-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 四.あたたかな雨

043.妖精と人間と・後



 今から五年前、夏の暑い暑い日。
 フローリエム大陸中央付近の、広大な森の一角。
 そこで、ある一人の妖精が、禁忌を犯した。
 彼らの中で唯一絶対とされていた法を、破ったのだ。
 ―――妖精の名は、クリュウ。
 その地に住む妖精の誰もが驚き我が目を疑ったという。
 何故なら、彼は穏やかで少し気が弱いが、いつも回りに気を遣う優しい妖精……、
 まさかその彼が、そのようなことをするとは誰も信じることが出来なかったのだ―――。

 それは付き合いが始まってから、既に数ヶ月が経ったある日のこと。

 妖精は辺りの気配を敏感に感じ取ることができる。
 ―――その瞬間、クリュウとティントは飛び上がるようにして顔を見合わせた。
 お互いに血の気がひいていて、ただ事ではないとすぐに分かった。
「…聞こえる……アッシュ…?」
「なんだろう、すごく嫌な感じがする…」
 その感触は肌を簡単に突き抜けて精神に直接響き、体の芯が粟立つ。
「クリュウ、行こう。よくわからないけど……でも行った方がいいと思う」
「うん……」
 二人は自らの感覚に従って結界をすり抜けて森を飛んだ。
 緊張が高まる。胸が張り詰めて、眩暈のようなものが、する。
 夏のその日は、空気は熱されて熱く、全速力で飛びながら吐く息もまた熱い。
 いつも少年と落ち合う場所のところを通り過ぎて、更に人間の住む地へと近付くが、…不思議と恐怖はなかった。
 それは少年という人間に慣れてしまったからかもしれない。人間というものをわかっているつもりだったからかもしれない…。
 そしてその森の奥に小さな、見慣れた影を見つけて―――、
「アッシュ!」
 ティントは思わず叫んだ。
「あ……妖精、さん…」
 息をきらしながら走ってきた少年は、みるも無残な姿だった。
 体中に殴られた痕跡があり、血を流し、服は破れて、足を引きずるようにして、―――それでも笑って。

 クリュウは絶句していた。
 戦慄が、体中を駆ける。
 今までに、100年以上も生きてきて、こんなに傷ついたものを見たことがなかったのだ…。
 その姿は幼い妖精に、残酷にも現実をつきつける。
「動かないで、今治してあげるから…」
 ティントがその傷を癒しにかかると、クリュウも後からおずおずと手をかざして同じことをした。
「一体どうしたの…?」
「…お父さんが死んだんだ…。お酒の飲みすぎだと思うんだけど、…そうしたら借金の取立ての人が、僕を売ってお金にするって…、それで逃げて…」
「ひどい! そんなことがあっていいわけないよ…」
 哀しみと怒りを露にするティントの横で、クリュウは呆然とした顔のまま、傷に手をかざしていた。
 頭の中で意識がぶつかる。
 アッシュと出会って、人間というものは思っていたよりもずっと綺麗な種族なのだと思っていた。
 しかし、『そうでない人間』の存在は確かに彼の目の前に立ちはだかっていたのだ。
「…なんで、人間は……」
 クリュウは小さな口の中で、呟く…。
 知らず知らずのうちにかぶりを振っていた。
「…今帰ったら、きっと殺されちゃう。この森を抜けて、…そうだ、ここから南の町に行こうよ。私たち、近道を知ってるから、きっとなんとかなるよ…」
「うん…」
「……っ! 静かに、誰かの声がする…」
 瞬間、少年の顔に恐怖が張り詰めて、彼は頭を抱えてその場に蹲った。
 ティントもクリュウも、少年と身を寄せ合うようにして耳を澄ます。

