-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 四.あたたかな雨

052.嘆きあらぶ



 新月の灯りのない夜は全てを飲み込んでゆく。
 それが嘆きであろうと、祈りであろうと、誓いであろうと、なにもかも。
 夜空の頂点に煌く天使星は姿を消し、大地は見放されたかのように暗がりに落ちる。
 ――もしも、この夜が落ちたまま明日という日がこなかったら。
 そんな不安にすらかられる、どこまでも暗い一夜…。

 その中で一筋のなにかを掴もうとするもの。
 ただ泣き叫びどうすることもできないもの。
 人は何故、こんなにも悩み続ける?
 人間の人生など、大地からすればほんの一瞬の瞬きでしかないのに…。

 しかし彼らは嘆く。嘆きは叫びになり、叫びは願いになる。
 その願いの先は誰も知らない。
 だから、知ろうとする。
 だから、悩み続ける。
 だから、…この暗がりに求め続ける。

 自分の生きる先を。
 自分のすべきことを。

 自分の、探すべきものを。


 欲しいものは答えではない。
 そんなものを見つけて何になるというのか。
 欲しいものは、ささいな幸福だけ。
 ただ、それだけ―――。


 ***


「現実を知っておきながら…って、あなた言ったわね?」
 言葉がわななく。寝静まった湖のように静かな、彼女という声。
 心が痺れるのが自分でよく分かった。心の奥底に炎が燃え上がる…。
「…私、キマージの孤児院で育ったわ。9歳の時に…あなたは直接関係ないだろうけど、町がエスペシア家に焼き討ちにされて、命からがら隣町に逃げて、スラムで一年間過ごしたの」
 笑みが歪んだ。
 再生することが辛い記憶。しかしそれでも彼女の心は鮮明に情景を脳裏のスクリーンに映し出す。
「ねえ、スラム街って実際に見たことある?」
 エディルの指がぴくりと動いた。
 彼にとっては噂程度にしか聞いたことのない世界。
 光源になっているのではないかとも錯覚する彼女の瞳が、その光景を唄う。
「…そう…、当たり前よね。見てるわけがないわよね」
 血を吐くように彼女は言った。
 体の中のものを全てぶちまけてしまいたい、しかしそんなことが出来るわけでもない。
 しかし体の隅々まで行き渡る血が泣きながら嘆く。辛い、苦しい、哀しいと…。
「…そこでの生活はね、……酷いなんてものじゃなかったわ」
 あまりにも小さな声で彼女は呟いた。小さな声は小さく響き、そしてまた静寂が襲う。
 薄暗い室内で、いくつかのランプだけが彼らを照らして…。
 風の音も人の声も、ない。
 全ての世界から隔離されてしまったような空間で、その娘は既に語り部となっていた。
「人がね、死んでるの。当たり前みたいにね? あちこち腐ってて、…服は他の人にとられたみたいで何もつけてなかったわ。目も口も半分開いてて、周りには虫がわいてた…」
 一瞬それは小さな子供が恐ろしい夢をみて親に泣きすがるようにも聞こえる声。
 ―――まるで残酷なおとぎ話を語るかのように。
「そんなものを9歳の子供が見たのよ。そのとき、私はどう感じたと思う?」
 それはあまりにも暑い日。たった一人で生き延びた少女は、その光景を目の当たりにして…。
 なのに驚くほど少女は淡々と滑るように声を紡ぐ。他人の想いを言葉にするように…。
「…涙を流して嘆くしかなかったわよ。ねえ、他に何か出来ることがあった? それとも哀しみに溺れて私も壊れてしまえばよかった?」
 感じるのはその痛みと、そして魂の叫び。
 彼女の口ではない、彼女という存在自体が言葉を放っているのだ。
「…そのあと私は本当に運が良くて…、なんとか生き延びたわ。でも、人だって殺した。何人もこの手で殺めたわよ。血まみれにもになって、食べ物がなくて、住む場所もなくて、一人で歩いて、…でも誰も手を差し伸べてくれなくて、」
 エディルは一瞬、彼女に呑まれていた。
 こんな小さな娘の中に隠された灼熱の炎。
