-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 四.あたたかな雨

050.貴族という種族



 あの日から丸三日が経過していた。
 みるみる高くなっていく標高に下界を見下ろせば、広大な大地。
 目の前に広がる、草原の山…。
 ―――。
 …草原は、静寂だった。
 いつもなら騒がしい旅人たちも、静かにその足を進めている。
 …その、理由とは。

「…………死ぬ…」
 ピュラの口から、蚊の囁きのような声が漏れた。
「……疲れたよ…」
 さすがのセルピも肩で呼吸しながらなんとか次の足を踏み出している。

 ―――見渡す限りの、山。
 同じ草原という景色がずっと続く、山。
 木さえ少ない、太陽がさんさんと照りつける道。
 いつまでも続く、登りの坂道―――。

 …一同は、疲労によって完全に言葉を失っていた。
 いくら旅に慣れていたとしても、ここまで毎日登り道を歩かされればへたるのも当たり前だろう。
 しかも早くに行かなくてはならない為、ペースを速めたのも体力消耗の一因となっていた。
 とにかく今は、貴族たちよりも先にナチャルアに行くしかないのだ。
 やっと視線のずっと上に町が見えてきたが、…そこまでの道のりがひたすら遠く感じられる。
 …気が遠くなるような道だった。

 ここまでくれば、空の何処までも澄んだ青も恨めしく思えてくる。

 足はぱんぱんに腫れあがって、一歩踏み出すごとに軋みをあげていた。
 これは大平野リ・ルーを通った時と同じくらい疲れていたかもしれない。
「…二度とこんな場所、来るもんですか……」
 ピュラはそう固く心に誓う。
 …早くフローリエム大陸のような都会に帰りたかった。
 そういえばと考えてみれば、ナチャルアで呪いがとけたら次は何処へ行こうか全く考えていない自分に気付く。
 ずっとフローリエムにいたから、久々に北東にあるキヨツィナ大陸へ行くのも悪くないかもしれない。
 それにはまずここから北上してどこかの港へ行かなければならないけれど―――。

 結局、一行が町へよろめきながらたどり着いたのは、既に日が一番高いところを少しばかり過ぎた時間だった。


 ***


「貴族ぅ? …うーん、ここ最近は結構出入り多いから、いつどの家が来たかは把握できないんだけどねえ…」
 門番は椅子に座ったまま言って町の中を覗いた。
 普通の町よりずっと落ち着いた活気。香木を焚く匂い、不思議な文様の織物たち―――。
 グリムリーズ。ナチャルアへ向かう者たちが最後に訪れる聖職者の町だ。
 この町でも石の文化が進み、門から家から全てが積み上げられた石で出来ていた。
 その大小様々な石を隙間なく詰め合わせてできた壁は、どんな地震にも揺らぐことがないだろうという根を降ろした強さを感じる。

「…今、ナチャルアは貴族界で注目の的なんだ。だからかなりの貴族が来てるんだと思うだけど…」
 町を歩きながらセルピは呟いた。
「でも、ナチャルアには誰一人として入れないように守人がついてるから、簡単には侵略できないって言ってた」
「…だれが?」
「イシュトだよ」
 セルピは言って、青空を仰いだ。
 今のこの時期は乾季なのだろうかわからないが、ここ数日に雲をみたことがなかった。
 現在いる場所は大通りから少し離れた場所。
 エスペシア家がこの町に来ているかは全くわからない。
 大きな貴族の動きは、得に他の貴族がいる中では極秘情報とされるので、大まかなもの以外は全く情報が漏れてこないのだ。
 だがいつ、どこでセルピを知る者に鉢合わせになるかもわからないので、一同は大通りを避けて裏道を縫うようにして町を歩いていたのだった。
 …ただ今の彼らを尾行する影に彼らが勘付いているのかは定かでない…―――。
 細い道から見上げる青空はいささか狭く、そこの太陽が届かぬ空気もわずかに湿気ていた。
「…夕方に出発ね。暗くなってからじゃないと勘付かれやすいわ」
 あまり貴族のたむろする町にいたくないというのがピュラの心情だ。
 壁に背をつけて彼女は腕を組む。
 少し体重を壁に預けて、足を休ませていたかった。
「…ところでさあ…」
 クリュウがぽつりと呟くと、全員が顔をあげる。
 彼は僅かな沈黙の後に、言った。
「…ナチャルアに行ったら、次は何処に行く?」
 …セルピの目を見て、言っていた。
 そういえばとピュラは思う。今、この地方を切り抜けたとしてもエスペシア家のフィープを取り戻そうとする手は止まらないだろう。
 ナチャルアに行くことを第一目標として一番に考えていたから、その先をほとんど考えていなかった。
 …一体、何処へいけばいいというのか。
 セルピは胸の上で右手を握り締めていた。
 歯を食いしばって、前を見る。
 恐るることなく、ただ前を向いて。
 そして、言葉を紡いだ。
「―――南。…南に行くよ」

