-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 四.あたたかな雨

054.回り道をしようとも



 あまりに姫は騎士と共にいすぎたがために。
 侍女も召使も、誰一人として仲良くなったものがいなかったのだった。


 あまりに騎士は姫と共にいすぎたがために。
 知り合いなど、どこにもいなかったのだった。


 まるであの物語と同じだった。
 物語と少女を引き合わせたのは、運命というものだろうか。
 奇跡とも言えるかもしれない。しかしそれをなんと呼ぼうとも、現実であることに変わりはない。
 そしてその物語は、未来を暗示していた。
 いつしか、こうなってしまうのだと。
 理由などない。しかしそれは、確信として彼女の心にあった。


 言葉が整理のつかないまま勝手に溢れる。
 ありとあらゆる情景が脳裏を駆け抜けて。
 少女は泣いていた。涙を流しながら、言っていた。
「……ずっと、ずっと…不安だったんだ…」
 いつまでも共にいられるわけがないと、知っていたから。
 始めに会ったときから、知っていたから。
 しかし目をそむけていた。雪が当たり前に降り注ぐように、全てが当たり前のようにうまくいくと思って。
 そうして、逃げていた。
 笑っていれば、全てが真っ直ぐに進むのだと…。
「イシュトは…、ボクだけを相手にして、………すべてが見えなくなっちゃうんじゃないか……って、」

 もし、そうなってしまうなら―――。

 元からいなかったかのように、自分が消えてしまえばいい…。

「憎んでほしかった…、嫌いになってほしかった…、イシュトを置いてったボクを…」
 何度もしゃくりあげる。それはまるで子供のように、だ…。
「そうしたらきっと…きっと、イシュトは違う道を進んでいけるから……。だって…、」
 何も知らずに道を進んで、いつか滅びてしまうのは物語だけで十分だった。
 現実は過去を変えることはできなくとも、未来を変えることはできる。
 だから少女は青年を拒否した。突き離して顔を背けた。
「一人と付き合っているだけの幸せなんて、そんなの幸せじゃないよ…っ…!」
 首を振って、祈るように言う。
 自分よりもずっと高い背をもつ彼の服の裾を握った。握り締めた。
 訴えかける目からは、相変わらず涙が溢れ出ていた。
 それは、少女の流すあたたかな雨…。
「少しの間ならいいかもしれない…っ! でも、世界はボクたち二人っきりじゃないんだ…、世界はもっと、もっと広くて…、」
 手が蒼白になるほどに握り締める。噛み付くように彼を見上げる。
 顔が歪んだ。もう我慢など、していられなかった。
「だからボクも…っ、イシュトのこと嫌いになろうとしたよ! もう一生会わないようにって………、でも…そんなことできなかったよ……」
 ぽたぽたと頬を伝った涙がイシュトの服に零れ落ちて、染みをつくった。
 想いだけが心を幾度となく揺さぶり、声をかきたてる。
「ねえ、イシュト――――!」
 イシュトの顔が、これまでにないくらいに歪む。
 彼女の叫びが心を突き上げていた。目をそらすことなど、出来るはずがなかった。
「世界にいるのはボクだけじゃないんだよ? ボクだけを見ているなんて、ボクだけと共にいればいいなんて、そんなのは現実から逃げてるのと変わりないんだよ…?」
 胸に痛む、少女の涙。そして、溢れる、溢れる―――。

