『夜明けの祈り』

あの人が亡くなってから、どのくらい経ったのでしょう。今日も空は青く、雲は流れ、命が続いていくのを感じています。それだけはあの頃とちっとも変わっていません。
あの人のことを思い出すのはとても辛いこと。だけれど、それと同時にとても暖かいこと。だから私は今日も、あの人のことを思い出すのです。
その人はまるで硝子のようでした。それでいて、陽だまりみたいな人でした。
そう、その人は、人間でした。人間は100年たらずで死んでしまう種族です。幾千の年月を越えていく私たちにとって、100年とはあまりに短い。だけれどそれが、私の永遠でした。
その人は、本当に優しくて。涙がでるほどにあたたかくて。誰もがその人のことを好いていました。
もちろん、私も大好きでした。愛している、そういう表現もあるかもしれません。私はいつだってその人の傍にいたかった。そして、その人が人間であることを恐れ、憎みさえしていました。
その人が私と同じ種族だったら。幾度も夢想しました。きっと、胸に抱く宝石は名前などがつけられた石ではないと。誰よりも、何よりも気高く、そして優しく美しい石を抱くのだと、私は思っていました。
だけれど――そんな石など、現実にはどこにもないように。その人は人間として、生きていきました。恐ろしかった。私は変わらない。変われない。まるで世界がそうであるように。雲がこうして流れるように。私は、変わることができない。私の胸に抱かれた真珠は、いつまでも永遠の煌きを宿している。あの人は、永遠ではない。そう、自分に信じ込ませることが私にはできませんでした。
そうして無慈悲に時は流れて、その人は老いて、そのまま息を引き取りました。でもその人は最後まで年をとらない私を羨んだりはしませんでした。
――それはまるで、瞬きを一度しただけの時間。私と彼が共有したのは、たったそれだけです。彼は英雄と呼ばれていました。今でも彼の名は歴史の一部として、おとぎ話のように語られています。私も、新しく生まれ落ちた同じ種族の子らに、よく彼のことを訊かれます。彼はどんなことをしたのか。私たちが見習うべきこと。彼の佇まい。私はそれらをうまく説明しようと、いつも彼のことを思い出そうとするのです。彼の横顔を。彼の言葉を。彼の笑顔を。ただぼんやりと前だけを見つめていた私に手を差し伸べてくれた彼のことを、思い出そうとするのです。
しかし、記憶は長い年月を経てすりへって。二度と忘れないと思った、遠くを見る横顔も。いつだって私の心を包んでくれたやわらかな言葉も。そして、不意にみせる子供のような笑顔も。思い出そうとすればするほど、ぼやけてしまうのです。時は、あまりにも残酷だった。私はもう、あの人のあの姿を、ただの影としてでしか記憶していません。そして、あまりに幸せであまりに恐ろしかったあのときの思い出も、今となってはどんなに頑張ってもほんの少ししか思い出すことができないのです。世界は変わらず、だけれど動いていきます。前まではその人の話などを仲間としたものですが、それももう過去のものになりました。誰もがその人のことを忘れたわけではありません。だけれど彼は、過去の人なのです。
でも、だけれども。こんなことを言ったら笑われるでしょうか。私は、彼が、その人が、まだ死んでいないように思うときがあります。たとえば今のように朝日を一杯にあびた空を見上げたとき。夕暮れに、誰もいない道でふいに風に吹かれたとき。私は誰かに呼ばれている気がしている。彼が、当たり前みたいにそっと隣に何も言わずにいてくれる、そんな気がするのです。
もう、彼の家はありません。双子の魔法使いは、世界へと旅立ちました。彼が可愛がっていた魔物たちは皆、野に帰っていった。豊かな実りをもたらした大樹は彼の死と共に物言わぬ木に戻り、彼の家を守るように抱いていた木も、役目を終えたかのように枯れてゆきました。
彼が亡くなったとき、私は悲しみさえ感じることができなかった。ただ、穴があいたような、そんな気がして。泣いている知り合いを、じっと見つめていました。きっと私はそのときに、こう思ってしまったのです。――彼は、世界へと還っていったのだと。
人は死んだらどうなるのでしょうか。彼の魂は何処に行きついたのでしょうか。――だから、私はそう思うたびに、腕を一杯に広げてみせる。あの人がこの腕の中に帰ってこないかと、私は夢想して。それが私の思い込みであることを知りながら、それでも手を広げる。
風はすり抜けていきます。もう、誰も話しかけてくることはありません。
今日も都市は平和です。穏やかに日常が繰り返されてゆきます。パートナーはとても優しいです。笑って、泣いて、日々は過ぎてゆきます。
私のことを幸福と呼ぶか不幸と呼ぶかは、人によって違うでしょう。何故なら私だって自分のことを幸福だとも思うし、不幸に思うこともある。ああ、そういえば彼に幸せの意味を尋ねたこともありました。その答えは何だったでしょうか――。あまりに遠い日のことで、よく覚えていません。
でも、私は知っている。彼の生を。彼の、彼という存在があったということを。その紛れもない時間を、私は共に生きていたのだと。
私もいつか、いつか、――途方もない長い年を必要とするかもしれない、でも明日かもしれない。滅びの時はやってくるのでしょう。終わりは、必ずやってくるのでしょう。その時、私はきっと恐怖に震えるでしょう。終焉を恐れて、泣き叫ぶのでしょう。
でも、きっと。きっと、その先に彼が待っていてくれる気がするのです。あの時と同じ顔をして、抱きしめてくれる気がするのです。――彼は、世界そのもののような人だったから。
ああ、もう時間がきたようです。私を呼ぶ声。今日も私は私として生きてゆかねばならないのでしょう。ならば生き続けましょう。長い年月の先、いつか眠るその日まで、彼がそうやって生きたように。
私も生き続けましょう。
また、一日が始まっていきます。


どうか――お兄様。私が眠りについたその時は、一杯に抱きしめて、「がんばったね」と言ってください。あなたという奇跡にであうことのできた、この私に。



真珠より、もういないあなたへ。