佳き日


「お父さま!」

 この呼ばれ方に慣れて、もう何年が経ったのだろう。
 振り向いたフィンは、目を輝かせて駆け寄ってきたナンナを見下ろした。

「戻ってきていたのか」
「はい、ついさきほど。今日はお母さまもいらっしゃると聞いたので、すこし馬に無理をさせてしまいました」

 そう笑うナンナは二十歳を越えても、母より背が低く、線も細い。しかし一方で、周囲に振りまく明るさは母以上のものがある。
 ここ数日も、半島内の孤児院を視察して回っていたと聞いている。その愛くるしい容姿にも関わらず、自ら馬を駆って悪路をものともせず辺境にまで赴き、孤児の救済に尽力する彼女は、プリンセス・ナンナの愛称で民に深く慕われていた。

「相変わらず、忙しくしているな」
「ふふ。残念ながら、刺繍とお茶会の得意な深窓の王妃さまには、なれそうにもありません。なんせ、育てた人が人ですから」

 ナンナは得意げに言って、荘厳な新トラキア王国宮殿の中で王妃が着るには地味ともいえる服の裾を払った。新トラキア王国の国王夫妻の庶民ぶりは、他国に対し格好がつかないとアウグストの頭を悩ませるほどであった。

「お父さまは、お母さまと一緒ではないのですか?」
「私はグレイドのところに用がある。ラケシス様なら、庭でセルフィナと会っていらっしゃるだろう」
「あっ、なら、すぐに行かないと、ふたりで遠乗りに出てしまうかも」

 口元に手をやったナンナは、きょろきょろと視線を泳がせた。慌ただしい日々の中で、母に会う機会を心待ちにしていたのだろう。
 ナンナは一瞬だってじっとしていないんだから、と頬杖をついてぼやく王の顔が、ふと思い出される。
 優しく、他人の心の機微に敏感で、それでいて強い意思を心に秘めた王妃に対する、愛情のこもった批評であると、フィンもまた思う。

「…………」
「どうした?」

 フィンは、ナンナが真顔でこちらを見上げていることに気づいた。
 問うと、暫しの沈黙の後に、――ナンナの頬が上気し、表情が春の訪れのように花開く。
 ぱん、と手を打って、ナンナはもう一歩詰め寄ってきた。

「そうです! お父さま。今度の宮中晩餐会は参加されますよね?」
「……その予定だが、どうかしたのか」

 突然の話題に意図がつかめずに返すと、ナンナは満面の笑みを湛えて言った。

「お母さまと踊ったあとは、わたしと踊っていただけませんか?」
「…………」
「お願いです!」

 きっと自分の顔は、強烈に引きつったのであろう。いまだにフィンは、人前で踊ることに慣れない。ラケシスと踊るのだって、可能ならば遠慮したいくらいだ。
 だが、見開かれたナンナの瞳は切実だった。断れば涙をこぼしそうな勢いだ。
 何拍か呼吸を止め――ため息とともに、フィンは折れた。

「一曲だけだ」
「――! 本当ですか!? うれしい! お父さまのために、とっておきのドレスを着てきますから、楽しみにしていてください。じゃあわたし、庭に行ってきますね!」

 夫が聞けば苦笑いするであろうほどに喜ぶと、ナンナは一礼をしてから若鹿のような足取りで廊下を去っていった。
 半ば呆然とその姿を見送ったフィンは、ゆっくりと首を振り、ナンナとは逆方向に歩き出した。



「まったく、見れば見るほど良いご身分だな。すこしはこちらの身になって苦しんでみるのはどうだ」
「私はリーフ様に与えられた職務に従うまでだ」
「……いけしゃあしゃあと言ってくれる」

 じろりと睨みあげてくるグレイドを無視して、フィンは彼の対面に腰掛けた。
 新トラキア王国の大将軍となったグレイドの執務室には、足の踏み場もないほどの書類がうず高く積み上げられている。
 それほどまでに、新しい国の軍の運用は困難を極めていた。長年の戦いによって膨らみすぎた軍備と軍事費の整理。新たな国境防衛の整備。さらには、荒廃した国内の治安回復。種々の課題の解決を申し遣ったグレイドは、白髪の増える日々を送っている。

