからもずっとずっと、ああやって歩いていくのだと思う。
 ディリィはその後姿を見送った後、静かに瞳を閉じた。

「……それが私に与えられた現実なら、か………」
 ほんの少しだけ開かれた瞳に浮かぶのは穏やかな哀しみ…。
 あの子には笑っていてほしい。
 いつだって幸福でいてほしい。
 もうこれ以上の痛みなど、荷わないでほしい―――。

 しかし、現実は?

 だから彼女にできることは、…あの子に選ばせる、それだけ…。
 そう、それだけ…。

「やらなきゃ、いけないわね」
 縁側から二階を見上げた。
 暗がりに落ちた、なにひとつ物音のしない家…。
 明日、このドトラで……否、この世界で、なにがおこるのか――。


 ディリィはその雰囲気に緊張を交えながら、家の中へと入っていった。
 そうして、最後の平穏な夜は……明けた。


 ***


「………」
 ふっと心に風が吹きこんだ。
 何故だろうか、妙な動悸がする。
 スイは、海と同じ色をしたその瞳を開いた。


――世界は、灰色に落ちていた。
300年前にウッドカーツ家によって征服された後、
…全ての流れは止まり、よどみ、暗がりに落ちていた。



 意志と関係なく体が強張る。第六感が悲鳴をあげて異常を呼びかける。
 瞳を細めて、辺りを探った。
 緊張が張り詰める。一体、何がおこっているというのだ?
 全く辺りに変化はない。いつも通りクリュウはクッションの上で丸くなっているし、荷物もそのままだ。
 しかし、分かってしまう。
 今日という日は、いつもの日とは違うのだと――。


――その300年、何度も反乱が起こった。
人々は自らの手でその主導権を取り戻そうとした。
…しかし彼らはことごとく貴族の前に破れ、何も残るものはなかった。



「……ん、…スイ…?」
 動き出した気配にクリュウはゆっくりと眼を開く。
 視界に飛び込むまばゆい光。朝のまばゆい陽のひかり。
「…あ、もう朝……? ………あれ、スイ?」
「クリュウ、来てくれるか」
「え?」
 目の前にいたのは、既に旅の服に着替えたスイ。
 腰にはいつのも剣を携え、肩には使い込んだマントを羽織って。
「……どうしたの…?」
 その姿にただならぬものを感じて、クリュウは僅かに戦慄した。
「…呼ばれた気がする」
「……え、」
 スイ自身もよくわからないようだった。
 ただ、胸騒ぎに心が震える。不安、恐怖、不快…、


――いつのまにか人々は貴族に逆らうことをしなくなった。
もう貴族にかなう者はいないのだと思い始めたのだ。
そうして人々は貴族の手の中の生活に、その身を置き始めた。



 心の奥にあの、後姿が見えた。
 後姿だから、どういう顔をしているのかもわからない。
 しかし声をかけようと、手を差し伸べれば、…霧のように消えてしまう。
 掴めるのは、虚無。
「――わかった、行ってみようよ…」
 クリュウはついと飛び上がってスイの肩までいく。
 スイは眩暈のようなものさえ感じながら、部屋を後にした。
 まだ誰も起きていないだろう家の中。
 階段を下りて、一階から外へ……、


――そして、数年前。
ひとりの青年がその強さによって名を馳せた。
彼はただ、それしかすることがないように剣を振るい続けていた。



 その女性は、待っていた。
 紫紺の髪を潮風にまかせ、静かな波紋の一つもない顔で、前を向いていた。
「…起きてきたのね、…今呼びにいこうと思ってたの」
 こうして見るとその瞳は淋しげにもとれるものだった。
 しかし揺ぎ無い意志を湛えているのも確かなこと。
 スイもクリュウも、何も言わずに玄関で佇んでいた。
 朝日がまだ差し込み始めたばかりの時間。
 町が最後の静寂に落ちる、時間…。
「…私はね、あなたを迎えにきたの」
 スイの心に、くもの巣状の亀裂が走っていく。
 言葉に全てが砕け散る。
 地面を足が踏んでいる感触が、――感じられない。
 しかし、ディリィはその先を続けていた。
 そう、現実はただ突きつけられて。
「……ヘイズルに頼まれて、ね」


――青年の故郷は炎に包まれた。
青年は、仲間の制止をも振り切って炎の中に飛び込んだ。
孤高の銀髪鬼。そう謳われた、彼の名は―――、






「スイ君。――――いえ、スイ・クイール君」






 炎の中にある深い深い橙色に、孤高の銀髪鬼が何を想い、何を見たのか、…それは誰も知らない。


-Bitter Orange, in the Blaze-


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