-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 一.フローリエムの旅

007.北から来た少女



 先ほど地図を広げていた席に座るのは、4人に増えていた。
 客人――ピュラが助けた少女は、ちょこんと行儀良く椅子に座っている。
 ……ピュラはいささか神妙な面持ちで話を切り出した。
「――で、あなたの名前は?」
「え……あ、うん。ボクはセルピだよ」
「ぼく?」
 ピュラは思わず聞き返した。おかしな一人称だ。このくらいの少女が普通使うものではないが――。
「……そ、それで何処に行くの?」
 少女――セルピは何度か目を瞬かせてから何の物怖じもなく言ってみせた。
「南。南に行くんだよ」
 ……南。
 あまりにも漠然とした答えにピュラが怪訝そうな顔をする。
「南? ……ってどの辺りの南よ」
「え――、南だよ」
「だから何処の」
「南の」
 ……不毛なやりとりだった。
「つ、つまりただひたすら南に行くと……」
 クリュウが呟くと、セルピはにこっと最上級の笑みを浮かべる。
「うんっ!」
 ここまで罪のない笑顔で言われると、返す言葉もなかった。
 ピュラは溜め息まじりに話しかける。
「ね、ねぇセルピ?」
「なに?」
「あなた、南に行くのよね?」
「うん」
「山があっても谷があっても魔物がいても鬼が住んでても南に行くのね?」
「う、うん」
「でもね、考えて見なさいよ。ずーーっと南に南に行くと……」
 刹那、クリュウの顔が凍った。
 しかしピュラは、その続きを言って、しまった。
「北のはじっこにでるわよ」
「あ」
 瞬間、熱い夏の空気が見事に極寒の境地へと変貌する。
 今にもブリザードが吹いてきそうだった。
 世界は丸い、――その時ほどその常識が哀しいと思ったときがあったろうか。
 セルピは口元に手をあてたまま、暫く目を丸くさせ……、また首を傾げた。
「そうだった! どうしよう……」
 ピュラとクリュウは、コケた。
「あーなーたーね!! そのくらいも気付かないの!? もう何歳になるのよっ!」
「え、14歳……」
「なんだってーーーーー!?」
 クリュウが叫ぶ。ピュラにいたっては、あんぐりと口を開いたまま言葉もでないようだった。
 背も話し方も表情も、すっかり10歳程度にしか見えなかったのだ。
「ま、待ちなさいっ! 14ってサバよむのも程々にしなさいよっ」
「うにゅう?」
 本人は大きな瞳で首を傾げるばかりだ。
「ほ、本当にあなた14なの……?」
「うん!」
 唖然としながらもう一度頭の上から足元まで見渡してみると…北の地方のものが持つ独特の黒髪と厚い布で作られた服が印象的だった。
 しかし……やはり見れば見るほど14歳には見えない。せいぜい10歳程度が丁度いいだろうか。
 そういえば、とピュラは思う。
 こんな小さな子が、たった一人でこんな所まで来れるのだろうか。
 人を襲う魔物が少ないとはいえ、北の大陸からここまで来るのに度々襲われることだろう。
 治安だってこの時世の中、あまり良いとはいえない。
 それを、こんな幼い、しかもぼーっとしている子がどうにかできるものなのだろうか?
「……それで、これからどうするつもりなのよ」
 ピュラが呆れ混じりに言うと、セルピはゆっくりと考えてうん、と頷く。
「とりあえずまだ南に行くよ」
「何か目的とかはあるの?」
「もくてき……?」
 セルピはまた首を傾げて考え込む。
「うーん、わかんない」
「単純明快な答えをありがとう……」
 ピュラは肩をわなわなと震わせながら言う。
「でも――南って、僕たちと同じ方向じゃなかったっけ?」
「え、皆も南に行くの?」
「そうだよ」
 クリュウが返すとセルピは目を何度か瞬いて――突然意を決したように聞いてきた。
「ついてっていい?」
 ………。
 ピュラとクリュウが揃って、止まる。
「は?」
「へ?」
「うにゅ……一人で旅するの淋しいと思ってたから……だめかな?」
「えっ、あ…別にいいけど? でもいいの? こんな羽虫のいるメンバーに……」
「ピュラ、何処に羽虫が……」
「あーら失礼。可愛らしいハエさんだったかしらね」
「にゅー?」
「だーっ! 話がまとまらないよっ!」
「ということでセルピ、私はピュラよ。とりあえずこの大陸の南端まで、よろしくね。こっちはクリュウ」
「わあ、そういえば妖精さんって見るの初めてー!」
「おめでとうクリュウ、あなたを妖精よばわりしてくれる人が出来たわよ」
「よばわりじゃないっ! それが言われるべき名称!」
「―――ちょっと待った」
「にゅ?」
「ん?」
 ピュラの一言で盛り上がりが一気にしぼんだ。
 彼女は突如神妙な顔つきになってぴん、と人差し指を立てる。
「なんかさっきから一人、会話に参加してない人がいる気がするんだけど」
「……」
 三人が押し黙って、…ゆっくりとぎこちなくその人の方に顔を向けた。
 視線の先には、スイがぼんやりと焦点の合ってない目で座っていた。
「……ちょっとスイ、聞いてるの?」
 ピュラがスイの顔の前で手をひらひら振っても、――反応は、ない。
「ど、どうしたのよ……」
 恐る恐る顔を近づけると……。