 人というものはここまで大きなものまで秘めることができるのか…。
「一日が長かったわ。生きる喜びなんて、感じたこともなかったわよ。…でも自殺なんてする気になれなくて、やっぱり生きていたくて」
 強い力を湛えた表情が、ふっとやわらいだ。
 目を伏せて、笑う。
「…本当にね、私は運が良かったの。たった一年で、旅の人に拾ってもらえたんだから。…けれど、今だってスラムに生きる人はいる。死んでいく人もいる。それでもみんな、生きようとしてるわ」
 唇を噛んだ場所から、血が滲んだ。
 口の中に鈍い鉄の臭いが伝う。
 声は叫ぶこともわめくこともせず、訴えることさえしないで、ただ囁きのように。
「…みんな、生きようとしてるのよ」
 そう彼女は繰り返す。
 誰もが生きようとするからスラムで人が死んでいくのだと。
 それでも人は生きようとしているのだと。生きていたいのだと…。
「…わかる? ろくに日の当たらない裏道で、人が腐る臭いと汗の臭い、血の臭い…。生気の抜けた人の目、痩せて皮膚と骨だけになった腕……、想像できる?」
 俯くと髪がさらりと揺れてピアスが揺らめく。
 言うべき言葉を見つけられずにいるエディルはそんな娘の姿をただ見るしかない…。
 …ピュラは、顔をあげた。
「わかった? …これが現実ってものよ。ううん、もっと厳しい土地だってあるかもしれない。――私だって世界を余すところなく見てるわけじゃないから、本当の現実なんてわからないわ」
 そうして、首を傾げる。
「でも…」
 笑う姿はまるでその年頃の少女のものではなかった。
 諦めと苦しさと底の見えない強さ、そして諭すような笑みは、聖女がするものでもなければ落ちぶれたものがするものではない。
 …そう、それは他の何にも変えることのできないピュラの笑みだった。
 だれにも真似はできないであろう、彼女だけのもの…。
「あなたも血が滲む思いをして、そんな地位にたどり着いたんでしょ?」
 そうだ。吐き捨てるように言っているのに、彼女は笑う。
 苦しそうで仕方ないのに、全てを受け入れている。
「私は貴族の世界がどんなものかなんて知らないわ。でも、…きっと生き抜くのが辛い場所なんでしょうね。あなたたちはきっと思ってるわ。…のうのうと生きている平民のなんて疎ましいことかって。…違うかしら?」
 ピュラが脳裏に浮かべるのはあの貴族の冷たい瞳だろうか。
 自分たちを利用する道具としてしか見ていない、あの目を…。
「…でも苦しいのは平民も貴族も同じ。結局どっちだって辛いのに変わりはないのよ。なのに皆、お互いを知ろうとしない。頭ごなしに否定して、なにも理解しようとしないの」
 娘の嘆きはエディルへではない、世界に向けて語りかけているような錯覚にさえ陥らせる。
 ふいっと彼女は視線を横にして、言った。
「だから世界は300年も貴族がのさばったまま変わらないのよ」
「………」
 まだ成人してもいないような、16程度の娘。
 なのに彼女が語るものはまるで一つ一つが刃のような力をもってして心に突き刺さる。
 こんな時代に一人生きぬいた少女は悟っていたのだ、この世を動かす世界のシステムを。
「誰も悪くはないわ。…悪いとしたら、それはこの世に生きる人間の全てよ。だからどうしようもないの。…でも、」
 瞳に光が宿る。紅蓮の炎が再び燃え上がる。
 嘆きは叫びへ、叫びは願いへ。
 そしてその先には―――。
「…あの子は優しいから」
 彼女は言った。
 声は石造りの部屋に、深く響いて反復させる。
「だから、自分の人生をも賭けて現実を見ようとしたのよ。そしてこの世を動かすものが何だか分かれば、きっと世界を動かせると思ってた」
 ふふっと笑う。
 僅かに細められた瞳の奥に映る、長い黒髪の少女―――。
「どうしようもないバカね。でもあの子らしいわ」
 独り言にように呟いて、また一人で笑った。
「そうね…、もしこの世のシステムが変わって、全ての人に平等が訪れたら―――」



