-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 五.眠れる古代都市

065.彼女の生きかた



 ディリィの父親ガヤマは、龍流拳術のフォルセルカンネ家6代目であると共に医学の知恵も多く見につけた者であった。
 得に薬学と解呪に関して博識であり、遠くから彼の噂を聞いて治療に来る者もいるという。
 弟子たちの修行も見なくてはいけないので、彼の診療所は屋敷の裏手にその入り口を開いていた。
 そして、屋敷自体とは渡り廊下で繋がっている。一見風通しの良い造りになっているが、…ピュラたちが呼ばれたのは何故か地下であった。
「…地下室なんてあったの?」
「ああ、ピュラちゃんが来るのは初めてだったな。解呪は魔術を使うことが多いから、周囲に被害が及ばないように地下室で行うんだ」
 そう言って、家の階段から薄暗い地下へと降りていく。
 換気の為に換気扇が中でいくつもまわっているのが灯火に照らされていた。
「ちょっとほこりっぽいけど我慢しておくれよ」
 そういうのは妻のミスラだった。エプロンを着て腕になにやら機材を持っている辺りからしてガヤマの助手を務めているのだろう。
 クリュウは少々不安そうにピュラの肩に捕まっている。
 先頭を歩いていたガヤマは突き当たりの扉の前で足を止めると、…その扉を両手で開いた。
 …ぎぃ、と木製の扉がにぶい音をたてて新たな部屋を覗かせる。
「―――わあ、広い部屋だね……」
 クリュウは灯火が灯された部屋に入りながら呟いた。
 広々とした部屋には、様々な道具や薬品がしまってある棚が並べられ、そして診察台のようなものがいくつかその姿を見せている。
 ただ、それらを照らすのが灯火ということ…そして、石で作られたこの部屋の雰囲気はまるで神殿の中のように思えた。
「ああ、……こっちに来なさい。あの台座だよ」
 ガヤマが指差す方向にあったのは、大理石で作られた診察台。恐らく解呪専門のものだろう。
 大体人が腰掛けるのに丁度良いくらいの広さに作られたその台座は、ひんやりとした美しさを放ちながらピュラたちを迎えた。
「ディリィ、先に消毒してやっておいてくれ」
「はーい。ピュラちゃん、腕だしてくれるかしら?」
「…ええ」
 なにやら調合してもらった薬を水でといているガヤマを横目にピュラは包帯をとって、ディリィに差し出す。
 彼女の白く長い手はそれを丁寧に消毒液を浸した布でぬぐっていった。
「あ、あの僕は何すればいいんですか…?」
「ああ、クリュウ君。この手の解呪はね、まずは君がかけた封印を一度解いてもらわなければ解呪がはじめられないのだよ」
「え……でも封印を解いたら大変なことに」
「だから封印を解いた瞬間に解呪を完成させるんだ」
 にかっと笑って、ゴム製の手袋をはめる。
 ミスラはなにかの染料のようなもので筆を使いながら台座の上に魔方陣を手際よく描きこんでいた。
「呪いってのは神の天罰だとか亡者の恨みとか言われてるが、実際は単なる病気にすぎん。まあ強いていえば体の中に悪い虫が入ったのと同じだな。それを根本的に――」
「あなた、ピュラちゃんがかわいそうですからとっとと初めてください」
 ギロリと妻に睨まれて雄弁な夫は少しばかり肩をすくめる。
「こんな苦しい呪いがピュラちゃんを蝕んでるなんて……ああ、辛かったでしょう」
「別に…」
 あまり口答えするのは逆効果だと悟りきっているピュラは視線をそらしながらそう呟いた。
「よし、では腕を台の上に乗せてくれるかな?」
「分かったわ」
 彼女は小さく頷いてその細い腕を台座に乗せる。
 クリュウの魔法による入れ墨のような文様が、少しばかり痛々しく刻み込まれた腕だった。
 ガヤマはその腕に目を細め、――おもむろに台座の横から伸びていたベルトで彼女の腕を手際よく固定しはじめる。
「え…、なにするの?」
「動かないようにするためさ。ちょっときつめにするけど耐えておくれよ」
 しゅるっと両端の穴に通されながら、ベルトがみるみるうちに彼女の腕を拘束していく。
 あっという間に彼女の肘から指の先まで全く動かない状態にされてしまった。
 そのガヤマが帯びる真剣な瞳にピュラは少しだけ眉を潜める。
「…解呪って面倒なのね」
「ああ、失敗したら確実に死ぬからな」
 …ピュラの顔が、固まった。
「あら平気よ。お父さんが失敗したら、お母さんがすぐにお父さんに後を追わせてあげるから」
 ミスラがさりげなく物騒なことを口にしながらピュラの髪をすく。
「まあまあ心配するな。愛するピュラちゃんを死なせたらお父さんは妻に殺される前にショック死する」
 からからとガヤマは笑いながら傍に置いてあった容器を手にとった。
 中には水で溶かされた薬が入っており、それを彼女の腕に丹念に塗っていく。
「ほ、本当に大丈夫なんでしょうね…?」
「わはは、だてにドトラの名医を名乗っちゃいないぞ」
 その薬は深緑を湛え、すりこまれるようにして何度も塗り重ねられていった。
 塗られた部分と、大理石につけた部分がひんやりと冷たい。
「では、始めるか」
「ピュラちゃん、頑張るのよ」
「え、ええ……」
 一体どのような方法で解呪を行うのかもわからないピュラは少々口元を引きつらせながらそれぞれの顔に視線を移す。
 そしてそれが最後にガヤマのところまでいったとき、ガヤマはにっこりと笑って頷いた。
「よし! クリュウ君、封印をといてくれ」
「う、うん…」
 クリュウは少し不安げに頷くと、少しためらってから…意を決したように息を吸って辺りの力の流れを読み取った。
「…夜空に宿る星の想い、大地に宿る草の願い、全て精霊の懐に抱かれ眠りにつき……」
 ふわっとクリュウの差し出された手から煌きがひとつ零れる。
 まるで涙のようにその煌きは彼女の腕に落ちた。
「――そうそう、言ってないことがあった」
「…え?」
 ぼそりと呟いたガヤマにピュラは首を傾げる。
「…実はな、この解呪……」
「…我が魂すらその腕に抱く精霊よ、ひとたびその力にて戒めを解き放ちたまえ……」
 なんだか、いやな予感がした。
 それだけでピュラの頭のてっぺんから血の気が引いていく。
「精霊の御名において――」
 ―――ガヤマは、言っていた。

