-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 一.フローリエムの旅

008.南へ…



 旅人たちの朝は早い。
 そして旅人たちの朝が早いのと同時に、宿屋の朝も、早い。
「セルピ、朝よ」
 隣のベットですやすやと気持ちよさそうに眠るセルピにピュラはぴしりと言い放つが……、反応は見えない。
 呆れたように髪を軽くかき上げて、溜め息まじりにセルピの耳元に顔を寄せる。
「朝よ! 起きなさいっ!」
 ……返事は、なかった。
 相変わらず幸せの絶頂にいるかのような顔で眠るセルピの顔。
 ピュラは立ち上がって、ふう、と溜め息をつく。
 ――孤児院でも、小さな子の面倒はよく見たものだ。
 だから、彼女は『寝起きの悪い子の起こし方』を、――知っていた。
 ぱき、ぱき、と指を怪しく鳴らせ、腕を軽く振って準備は完了。
 にやりとその口元に笑みが走る――。
 ――がばっっ!!
 ピュラは猛然とセルピの胸倉を掴んでベットから引っ張り出した。
「大変よセルピっ! この世の終わりよ!!」
 がっくんがっくんと猛烈に揺らしてやる。
「う、うにゅ……?」
「大変なのよ! 空が落ちてきて津波が襲ってきてこーんな大きな生命体が次々と町を侵略しているのよ…! ああっ、ここももうダメだわ、ヤツが来る……っ!」
「や、やつ〜?」
 恐ろしい振動数で振り回されながらセルピは舌足らずの言葉を零す。――やはりまだ半分は寝ているようだった。
「そうよっ! ここはもう危ないわ、急いでっ! 大丈夫、私が食い止めるわ、あなたはとっとと――」
 そう言いつつセルピを掴んだまま部屋の扉まで走って、
「起きなさいッ!」
 ――外の廊下にボーリングの玉よろしく彼女を投げ出した。
「は……はにゃー……?」
 ぐるぐると丸まったままセルピは廊下を転がっていき――、

 がたがたがたがたっっ――!!!

 次の瞬間、豪快な音と共に突き当たりの階段をセルピは転げ落ちていった。
 その様子をきっちり確認すると、ピュラは何事も無かったかのように扉を閉めて軽く伸びをする。
 窓の外を眺めた。
 今日も、快晴のようだった。
 小鳥の美しい囀りに目を細める。
「んー、よしっと。朝の準備運動終了。今日もいい日になりそうだわ」
 ピュラはご満悦の様子で鼻歌まじりに旅の支度にとりかかるのだった。


 ***


 朝霧も少ないこの地方の朝は日が柔らかく、わずかに冷えた空気が心地良い。
 ここから南の古代遺跡ナチャルアに行くのには、まず大陸南端の町を目指すことになる。
 そしてとりあえず、そこまでセルピと共に行くことになっていた。
 冷たい牛乳に口をつけて、ピュラは机に座る他の三人を見回した。
 これがつい数日前までは一人きりで旅をしていたとは思えない。
 その上そのメンバーが、訳の分からない男に今では珍しい妖精、とどめと言わんばかりに見かけ幼女の天然ボケ少女と思うと――なんて奇妙な組み合わせかと思う。
「神妙な顔して風邪でもひいたのか?」
「おかげさまで心の病にかかりそうよ」
「そうか。大事にな」
 本気でこの男には立ち向かえないと確信する。
 横の席ではおでこに大きなタンコブを作ったセルピが唸っていた。
「にゅー……この世の終わりがー……」
「セルピ、変な夢でも見たの?」
「ていうかさ、そのタンコブどうしたの?」
「ベッドから落ちたのよ」
「でもボク、起きたら階段の下だった……」
「おいしいわね、このハムエッグ」
「話そらさないでよ……」
「あら、女将さんが早起きして作ったこの朝食に文句つける気?」
 至極の笑顔で言ってやるとクリュウも呆れたのかがっくりと肩を落とす。
 とんとん、と僅かな音がするかと思えば、スイが机に立てかけられた剣の柄を指先で軽く叩いていた。初めて会った時と同じ仕草だ。――癖なのだろうか。
「ここから次の町まではすぐね。明日にはつけるかしら」
 ピュラは言って窓の外に目を向けた。……雲一つ無い青空だ。ここは天気の変動が少ない地方なので、全く天候の心配はないに等しいといっていいだろう。
 朝食も早々と済ませ、4人は足取り軽く宿屋を後にした。


 ***


 暑い夏の日差しも朝方はまだ優しく、からりとした空気が心地良い。
 絶好の旅日和だと断言出来た。
 ――平地を歩くことに限定するなら。
 でろりと垂れ下がったツタで出迎えてくれた深い森にピュラは大粒の溜め息をついた。
「また森ね……」
 入り口の立て札を確認してから中に入ると、涼しいというよりも肌寒い……言ってしまえば薄気味悪い冷えた空気が辺りにのっぺりと横たわっている。
 しかも森の少ないこの大陸を渡ってきたことも重なって、更に気が重たくなる。
「わー、あの樹なんていうんだろー? ね、ピュラ、木登りとかしたいねっ!」
 一人、このように全く動じない強者もいたが。
「ちょっとは黙って歩きなさいよ……」
 流石のピュラも閉口気味に溜め息をつく。
「それにしても見るからに魔物とかでそうだよね……」
 空中を漂いながらクリュウがぼやくと、ピュラがふと何かを思いついたように顔をあげた。
「ねえセルピ」
「なに?」
「あなた、ここまで一人で旅してたのよね?」
「うん、そうだけど?」
「魔物とかに襲われたりしなかったの?」
「うん、したよ」
 ……沈黙。
 ざっざっという足音だけが空しく響く。
「――えーっと……」
 なんとかその間を取り繕うと、ピュラが言葉を濁した。
「にゅ?」
 変わってセルピは笑顔で首を傾げるのみである。
 こんな子が一人旅をすると考えると……、