 ―――…。

 …ピュラの目が、幾度かしばたいた。
「……前から南っていってたけど、…どの辺の南にいくの?」
「…雨が降るところかな」
 セルピは、笑った。
 想うことに理由はいらない。だけれど、想うだけでそれは力になる―――。
「…そこに、探してるものがある気がするんだ」
 気が遠くなるような記憶、それでいてつい先ほどおきたような記憶。
 目蓋の裏に蘇るのは、イシュトの優しい微笑み…。
「探し物ってなによ?」
 …セルピはきょとんとした顔で、ピュラを見上げた。
 そして、僅かに首を傾げて、人差し指を口元に持ってくる。
 …その口元が、笑う―――。
「ひみつだよっ」

 ―――ごすっっ!

 …セルピの脳天に、鉄拳が炸裂した。
「にゃ〜〜〜いたい〜!」
「あんたねえ! こんな緊急事態に爆裂天然ボケかましてんじゃないわよーっ! 4人の未来がかかってるんだから正直に吐きなさい!」
「ぴ、ピュラ、落ち着いて! いくらピュラが短気だからって今のはちょっと…」
 クリュウはハエタタキで打ち落とされた。
「とにかくっ! 別に私も南に行くのは反対じゃないけど、目的もわからずにいくなんてのは…」
「別にいいんじゃないか?」
 …ふと、突然の声にピュラはスイへ眼をやった。
 スイは相変わらずの無表情。いつか存在を忘れてしまいそうになるくらいに掴めない雰囲気、それなのにふとしたことで現れるその空気は底知れない…。
 彼は、いつもいっているようなことを述べるように言っていた。
「…生きる為に、旅をしてるから」
 ぴん、と彼女の瞳がはじける。
 スイは当たり前のように言ってのけた。
「他の目的はその飾りみたいなものだと、思う」
 ―――ピュラには、帰る場所がない。既にそこは廃墟と化している。
 ―――クリュウにも、帰る場所がない。あと300年近く経たないと、彼は帰ることができない。
 ―――そして、セルピにも。彼女は自ら帰る場所を捨てたのだから…。
 スイに帰るべき場所があるのかないのか、それは知らない。
 だけれども―――。
 誰しもの旅の目的は同じ。
 今日を生きる、そして明日を生きる。時を繋いで年を紡ぐ。
「…だから、別に気にしなくていいと思うが」
 ――生きる為に旅をするということは、なにが起ころうと変わらないのだから…。
 その脇にある目的はなんであったとしても、関係ないのではないだろうか?
 彼らは旅をしながらでないと生きていけない。
 生きる為に旅をする。旅をしながら、生きていく。
 とどまる場所を持たず、明日も知れぬ風の中。
 しかし、だからこそ、そんな黄昏を生きてきた強さを持つ―――。
「…まあ、そういわれればそうだけどね…」
 豊かな緋色の髪に手をつっこんで、ピュラは視線をセルピに流す。
 セルピは、頷いた。誰にでもわかるように、大きく頷いた。
「…ボクも、一番の旅の目的は生きるためだよ」
 …フィープとしてではなく、セルピとして。
 理由なんてものはいらない。そんなものはつけようとすればいくらでもつけられるのだから。
 ただ彼らは漠然と見えないものにぶつかって―――。
「まったく、こういうところ頑固なんだからね、この子は。いーわよ、黙ってついていけばいいんでしょ?」
 呆れたように笑ってみせるピュラ。
「えへ……ありがとう」
 セルピもまた、笑った。…いつもの彼女の笑顔だった。
「…じゃ、夕方までなにしてましょっか」
「あ、あのさ。来る時に少し寂れた食堂があったよね? 人も少なかったし、そこで待ってるのはどうかな」
「そうね、…なら皆で先に行っておいてくれる? ごたごたでランプの燃料がもう少ないでしょ、買ってくるわ」
「ピュラ…、一人で平気?」
 セルピが聞くと、ピュラは一瞬眼を丸くして…、かくんと首を折る。
「あんたじゃあるまいし、私は子供じゃないわよ…」
「そ、そうじゃなくてさ…、」
「あの日からまだ3日よ? まだ手出しはしてこないでしょ。あんたこそ他の人に狙われるかもしれないからね、気をつけていきなさいよ」
「…うん……」
 不安そうにするセルピにピュラは軽く笑って、スイとクリュウに目配せをした。
「じゃ、セルピを頼んだわよ。私もすぐに合流するから」
「ああ。…気をつけてな」
「ええ」
 ピュラは手をはらはらと振ると、スイたちとは反対方向に歩き出した。
「…じゃ、僕たちも行こうか」
「うん」
 ―――刹那、ふっと風が吹いた。
 …セルピは思わず振り向いて風の行く方に視線を向ける。
「………?」
 ――胸が、ざわめいていた。
 直感からくる、なにかの気配…。
 …しかしその気配の正体は、すぐに分かった。
 そうして、わずかに笑った。
(…そっか……、エスペシア家につけられてるんだ。当たり前だよね…)
 …どこかで自分を監視する者がいる。
 彼らをふりきるのは…かなり大変な業となるだろう。
 こんな場所でふりきれるわけがなかった。だからセルピは何事もなかったように視線を戻して歩き出す。
 今は。今は、こうしているしかない―――。