 ―――ぴりっ



 ふっとピュラの手首に軽い火花が散った。
 彼女の瞳が―――はじける。
 どくりと心臓が手首に移動してしまったのではないかと思うほどに波打っていた。
 そういえばと思考が傾く。――前にクリュウに封印をかけなおしてもらったのは、随分前のことだ…。
 …すっ、と何かが体を滑り落ちていって、世界の全てが傾いたような感覚に陥った。

 ―――今日は、新月…。

「…どうかしたか?」
 様子がおかしいピュラに気付いたエディルが怪訝な顔をする。
 ピュラは平衡感覚が失せた頭でその現実を処理しようとして―――、呆然としているようにも見える顔を、あげた。
 囁きははじめは音にすらならなかったが、次第に途切れ途切れに聞き取れるようになる。
 突然の小さく力のない声が、鈴のように鳴った。
「…このままじゃ、あの子は本当に二度と戻らないわ…」
「どういうことだ…?」
 鎖が、鳴った。かごに閉じ込められた鳥のように彼女を縛る鎖。
 野生の鳥をかごに入れてしまえば待つのは絶対の死だ。
 …まるでそれと同じように、彼女はぱったりと言葉をなくし…。
 ――全てを悟ったかのように、かぶりをふる。
「…運が悪いわね、あなたも、私も」
 小さく娘は笑った。
 何かの諦めにも似た笑みに、エディルは戸惑うばかりで…。
 もしもここがもっと明るい部屋であったら、エディルはもう少し早く気付いたであろう。
 彼女の肌は大理石の色も同然で、何かが尋常ではないことが察知できたはずだ…。

 ―――かはっ、と僅かに開かれた唇が、液体を放出しながら深紅に染まった。

「…―――!?」
 げほげほとむせるたびに豊かな緋色の髪が宙を舞う。
 苦痛に橙色の瞳が歪む。歯を食いしばっても、その中からまた鮮血が溢れ出る。
 体中が絶叫をあげた。自分の体が痛み自体になったかのように、脳に強烈な激痛を訴える。
 白を通り越して青くなった腕は痙攣を繰り返し、小さな少女の体を死が蝕んでいく。
 彼女という細胞の一つ一つが壊れて剥がれ落ちていくのを感じた。
 火に投げ込まれた彼岸花のようにその体から命という命が消えていく―――。
 静寂を裂いた突然の惨事にエディルは冷静を保とうと、立ち上がって他の者を呼ぶために扉に手をかけた。
 なにがおきたかはわからない。しかしこのままでは必ず娘の灯火が消えてしまうという確信があったのだ。
 とにかく早く対処が出来る者を連れてこなければ―――。

 ―――瞬間、だった。

「な、何者だ!」
「どいてっ!! 早く!!!」
 一枚の鉄扉を隔てた向こうから聞こえる、声。
 それはかなりの大音量だったのだろうが、鉄という壁がそれを遠いものに思わせる。
 しかしエディルは予感を察知してとっさに身を引いた。
 空気がざわめく。大気の流れが操られたかのように収束させられ…――。

 ―――どうっっ!!

 …白い閃光と共に、分厚い鉄の扉が破られた。
 あまりに突然の出来事に思考が追いつかないエディルが呆然と目の前の閃光を見ていると、中から小さな光が飛び出してくるのがわかった。
 …違う、光ではない。
 緑の髪をした妖精の少年…!
「ピュラっ!!」
 おそらく娘の名前だろう。それを叫びながら、血を吐きながら肩で呼吸をする彼女のすぐ傍まで飛んでいく。
 見張りは先ほどの閃光で気を失ったらしく、外から音はしない。
 しかし他が来るのも時間の問題だろう。今の…おそらくこの妖精の魔法の衝撃は屋敷自体を揺さぶったに違いない。
 だが、エディルは通常ではありえないその現実から逃げることも忘れて、また何かの魔法を娘に向けて唱え始めた妖精を、凝視する…。
 一体何者なのかもわからない妖精は切羽詰った顔で空気の流れを読み、魔力を集結させることに一心になっていた。
「おい、お前…」
「うるさいよっ!! 集中できないから黙ってて!」
 吐き散らすように妖精はわめいて、大粒の汗をいくつも額に作りながら煌きを手から零す。
 エディルはそれ以上何を言うことも出来ず、その鮮烈な赤のイメージを焼き付ける光景を見ることしかできなかった。


