-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 四.あたたかな雨

055.あたたかな雨に打たれ



 東の空が白んでいた。
 霧がどこまでもかかって、視界がさえぎられている。
 しかしそれでも明るさで朝の訪れが近いことが感じられていた。
 もうすっかり秋だ。あの夏の日から、随分の時がたっていた…。
「……ボクね、あたたかな雨を探してたんだ」
 広大な草原が広がる山肌にセルピは仰向けに寝転がって、空を見上げながら呟いた。
 横で座っていたピュラがちらりと視線をやる。
「…北の雨は冷たくてね、だから南の雨はあたたかいんだって思って、」
 それは独り言だろうか。それとも、空の彼方へと語りかけているのだろうか…。
「あたたかな雨に打たれれば、きっとなにかが見えると思ったんだ」
 言って、ふふっと笑みを零した。
「…なんでそんな風に思ったのかなあ……」
 しかし少女は気付いていた。
 もうあたたかな雨にはさんざん打たれたのだと。それは自分がずっと、セルピとして生きてきてから持っていたものだったのだと。
 そして、全ての答えはそのもっともっと、ずっと先にあるのだと…。
「あのね、ボク…走りたかったんだ」
「え?」
 唄を聴くように彼女の紡ぐ音を聞いていたピュラは、ふと聞き返す。
 セルピは片手を空に向かって伸ばした。まるで届かないとわかっているかのように…。
「露店でお菓子も買ってみたかったし、騒いでもみたかったし、大声で笑ってもみたかった」
 そしてその手は無を掴んで、ゆっくりと胸へおろされる。
 …その胸には、既に欲しかったものが全て詰まっているのかもしれない…。
「何回かね、普通の町の子供を見たことがあったんだ。走り回ってじゃれあってる、ボクと同じくらいの子…。あの人たちはボクと違う人種なんだって言われてたから、ボクは遠巻きに見ることしかできなかったんだけど…」
 目を閉じて、かすかに笑った。
 朝の冷たさが心地良かった。
「…やっぱり、羨ましかったよ。…だからね、ピュラたちと旅してて…本当に楽しかったんだ…」
 僅かな風が吹き抜け、草の流れに波紋を呼ぶ。
 夜の姿は既に消え、辺りは次第に次の世界を紡ぎだしていく。
「…ピュラ」
「なに?」
「…ありがとう」
「……今度からは心配かけるんじゃないわよ」
「うん……」
 小さな手にはエスペシア家の紋章が握られていた。ずっしりと重い、鎖のついた金の家紋…。
 ずっと少女を縛りつけていた、証…。
 彼女はそれをじっと見つめて…。
 それは……どさりという音と共に、小さな手から零れ落ちた。
 目の前の草むらに落ちたそれを少女は拾うこともせずに…、静かに指で一周だけ撫でると、目を逸らす。
 別れは、それだけで十分だった。
「…気付くのに7年もかかったんだ……」
 ちょっと遅すぎたかな、と呟くとピュラが呆れたように笑う。
「でも気付いたんでしょ」
「…うん」
「ならいいのよ、結局は気付いた者が勝ちなんだから」
「……うん…」
「疲れたでしょ、もう寝なさい」
「……ん……」
 ピュラに言われるまでもなかった。
 すっかり最近の生活で疲れていたのだろう。その霧に溶けるようにして、セルピは瞳を閉じると意識を沈める。
「…まったく……」
 ピュラは肩をすくめて彼女に携帯用の毛布をかけてやった。
 肩まできちんとかかるようにすると、霧で見えない遠くに視線をやる。
「…ピュラ、もう何処も悪くないの?」
 後ろからの声に、彼女は振り向かなかった。
「大丈夫って言ってるでしょ。私を誰だと思ってるのよ」
「ならいいんだけど…」
「あんたももう寝ときなさい」
「……うん…」
 しばらく、会話はぷっつりと途切れた。
 4人の旅人たちはそれぞれの思いを無言のうちに巡らせる…。
 何分か経ったろうか、…ピュラはすぐ傍に腰を降ろした気配に視線を向けた。
「…あんた、まだ起きてたの?」
「ああ」
「私が起きてるっていったでしょ、見張りはいいから休みなさいよ」
「…眠れない」
「………」
 ピュラは何も言わずに彼から視線を外す。
 ふう、と溜め息を一つついた。
 …眠れないのは彼女も同じだったのだ。
 しばらくまた沈黙が落ちる。
 ゆっくりと光を帯びていく緑の草原。かすみがとれていく重い霧…。
 まるでこの時が永遠に続くかとも思わせる、穏やかな時間。
 このまま草の中にいれば、自分も草原の一部として溶け込んでいくのではとさえ錯覚させるほどに―――。
 …そんな中に身をおいてぼんやりしていると、…不意に彼がその沈黙を破った。
「…あのとき、もしお前が目を覚まさなかったら」
 ぼそりとスイは呟く。
 手元においた剣に、指で触れた。
 使い込まれた剣だ。手になじむ、しかしたまらなく持つことに苦しみを感じる剣…。
 ピュラは次の言葉などに予想もつかず、膝を抱えるようにして体を丸めた。
「…今度こそ、もう生きていられないと思った」
 ―――今度こそ。
 ……今度こそ?
 ピュラが、…振り向いてスイを見る。
 しかし、その彼女に言葉を選ぶことは許されなかった。冗談を飛ばす余裕すらなかった。
 スイの顔は、あまりにも傷ついて憔悴しきったものに見えたから…。
 いつもの無表情が嘘だと思えるくらいに、…否、今もまた表情がないのだが…。
 彼は視線を遠く霧の中においたまま、ただ言葉を呟く。まるで他の者が彼を操ってそう喋らせているように…。
「…また、俺は……」
 …そこで言葉が途切れたのは、…彼女がまた顔を彼からそむけたからだ。
 豊かな緋色の髪が舞う。朝もやの中を、ふわりと踊る…。
 もう、彼に言うべきことはなかった。ただ、目の前の緋色の少女が生きている。
 それだけで、今はいい―――。
 丸まった彼女の体は小さい。いつも彼女の強さに覆われて、見えなかったものがそこにあった。
 全てが静寂に落ちた空間。風の音が聞こえる。大地の声が聞こえる。
 朝がくるのだと、全てがそんな光に備えるためにその鮮やかさを取り戻していく…。
 ピュラは考えていた…、エディルに言い放った言葉を。
 あのとき、勝手に唇から滑っていった声の数々を。
 そして、…無意識のうちに記憶の奥底から映し出された、あの暗がりで見てしまった映像を…。