 ただ、どこにも緊張の揺るぎが許されないという思念が、彼女の顔をわずかにこわばらせていた。

 …幼子は知る由もない。
 彼女が去った後、いくつかの影たちが揺らめいて姿をくらませたことを。
 そして、その影は二つにわかたれていたことを―――。


 ***


 ―――少し買い物にもたついてしまった。
 まだ夕暮れまでは結構な時間が残っているが、早く仲間たちと合流して休んでいたかったので、ピュラは荷物を片手に道を急ぐ。
 この町を抜ければ、約二週間の間に山をいくつも越えて、その奥地にあるナチャルアを目指すことになる。
 …つまり、この町を出れば少なくとも三週間は町にいくことが出来なくなるのだ。
 本当はここで一泊して休みたいのだが、事情が事情なのでそうもいかない。
 グリムリーズという町は、ナチャルアへの巡礼者が最後に訪れる町だからなのか、聖職者が多く見受けられた。
 町も静かで、人通りも少ない。
 …良く言えば荘厳ともいえるし、…悪く言えば少しばかり気味が悪かった。
 聖職者は頭をすっぽり布で覆っていて素顔が見えない。
 戯れる子供の姿も見られなかった。
 ――ただ、そんな中でも美しいと思うのは大きな建物だ。寺院だろうか。
 精霊神の石像が門の前に置かれ、その向こうには見上げるような巨大な施設が建っている。
 真っ青な空の下で、それは確かな威厳を感じさせるものとしてそこにあった。
 ピュラはそんな姿に眼を細める―――。
 風の音に、眼を閉じた。
 その風はわずかな違和感を彼女に与える…。
「…………」

 …静かに、辺りを見回した。

 ―――人が、いなかった。

 先ほどまでは、まばらにだがいた筈の人が。
 …誰一人として視界に止まるものが、ない。
 ぴん、と橙色の瞳が光を放って、素早く手が腰のポーチへと滑り込む。
 手探りで固い感触を探し出し、指にはめた。
 全てが死に絶えてしまったかのように、その場は無音に落ちる。
 …彼女の視線が、―――不意に横にむけられた。
「…6日間は手をだしてこないんじゃなかったの?」
 太陽が、強く辺りを照りつける。
 大地は焼けて、緑は青く―――。
 …ふいと彼女の口元に笑みが走った。
 しかしそれは何かを蔑むようなもの…。
「それとも、貴族の間じゃ約束なんていうのは破るためにあるものなのかしら」