 くるおしいほどの、優しさ。

 しかしそれは今までの彼女が持っていた、無言の優しさではない。
 まるで刃とも形容することが出来そうな激しく強いもの…。
「そう思ったから…何も言わなかったんだ…っ。一人で出て行ったんだ……」
 そこまで言うと、手を離してまた目じりを拭った。
 俯きがちな少女の白い頬にかかるのは、艶のある黒い髪…。
「……ごめんね…。…こんなこと…いわないつもりだったのに……」
 ふっと少女から荒いものが消えるのを、イシュトは感じた。
 既に涙で紅がさした頬を幾度となく拭いながら、セルピは言う。
 まるで小さな子供が自分の非を謝るかのように…。
「…何も言わなければ…っ、ボクがもうちょっと強くて…、最後までイシュトを突き放すことができたら……、このままうまくいったかもしれないのに…」
 自らの頭を両手で掴んだ。くしゃりと黒い髪が小さな指に握られた。
 何度も嗚咽を鳴らした喉はつぶれ、かすれた声しか鳴らなくなっても…、少女は続ける。
「…我慢できなかった……ごめん……ごめんね、……イシュトは優しいから…っ、また心配かけちゃ……っぅ……あぅ……っ」
「……フィープ、様……」
 手を触れようとしたイシュトを拒むようにして、セルピは首を振った。
「その名前で……呼ばないで………、お願い…っ、またあの時に戻っちゃうから……」
 優しすぎる彼の呼びかけ。甘えてしまう、やわらかな声。
 …セルピは、…歪むように微笑んで、彼を見上げた。
「…ボク……ボクは、…セルピだよ……?」
 それは彼女が自分にかけた一つの暗示だった。
 幾度となく繰り返した、祈るように繰り返した台詞。

 ―――ボクは、セルピだよ。

 いつだって自分に向けて言っていた。
 もう振り向かないように、もう迷わないように…。
「…いつか、……いつか……、ボクが答えを見つけるまで………、ボクはセルピなんだ」
 結い上げた髪に触れて、もう一度笑った。
「イシュトの知らない、旅途中の女の子だよ…」
 ここで飛びついて、二度と離れなければどんなに幸福なことか。
 しかしセルピという少女はそれをしない。
 彼女は自ら、本当の幸福を探す為に果てしない旅にでたのだ。
 うわべだけの幸福を全て取り払って…。振り向かないように、自分に言葉を投げかけながら…。
「全ての人が身分もなしに生きられる世界を望む、旅人だから…」
 ぽろっと一滴だけ、涙が筋を作った。
「だから、だからね――――、」
 しかし――――。
 それでも、覆い尽くせない感情が、あった…。
「…だから………」
 声が、震える…。
 心が、震える…。
 どれだけ拳を強く握っても、…わななきは止まらない―――。
 それほどまでに、
 それほどまでに、

 少女は、その青年を愛していた…。


「…手を、離すよ………」


 笑みをつくろうとして、失敗した。
 口元が引きしばられてみるみるその瞳が潤みだす。
 そして溢れたようにぽろぽろと零れる、いくつもの宝石…。
「………私は」
「でもねっ、ボク、……セルピは…」
 イシュトの言葉を遮って、彼女は言った。
「セルピは、イシュトのことが好きだよ?」
 今度こそ、笑った。
 顔はすでにぼろぼろになっていたが、それでも笑った。
「…大好きだよ」
 祈るように、刻むように繰り返す…。
「…大好き…だよ…」
 それが彼女に出来うるせめてもの償いだった。
「…………はい…――――」
 …イシュトは零れそうになった涙を袖で拭ってから、少女に向けて笑って見せた。
 しかしそれはいつか北の屋敷で見せていた顔ではない。
 彼という存在自体の、素直な笑顔だった。
 どうしようもない苦しさを必死で抑えた憔悴の笑顔であることに間違いはない…。
 ただ、それでも―――。
「…だから、ボクは行くんだ」
「あなたさまがそれを望むなら」
 少女の、少女としての笑顔に、青年の決心がつく。
 辛くとも、哀しくとも、しかし本当の幸福の為に―――。
「…望む…なら、――――」
 いつでも青年は少女を導いていた。
 あの北の屋敷で、進むべき道を進んでいたつもりだった。
 しかし、少女こそが青年を導いたのだ。
 それは遠回りをしたけれど、お互いに傷を沢山増やしたけれど…。
 そして、これからも傷は増えていくのだろうけれど…――。
 それでも、確かに。
 道が、何処までも続く道が、そこにあった。
「…イシュト……、」
 必死で口を押さえるが、鳴る喉は抑えられなかった。
 演じきれないセルピは喘ぐようにしてしゃくりあげる。
「…っぐ………ひっく………」
 イシュトは困った顔で首を振った。
 全てを認めた…否、全てを受け入れたのか…、
「泣かないでください、…私まで悲しくなってしまいますから―――」