 ……一人で森を歩いて、盗賊か何かに飴でつられて売り払われるとか、

 ……一人で森を歩いて、魔物に頭からばりばり食べられるとか、

 ――最悪、ちょっとしたはずみで沼にドボンでそのまま――。

「今お前、かなり失礼なこと考えてないか?」
「やだスイ、人の思考を読むのも程々にね」
「にゅー?」
「それでセルピ、あなたどうやって――」
 ――ぴくり。
 ピュラの足が、止まった。
 スイが何も言わずに剣の柄に手をかける。
 クリュウは情けない顔で溜め息をついた。
「嘘でしょ……まだ森に入ったばっかだよ」
「セルピ、下がってなさい」
「にゃっ?」
 先頭を歩いていたセルピがピュラに首根っこを掴まれて奥に押しやられる。
「……4匹」
 スイが呟いた。
 ぴんと張り詰めた空気に、気配が近付いてくる――。
「来た」
 刹那、クリュウの魔法が発動した。
 ぎゅん、と風が薙ぎ、空気が震える。
 切れた樹の葉が荒々しくけぶり、辺りを舞った。
 ――しゃぁあっっ!!
 その風を切って、スイの言った通りに獣が4匹前方から飛び出してきた。
 ぐるる、と喉を荒く鳴らし咆哮をあげる。
 ピュラの後ろにいたセルピが怖がる様子も見せずに呟く。
「わー、マチンタ・ペレラだ」
「は?」
「え、この魔物の名前だよ?」
 それがどうしたといわんばかりにセルピは首を傾げる。
「なんで知ってるのよ」
「前に図鑑で見たからだよ」
「なんで覚えてるのよ」
「えー、見てたからだよ?」
「なんで見てるのよ」
「んーと、おもしろそうだったから」
「なんでおもしろそうなのよっ」
「だって魔物の絵とかいっぱい」
「なんで魔物の絵がいっぱいなのよ!」
「えーと、図鑑だから」
「なんで図鑑なのよっ!!」
「ふにゃ〜」
 気がつけばピュラはセルピの首元を掴んでがっくんがっくん揺さぶっていた。
 はたから見ると情けないことこの上ない光景である。
「来るぞ」
「あーもうっ! どっからでもかかってきなさいよ!」
 素早くポーチからナックルを取り出して右手にはめた。
 龍流拳術は魔力を帯びた素手が相手即死の要となる。……故に何かしらの武具をつけるということは相手を気絶させるか逃がす為の手加減でもあった。
 人の二倍はあるだろう、巨大な灰色の獣が一斉に襲い掛かってくる。
 ――紺碧の髪が風になびいた。
 大気が唸り、魔物の血が飛び散る。
 瞬間、ピュラの肘が首に直撃し、魔物は気絶した。
 ただ、これが4匹ともなると厄介だ。
 ただでさえ人二人分ある魔物なのに、複数同時になるとは――。
 本当ならピュラも大きく動き回りたいところなのだが、セルピが背後にいるためそうもいかない。
 ばしゅ、と音がしたのに振り向けば、クリュウの魔法が炸裂したところだった。
 即座にスイの剣が振り下ろされる。すぐに剣を降って血を払い、スイの蒼い瞳が更に細くなった。
 ――仕方ないが、今はこの二人にまかせるしかない。
 突如、魔物の一匹が吼えた。
 太く鋭く、耳が壊れそうになるほど大きな音は森中に響き渡る。
 すると、一気に森中の気配がこちらに向くのがありありと感じられた。
「仲間を呼んだ……?」
「マチンタ・ペレラは複数で行動するけど、いざとなるとこうやって仲間を呼ぶんだよ」
「一々解説しなくていいわよっ!」
「弱点は冷気だけど……」
 ――ぴくり、と三人の耳が傾いた。
 ピュラの顔が、ぎぎぎぎと鈍い音をたてて振り向く。
「あんたねぇ……」
「にゅー?」
「それを早く言いなさいッ!! 一番肝心なところじゃないっ!」
「クリュウ!」
「うんっ!」
 クリュウの小さな腕から煌きが溢れ出す。
「大気に宿る名もなき唄を、風唄い、草木そよぐ……あるいは冷たき刃となりて、猛々しき唄をこの大地に――精霊の御名において」
 ―――ばうッッ!!
 一気に空気中の冷気が集まり、風の刃となって魔物たちを切り刻む。
 ある魔物はそのまま冷気にやられ、ある魔物は逃げ出してゆく。
「まだ来るぞ」
 森はただならぬ空気に包まれ、妙に静まり返る。
 そして無数のなにかがこちらに向かって――。

「精霊よ、久遠の流れにそむくものに、永久不変の戒めを……罪深き者を救い、裁定の時を与えたまえ――精霊の御名において」

 朝霧に包まれた泉のような、澄み渡った声。
 クリュウの声ではなかった。
 ピュラが、もう一度振り向く。
 集束する空気の流れが突如変わり、ある一点に絞られていた。
 セルピの差し出された手から、輝きが膨れ上がる。
 その光は閃光のように辺りに飛び散り、近くまで来ていた魔物たちを貫いてゆく――。

 ――そして、しばらくしてその光が止んだ時……、森の中は、静まり返っていた。


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