 ―――ざっ…。

 横の道から、一人の青年が姿を現した。
 茶がかった銀の髪。森を思わせる深緑の色をした瞳。
「…あの御方の、連れの方ですね?」
 …イシュト、だった。
 しかしイシュトは姿を現してから、一歩も動こうとしてはいない。
 …否、動けないという方が正しかった。
 目の前にいる緋色の髪の少女から放たれる、心に直接刺してくるようなな殺気。
 こんな年頃の娘の何処にこのようなものが隠されていたのかと思うくらいに、それは強い。
 少しでも動けば、…彼女の持つ刃が自分へと向けられるのだと、嫌なくらいに分かった。
 もちろんイシュト自身、このような娘に負ける気はしない。
 しかし、今は勝つ為に来たのではないのだ。
 イシュトは、静かに言葉を紡いだ。
「危害を加える気はございません」
 そう言って、手を広げてみせる。
 その腰に剣はぶらさげてあったが、完全に手とは離れていた。
 …ピュラの冷めた視線を感じながらイシュトは続ける。
「…どうか、少しの間だけご同伴を頂けないでしょうか。お話を聞いて頂きたいのです。もちろん、明日の朝にはお帰り頂いて結構です」
「ナンパするのにも、もうちょっとしゃれた言い方があるんじゃない?」
 普通の者だったら、貴族を目の前にすれば圧倒されてしまうだろう。
 それだけ貴族という『種族』は何か目には見えない威圧を漂わせるものなのだ。
 …しかし、その娘は一つの揺らぎも見せない。
 そしてそれが返って彼女の計り知れぬ何かをイシュトの肌に伝わせる―――。
「お願いします。あの御方と、私たちの為に……」
 …決して彼は個人名をだすことはない。
 それは、いつどこでだれがこの状況を見ているかもわからないから…。
「…あなたの安全の保障も致します。どうか、ご同伴を」
 彼は頭を深々と下げた。ずっと前から身に染み付いている、深い礼の仕方だ。
 そうして面をまたあげて、ピュラの瞳を見据える。
 緑と橙、二つの色がぶつかりあった。
 ぴんと張り詰めた空気には耳鳴りさえ覚える。
 対峙した二人の間には何者の介入をも許さない―――。
「…セルピの連れは三人。どれも旅人で、一人は剣士。一人は妖精。そしてもう一人が私」
 ふいに彼女は言葉を零した。しかしその言葉さえ、辺りの空気を更に張り詰めさせる。
 風に豊かな緋色の髪が揺れて、ガーネットのピアスが耳元で煌いた。
 そのピアスが象徴するのは再生、そして幸福。
 まるで今の世界には見合わぬ言葉。
 しかし、彼女という白いキャンバスに真っ赤な染みを作る程に印象を与える存在が、――何故だかそれらの言葉を連想させる。
 もし、いつか大軍を指揮して最後まで貴族と戦ったといわれる女将軍プリエルの生まれ変わりが彼女なのだと言われれば、…今なら信じてしまえるかもしれない。
 それだけの気高さを彼女は持ち合わせていた。
 そして、この世界を生き抜く強さと常に背中合わせにある冷たく研ぎ澄まされたものも―――。
「剣士は無口で中が見えない。どんな切れた人かもわからないわね。それに妖精も魔法を使うから扱いは厄介だった…」
 ふっと笑みが過ぎった。敵意ではない、しかし好意でもない…。
「それで、私をご指名かしら。こんな小娘、脅してでもやればどうにでもなるものね?」
 肩をすくめて首を傾げてみせる。
 ただ、眼だけは強い光を湛えたままだった。
 …イシュトは僅かに顔に影をさす。
 ほんの少しだけ、顔に苦しさが浮かんでいた。
「…はい、あなたの言う通りです。そう思ってあなたを選びました」
「いい判断じゃない。私があなただったら同じようにするもの」
「…それに、あなたが一番…あの御方のことを想って、話を聞いてくれそうでしたから…」
「光栄ね、かいかぶってもらって嬉しいわ」
「………」
 イシュトは眼を伏せて首を振った。
 強い日差しに銀茶の髪が揺れてきらきら煌く―――。
「…どうか、お願いします」
 イシュトとピュラの距離は、数メートルのみ。
 なのにそれは谷でも挟んだかのように遠く感じられていた。
 ピュラは冷めた眼でそれを見つめ―――、