 …クリュウの瞳からは既に涙が溢れていた。
 もうあのときのように、還魂魔法を使うことはできない。
 5年前に一度使ったきり、そのような禁忌の魔法は腕輪の力で使えないようにされている。
 だから、これでもし娘が二度と目を覚まさなかったら―――。
 あの森での、小さな少年の姿が涙の中でフラッシュする。
 自分は全く無傷だというのに、痛い。あのときとまるで同じだ。
 白い肌にべっとりとついた赤黒いもの。彼女であった、もの…。
 願う。心から願う。
 たった一人の命が、消えぬようにと。
 自分という全ての存在を賭けて―――。

 しゅるしゅると光はひも状や球体に変化したりしながら、彼女へと溶け込んでいく。
 娘の体は既に限界を軽く凌駕し、浅い呼吸が僅かに体を揺さぶるだけであった。
 そして、その煌きが全て彼女へと送り込まれると、…クリュウは苦しそうに汚れた顔を見上げる。
 ――まだ命を落としてはいない。しかし危険な状態であることは確かだ。
 あとは、彼女の体力との勝負だった。もうこれ以上自分に出来ることはない…。
 …否、一つだけある。傍にいて、願うことだ。
 この今にも消えてしまいそうな灯火の傍で、ただ祈る…。
「ピュラ……」
 彼女の橙色の肩かけを握った。布のこすれる音が、耳を打った。
 ぽろっと零れた、妖精の小さな涙が頬を滴ってその布に落ちる―――。
「お前は……」
 エディルが呟くと、クリュウは振り向いた。
 …その姿は人間の手の平に乗るような大きさだというのに、まるで野生の獣のように眼をぎらぎらとさせながら。
 はちきれるほどの感情を秘めた眼光鋭いその瞳に、エディルは言葉を失う。
「…ピュラが死んだら…」
 そして瞳からは激する感情に涙が零れて―――。

「絶対に許さない…!」


 ***


 まるで時が凍ってしまったように思えた。
 しかし決して永遠が訪れるということはありえない。永遠など、この世にあるわけがないのだ。
「もしあなたがいなかったらと、何度考えたかわからない…」
 そう言い放った少女は、じっと青年の顔を見つめていた。
 傷ついてひび割れて、ぼろぼろになってしまった顔を…。
 …イシュトは、静かに返した。
「…私には…あなたがわかりません…」
 指先が震える。言葉がわななく。
 紡がれる、嘆きの言葉たち…。
「なぜ、フィープ様が行かれるのですか…?」
 セルピが唇を噛み締める。握り締めた拳が、痛い…。
「なぜお一人で行ったのですか? …どうして、私を置いていったりしたのですか…!」
 嘆きが、叫びへと変わっていた。
 破裂してしまった彼の苦しみや哀しみが、とめどもなく心から流れ出る。
 イシュトは己の胸を掴む。こんなものなど、かきむしって引き裂いてしまいたかった。
「どうして私に何も言わず…。あなたが言えば、たとえエディル様を裏切ろうとあなたについていった…! 私の力をいくらでもお貸しした…。なのに、あなたは…」
 言葉が…途切れる。
 ――彼にとっては身分も生きる世界も、現実さえも関係ない。
 ただ、…ただ、少女の傍らにいたかったのだ。
 力になりたかったのだ。
 どんなことでもいい、少女を理解して、その笑顔を見ていたかったのだ。それをするのにいかなる犠牲を払ったとしても…。
 …それまでに、彼は。
 ……セルピは目を伏せていた。
 まるでもどかしさに耐えるように…。
 何かを言いかけた喉が幾度もそれをためらい、…そしてやっと一つの声が部屋に通る。
「…まだ…イシュトは、わかってない…」
 たった一人でこの地まで、その足で踏みしめてきたあまりにも幼い少女は、言っていた。
「…なにも、…わかってない……」
 かぶりをふる。流れるような結い上げられた黒髪が少し遅れて左右に揺れた。
 しかしそれでイシュトが理解できるはずもない。
「なにを分かってないというのですか…」
 それがわかれば苦労しないのだ。
 だが少女はそれ以上の口を閉ざす。
 すでに自分から語るべきことはないのだと、悟っているのだろうか…。
「私は、…ずっとずっとあなたを想って、」
 ぎり、と歯を鳴らしたのはセルピの方だった。
 口が小さく開く。しかし何も声がでない。
 拳をあまりにも強く握り締めすぎて、…血が滲んでいた。
「わかっています…、あなたが私などを単なる従者としてでしか見ていないことも。あなたがなにをしようと、私には関係ないことなのだとも」