 そんなグレイドが、フィンに恨み言を言うのも無理はない。当初、新トラキア王国の大将軍の座は、フィンに与えられるものと思われていたのだ。
 しかしフィンは、王国の設立とともに姿を消した。王宮に戻ってきても、小さな土地の領主に収まっただけで、軍とは時折指導者として訓練に赴く程度にしか関わっていない。

 理由はフィンの姻戚関係にあった。義理の繋がりとはいえ、王妃の父親が国家の要職に就く前例を作るべきではないと、リーフが自ら断じたのだ。フィンもまた、王の判断に従った。大仕事をフィンに押しつけられると期待していたグレイドは、壁を殴った。

「大体な、貴様は自分の年齢を自覚しているのか。読書と思索だけで暮らすには早すぎるぞ。貴様の頭がぼけたら、私は一番に見放すからな」
「文句を言うためだけに呼びつけたなら、帰るが?」
「ぐっ……」

 言葉に詰まったグレイドは、苦虫を噛み潰したような顔で、フィンに紙束を渡してきた。受け取った書類には、かつてのマンスター地方とトラキア王国の国境付近や、東海岸沿いの辺境の治安回復の施策案が書き連ねてある。

 元々、これらの地方は各国に見放されていたため、盗賊どもの跋扈する無法地帯と化していた。そこでグレイドは、平定のためにフィンの助言を度々乞うたのである。フィンは放浪時代、このような地域を嫌というほど渡り歩いており、見識が深かった。いまも、フィアナ村や紫竜山の住人とは懇意にしている。

 机に半島内の地図を広げ、しばらくフィンはグレイドと議論を繰り広げた。時刻を知らせる鐘が聞こえてくるころには、大量の書きこみが地図に成され、覚書が数枚に及ぶようになっていた。

「……これをすべてやれというのか。なあ、フィン。私が過労死したら墓にはこう書いてくれ。あとのことはフィンという名のバカにやらせろ、と」
「なにもすべてを一人で背負いこむ必要はない。ゼーベイア将軍やハンニバル将軍がお力添えをくださるだろう」
「心強いのはいいのだが、あの方々はあれで固すぎるところがあるからな……」

 彼が年長者に対するぼやきを漏らせるのは、フィン相手のときだけだ。うなずいてやると、グレイドは組んだ手で口元を隠しながら、そういえば、とつぶやいた。

「来週、晩餐会に合わせてアルテナ様がいらっしゃるらしい」

 アルテナは、新トラキア王国の設立後も、旧トラキア王国の城に身を置き、南方の統治に専念している。リーフとの微妙な不和は表立っていないものの、二人が対面する機会はいまだ少ない。アリオーン王子の件についても、まだ解決はしていないようだ。

「リーフ様のお達しでは、城内の警護は普段どおりで良いということだが……緊張はするだろうな」
「それでも、来てくださるだけ前進している。前は、正式な行事にしか顔をお出しにならなかった」

 グレイドは難しい顔をしているが、それでいいとフィンは考えている。
 あの姉弟の間柄を、上辺だけの関係と案じたり、揶揄する人間はいるかもしれない。しかし、そんな者どもの想像の範囲をこえるほどに、姉も弟も賢く聡明な人格者だ。時の流れとともに、ひとつひとつ折り合いをつけていくだろう。
 そう。リーフもアルテナも、あの背筋の伸びた主君と優しい妻の間に生まれた子供たちなのだから――。

 つとフィンは、グレイドが目を剥いてこちらを凝視していることに気がついた。

「どうした」
「…………」

 グレイドは、しばらくの沈黙の後、無言で髪をかきまわした。そうして、ため息をつくように言った。

「……存外、平和ボケも悪いことばかりではないのかもしれないな」
「なんの話だ?」
「独り言だ。そら、さっさとリーフ様に挨拶をして帰れ。私は貴様と違って多忙なのだ」

 しっしっ、とぞんざいに手を振られる。だが、そんなグレイドの口元は、わずかにだが、嬉しそうに笑っているように見えた。
 首をかしげながら、フィンはグレイドの執務室を後にした。