 今までに聞いたこともないような低い低い、『人間』の声がした。
 四人の気配が、森を歩いている。
「こっちに来たはずなんだ、子供だから遠くには行けまい」
「よし、お前はそっちを探せ。俺は奥を行く」
「全く金だけ借りておいて逃げるとは、なんて子供なんだ…」
「ぼやくなよ。あれでも売れば3万ラピスにはなるぞ」
「だって借りた金は10万ラピスだぞ? どう帳尻を合わせるんだよ」
「ふん、あんな細っこいのでそんな金が返せると思うか? 損害は少ない方がいいだろう」
「まあ確かにな……」
「おい、無駄話をしてる暇はないぞ」
「わかってる。じゃ、日暮れに落ち合おうな」
「ああ」

 体から、血の気が引く―――。
 一つ一つの言葉が力となって、心を殴りつけているような感さえあった。
 ―――嫌悪。
 クリュウがその時感じたものを一単語で表せば、それが当てはまるかもしれない。
 平穏な今までにありえなかった、負の感情がどっとせきをきって押し寄せる―――。
 しかしその感情さえ理解できるほど彼は器用でもなく、体中の寒気をこらえるように自分の体を抱きしめていた。
 出来うることなら、心の殻に閉じこもってしまいたかった。
「…行ったみたい。大丈夫だよアッシュ、私たちがついてるから…。急いで走ろう、日が暮れたら森は真っ暗になるよ」
「うん……」
 少年は弱々しく頷いて、傷が癒えたばかりの体で走り出した。
 きっと森を抜けて少年を送り出してから急いで戻ってきても、明日の朝になってしまうだろう。結界を勝手に抜け出したことが見つかってしまう。
 …他の妖精からの大目玉は避けられそうになかったが…、だが今はそれどころではなかった。
「私についてきて」
 ティントは険しい顔で辺りを見回し、気配を避けて道を選ぶ。
 早く森を抜けてしまわないとけない。夜になれば灯りのない森は絶対の暗闇に閉ざされてしまう。
 クリュウも少年の後から、周りを気にしながらついてきていた。
 しかし、心の中の波紋から始まった黒い波が失せるわけでもなく…。
 吐き気がする。眩暈がする。胸が、詰まる…。
 人間と出会った。人間を知った。一緒に笑うこともできた。遊ぶことだってできた。人間を理解した。

 …理解した、つもりだったんだ。

 人間は戦争をする。この地上の生態系の中で唯一、同族で殺しあう。
 人間はエルフを狩る。彼らの魔力を狙った人間たちは、武器と魔法を持って彼らを殺した。
 人間は森を焼く。自ら住む土地が、深い森の中では不便だというから。

 人間は、恐ろしいもので、近寄ってはいけない。

 だから妖精たちは、種の保存の為に森に結界を張って、人間との交流を断ったのだ。
 このままいれば、いつかこの森が焼けれて絶滅してしまうかもしれないから…。
 結界を張った森は、人を惑わす。通るだけのものなら受け入れるが、侵略者には道を迷わせる。
 誰かが火をつければ、結界の力で消えてしまう。
 だからこの森は、なんとか守られていた。
 そして守らなければならないほどに、人間は強欲で醜いものなのだと、漠然と思っていた。

 しかしそれは一人の少年によって破られた。
 少年は純粋で人懐こく、優しい人間だったのだ。
 笑顔が綺麗だった。眩しかった。
 誰が、人間が醜いなんていったのだろうと、思っていた。
 そして、この時間がずっとずっと続いていくのだと思っていた。

 人間だって命の一つなのだ。
 優しくて、当たり前ではないか。
 戦争をするなんて、なにかの間違いではないか。
 こんな人たちが殺し合いをするなんて、想像もつかなかった。

 …しかし。

 …しかし…――。

 幼い妖精の少年は、知ってしまったのだった。
 やっと、その瞬間に人間を理解したのだった。


 人間は優しい。とても美しい、綺麗な種族であり、

 そして、それと同じくらいに醜く残忍な種族なのだと……。


 なにも知らなかった。
 知らなかったんだ。
 この森の外に、なにがあるかなんて。
 この世がどういうシステムで動いてるかなんて。

 それを知った、今。
 この少年の為に、なにができる?
 小さな自分に、一体、なにができる―――?

