『あなたは死んではならない』


 静かだった。全ての命が死に絶えてしまったかのように、日没後の夜闇は沈黙を守っていた。
 けれど、耳を澄ませば内側から聞こえてくる。剣戟の甲高い金属音、激発する魔法の轟き、降り注ぐ弩弓の唸り。人々の悲痛な悲鳴。何度も何度も反響する。
 全てが終わった静けさは、連綿と続く現実の残酷さを知らしめてくる。戻らなかった忠臣、そして多くの仲間たちと兵士の命。たった一言、自分の号令の下に死んでいった者たちは、どれほど詫びても戻ってこない。そしてどれほど自分を責めても、身体は当然のように空腹を訴えて生きようとする。
 リーフは寝台に伏せていた身体をゆっくりと起こした。涙が幾重にも伝った頬が、乾いてぴりぴりとする。用意されていた湯は水になっていたが、冷たいそれに布を浸して、鼻を啜りながら顔を拭いた。横にあったパンを一切れ口に入れると、途端に飢えがたまらなくなった。
 貪り食らうと、皿の上のものがなくなった様を見て、後悔する。自分に生きている価値などない。先ほどまではそう思っていたのに。
 惨めで、悔しくて。けれど同時に、それでも前を向かなければならないことも知っていて。
「なんで王子になんか生まれたんだろうな」
 呟いて顔を覆う。臣下の前では口が避けても言えぬ言葉だ。多くの者が命を張った結果、リーフは生きていられるのだから。
 けれど、だからといって飲み込める辛さではなかった。
 帝国への憎しみを剣にして振るうことにためらいなどなかった筈が、その数多の命を背負う剣がいかほどに危ういものか、思い知ってしまった。
 そして自分が背負っている命――仲間たちは、これからどんな顔を自分に向けてくるのだろうか。ただ、恐ろしくなる。

 夜の帳に包まれた部屋を出ると、灯りのある廊下の眩しさに思わず目を庇った。
「リーフ様」
 立ち上がる気配があり、手をどけるとフィンの不安げな表情がある。それまでも、フィンは必ずリーフの部屋の脇で槍を携えて眠るのが常であった。あれだけの悲劇があった日にも関わらず、フィンはその習慣を守っていたのだ。
「どうされたのですか」
 気遣わしげな声に、情けなくなる。
「外の風を浴びてくる」
「お供をさせていただけますか」
「……」
 レンスターが墜ちた時から片時も離れなかった臣下の言に、リーフはこくりと頷いた。正直、フィンが変わらぬ態度で接してくれることに安堵していた。そして、そんな自分が、また一つ嫌いになった。
 外に出ると、冷たい風が闇の奥から吹き付けてきた。レンスター城の屋上は、今だ戦火の傷が癒えぬままである。急ぎ守りを固めねば、瞬く間に潰されてしまうだろう。
 なのに自分は目の前にいる民を救うために無理な命令を下し、結果として多くの民と兵士を殺してしまった。
 リーフは冷気に身を浸し、目を閉じた。外衣がはためき、髪が遊ばれる。どうして自分だけが、こうして安全な城の中で守られているのだろう。
「リーフ様、少々お話をよろしいでしょうか」
 どれほどの時間が経ったか、ふと後方からフィンの呼びかけがあった。
「なんだ、フィン」
「私がキュアン様の戦死をレンスターで聞いた折の話です」
 リーフは目を瞬く。それまでもフィンはリーフの父母の話を折につけて話してくれたものだった。しかし、フィン自身の話をするのは珍しかった。
「ああ……続けてくれ」
 振り向いてそう許すと、フィンは目礼してから続けた。
「その報は、私が城の警備についていたときに突然齎されました」
 語り口は淡々としているが、事実の重さは長年を戦った彼の横顔が何よりも物語っている。リーフは一つ頷いた。
「そのとき私の心に沸いた感情は、何故キュアン様をお守りできなかったのか、何故キュアン様が亡くならねばならなかったのか――そんなものではなかったのです」
 槍を携えたフィンの外衣が風で広がる。雲の多い夜にあって、フィンの佇まいは闇に溶けてしまいそうだった。しかしフィンは、ゆるりとリーフの瞳を見た。