「かなり痛いぞ」
「いっ!?」

 ―――全ては、遅かった。
「―――っ!!」

 ――バリバリバリバリッッ!

 突如として電流のようなものが辺りに飛び散り、彼女の腕が呼応しているのか仄かな煌きを宿す。
 その瞬間、彼女の体をつんざくような激痛が走ったのだった。
 …否、それは激痛という言葉ですまされるようなものではなかっただろう。
 まるで体がバラバラに砕け散ってしまうような、それでいて鉄の壁で圧縮されているような、耐え難い苦しみに彼女は思わず膝を折る。
 あのエスペシア家の屋敷での傷みに似ていた。体中の血液が雄たけびをあげて逆流する――。
 体をよじって瞳を固く閉じるが、その苦しみから逃げられるわけでもなかった。
「いたぁっ………ぃ、痛い痛いっ!!!」
 がんがんと自由な腕が無意識に大理石の台座の側面を叩く。
 あれだけ右手をしっかり固定したのはこのためかと気付く余裕すらなかった。
「ピュラっ!」
「もう少しだ、頑張れ…!」
 髪を振り乱して激痛に耐えるピュラにクリュウの方が泣きそうになってしまう。
 彼女の額には脂汗がべっとりと浮き出ていて、緋色の髪が乱れて張り付いていた。
 ガヤマの手の平からは絶えず強い光が放たれ、それらはカマイタチのように絡まりながら踊り、辺りに風を巻き起こす。
 少々離れたところでディリィとミスラは少々緊張した面持ちでじっと彼女のことを見つめていた。
 ――解呪というものは激痛がつきものなのだ、…この彼女の苦しみようはどうすることもできない…。
 既に叫びすら喉の奥で消えてしまう彼女は、…しかし泣くこともせずに歯を食いしばってそんな時を過ごす。
 その白い右手から光の柱が伸び上がり、煌きの粒が幾重にも重なって辺りに飛び散っていた。
 体中が震える。その中心から指の先に至るまで、全てが痛い。
 そうすればするほど、体の本能がその激痛をやわらげようと、意識の方を遠ざけていく――。
 電流が走ったその全ては、どこまでが自分なのかすら分からなくなり、立っているのか座り込んでいるのかすらわからなくなってくる。