 夕日は森の木々をすり抜けて中に降り注ぐ。
 森は橙に染まり、静かに夜が訪れようとする。
 幼い少年の足はあまりに疲れ果て、それでも無理矢理に動かそうとするから体のみが前へと向かう。
「わっ……!」

 ――どさっ!

「アッシュ! 大丈夫?」
「う…うん……」
 倒れた少年は小さな手で草の生えた地から体を支えて、なんとか起き上がる。
「もう少しだから…頑張って…」
「うん…」
 涙ぐんだ顔をみせながらも、少年は頷いた。
 しかし、とクリュウは思う。
 このままいって、果たして夜までに森を抜けられるだろうか……。
 もちろん森を抜ける最短ルートをとっているのは間違いない。森を隅々まで知っている妖精だからこそ、それは胸を張っていう自信がある。
 だが、こんな小くやせ細った子供はとうに限界など超えてしまっているだろうに、長い間こんなにまで走って、―――それが心配だった。
 不安、恐怖、不快、不快、不快―――。
 出来ることといえば、道を示すだけ。
 他にどうすることもできない。
 追っ手を倒したとしても、次から次へと人は来るだろう。
 いや、その前に本当に人間相手に戦えるのだろうか…?

 静かに暗闇がせまってきていた。
 辺りはゆっくりと確実に明度を落としてきている。
 方向は妖精特有の感覚でわかるものの、視界が悪くなっていくのはどうしようもなかった。
 本当にどうしようかと考えた瞬間、クリュウの耳がぴんと張って反応する。
「……静かにっ…誰か来たよ…」
 すぐに三人で集まって身を寄せるようにして木陰に隠れた。
 すると、あの低い声が静かに森を通るのが聞こえた。
 紛れもない、追ってきた人間の声…。

「今、あそこでなにかが光った気がしたんだが…」

 びく、とクリュウとティントの肩が跳ね上がった。
 彼らの羽根はいつでもほんの少しだけ、仄かに光を宿している。
 普段にしていれば全く気付かないが、暗くなりかけた森の中では目立ってしまうのだ。

「お前はそっちにまわれ。俺はこっちから行く」

 …囁きは少年の耳に聞こえないものの、人間の数倍も良い聴覚を持つ妖精には聞こえる。
 ……胸の中が、真っ青になった気がした。
 クリュウとティントは顔を見合わせて、…ティントは首を振って、策がないことを示す。
 …クリュウも、この危機を脱する案をすぐに思いつくことはできなかった。
 幻術などというものは上級魔法で、一般妖精のクリュウなどに扱えるものではなかったし、かといって今結界の魔法を使って閉じこもれば、夜がふけるまで動けないだろう。
 少年が衰弱しているのはクリュウの目でもわかる。何か食べさせてやらないと、本当に明日までもたないかもしれない―――。
(…戦うしか……ないかな…)
 クリュウは手を握り締めて、辺りの気配に耳を澄ませた。
 人間はどのような力を持っているかわからない。
 どこまで太刀打ちできるだろうか…。
「僕が食い止めるから、アッシュを連れて逃げて」
「……うん」
 ティントに耳打ちすると、彼女は不安そうに頷いた。
 恐怖に肩を震わせながらうずくまる少年に、ティントはゆっくりと出発を促す。
 ―――そして、クリュウは口の中で詠唱を唱えながらなるべくそれと反対方向に……飛んだ。
「なんだ!?」
 突如現れた光に、男たちが驚いて弓を構える。
 しかしそれよりも早く、クリュウの魔法が発動していた。
「精霊の御名において――――」

 ――――どうっっ!!