 スイは、目を開けたまま寝ていた。

 バゴォォンッッ!!

 スイの体が見事かつ完璧な弧を描いて、舞った。
「う、うわっ! スイ、大丈夫!?」
「大丈夫よ。ちょっとモーニングコールしてあげただけだから」
 熱くなった拳に息を吹きかけながらピュラが天使の微笑みを浮かべる。
 ……モーニングコールの前に永遠の眠りにつきそうな音だったが。
「ほら、とっとと起きなさいよ」
 ピュラにせかされてスイはむくりと起き上がると、ぼりぼりと頭をかき――。
「……ここどこだ?」
「………」
 もはや、かける言葉もでなかった。


 ***


「……で結局セルピは僕たちについてくるんだ?」
「うん。あ、迷惑かな……」
「そんなことないわよ」
 どうしても幾つか年下の子を甘やかしてしまうのは昔からの癖だ。ピュラは自分より顔一つ小さいセルピの頭をくしゃりと撫でる。
 食堂を出たときはもうすっかり夜になってしまった。
 夏の生ぬるい空気が落ちた、まだ町にざわめきを残す夜だ。
「私が許すわ。あとの二人は拒否権なし」
「うにゅう?」
「どうせ行く方向が同じなんだから、一緒に行くことになるだろう」
 スイがもっともらしいことを言う。確かに同じ町を目指して町を出るのなら、行く先々で会うことになるのは必然になるだろう。
 それに、こんな小さな少女を一人でほっぽらかして夜に安眠できるほど彼らは能天気でもなかった。
「とにかく、そういうことで改めてよろしくね、セルピ」
「うんっ、よろしく!」
 にこにこと幼い笑みを最大限にふりまいてセルピはぺこりと頭を下げる。
「それじゃ、今日のところは宿に泊まりましょうか」
 ピュラは軽く笑って歩き出した。
 明日はおそらく朝一番で町をでることになるだろう。それなら今日はゆっくりと体を休めるに限る。
 旅人たちがその身を休ませる、宿屋に向かって――。
 酒場の喧騒から逃れるようにその気配に背を向ける。
 てらてらと、人工的な橙色の光に彼女の自然な色合いの瞳が照らされていた。