 そうして、最後の光が一番の輝きを放ったとき―――、ディリィは駆け出していた。


 ――とさっ…

 受身もなしに崩れ落ちたピュラを横から抱きとめて顔を覗き込む。
 …すでにピュラの意識は完全に失われていた。
 しぅぅ、と風のような音をたてながら光は辺りに解け、空間には元の静寂が戻ってくる。
 …ガヤマは額に浮かんだ汗を手でぬぐって、言った。
「―――よし、成功だ」
 心底安心したように溜め息を一つついてから、彼女の腕にからまっていたベルトを外しにかかる。
 塗られていたはずの薬は、すっかり彼女に溶け込んだのか、…跡形もなくなっていた。
 そして、彼女の腕にはもうなにもない白…。
「ああよかった、一安心ね」
 ミスラも暖かく微笑んで、乱れたピュラの髪をすいてやった。
「だ…大丈夫、なの…?」
「気を失っただけよ。寝かせておけばすぐに元気になるわ」
 拘束器具を外されて自由になった彼女を軽く抱きかかえてディリィは笑いかけてみせる。
 しかしその瞳が一瞬だけけぶり、ピュラの顔にやられた。
 深く閉じられた瞳、浅く息をする小さな口元、耳元で煌くピアス…。
 …ディリィはそのまま瞳を一度閉じると…またすぐに開き、クリュウを見据える。
「――あとクリュウ君、ちょっと頼まれてくれるかしら?」
「え?」
 クリュウが聞き返すと、――彼女はいつもの笑顔で、言った。
「スイ君とセルピちゃん…、呼んできてくれないかしら。家の方の二階に私の部屋があるから。――話しておきたいことがあるのよ」
「うん、いいけど……?」
 一瞬だけ、その穏やかな顔で呟かれた言葉に妙な重みを感じてクリュウは少々怪訝な顔をしながらも頷いてみせる。

 ――話しておきたいことがあるのよ。

「じゃ、この子診療室のベットに運んでおくわね」
「ああ…、よろしく頼めるか」
 ディリィは軽く会釈をするなり、くるりと背を向けた。
「クリュウ君もありがとうな、封印系の魔法は疲れるだろう」
「え……う、うん、大丈夫です…」
 クリュウは小さく笑って、スイとセルピを探しにいくためにディリィの背を追うようにしてその部屋を後にした。
「あ、あの…、」
 最後に振り返って、ガヤマとミスラの二人を交互に見る。
「…ありがとうございました」
「いやいや、ピュラちゃんの為ならお父さんは命でも捨てるぞ」
「ふふ、これからもなにか困ったことがあったらいつでも来なさいね」
 二人の素朴な微笑みは暖かくて不思議にやわらかく…、そうしてクリュウもまた頷いた。


 ***


 クリュウに二人を見つけるのはたやすいことだ。
 まず空を飛べるという利点があるし、…それに彼にとってこの二人だったら大体いる場所は想像できる。
 数十分もたたないうちに二人を発見していきさつを説明し、ディリィの家に向かった。
「よかったね〜」
 セルピはいつも通りに明るく笑ってとてとてと今にも転びそうな不器用な仕方で歩いていく。
「…そうだな」
 スイもまた、いつも通りの返答で歩いていく。
 普段から見ている、当たり前の光景……。
 歩いている場所がどんな道であろうと、変わらない風景…。
 いつの間に、この旅が『当たり前』になったのだろうか?
 そう思ったとき、ふっとクリュウの胸の内を風のようなものがかすめていった。