 瞬間。


「………っ!!」
「―――!?」
 二人の意識がはじけて、瞬時にピュラの体が飛んだ。
 イシュトにも最初は状況が理解できなかったらしく、すぐに剣の柄に手をかける。
 ――が、光景を見た瞬間、彼は叫んでいた。
「やめるんだっ!!」
 ピュラがいた場所には、一人の男。
 彼女に向かって剣を向けて、殺気をつきつける。
 ピュラは最初の一撃をかわして男を見据えている―――。
 イシュトの顔が途端に険しくなり、先ほどまでの緊張が一気に破られて更なる緊迫が辺りを包む。
「手をだすなと言った筈だ!」
「イシュト様…っ!! このような下賎な者…、あなた様を侮辱するのにも程があります!」
 ――あの屋敷にてイシュトを心配して声をかけてきたものだった。
 つまり、イシュトの配下だ…。
「手をだしてはいけない…! そうなったら全てが終わりになってしまう…」
「…イシュト様」
 …従者はピュラに視線を向けたまま、言っていた。
「もうあなた様は傷ついてはいけない…」
 そのまま地を蹴って、走った。
 たった一瞬のことで、イシュトが口をだす隙もない。
 狙うは目の前の赤毛の娘―――!

 …しかし、その剣の切っ先が彼女を捕らえることはなかった。

「……が…ぁっ…!」
 残像を残すほどの速さで彼女のしなやかな体が舞い、軽々と従者の背後をとる。
 即座にナックルがあてがわれた右手の一撃が背中に当てられ、彼はうめき声をあげた。
 …だがこれでも彼女は手加減したつもりだ。本来なら背骨が折れていたところだったのだから…。
「甘くみるんじゃないわ。私も、人生もね」
 思わず膝をつく従者にピュラは言葉を投げかける。
「…傷つかない人生なんてこの世にはないわよ。苦しいのは皆同じ、傷つくことから逃げ出したらそれは死と同じだわ」
 瞬間、彼女は素早く後ろにさがった。
 彼女に向かって剣が振るわれたからだ。
 ぴっとなびいた髪が切れて風に運ばれていった。
 痛みをこらえるように体を丸めて、それでも従者は彼女に噛み付く。
「お前はイシュト様はどれだけ苦しい思いをしているか知らないからそう言える…!!」
「それがなんだっていうのよ」
 従者は決して剣術が下手なわけではない。
 むしろ並の剣士では到底太刀打ちできないほどの力量を秘めている。
 …いや、だからこそイシュト直属の配下なのだろうが…。
 しかしピュラはその攻撃を木の葉のようにかわしながらその眼を彼に向ける。
 凍るように冷めていて、それでいて燃えるように熱い瞳を―――。
「苦しみの大きさなんて人によって違うわ。それは運命よ、変えられるものじゃない…」
「なにを分かったような口を―――!」
「でも、それに立ち向かうか逃げるかは、本人が決めることよ」
 ぎん、と従者の目にスパークが走った。
「…違う?」
 ピュラの瞳が細くなっていく…。
「………だが……」
 剣がまた虚空を斬った。緊迫を切り裂く、張り裂けるような音が耳に響く。
「イシュト様はあの方のお戻りを心から願っている…それだけは成さなくてはならない…っ! どんなに苦しくとも、幸福を勝ち取らなければならない…!!」