 辺りに風が巻き起こり、男たちの視界をさえぎる。
 森が唸り、樹の破片が辺りに飛び散る。
 こんなに大きな魔法を使うのは初めてだったからか、眩暈に体がぐらついたがそうしている暇もなかった。
 次の男の言葉に、クリュウは絶句する。
「おい、あっちに子供がいったぞ!!」
「なんだと!?」
 瞳が弾けた。
(…やっぱりばれた……っ)
 やはりあの足で走らせるのは酷だったろうか。いや、そんなことを考えている余裕はなかった。
 こうなっては、とにかくなんとかして食い止めなくてはいけない。
 息を切らしながらも飛んで、また風を起こした。
「…ちっ、妖精か!!」
 憎々げな声が聞こえた瞬間、クリュウのすぐ横を弓矢が飛んだ。
 びゅん、と彼にしてみればおぞましいほどに太い矢が飛んできて…、胸が凍る。
 今はなんとかかわすことができたけれど…、
 もしあの矢に貫かれていたとしたら―――?

 生まれて初めて、本当の恐怖に直面していた。

 頭がぐらぐらする。吐き気が、する…。
 詠唱に集中することができなくて、頭を何度も振る。
 落ち着け。落ち着かなければならない。ならないん、だ……!
 視界が濁ってきたと思うと、気がつけば涙がぼろぼろと溢れていた。
「精霊の…御名において…―――!」
 思うように力が動かない。確かに巻き起こる風は男たちの行く手をさえぎるが、それをすぐにかいくぐられてしまう。
 振り向けば、もうすぐそばに少年と妖精の姿が見えていた。
 守らなければならない。あの、綺麗な人間である彼を、守らなければ―――。
 …守らなくては、ならない…。
 どうにかして…、

 どうにかして……!

 叫ぶようにして、詠唱を唱えた。
「氷の刃よ 汝のその透き通る冷たさにて 我が身を守り あるいは剣となりて……我が意に従え、精霊の御名において…!!」
 …瞬間、どうっという叩きつけられたような衝撃と共に自分の体が飛んだ。
 体中から力がするりと抜けて、冷たくなっていくような―――。
 そして思いのほか…否、思ってもみない程の力がそこから噴出され、氷の刃が男に向かって降り注ぐ―――
「え………?」
 クリュウは、呆然と呟いた。
 何かが体をかっと熱くして、……そして、全ての体温が抜けていく―――。

「うぁ……ああああああああ!!」

 何故だか、動作はゆっくりとしたそれのように、目に焼きついた。
 地に叩きつけられて、それでも起きて、―――そして、見たもの。

 見てしまった、もの。

 一人の男の顔が、恐怖に歪んで。
 空気を揺るがすほどに、叫んで。
 刃が、幾つも幾つも、降り注いで、

 血が、

 ほとばしって、

 飛び散って、

 男の体が、人形のように倒れて、


 どくどくと辺りに流れ出す、血液―――。

 最後の夕日にてらてらと照らされて――――。



 ――――ひとつの命が消えていくのを、彼は見た。



 自分の手が、それを行ったのだということに気付くまでに、………随分の時間を要した。
「ぁ………うあ……」
 時は限りなくその時間を延ばし、彼をその時間に閉じ込める。
 涙でない何かが頬を伝ったと思えば……、
 手で触れると、ぬるりという感触がした。
 指が、紅く紅く、染まる―――
「………あ…ぁ…!」
 それが、先ほどまで生きていた命のに流れていたものなのだと頭が理解できたころ、―――彼は頭を両手で抱えてうずくまっていた。
 がづんと、鈍いもので殴られたような感触に、平衡感覚が失せていく…。
「う………うっ………うぇ…」
 許容範囲をはるかに超えた出来事に、心が絶叫をあげる。
 自分がしてしまったこと。決して変えられない、こと。
 自分の手で、殺した…。
 例え害なすものでも、そんな気がなかったとしても、

 こんなことをした自分は、

 許されるはずが、ない……。

 痛い。
 痛い。
 どこにも傷なんてないはずなのに。
 なのに、痛い。
 こんな痛みが、この世にあるとは思っていなかった。
 体中が縛られたような、それでいて引き裂かれたような、

 あの、恐怖に歪んだ顔が、目を閉じても見えている―――。

 ―――しかし壊れかけた彼の心を、叫びが繋ぎとめた。
「クリュウ!!!」
 首を向けるのさえ億劫だったが、それでも向けた。
 ―――全てから、逃げたくなる衝動を抑えて、…彼はその現実を見ていた。
 走る人影。
 そうだ。男は二人、いたんだ。
 一人は、死んで、死んでしまっても、
 もう一人、いる………。
 ゆっくりと確実に、クリュウの思考は刻んでいた。
 そして、ティントの悲痛な叫び声―――。
「クリュウ、助けて!!」
 そうだ、ティントは魔法が苦手だったんだ。
 しかし…どうする?
 また、また――――?