 当たり前に思っているものこそ。

 その全てが、

 奇跡によって織り成されているものなの、だと……。

「クリュウ、どうしたの〜?」
「え……、あ…うん、なんでもないよ」
 クリュウは軽く笑ってスイのところまでついと飛んでいった。
 なにか、…なにかの胸騒ぎを胸の奥底に追いやって…。
 ドトラの町並みを歩いて、ディリィの家の門を開く。
 相変わらず家の前では修行者たちがその修練を重ねていた。
 まだ後片付けでもやっているのだろうか、ガヤマとミスラの姿はない。
 玄関をあがれば突き当たりに階段が見え、…一同は二階へとあがっていった。

 もちろん、待っていたのはピュラの師であるディリィ。
 風通しがいい家の中にはほとんど扉というものはなく、部屋と部屋は横開け式の扉で区切ってある。
 そんな彼女の部屋は開きっぱなしになっていて、奥からスイたちの姿を発見したディリィは笑いかけてみせた。
「あらいらっしゃい。どうぞ入って?」
「お邪魔します〜」
「丁度お茶をいれたところなのよ。冷めないうちに飲んでね」
 その部屋は少々広めにとってあり、中央のテーブルには入れたての茶が湯気をたてている。
「…ピュラは」
「今、診療室の方のベットで寝てるわ。まああの子もタフだから、明日の朝にはピンピンしてるはずよ」
 スイは納得したように頷くと、テーブルの椅子のひとつに腰掛けた。
 セルピも同じように続き、クリュウはいつものようにテーブルの上に座る。
 ディリィはそんな彼らをぐるりと見回して――、カップに入った緑茶を一口、含んだ。
「…ごめんなさいね、呼び出したりしちゃって」
 …穏やかに微笑む。
 ――しかしそこに寂しさのようなものも垣間見える気がして…、彼らにはなにもいうことが出来ない…。
 ディリィは暫し沈黙を守った。言うべきことを選んでいるのかそれとも言うかどうかを迷っているのか……。
 そして、また静かに微笑んで言葉を続けた。
「あの子のこと……、一緒に旅してる皆に話しておきたくて」
「…ピュラのこと…?」
 セルピが小首を傾げると、ディリィは頷いてみせる。
 テーブルにだされた3つのカップからは湯気が舞い上がって空気に溶けていった。
 そんな湯気を眺めながら言葉を続ける。
 そう、たったひとつの問いを――。
「……あなたたち、『スラム街』って実際に行ったことある?」

 …スラム街。
 堕落したもの、住むべき場所を失ったもの、焼け出されたもの。
 そんな人々が家もなしに暮らしている町の裏側。
 大抵人々はその場所に近付こうとはしない。
 その世界では殺人や強盗が日常茶飯事で起こる。
 また、体を売って生活するものや人を奴隷として売買するものも多くいるという。
 人の亡骸があれば、その服を売って金にする為にスラムの住人が辱める。
 小さな子供までが窃盗に手を染める。
 そんなものたちがたむろする…、

 そう…、その存在すら口にすることを避けられる、町…。

 全員が押し黙ったままなのを見て、ディリィはカップを手の中で転がした。
「……普通、行くようなところじゃないわよね。でも……、」
 その中に目を落とす。伏せられた瞳には、遠い記憶、鮮烈なイメージ。

「…私とあの子はそこで出会ったの」

 ぽつぽつとディリィは口にしていった。
 ピュラが故郷を焼き討ちにされて逃げ延びた先にあった町。
 しかしそこに家があるわけでもなく、…行く先はそんな町の裏側しかなかった。
 旧市街とも呼ばれる、寂れた町外れ。
 泣いても叫んでも、誰も助けてくれない場所。
 …そんなスラムと明るい町との境界線。
 片側は光溢れる町並み、もう片側は暗がりに落ちる地獄…。
 その道を歩いていた彼女は、細い道に座り込んで空を見上げる幼い少女を、見つけたのだった。

「最初会ったときは驚いたわ。だって…10歳よ? そんな女の子がスラムで生き抜いてるなんて、信じられなかった」

 今でも昨日のことのように思い出せる。
 鮮烈な赤の髪、魔物のようにぎらぎら光る瞳、そして耳元で揺れるガーネットのピアス…。
 話しかけてもなにも答えない少女。心を失った、子供…。

「スラムで生きるということは、人を殺すということと等しいわ。分かる? …10歳くらいの女の子が、人を殺して生きていたの」

 ――私はディリィよ。あなたの名前は?