「全くよ、ほんとにうるさいわね…」


 ……―――。

 ……。

 誰もが、視線を一つの的へと向けた。
 赤毛は頬にかかって、その顔は見えない。
 しかし、…その橙色の目が、豊かな緋色の間から見えていた。
 まだ意識が戻ったばかりで現状を把握していないのだろうか、ぼやける視界で―――ピュラは、不機嫌な顔をする。
「さっきからなによ…叫んだり走ったり…やかましいわね……―――?」
 衰弱しきった顔ではあったが、明らかにそれは意識を持って、…セルピに向けられた。
 ぼんやりと彼女はその顔を見つめ―――、
「…あんた、…また泣いてるの…?」
 呟くようにかすれた声で、言った。
 寝言にも聞こえる音だったが、…それでも彼女の声であることに間違いはない―――。
 セルピは何かを言おうとしたものの、喉から声がうまく発せられずに立ちすくむだけだ。
 …ピュラは、笑った。いつもよりも弱々しくはあったが、強くてやさしい彼女の笑みを…。
「ほんとに子供ね…、あんた何歳よ……」
「ピュラ――――…っ、」
 クリュウが飛んですぐ傍までくる。
 そこまできて、…ピュラはやっと普段の意識を取り戻そうとしていた。
「…………あら…?」
 段々とはっきりしてきた景色と、猛烈な体の気だるさに疑問を抱く。
 そして、やっと…先ほどの出来事を思い出した。
「動かないで…、まだ危険な状態なのに変わりはないんだから…」
 そうは言うものの、クリュウの瞳からはもう涙がとめどもなく溢れていた。
 ピュラはぼんやりとそれを見つめ…、ぼそりと呟く。
「…なに間の抜けた顔してるのよ」
 ぱっとクリュウの顔が、…更に間の抜けたそれになった。
「なっ…! だ、だって、死んじゃうところだったんだよ!? ほんとに…っ、死んじゃうかと…!」
 すっかり彼女の顔は吐いた血で汚れ、まだ蒼白だったが、…彼女は先ほどまでいるはずのなかった面々に視線を向ける。
「…で、なにがどうなったの?」
「ピュラっ!!」
 小さな声で彼女が呟くのと、…少女が叫ぶのはほぼ同時だった。
 そして、はちきれたように駆け出してくるのも。
「ピュラっ……ピュラぁ…!!」
「うっさいわね、人の名前連呼すんじゃないわよ」
 そう言いつつもくすぐったそうに笑っているのがピュラという人間だった。
「…あっ……ぅう……良かった……」
「全員で…来てくれたの?」
「うん……だって、もしピュラが死んじゃったら…」
 相変わらず口の中は血の味でいっぱいだったが、それでもピュラは深い溜め息をついてみせた。
「こんな薄暗いところで死んでたまるかってのよ……、」
 そうして、視線をあげる。
 離れたところにいる、――――スイに、向けて…。
「……………ね? なに突っ立ってんのよ。ねぎらいの一言もなし?」
「…大丈夫か?」
「遅いわよ」
「そうだな……」
 半分かすれた声でスイは呟いて、抜き放ったままだった剣を、鞘に収めた。
 ゆっくりと、彼女の方に向けて歩いていく。
 その手がゆっくりとあがって……、

 ―――ぽん。

 やわらかな、緋色の髪に乗せられた。

「良かった」

 ………。
 ……。
 …彼女の体が、震えた。
 クリュウは明らかに嫌なものを感じ取って、後ずさる。
「……こっ」
 …スイがやっと怪訝な顔をした瞬間、火山が爆裂した。
「子供扱いじゃないのまるで!! ふざけんじゃな………げほ…っ! …げほっ……」
「ピュラっ」
「だ、だから無理しないで…っ! すごく危険な状態だったんだから…」
 緋色の髪を上下に揺らせながらむせる彼女をクリュウがなだめる。
 スイは、相変わらずの何を考えているかもわからない顔で、言った。
「大丈夫か?」
「……大丈夫に見える?」
「見えないな」
「正直な感想をありがとう…」
 いささかげっそりしながら―――顔は既に疲労でこけていたが―――ピュラは頭を垂れる。
 しかしふと腕に額をつけながらまるで子供のように泣いているセルピに気付いて、…笑った。
 手を伸ばす。彼女の黒髪をくしゃりと撫でる。
「…ありがとね」
「………ん……」
 まるで猫のような仕草で頷いて、服の袖で涙を拭った。