 先ほどの恐怖が、彼に一瞬の時間を失わせた。
 男が弓を構えて、狙いが少年を連れて飛ぶティントにあわされる―――。
 既に大きく揺れながらよたよたと走る少年にあわせて飛ぶティントに矢を当てるなど、たやすいことだ。
 男の目が、細くなっていく――――

 ―――ひゅんっっ!!!

 クリュウが、声にならない叫びをあげながら大地を蹴って飛んでいた。
「―――ティント!!!」
「妖精さん、あぶな―――!!!」



 ――――。



 …そのときのことは、よく覚えていない…。

 記憶が、もう一度それを再生するのを拒んでいるのか…、

 それとも、単に自分が思い出したくないだけなのか…。


 ただ…。


 気がついて、目の前にいたのは。
 静かに血を滴らせ広げる――――――少年、アッシュの姿―――。
 横でティントが何かを叫んだが、…既に何も聞こえなかった。

 風のない、暑い、暑い、日だった。

 少年は、飛んできた矢を、妖精のかわりにその身に受けて。
 仰向けに倒れて、血を流して、

―――それでも微笑んでいた。

「ようせ…ぃ…さ……」
「喋らないで! 今…今、治してあげるから…っ!」
 既に男は少年が死んだと思ったのだろう、舌打ちを一つ鳴らして、去った。
 ティントが涙声で血を吐くように言いながら、魔法を使う。
 しかし、それよりもクリュウは、その状況を思いがけないほど冷徹に判断していたのだ。
 矢のところから血液が勢いよく溢れている。…きっと動脈を、貫いたのだ…。
 出血の量で、既に助からないことが確定しているともいえた。妖精の使う魔法でも、限度があった。
「……あの…ね、」
「アッシュ……!」
 ティントがその体から想像もつかないくらいの涙を流しながら、少年の名を呼ぶ。
 誰の名でもない、そこにいる少年の名を、呼ぶ…。
「…ほかの…町にいっても…、どうせ……ぼく、生きて…いけないから………弱いか…ら……」
「そんなことない! 生きていけるよ、アッシュは強いもの! こんなところまで走ったんだよ? …ねえ、アッシュ! アッシュ!!」

 体中が、わなないていた。
 こんなことがあるはずがないと、どこかが否定していて、
 これが現実なのだと、知らない自分が笑っている。

 なにができる?

 自分に、一体なにができる?

 どうすれば、最良だという?

 自らの手で、人を殺めた。
 しかし、そこまでして守ろうとしたものは、―――もう、動かない……。
 何度も何度も少年の名を叫ぶ、このまま放っておけば死ぬまで叫んでいそうな、彼女の声が、遠い。

 罰、だ。
 これはきっと、罰なんだ。
 何も知らなかった自分への。
 何も知ろうとしなかった、自分への。
 耐え難い苦しみ、痛み、恐怖、不安、憎悪。
 二度と逃げることができない、深い深い落とし穴。


 ……今、出来ること。

 今、やって、後悔しないこと。

 彼に、してあげられること。


「………あ……」
 クリュウは、自分の手のひらを見つめた。
 指を、曲げた。
 そのまま、拳を握った。
 …歯を食いしばって、目を、閉じた―――。
「………ティント」
 自分でも驚くほどに、声はなめらかに喉を通る。
「……え……?」
 物言わぬ少年の片隅で、彼は言っていた。
 なんの理屈もなしに、それでも真っ直ぐに言っていた。
「…今から僕がすることは、完全な僕の独断で…、ティントは全く関係ないからね。いい?」
「え…クリュウ?」
「いいから返事して!!」
「…うっ……うん…」
 クリュウの剣幕に押されて彼女が頷くと、…彼は静かにまた目を閉じて、言葉を紡いだ。