 ――いつごろからここにいるの?


 ――お話、してくれないかしら?



 ――ここから、出たくない?

 刹那、少女の瞳に宿った光。
 しかしそれは明らかな敵意、憎しみも怒りもない、ただの敵意。
 まるで人形のようだと、そう思った。
 恐らく自分が少女を利用する人さらいかなにかだと思われたのだろう、瞬時に少女の体が動く。
 目を見張るような素早さ、身軽に宙を飛んで一撃を決めようとする拳。
 瞬時に理解できる、並大抵の者ではこの少女にかなうわけがないと…。
 少女の腕を掴んだ。
 やせ細った、ぼろぼろの腕だった。
「…あの子はね、本当に酷い姿をしていたわ。目を逸らしたくなるくらいの、ね……」
 力でしかねじ伏せることのできない自分を悲しく思いながら、少女を倒した。
 しかし今でも覚えている、あのときの彼女の瞳。
 隙があれば一瞬でまた攻撃に移りそうな顔、屈せぬ顔。

 ――あなたは、ここにいるべきじゃないわ。

 そんな少女に、手を差し伸べた。
 穏やかな笑顔を浮かべて、一杯のぬくもりを含んだ声で。

 ――私と一緒に行かない?

 その手で、少女の手をとった。
 もう少女には、差し伸べられた手を掴む力すら残されていない気がしたからだ。

 ――ほら立って。自分の足で立ちなさい。

 今までにない人間との出会いに、少女の瞳に困惑が走った。
 まるでその行動が理解できないというように…。
 されるがままに引っ張られて、立たされる。
 見上げれば、いっぱいの笑顔。
 反対の手が緋色の髪を撫で付ける…。

 ――私はディリィ。あなたの名前は?


「だから私はあの子を連れ出したわ。あの強さは、あんなところで発揮するようなものじゃないと思ったから」


 ――あなたの名前、…自分で覚えてる?


 鳴かなくなった鳥のように、口を閉ざしていた少女は。
 その炎を溜めたような橙色の瞳と、ガーネットピアスと、
 この地で生き抜いた、強さと……。




 ピュルクラリア。

 ………ピュラ。

 わたしは、ピュラ。



「最初はねー、全然なついてくれなくて本当に困ったわよ。…でも、旅を重ねるごとにあの子に笑顔が戻ってきたのも事実だわ」


 ――ピュラちゃーん、一緒にドーナツ食べましょ?

 ――金の無駄遣いよ。

 ――うふふ、ここのドーナツは有名なのよ? ほーら、食べてごらんなさいよ。

 ――………。

 ――ね、おいしいでしょ?

 ――………うん…


「2年間、あの子と旅してたんだけどね。その間にあの子はずっと明るくなったし、笑うようになったし…、きっと本来のあの子が戻ってきていたの」

 大陸から大陸へ。
 少女の顔にはゆっくりと生気が取り戻されてゆき…、
 いつだって、その耳にはピアスがちらちらと煌いていた。


 ――ピュラちゃん、まだまだ今日の目標地点は遠いわよ? ほら、急がなきゃ。

 ――あのねえ、さっきから何時間休憩なしで歩いてると思ってるのよっ!

 ――あら、そんなに元気ならまだまだ歩けるわねー。

 ――冗談じゃないわよーっ!!