 …どくん、とイシュトの中で何かが波打った。
 心が剥がれ落ちていくようにその中心から思念が溢れてくる。
 そうだ。
 全てを元通りにするには―――、

 こうするしか―――

 それがどんなに苦しいことだったとしても―――

 罵られることだとしても―――



 あのひとの、ためならば。



 ―――あのひとのためならば?
 そうだ。そのためならどんなことでも、すると―――。

 誓った。誓ったのだから…。

 …イシュトは、言った。


「……申し訳ございません…」


 言葉に視線を向かせたピュラの眼が―――瞬く。
「……――――」
 あのときのセルピと、同じ顔。
 苦しそうで、辛そうで、それでもどうにかして立って―――、

 …セルピの小さな姿が白昼夢のように脳裏を通り過ぎた瞬間、…それは彼女に隙を作っていた。

 イシュトの足が、猫のように素早く大地を蹴る。
 体を動かそうとした瞬間には、…既に背後をとられていた。
 ばふ、と音がして…口元に何かがあてがわれる。
 イシュトは手でその布を押さえつけていた。
 ピュラの何かを掴もうとした手が―――虚空を握る……。
 瞬間に甘いような匂いが鼻から肺へ、そして全身へと血液に乗って流れていくのを感じた。
 それと同時に、消えていく感覚と意識も―――。
(…睡眠……薬……っ)
 何かを言おうとしたが、既に思考も口も遮られていた。
「……本当に……申し訳ございません…」
 最後に、そんな囁きを聞いた。
 まるであの夜の、セルピの声と同じものだった。
 今にも泣いてしまいそうな、絞るような声…。
 それは彼の嘆きともいえる言葉だった。
 血を吐くような声色にピュラの心が一瞬だけ震える―――。
 ゆっくりと無に吸い込まれていく意識の中で彼女は何を思ったろうか…。
 支えることができなくなった体が前に倒れて、…なにかに抱きとめられる。
 そこで、彼女の意識は完全に途切れていた。


 ***


「………遅いね…」
 寂れた食堂は人も少なく、…その片隅で旅人たちは来るはずもない連れを待っていた。
 …すでに夕日も落ちた。しかし誰も食事にしようなどと言い出す筈もなく、…時折カップの水を口に含んでは不安に心を震わせる。
 窓際のテーブルからそれぞれ暗い外を見つめて、赤毛の娘の帰りをただ、待つ…。
 まさか、という予感を誰もが抱いていただろう。
 しかしまだ約束の期限は過ぎていない。…だから手はだしてこない、筈、なのだ―――。
 たった一人欠けただけで、ここまで雰囲気が欠けてしまうものなのかと思う。
 そのときになって、彼女という存在の強さが胸に染みる…。
 いつだって全員を引っ張っていた娘。
 厳しいながらも世話を焼く、その橙色に滲む優しさ…。
 ぽっかりと穴があいてしまったように、…一同は何の言葉も発せずに沈黙を落としていた。
 黒ずんだ壁の染みに目を向けては溜め息をつく。
 スイは外の空を見上げながら―――どこか険しい顔をしているように見えた。
 クリュウもテーブルの隅に腰掛けたまま不安そうに視線を泳がせている。
 食堂にはランプがかかり、少し薄暗い空気が更に辺りの空気を重くさせているように思えた。
 外は真の黒に没している。…気付けば、日没から随分の時間がたっている―――。
 …こつり、と音がしてそれぞれ顔をあげた。
 主人だろうか…、老人がセルピの姿をじっと見つめている。
 一瞬、自分がエスペシア家の者だと感づかれたのかと思いセルピは身構えるが―――、次の瞬間老人は思いがけない言葉を口にしていた。
「手紙が届いてますよ。さっき男の人がきてね、…黒髪の女の子に渡してくれって」
 そう言ってテーブルに封筒を一枚置く。
 …言い出すべき言葉を見出せないでいる一同に、老人は世間話をする間もなく背を向けて去っていった。
「…………手紙…って、」
 セルピが呟いて、その封筒に手をかける。
「…男の人、っていったよね?」
 クリュウは目を伏せてそう言って―――唇を噛む。
 …胸騒ぎが心を直接ゆさぶっていた。
 彼女は急ぎがちに封を切って中の一枚の便箋を取り出す。
 …そうして、手紙を机の真ん中に広げて見せた。
 手紙にはあでやかな筆遣いで文字がつづられている―――。


 連れの娘をこちらで一晩だけ預からせてもらう。

 だが危害は全く加えていない。無事も保障する。

 明日の朝には釈放する故に心配は無用。

 エディル・L・エスペシア


「…………ピュラ……!」
 クリュウが息を呑む。
 セルピは最後の著名に添えられた印に目を細めた。
 …間違いない、エスペシア本家の印だ。偽者ではないだろう。
「…明日の朝には釈放……って……」
 意図の読めない文面にセルピは困惑してこめかみに手をやる。
 …そんな、瞬間だった。

 ―――がたっ!!