「………! エディルさま…っ!」
 刹那、不意にしたイシュトの緊迫した声に、誰もが振り向く。
 エディルは耳をすませて辺りを見回した。
 上が騒がしくなっている。いや、当たり前だろう。セルピが使っていた封印魔法はもう解けたころだ。
 恐らく、すぐにここに数多の人が押し寄せる―――。
 エディルは、迷うことなく言った。
「急げ! こっちに来い!」
 その瞬間にスイは剣を抜いてピュラの後ろの鎖を断ち切り、彼女を抱き上げる。
「ちょ、ちょっ!」
「どうせ歩けないだろう」
「そ、そうだけどっ!」
「お急ぎください!」
 イシュトに追い立てられるままに全員が走り出す。
 ピュラも体に力が入らないのか、されるがままにスイの腕の中だった。
「お父様、何処へいくの――!?」
「……私はフィープの父親であって、セルピの父親ではないぞ」
「……――」
 エディルは走りながらゆっくりと目を細めた。
 その走りは歳を感じさせない。それは彼のいつまでも一族を率いていくことができる強さ―――。
「…地下水路だ」
 …クリュウの顔が、見事に不安なそれへと変貌した。
「地下水路って、いい記憶がないんだけど…」
「この際しかたないでしょ」
「ピュラ」
「なによ」
「思ってたより重い」
 …スイの腕の中からアッパーが繰り出されて、顎に猛然と炸裂した。


 ***


「もう歩けるわ」
「大丈夫か?」
「そんなにヤワじゃないもの」
 先ほどの場所よりも更に薄暗い夜の地下水路で、ピュラは半日ぶりに大地を踏みしめた。
 始めのうちはスイにもたれかかったものの、数秒で元通りに歩けるようになる。
「…ここから水路に沿って真っ直ぐ行けば山肌に出口がある。そこから西を向けばこの町が見えるはずだ。…が、もうこの町には来るな、何が起きるかわからん」
「……はい」
 セルピは大きく頷いてみせた。
 しかしそうしてしまうと少しだけ苦しそうに…小さく呟く。
「……おとう…さま、」
「…フィープは、もう死んだのだな?」
「……」
「…もうフィープという人間は、この世にいないのだな?」
「……はい―――」
 イシュトが、エディルの横で俯く…。
「…わかった、フィープの死去を発表しよう」
「……でも」
「案じることはない。元から私の周りは不穏なことだらけだ」
「……」
 エディルは僅かに笑う。そういえば、久しぶりに父の笑みを見た気がする…。
「だが、お前はそれで後悔しないのだな?」
「……絶対に」
「…わかった、――――セルピ」
 大きく骨張った手が、その黒髪の上に乗せられた。
 その暖かさにセルピは涙をこらえるため歯を食いしばる…。
「それでこそ私の子だ、誇りに思おう」
「…ありがとう…」
 エディルは頷いて、視線をピュラの方に向けた。
「…よろしく頼む」
「保障はできないわよ」
「それでもいい」
「わかったわ、みっちりしごいておいてあげる」
 ピュラは静かに笑って、頷いた。
 セルピは淋しそうにイシュトを見上げる。
「……イシュト」
 ふとエディルは背を向けて、歩き出した。
「イシュト、私は先に行っているぞ」
「は……? …あ、はい」
「じゃ、セルピ。私たちもちょっと先見てくるわね。すぐについてくるのよ」
「う、うん……」
 ピュラたちも手を振って、先に行ってしまった。
「……」
「……」
 残されたのは、二人。
 二人は互いを見詰め合ったまま、…しばらくその姿をお互いに焼き付けていた。
 心に焼きごてをあてるように、入れ墨をいれるように、苦痛を伴いながら…。
 …そして、セルピは静かに決心すると、ゆっくりと重たい口を開いた。
「…もし、ボクのわがままを聞いてくれるなら」
 朝の泉よりも透き通った瞳をわずかに潤ませて呟いた。
 彼女はもう白いドレスを着ていない。
 白いドレスをまとった雪の精は、もういない―――。
 かわりにいるのは、小さいながらも強い意志を持った少女。
「……あなたのお望みなら…」
「いつか、帰るよ」
 ―――イシュトの目が、はじけた…。
 真っ白な肌が、暗い中で陶器のようになめらかに煌く…。
「いつになるかわからない、どんな形になるかもわからない、だけど…」
 苦しそうにしながらも、少女は訴えた。
「…答えが見つかったら、…会いに帰るよ、絶対に」
 なにも、なにひとつとして言うことできない自分が、哀しい。
 それを察したように、セルピはイシュトの手を軽く握った。