 …雪。
 雪が降っていた。
 とめどもなく流れる涙のように。
 世界を洗い流すのだろうか。
 世界を潤すのだろうか。
 そして、真っ赤に敷き詰められた絨毯。
 着心地のいい服。真っ白で、裾が風になびく装束。
 いつだって横にいた、青年。
 微笑んで、微笑んで、いつも真っ直ぐ見てくれた人。

「だけれど、私は…」
 彼は気付いている。自分がどれだけの愚を犯していることなのかと。
 彼の願いは、彼女を屋敷に連れ戻すことではないのだ。

 彼の、ただひとつの願いは。

「…自惚れかもしれません。私といるときのあなたが、幸せそうに見えたことなど…」

 少女のそばで、笑っていたかった。
 幸せでいたかった。
 ただ、それだけ…。

 欲しかったのは、小さな幸福だったのだ。

 他はなにひとつとしていらない。必要、ない…。

 だから、必死になったのに。
 どんなことでもしたのに。
 もう、どうしていいのかわからない…。
「あなたの傍に、いたかった…」
 セルピが、顔をあげた。
 何かを言おうと、口を開いた。
「イシュ――――」


 ―――どうっっ!!!


 突如としてけたたましい爆発音が鳴り響き、夜の屋敷が大きく揺さぶられた。
 思わず平衡感覚をなくしてセルピはよたつくが、なんとか倒れないようにして爆発のした奥の方を見る。
「…ピュラ…!」
 今の爆発はクリュウの魔法だろうか、それともエスペシア家の…?
 クリュウがうまくやってくれたのだろうか。
 もし、…もしもうまくいかなかったとしていたら。
 …自分の家のせいで、貴族のせいで、ピュラという命が―――。
 体中に戦慄が駆け抜けていく。
 突然の爆発音に屋敷は騒ぎ出し、一気にその方向に向けて人が駆け出していく気配がわかった。
 既に落ち着いてなどいられなかった。セルピもまた駆け出しながら振り向く。
「スイ、ボクたちも行こうっ!」
 スイは頷くと、すらりと剣を抜き放って駆け出した。
 …この屋敷に入ってから、一言たりとも喋ることはしていなかった。
「フィープ様!」
「…ごめんなさい…っ!」

 ―――しぅぅぅ……!