 セルピとクリュウの肩が飛び上がる。
 …スイが、席を立ち上がっていた。
「…スイ―――?」
 名前を呟いたセルピは、続きに詰まる。
 その瞳に湛えられた眼光は鋭く、…そして明らかに今までにない緊迫が走っている。
「……すぐにいかないと…」
「え、…で、でも危害は加えてないって…」
 スイはもう一度窓の外に目をやった。
 その目が細まり、…拳が握られ布がこすられる音が鳴る。
 ぎゅり、というその音は、心をつんざくように不安を抱かせ―――、
 彼は低い声で、言った。


「………今日は新月だ」


 空は暗く、天使星はその姿を全て暗がりに覆い隠されていた。
 そう、空はどこまでも深い黒に―――。



 ―――僕の魔法は新月の日に弱まるから、新月ごとにかけ直さなきゃいけないんだ。



 …頭の中が、ペンキをぶちまけられたように真っ白になった。
 殴られたような衝撃が体を駆け巡り、体中の血液が沸騰する。
 ―――全てを理解した瞬間、全員は言葉よりも先に駆け出していた。
 嵐のように食堂を飛び出して道にでる。
 一瞬どちらに行くかと双方に目を向けた後、セルピは右に向かって走り出した。
「グリムリーズの東の屋敷…!!」
 ピュラのいるであろう場所を彼女は祈るように呟く。
 外は冷たい風が吹き荒れていたが、それどころではなかった。
「…時限はいつだ?」
「わからない……でも、まだ間に合うはずだよ…!」
 クリュウは血を吐くように言ってもどかしそうに首を振る。
 思い出されるのはあの森での彼女。…蒼白な顔になって激痛をこらえる姿―――。
 エスペシア家がそんな事情を知るわけがない。
 だが、このまま時を進めれば確実に―――娘の死に繋がる。
「僕……先にいってる! 裏から入るから、スイたちは表で敵をひきつけてて…!」
「わかった」
 暗い道を東に向けて走る。月は、ない。そこにあるのは静寂の暗闇…。
「…必ず助けてくれ」
「わかってる」
 クリュウは頷いて、飛び上がった。屋敷へは空から直接行く方が数段に早い。
 イシスファと違ってその町は寺院や建物にランプが灯っているところが多い。
 僅かな灯りがあるだけだったが、今の状況ではありがたいことこの上なかった。
「セルピ」
「…なに?」
 夜の道を息を切らせて走りながら、スイは続ける。
「…お前は隠れていた方がいい、何をされるか―――」
「大丈夫だよ。それにボクが行けば注意は絶対にひきつけられる。…ボク、大抵の攻撃だったら避ける自信があるんだ」
 …スイは、セルピを見下ろした。
 もちろんそれは走りながらではあったが、…明らかにその瞳が怪訝そうに瞬いている。
 …セルピは僅かに口元に笑みを走らせた。
「暗殺対策の訓練はちゃんとやってたから」
 僅かにスイの海の色をした瞳がその深みを増す。
 …ゆっくりと前方に夜中も煌々と照らされる貴族の灯りが見えてきていた。
 随分走ってきてそろそろ息も切れていいころなのに、…彼女は速さを落とさずにまた前を見る。
 その泉色の瞳が人口の灯りにてらてらと照らされていた。
「大丈夫」
 彼女はそう、幼い唇で言った。
 一瞬だけ幼い顔が大人びる。
 この世界を歩いてきた、どんな残酷なものも見てきた、そんな強さがその瞳に垣間見える。
 そしてそれは苦しみと哀しみの裏返しでもある、ふいに感じる少女の痛々しさ。
 少しだけ苦しそうに、また彼女は笑った。


「―――ボク、これでも本当は強いんだよ?」


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