「それは約束、だよ」

 まるで雪の精だと言われていた。
 何でもこなせないことはなかった。
 愛しい、自分の腕の中にいたはずだった、その幼子は。

「それで…もし、いつかボクが帰ってきたら、そうしたら、また――――」

 やわらかな、それでいて強い笑みを残して――――。

「たった一度でいい」

 こらえきれなくなった瞳から、今日何度目になるかもわからない涙が、流れる…。
 あたたかな、雨。
 雪の精が、ずっとずっと焦がれていたもの…。


「ボクのこと、フィープって呼んでください」


 イシュトの顔が、…歪んだ。
 しかしその哀しい顔を彼女に見せたくなくて、右手を胸にあてて顔を隠すように頭をさげる。
 絞るような声が、漏れた…。

「あなたの…御意のままに……」

 小さな手が、伸びる…。
 首に、腕が巻きついた。
 あまりにも幼い少女は必死でつま先で立って、背伸びをして…。
 その肩に、顔を埋めた。
 そうすると、青年は少女がもう背伸びをしなくてもいいように、膝を軽くおってかがみこむ。
 その体勢でいることは少々辛かったが、少女の体温を感じられないよりはずっとよかった。
「…ありがとう……ありがとう、イシュト……」
 小さな体を、はじめて抱きしめた。
 触れることを許されなかった、少女を…。
 冷たい雨の中で、あたたかな雨に焦がれた雪の精はいたようにみえた。
 しかし、少女は雪の精ではなかった。雪の精などはじめからいなかった。

 少女は、人間だったのだ…。

 熱い涙を持ち、激する感情を持つ。
 はじめて触れた少女は、人のぬくもりを持っていた。
 雪のように冷たくなかった。
 どこにでもいる、少女だったのだ…。
 それが何故だかたまらなく嬉しくて、…イシュトは泣いた。
「必ず……また、会えますよね」
「だから約束したんだよ……?」
「…そうでしたね……」
 手を離して、離れたときに彼女の涙が一滴だけ、彼の手に落ちた。
 …あたたかかった。
 雲はどこにもない。冷たい空気が、そこにある。
 しかし、あたたかな雨は降っている。いつまでもやむことがなく、彼女の瞳からずっとずっと―――。
「さよなら…」
「…お元気で……」
「イシュトも…」

 セルピは、笑った。
 イシュトもつられるようにして、笑った。

 ただ、いつもと違うのは二人の目が震えていることか…。



 何も知らずに道を進んで、いつか滅びてしまうのは物語だけで十分だった。
 現実は過去を変えることはできなくとも、未来を変えることはできる。


 今でも北の屋敷の地下では、あの本が小さな手から滑り落ちて床に落ちたままになっていた。
 人が足を踏み入れることも少ない地下の倉庫で、次に本を手にするのは誰だろうか…。
 ついに少女に開かれることのなかったページには、静かに物語が紡がれていた。