 ***


 宿屋は古くからあるのか、天井は黒ずみベットは少しでも動けばぎしりと音をたてる。
 しかしだからこそ、そこにある温かみが懐かしく思えてしまうのもまた事実。
 そういえば、二人部屋で寝ることなんて何年ぶりだろう。
 ――前はもう……6年前になるか。
 まだ自分の師と共に旅をしていた頃、まだ自分が幼かった頃――。
「……今頃あの人どうしてるかしら……」
「にゅ? どうしたの?」
「え? ……あーなんでもないわ」
 宿屋の一室で、セルピと二人。
 ピュラはベットに腰掛けて手鏡を見ながらふと視線をあげると、……セルピが彼女のベットの上でその様子をにこにこ笑って見つめているのに気付いた。
「……どうかしたの?」
「え、ううん――ボク、お姉ちゃんが前から欲しかったんだ。だから嬉しくて」
「へえ、兄弟とかいなかったの」
「うん。ボク一人っ子だったから。……ピュラは?」
「私は――」
 ピュラはふいと笑って目を横に泳がせる。――その瞳には僅かに寂しい表情が差し込めていた。
「いるのかどうかも分からないわ。孤児院出だからね」
 するとまるでピュラの真似をしたかのようにセルピも哀しい顔になって首を傾げる。
「――家族とか、探そうって思わないの?」
「そうねー……でもなんでか会いたいって思ったことないのよ。仮にも親は私を捨てたんだし。私も一人でとりあえず生きていけるし」
 そう言いながら緋色の髪をゆっくりとかきあげる。豊かな髪はランプに照らされて橙色にも見えた。
「で、……あなた両親とかは?」
 ――その瞬間、たった一瞬……そう、本当に刹那のことだったが、セルピの瞳が揺らいだのに、ピュラは気付いただろうか。
 セルピは暫く視線を泳がせた後…僅かにそれを床に落としてぽつりと呟く。
「……――今は、会えないんだ」
 僅かながらに先ほどとは声が違っていた。一瞬だけ、彼女の幼い姿が14歳の世間の分別もつくようになった少女に変わったように見えたのは、気のせいだろうか?
 静かな静寂が、落ちた。ピュラの橙色の瞳がランプに揺らめき、すいと細くなる。
「――別に深いこといいたくないならいわなくていいわよ。私は細かいことは気にしないしね。ほら、もう寝るわよ。明日も早いんだから」
「う、うん……っ」
 セルピはこくりと頷いてそそくさとベットに入った。
「灯り消すわよ」
「うん」
 ランプを吹き消せば、町の中心からは離れた静かな場所にあるこの宿屋は暗闇に包まれる。
 ピュラは暫く静寂に耳を澄まし――、ベットに身を投げ出した。
 ただ、瞳は閉じないまま。
 瞳は閉じても閉じなくとも静寂の闇しか映さない。まるで、このベットの感触がなければ自分の存在をも忘れてしまいそうになるくらいに――。
 彼女はそっと右手で左手首を撫でた。
 そこにはずっと包帯が巻かれっぱなしになっている。
 呪われた刻印、死へのタイムリミット。
 ――それ全て、今日たった一日で起こったこと――。
 たった一日。そう、一日はある時は嵐のように過ぎ去るかと思えば、ある時は千秋を過ごしたように永い。
 今日あったこと――ぼんやりと思考を巡らせる。
 一年後の死を告げられても、何も感じなかった。そうだ、何も思わなかった。
 ――それは現実であり、私はその中で強くあるべきなのだから。
 前からそうだ。孤児院に預けられたことも、町が炎に包まれたことも、
 そしてその後、スラムの道端でいつ死ぬかもわからぬ生活を強いられたことも――、
 ――それは現実であり、私はその中で強くあるべきなのだから。
 ぎゅ、と左手首を握り締めた。
 いいではないか、受けてたとう。この呪いを自分の力で解いてみせる。
 自分の強さを信じているのだから。ここまで死ぬ思いをして、血を吐くような思いをして生きてきた、強さがあるのだから。
 怖がってはいけない、どんな波の中でも強く生きねばならない。
 この時代に生きるには、強くあらなくてはならないのだ。弱いものはただ死んでゆくのみなのだから。
 ぼんやりとセルピの笑顔が頭を過ぎった。
 彼女もきっと、強いから生きているのだ。それはスイもクリュウも同じこと。
 突きつけられた現実の中で、自らの身を守り、自らの足で立って。
 ――だから、だから――。
 瞳を閉じると、案外と眠気はすぐに訪れてくれた。
 明日の日は長いのか短いのか、それは彼女にはどうでもよいこと。
 ただ彼女はそれがどんな日だとしても、その足で立ち、前を向いて歩んでゆくのだから――。

 ゆるやかに、夜が落ちていった。


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