 ―――ねえ、他に何か出来ることがあった?

 ―――それとも哀しみに溺れて私も壊れてしまえばよかった?

 もう二度と思い出すまいと思っていた記憶。
 出来ることなら忘れてしまいたいとさえ思う、記憶。
 いやに自分のことを客観的に見ていた自分。
 暗い、暗い、どこまで続かもわからない迷い道…。
 まだ幼かった自分が犯した、こと…。


 ―――哀しみに溺れて私も壊れてしまえばよかった?


「………もう、壊れてたのかもね…」
「どうした?」
「…ううん、なんでもないわ……」
 ピュラは言って、膝に顔を押し当てた。
 ぎゅ、とその膝を抱いて目を閉じる。全ての光を閉ざして、ただ膝に押し付けた。
「…寝たほうがいいんじゃないか」
「……眠れないわよ…」
「そうか…」
 …理由を深く聞かない彼が、今は嬉しかった。
 ふわりと何か暖かいものが肩を包んだかと思うと、…毛布だった。
「…冷えるぞ」
「……そうね…ありがとう」
 小さく笑って毛布の端を握り締める。
 ゆっくりと瞳を開いて、すぐ傍で静かに幼い少女が寝息をたてているのに目をやった。
「……この子…これからどうするつもりかしら…」
「ついてくるんじゃないか」
「冗談、私は一人旅が好きなのよ」
「そうか」
「……でも」
 ふっ、と光が差し込めたかと思うと、朝日だった。
 光の筋が一本二本…無数に大地に降り注ぐ。
 そしてそれは彼らにも、平等に降り注ぐ。
 光を浴びて、ガーネットのピアスが煌いた。
 彼女の豊かな緋色の髪も、負けじと煌いていた。
「……少しの間だけだったら、…いいかもね」
「そうだな…」

 静かに、また一日が始まっていた。
 しかし幼子はまだ眠りの中。
 どこまでも深い深い、意識の根底…。

 そんな中で夢を、見ていた…。


 茶がかった銀の髪。
 森を思わせる深緑の瞳。
 いつだって変わらなかった微笑みを。
 彼が、向けていてくれる、夢…。

 笑った。
 …そして、泣いてみた。
 すると困ったような顔をして、慰めてくれた。

 怒った。
 …そして、顔を背けてみた。
 すると哀しそうな顔をして、なだめてくれた。

 彼の他にも、沢山の人が屋敷にはいて。
 午後の茶に幸せを感じながら、おしゃべりをした。
 イシュトが中に入ってくると笑って出迎えた。
 幾人もの人と共に、テーブルを囲む。
 笑い声は、途切れることをしらない…。


 日差しがやわらかで。
 全てが美しくて。
 幸福が、そこにあった―――。



いつの日か、きっと会えることを信じて。


彼だけを、彼女だけを一番に愛するのではなく、


数多に愛した人のなかで、とびきり大切に想うことができるように…。



 一人の少女は、荒野へと旅立った。

 一人の青年は、けぶる世界へと戻っていった。


 ただ一つの約束を繋いで。

 次に出会う奇跡の時に、笑って、そして泣いて怒り、また笑うことができるように…。


 少女は歌う。白いドレスを脱ぎ捨てて、その小さな体をいっぱいに広げて。

 青年は歩く。どんな苦しいものが待っていようと、それを乗り越え強くなれるように。




 あたたかな雨は、いつでも心の中に。


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