 ぱんっ!と音がした瞬間、イシュトの顔が歪んだ。
 セルピの手が流れを読み取り、封印魔法を完成させていたのだ。
 身動きがとれなくなったイシュトの横をすり抜けて、セルピが走り後ろにスイが続く。
「…ごめん…なさい…」
 セルピは小さくもう一度呟いた。
 全ての動きを拘束されたイシュトが感じられるのは、通った後に感じるわずかな風、それだけ。
 また、雪の精は離れていってしまう…。
「…フィープ様……!」
 悲愴な声が響いたが、セルピは振り向かなかった。

 …ただ、彼女の顔を一筋だけ涙が零れて、…しかし誰に見られることもなく煌きを残して散っていた。

「スイは右に行って! ボクはこっちから探すよっ」
「…一人で」
 平気なのか、そういうまえにスイの言葉は途切れていた。
 …セルピの顔はしっかりと自分の目を見上げ、…強くそのイメージを焼き付けるものとしてそこにあったのだ。
「…言ったはずだよ、ボクは強いって」
「……」
 スイは小さく頷くと、踵を返した。
 だん、と地を蹴ったと思えば瞬く間に反対側の通路を曲がっていた。
 セルピは静かに詠唱に入る。心を落ち着けて、落ち着けて――。
 空気の動きを感じる。世界の流れを感じる。
 その中から糸を紡ぐかのように、力を汲み取った。
「…精霊の御名において……」

 ―――ぱあっっ!!

 一際大きく輝いたかと思えば、…セルピは振り向くこともなく言っていた。
「…ボクは一人で行くよ」
 …後ろの方で、セルピを追っていた何人かの従者たちが身動きもとれずに立ちすくんでいる。
「…もう…自分が嫌いになるのが嫌なんだっ!!」
 血を吐くようにわめいて、走った。
 たった一つだけ使うことが出来た封印魔法。
 夜遅くまで習得に励んで、…たった一人で付き合ってくれたのがイシュトで。
 自分のことを心配しては暖かい飲み物や甘い菓子を運んできてくれて。
 …そうして、微笑んでくれた…。
「…もう…いやなんだ…」
 呟いた。
 心が、そう呟いた。
 体が走る。どこまでもどこまでも。
 息が熱い。喉が切れて、血の味がする。
 長い黒髪が揺れる。これでも屋敷を出たときにほんの少しだけ切ったものだった。
 あの時はまだ全てを断ち切れていなかったのだ。
 だから、踏ん切りがつかなかった。紋章も捨てられなければ、髪も思い切って短く切ることができなかった。
 …そうして、自分が更に嫌いになっていく…。
 無力で、何の選択をすることもできない自分が。
 そしてそんな自分に気付いているのに、それでも何も出来ない自分が。
「…イシュト……」
 呟いた。
 魔法はあと数分もたてば消えてしまうだろう。
 そうしたら彼はどうするだろうか。
 力なく崩れ落ちて、また嘆くのだろうか。
 それとも…?
「イシュト…!」
 だけれど足は前へと進む。
 自分で決めたことに逆らってはいけないと。
 もう折れてはいけないのだと。
 強く。強くならなければ、ならない…。

 胸の痛みを忘れられるように、唇を噛んだ。

 …しかし、それは追加された痛みにしかならなかった。


 ***


 スイの剣術は、おそらく一匹の魔物と戦うには合わないものだろう。
 まず、速さが全ての力の元となる。
 そして瞬時に相手を見定め、狙いを外さない。
 足が猫のようにしなやかな動作で動き、剣が閃光のような速さで振るわれる。
 かと思えばくるりと剣を手の中で持ち直して、その態勢から次の攻撃が繰り出される。
 そう、スイの最も得意とする相手は。
 …複数の、人間たちとの連戦だ。
 まず剣が横に薙がれた。残像を残すその動きはそのまま手の中で向きが変わり、次は上から下へ。
「…く…ぁっ…!」
 どさりと三人もの剣士が、地に伏せる。
 やはり屋敷の中の人間はかなりの数だった。
 しかもスイのような服装の、しかも剣を抜き放った人物を不審に思わないはずがない。
 …彼は、既に目に入る全ての人間を倒していた。
 違う。…彼らの目に自分が留まることを恐れていたのだ。
 剣の肌がシャンデリアに煌いた。
 屋敷側がパニックに陥っていたのが幸いして、敵の攻撃もかなり鈍っている。
 得に足が止まることはなかった。とにかく屋敷の奥を目指して走り抜ける。