「何故、私はキュアン様のお傍で死ねなかったのかと考えていました」

 リーフは呆然とフィンを見上げた。
 感情の起伏の少ないフィンが、唯一微かな憧憬を込めて語るのが父キュアンの話であった。直接槍の指導を受けたこと、遠征の供をしたこと、騎士に引き立ててもらったこと――。リーフはドリアスやセルフィナにも聞いたことがあった。キュアンに仕えていた頃のフィンは、控えめだが笑いも怒りもする、普通の少年であったと。
 しかし父は、フィンを国に残したまま砂漠に散った。その時、フィンは――。
「レンスターの騎士でありながら、リーフ様のお傍に侍りながら。私は、どうして死すことができなかったのか。そんな騎士としてあるまじき考えに支配されていたのです」
 自嘲を込めて、フィンは語る。そしてそれは、今のリーフも同じだ。
 アルスターへ出撃したドリアスたちは、リーフの手の及ばぬ所で死んでいった。本当なら、リーフも共に戦って死にたかった。
 何故、散っていく仲間と共にあれなかったのか。
 激情に刃を震わせながら仲間と共に死んでいくならば、どれほど幸福であったか。
 愚かな考えと思っても、止めることはできない。その想像は、あまりに甘美すぎて。
「フィンは、……フィンはどうやって前を向いたんだ」
 問うと、フィンはゆっくりと隣まで歩いてきて、城壁に手をかけた。遥かな地平線は、今は闇に落ちて見ることができない。それを見極めるように、フィンは目を細める。
「当時は酷いものでした。出仕を拒否し、セルフィナには説教を受け、グレイドに殴られ、恐れ多くも王から直々にお言葉を頂き、ようやく平素の生活に戻りました。しかし、長らくその思いから解放されることはありませんでした」
 傍にいる仲間は、確かに己を支えてくれる。だが自身の思いが立ち消えることはない。リーフは頷いた。
「ならばフィンは、まだ同じ思いを抱いているのか?」
「完全に消えたわけではありません」
 フィンはぽつりと呟いて、こちらに顔を向けた。
「しかし、リーフ様。その思いから解放されたと感じた瞬間は、確かにありました」
 そして、微かに頬を緩ませ、言葉を継ぐ。
「覚えていらっしゃいますか。マンスターから脱出されたあなたに、死ぬなと言われた時です」
 冷たい風が頬を叩く。忘れることなど出来るものか。エーヴェルを失い、死ぬもの狂いで敵地から脱出して、ようやくフィンと再開した時、リーフは思わずそう言った。もう大切な仲間をそれ以上失いたくなかったからだ。今考えると、なんと幼稚で愚かな願いであることか。
 しかしフィンは噛み締めるように槍を握り直す。僅かに顔を伏せたフィンは、静かに口を開いた。
「臣下として千万の不敬を承知で、戴いたお言葉をお返しします。リーフ様」
 その瞳がこちらを捉える。大きな影。輪郭は僅かな光に照らされて。夜の風が、灯火のついた心を震わせる。

「あなたは、死んではなりません」

 はっきりとした命令に、脳髄を灼かれるようであった。
 ただの身勝手から発せられた願い。それがどれほど重たい楔となって心に打ち込まれたか。そして、それがどれほどの希望となって心に光を与えるか。
「あなたは私の光なのです。私の胸に宿る導を絶やさぬよう、何があっても、何を犠牲としても、あなただけは生き延びてください」
 アウグストの言葉が、頭の中に巡る。何故そこまでして生かされるのか、人を殺して何故英雄と呼ばれるのか。その意味を考えろと。
「……分かった、分かったよ、フィン」
 高いところにある顔を見上げて、リーフは唇を歪めた。
「フィンの望みは絶対に叶える。僕は死なない。帝国を打倒してレンスターを再興するまで。何があっても諦めずに生きる」
 それは今までに口にしたどんな言葉よりも重たく、紡ぐのが辛かった。これからもリーフの号令の下、臣下は死んでゆくのだろう。リーフは彼らと共に散る妄想に囚われながら、それでも先へ進まねばならない。
 けれど、これだけは許されるだろうかと。
「そして僕はこう考えている。フィン」
 リーフは眉を下げて微笑んで、フィンを見上げた。
「お前が死なずに生きていてくれて、本当に良かった」
 フィンの表情が闇夜に翳る。そのままフィンは臣下の礼に則り胸に手を添えて頭を垂れた。自分が彼に告げたそれは呪いだったのかもしれない。生者をこの世に縛り付ける呪い。しかし、同時にそれは生きる理由にもなりうるのだと、残酷で優しい現実に、リーフは唇を噛み締めた。
 明日から再び戦いが始まる。今までにない絶望的な戦いが。
「行こう、フィン」
 しかしそこに、死ぬという選択肢は、ない。