 すらすらと詠唱が流れる。詠唱とは得に意味のないもので、術者の集中力を高めるだけのものなのに、まるでその詠唱から力が放たれるような気さえおこる…。
「我 精霊と天使の熱き血を受け継ぐ者 我 精霊と天使によりこの地に解き放たれた者…」
 静かに空気が、ざわめく。森が揺れる。
「我が心 世界の理をもって 輪廻への架け橋をつなぎ あるいはその力に逆らい…」
 ――――それを理解した瞬間、ティントの顔が真っ青になった。
「く…クリュウ!! ダメだよ、そんなことしたら……!!」
「我が力に命を吹き込み 我が力をもってして 今 我は禁忌の域にその足を踏み込まん…」
「クリュウ!」
 しかし、止まらない。彼の額から汗が噴出し、少年の胸の上におかれた手から何千、何万もの煌きが少年へと送り込まれる。
 悲痛な叫びに、涙がまじった。
「いや…っ!! クリュウ、だめだよ…だめ…!!」
 この世の流れに逆らう力が、流れにぶつかり、うねり、それでも幾度も幾度も衝突を繰り返す…。

 …静かに、禁忌の魔法は完成された。

「…今ひとたび、この者に命の息吹を………精霊の、御名において……」


 ――――音は、なかったのか、それとも大きすぎて聞こえなかったのか、わからない。
 ティントは思わず目を閉じて光が通り過ぎるのを待った。
 この世の光という光の全てがそこに集結したかのように、その場は膨大な量の光に包み込まれる―――。
 その色は白だったか黒だったか、……否、それは全ての色だった。
 そして、残酷な程に美しい、橙色の夕日が、静かに森を照らしている―――。



 …数秒、だったろうか。
 数分だったかもしれないが、…全てが終わったときには、既に少年の姿はなかった。
 クリュウは肩で呼吸をしながら地面にへたりこんでいた。
 ティントがすぐに駆け寄ってきて、噛み付くように肩を揺さぶって叫ぶ。
「クリュウ……クリュウ!! あなた…!」
「…大丈夫、もう町に送ったから…さ、」
「違うよ!! だって……禁じられてるんだよ…!? …移転魔法だって……、…それに還魂まで……っ!」
「ティント……、僕、はね……」
 視界がぐにゃりと曲がる。吐き気が、つんざくような吐き気が、胸を締め付ける…。
 …次の瞬間に、既に妖精の意識は途切れていた。
「クリュウ――――?」
 どさり、と受身もなく倒れた彼を、少女は抱きかかえて…その体の冷たさに絶句する…―――。
「クリュウ…? クリュウ!! しっかりして! クリュウ!!!」


 夕暮れの森の中、薄らぐ意識で思っていた。


 やっぱり自分は、本当になにひとつとして知らなかったのだと。


 ***


「…僕はその後、村に運び込まれてなんとか助かったけど…、法で禁じられていた、還魂と移転を犯した…つまりアッシュを生き返らせて、町まで送った僕は、裁判にかけられた」
 …森は、無音に静まり返っていた。
 まるでクリュウの言葉に耳を澄ませているかのように…。

「それで僕に科せられた罰が、300年の精霊界追放」

 誰もが黙っているのを見て、クリュウは軽くかぶりを振る。
「これでも随分温情があったんだよ。普通だったら極刑間違いなしなんだから…」
 …左手の腕輪に目を落とした。
 細かい装飾が施された、少し大振りの腕輪…。
 これが罪人の証。この腕輪には呪法がかかっていて、これをつけている限りは、精霊とも他の妖精とも、関わりをもつことができない。
「…なにも…悪いことしてないのに…」
 セルピの呟きに、クリュウは少し苦しそうに笑った。

「…でもね、これが現実なんだ」


Next


Back