 …しかしその足は不意に止まった。
 数メートルばかり離れたところを偶然通った従者の一人が、スイを見ていたのだ。
 その顔はまるで死人に遭遇したかのように驚いた顔であった。
「あ……――――」
 何かが、頭の中ではじけていた。
 ぎん、とスイの目が牙を剥く。
 その従者の男はそんな目を見て―――、
「お、お前……スイ…クっっ!!」
 ―――ガヅンッッ!!
 気がついた時は既にスイが目の前まで来ていた。
 口を手で塞がれたまま壁に叩きつけられる。
 その力は圧倒的で、男は半分宙に浮くような形になっていた。
 苦しさに歪む顔はスイの瞳に恐怖する。
 黒よりも深い海の色をした彼の瞳は、ぎらぎらと眼光を放って――。
「…ぐっ……」
 息苦しさにあえぐ従者に向かって、スイは低い声で言った。
「…その名前を次に口にしたら……、その首は飛ぶことになる」
 スイの手にはべっとりと血がついていた。先ほどから殺しはしていないものの、かなりの人を切りつけている。
 目の前の男に突きつけた剣からは滴る赤黒い液体、消せない臭い。
「…わかったな?」
 呟くと、男は必死で首を縦に振った。
 スイは僅かに目を細めると、不意にその手を離す。
 しかしその男が崩れ落ちて咳き込む前に、拳がみぞおちに食い込んでいた。
「…がぁっ……っ」
 どさりと男が地に伏せる。
 吐息を一つだけついて、スイは踵を返した。
 何かが詰まってしまったかのように胸がつかえる。
 水の中を通るように体中に圧迫を感じた。
 生々しい感触が残る拳は、ただ痛い…。
「………」
 紺碧がかった青の髪をかきあげた。
 足を動かす。前へ、前へ…。
 先ほどの揺れは下の方から聞こえていたので、地下へと足を向けた。
 人だかりを数秒で蹴散らして、冷たい石畳を走る。
 ろうそくの灯火がゆらゆらと揺れて足元を照らしていた。

 ―――どくん。

 何処かで聞こえる人の叫び声。
 焦った声。
 揺らめく炎。
 橙色の、影…。
 走る。何処までも続くような道を、走る。
 あの日もまた走っていた。
 息を切らせて、崩れ落ちそうになりながら…。

 ―――どくん。

 そうだ。まるで同じだ。
 遠い場所にいる人を、探して。
 まるで時間は止まってしまったようにみせかけて。
 だけれど残酷に進んでいて。
 足が折れそうになっても、走って。
 体が、火のように熱かった…。

 ―――どく、ん…。

 そして…。
 物語の結末は―――?

 糸は切れて。
 花は燃えて。
 ぷつりと音が消えてしまったように。
 嘆きすら届かずに。
 現実だけが目の前に置き去りになって。
 全てが。


 …全てが、手遅れになってしまっていて――――。


 ―――どくんっ!