 『ひと』としての姿を取り戻していく、少女。
 ひとつひとつ戻ってくる、表情…。

「でも、ひとつだけ戻らなかった感情があったわ」

 全員が、顔をあげた。
 ディリィも、カップの中に落としていた瞳を持ち上げる。
 まっすぐとした眼だ。濁りがなく、そして強い…。

「不安や恐れ、…つまり恐怖ね。あの子にはそれが今も欠落したまま…」

 ――誰も口を挟むことはできなかった。
 彼女はふい、と小さく笑って軽く首を傾げた。
「人は恐怖することで自らを危険から回避することが出来るわ。でもあの子はそれが出来ない。だからいつでも正面から恐れもなしにぶつかっていくの。…スラムでの生活はあの子の精神を尋常じゃないくらい強くしたわ。それであの子は大抵のことを冷静に対応して立ち向かっていける」
 歌うように、その言葉を唇にのせる。
 静かな木漏れ日が降り注ぐ、午後のドトラ。
 窓の外からは修練する者の掛け声、小鳥の囀り。
 部屋の中には、彼女の声…。
「スラムがあの子の恐怖を凍りつかせてしまったの。…あなたたち、あの子がなにかに恐怖したり、本気で不安や恐れを口にするのを見たりすることがあった?」
 炎のように燃える橙色の瞳は、いつだって前を向いていた。
 それが彼女の強さだと思っていた。
 自らの足で立って、恐れを知らずに突き進んでいく…。
「――さしずめヤナギと鋼鉄ね。普通の人はヤナギのように風を流して自分を保つけれど…、あの子は真っ直ぐ立って、絶対に揺るぐことがないわ。…そして底に突き落とされてからはいあがって人は強くなるというけれど、あの子は強いから突き落とされることも知らない…」
 先ほどよりも少し冷めた緑茶をもう一度口に含んで、ディリィは溜め息のような吐息を漏らした。
「それがあの子の強さであると共に、あの子の一番の弱さよ」
 悲しみを含んだ声が、穏やかにゆったりと流れる…。
「だからもしも、ふとした弾みであの子に『恐怖』の感情が戻ったとき。あの子にも立ち向かえないことが起こって、不安の底に突き落とされたとき」
 心が、戦慄に震えた。
 風にゆすぶられる。一番深いところが、波紋を呼んでゆらめく。
 しかし現実は残酷にも、続いていく―――、



「あの子は壊れてしまうかもしれないわ」



 心の泉に緋色の髪の娘が映し出されて…、消えた。
 ディリィの瞳の奥深く、悲しみが揺らいで……そして伏せられる。
「たぶん、そのときに傍にいてあげられるのはあなたたちだと思うから」
 スイも、セルピも、クリュウも、彼女の瞳を見つめていた。
 心を凍りつかせた少女に手を差し伸べて、ずっとその眼で見つめていた女性のそれを。
 そうして、その女性は三人の顔を順番に、確認するように見つめた後…、
 また穏やかに笑って言った。
「そのときが来たら、あの子を励ましてあげてほしいの。そうして、守ってあげてほしい…」
 まるで母親のような目つきだった。
 木漏れ日を浴びて、煌いて……。
 また、少しいたずらっぽく笑った。
「こんなことあの子の前で言ったら、きっと張り倒されるでしょうけどね」
 かたん、と席を立って窓を開く。
 他の窓も開いていたから風が吹き込んでいたが、更にその窓からもやわらかな潮風が吹き込んできた。
「大丈夫よ、『もしものとき』なんだからね。普段はいつも通りにしていて?」
「う、うん……、」
 セルピが頼りなげに頷くのを見て、ディリィはくすぐったそうに笑う。
「私からのお話はこれでおしまい。聞いてくれて嬉しいわ」
「ディリィ」
 ――そう呼んだのは、スイだった。
「なーに、スイ君」
 ディリィは笑って首を傾げてみせる。
 …スイは、彼女の目を見て、…言った。
「…ピュラにも立ち向かえないことって、……なんだ?」
 呪いを受けたときも彼女は顔色一つ変えることはなかった。
 そう、『死』すらも彼女にとっては立ち向かっていけるものなのだ。
 そんな彼女にも、立ち向かえないもの……、
 ディリィは穏やかに微笑んだまま、……ゆっくりと眼を閉じた。
 窓辺にいる彼女の髪を風が揺らして、ふんわりとなびいていく。

「……私にもわからないわ。…でも、」

 その姿が少し眩しくて、…スイは眼を細めた。
 ディリィはゆっくりとその口を、開く…。

「あの子の心を外からじゃなくて…、内側から突き崩す。…きっとそういうものよ」

 午後の日差しは優しく、優しく。
 時の流れはあまりにも静かに、静かに…。


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