 全てを失っていた、二人の物語が。

 ベットで病に伏せる姫を、満月のエンゼルティアの下に誰かが迎えにきて、姫は目を覚ます。
 それは、金色の鳥だった。
 大きな大きな、姫を乗せてとべるくらいに大きな鳥だった。
 ああ、お前はなんて美しいの。
 姫は言った。
 お前なら私を乗せて、あの人の元までとんでいってくれるのかしら。
 するとその鳥は小さな目に光を宿して、言った。
 私にお乗りなさい。あなたの愛する人の元へ、連れて行ってあげましょう。
 姫は目を輝かせた。
 胸が躍った。今までに考えてきたことが、全て溢れてきた。
 あの人に、会えるというの。
 もちろんです。その人も、あなたを焦がれていました。
 幾度もあなたのことを忘れようとしましたが、そんなこともできずに、あなたを毎夜夢見ては涙していますよ。
 姫はまるで夢のような出来事にうっとりした表情で、懐かしい人の顔を思い出した。
 行きましょう。どうか連れて行ってください。
 そういうと、姫はベットからゆっくりと起き上がって窓辺から身を乗り出し、鳥にのった。
 金色の鳥は瞬く間に夜空へと飛び立った。
 あの人とまた出会えれば、わたしは幸せになれるのかしら、と姫は呟いた。
 金色の鳥はその羽をいっそう輝かせて囀った。
 たった一人の人だけを愛するというなら、それを愛と呼ぶことはできません。
 そこで姫は思い出した。
 姫を愛する人がたくさんいることを。
 城にいる人たちは、元気な頃の姫をみると誰でも微笑んでいたことを。
 ああ、わたしはなんて酷いことをしていたの。
 姫は言って、美しい瞳から涙を流した。
 目の前にとらわれて他を愛することができなかった、だからわたしは崩れ落ちてしまったのだわ。
 鳥は星のように煌く目で囁いた。
 大丈夫、それに気付いたのならあなたはまた美しくなれる。
 姫の体に今までにない力がわきあがり、みるみるその顔に生気が戻った。
 わたし、今ならなんだって言えるわ。
 そう姫は思った。
 笑ってるだけではない、哀しみも苦しみも、全部全部、あの人に言おう。
 笑顔だけの付き合いなんて薄っぺらなものはなかったのだわ。
 想うだけで、姫の瞳にはきらきらと光が宿り、その髪は一層美しく風になびいた。
 優しい風は姫を祝福し、姫は笑いながら喜びの唄を歌った。
 数多の人とも話してみよう。
 誰もを好きになろう。
 そして、その中でもあの人をとびきりに愛そう…。
 行く先は、紛れもないあの騎士の居場所だった。
 何もない草原の真ん中に一人でいた騎士を見つけた姫は、その首に飛びついた。
 喜びに姫が涙をぽろぽろ流すと、騎士の開かぬ目蓋にそれがかかって、なんと騎士は光を取り戻した。
 わたしはとても愚かだったの、と姫は言った。
 幸せの意味すら知らなかったのだわ、と、姫は言った。
 それは私も同じことです、と騎士は姫を抱きしめた。
 二人は永遠を誓い合って幾度となくお互いを確かめ合った。
 そして、二人が肩を並べて帰ろうとすると、金色の鳥は哀しそうに言った。
 私の体は小さくて、とてもあなた二人を乗せて帰ることはできません、と。
 それは再びの別れをあらわすものだった。
 姫の体は再び震えて、涙が溢れた。
 騎士は、言った。
 いつかこの草原から出て、あなたの元へと参りましょう、と。
 そこでどんな苦しいことがあろうと、乗り越えましょう、と。
 そして、あなたも私が帰らぬ間に悲しいことが沢山あるでしょうが、
 どうかどうか、あなたの信じる道を歩いてください、と。
 姫は何度も頷いて、名残惜しそうに鳥にまたがった。
 金色の鳥は煌きを残して空へと飛び立っていった。

 いつの日か、きっと会えることを信じて。

 彼だけを、彼女だけを一番に愛するのではなく、

 数多に愛した人のなかで、とびきり大切に想うことができるように…。


 姫は、今日も唄を歌っている。

 騎士は、今日も歩いている…。


 ―――いつまでも、どこまでも。


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