 …全ては、現実としてそこにあった。


「ピュラ……!!」
 地下の一番奥、血溜まりの中に咲いた彼岸花…。
 手を拘束されて、垂れた頭は豊かな赤毛に覆われて。
 その合間から覗く白い肌は、赤く汚れて…。
 まるで抜け殻になってしまったかのように、動かない。
 これは彼女にそっくりな人形なのだと錯覚してしまうほどに…。
 いつもの溢れる生気も、笑顔も、なかった。
 すぐに蹴りあがるしなやかな足は、折りたたまれたまま。
 噛み付くように見上げてくるはずだった橙色の光が、見えない…。
「スイ……」
 娘の血で汚れた妖精が、こちらによろめきながら近寄ってきた。
 既にその顔は涙で濡れそぼり真っ赤になって…。
 力なく自分のマントを掴む。
「…目…覚まさないんだ…」
 弱々しい声が、零れた。
 あの衝撃から十数分は経っているはずだった。
「……まだ…生きてる…生きてる、よね…?」
 すがるように、その少年は言う。
 スイの瞳を見た瞬間、その顔が歪んで大粒の涙が声を震わせる。
「わからない……わからないよ……っ!」
 嗚咽が漏れて、妖精は泣いた。
 体中を震わせて、激する感情に震わせて…。
 そして、スイは。
 剣を右手に、無を左手に。
 泣きじゃくる妖精の少年を見ることもなく、
 …娘を前に佇む、一人の男の背中を見つめていた…。
 自分が来ていることに気付いているのかそうでないのか。
 振り向くこともしない…。
 そんな、エディルの姿がそこにあった。
 従者らしきものは一人もつけていない。
 そうだ、ここまでくるときに恐らく自分が全て蹴散らしてしまったのだ。
 ―――かつん、という石を踏む音に目を向ければ、反対側からセルピが走ってくるところだった。
「…ピュ…―――」
 …声が、途切れた。
 全てを塗りつぶしてしまう、鮮烈な赤色。
 背筋が凍る、冷たい静寂。
 そして、泣くことしかできない妖精の少年…。
 がくがくと足が震える。立っていられないと思うくらいに、視界が歪む。
 セルピもまた、…静寂の中に落ちていくことしかできなかった。
 …エディルがその気配にゆっくりと振り向く。
「…フィープか……」
 まるで興味がないように呟いて、目を再び緋色の娘に落とした。
 その手に握られたのは、韓紅に染まった白い布。
 顔をぐしゃぐしゃにしたクリュウが、途切れ途切れに呟いた。
「…助けようと……してくれたんだ…っ、……その人が…」
 そのあとは、もう言葉にならない…。
 時は閉塞して二度とその場という時間から逃れられないように糸をからませていた。
 誰一人として、動くことができない。
 まるで静止画のように、その風景は止まっていた。
 何秒、何分、何時間と感じさせるように―――。
 ただその静寂が不意に終焉を迎えたのは、荒い足音が響いたからだ。
 誰かがこちらに向けて走ってきている。
 そしてそれが誰なのか、―――誰しもが悟っていた。
 セルピが、唇を噛み締める…。
 その時に誰が何を言えただろうか。
 茶がかった銀の髪の青年がスイが来た方向から駆け込んできて――。
「…エディル…さま…?」
 しかし、その傷ついてぼろぼろになった青年に、その光景は強すぎるものであった。
 エディルの血で汚れた手と服。
 そして、スイの抜き放たれた剣についた、血―――。
 全ては揃っていた。揃いすぎていた。
 瞬時にイシュトは持っていた自動弓を構え、スイの方向に向ける。
 しかしスイは動くこともせず―――、否、彼が動く前に。
 一人の少女が床を蹴って、飛び上がっていた。
「だめっ!!」
 飛び掛るようにして、彼の腕を掴む。
「―――っ!」
 その腕は、反射的に、そう無意識に―――、

 …幼子を、突き飛ばしていた。

 ――どんっ!!
 小さな体が人形のように石の壁に叩きつけられて、かはっと口から小さな血が零れた。
 蒼白になったのは、イシュトの方だった。
 弓が、乾いた音をたてて地に落ちる…。
「フィープさ―――!」

 そうして、彼が駆け寄る前に、小さな少女の腕は振り上げられていた。




 ――――ぱぁぁぁんっっっっ!!!




 まるで、つんざくような―――。
 そんな甲高い音は、石を伝って何処までも響いていった。
 しかし、その響きが何処かへ去っていけば、全ては静寂に閉ざされる。
 鮮烈な痛みを訴える頬に手をやる青年の前に、少女は立ち上がった。
 彼に痛みを与えた少女の手もまた、痛みを訴える…。
「………か…っ…」
 詰まったような声がした。
 …ただそれも束の間、栓の抜けた瓶のように少女は叫んだ。

「…ばか…っ!! イシュトのばか!! ばかっ!!!」

 ぶわっと零れる、大粒の涙。
「………ばか……」
 小さな手が、頬を拭った。しかしそれで涙が止まるわけでもないのに、だ…。


 呆然と少女を見ることしかない青年は、気付いた。

 そういえば、自分は少女の涙を見たことがあったろうか、と…。


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