「私もラケシスたちと遠乗りに出たかった。アウグストめ、いつかこっそり抜け出してやるぞ」

 談話室のテーブルには、かぐわしい湯気を立てる紅茶と、細工物のような菓子が並んでいる。しかし、そんな見目美しい茶道具も、リーフの目には、土くれ程度の価値にしか映っていないようだった。背中を丸めてうなだれ、心の底から嘆息している。王国宰相に、女性たちとの外出を止められたためである。

「……一国の王ともあろう方が、その日の気分で城を開けてはならないと思いますが」
「フィン、おまえまで皆と同じことを言うのか」
「それに、そうやって宣言せずとも、度々、城を無断で抜け出していると聞いています」
「……。民の暮らしぶりを、自分の目で見るのは大切なことだろう」
「リーフ様は、ターラにいたころから、屋敷を何度も抜け出されていましたから。いまさら癖が治るとも思っていませんし、わざわざ小言も申し上げません」
「…………」

 リーフは、唇をへの字に曲げ、気まずそうに紅茶を口に運んだ。

「まったく、おまえに口では敵わないな。それより、フィン。この前の話だが」

 グレイドと同じように、国内の政務に関する相談を、しばしばリーフはフィンに持ちかけてきた。いまでも、フィンはリーフの命で非公式の任にあたることもある。
 手紙や書物を並べ、いくつか細々としたことを確認すると、リーフはわずかに眉を落として言った。

「……あの絵画については、すまないことをした」

 リーフの言う絵画とは、アルフィオナ王妃が残したキュアンとエスリン、アルテナのものである。
 当初はリーフの国王就任3年の記念として、新トラキア城の目立つ場所で公開される予定であった。しかし、南北対立の象徴ともいえるイード砂漠での惨劇を想起させるとの意見がいまだ強く、提案が取り下げられたのである。
 結局、絵画はそれまでと同じように、リーフの自室の奥の間に、ひっそりと飾られることになった。そのような場所ともなれば、フィンとて自由に立ち入りできない。――かつての主君を仰ぎ見ることは、叶わない。

 だが、フィンはこう答えていた。

「リーフ様は正しい判断をなさいました。どうか、私のことは気にされないでください」

 そのとき、リーフはじっとフィンの目を見据えてきた。曇りのない暗い赤銅色の瞳が、こちらの真意を捉えようとしている。
 フィンは続けて言った。

「私には……いまここにいる方々と共に日々を過ごせるだけで、十分です」

 リーフの目が、一度だけ瞬いた。まるで、フィンの中に不思議なものを見たように。
 そうして口を閉ざしたまま、しばらく窓の外に視線を向ける。

「……リーフ様?」

 呼びかけても、リーフは答えなかった。どうされたのですか、と聞こうとすると、ようやく口の端を緩ませる。

「いや。――今日は、良い日だな」

 リーフはそう言って、紅茶をうまそうに飲んだ。快晴の広がる外の庭には、優しい木漏れ日が落ちている。
 穏やかな日であるとは、フィンも思う。しかしどうしてか、リーフは心から幸福そうだ。

「そうだ。あとひとつおまえに相談したいことが――」

 言いながらリーフは持ってきた紙束を漁るが、つと眉を潜めた。どうやら目的の書類を忘れてきたらしい。

「持ってまいりましょうか」
「いや、私の自室にあるだろうから、自分で行く。すぐに戻るから、待っていてくれ」

 リーフはひょいと立ち上がると、気軽な様子で部屋を出ていった。大人になった後ろ姿だけを見れば、かつての主君と瓜二つであった。すぐに自ら動き出す気さくさも、茶髪が揺れる様も、その歩き方も。
 しかしもう、それらに黒い影が被さって見えることは、ない。

「…………」

 フィンは先程のリーフの行為をなぞるように、ゆっくりと視線を窓の外に向ける。
 部屋にひとりになると、さまざまな城の生活音が聞こえてくる。廊下をせわしなく行き交う文官や侍女たちの会話や足音。城を見学に訪れた子供たちのはしゃぎ声。いまだ増築を繰り返すがゆえの、槌の音。兵たちの、修練の掛け声。
 ――変わらぬ日常が、そこにある。たっぷりと豊かに流れる、静かな日常が。



「こんなところにいたのね」

 部屋に入ってきたのは、国王ではなかった。
 すれ違えば振り向かずにはいられない美貌の女人が、フィンを見定めて、とろけるような笑みを浮かべる。

 立ち上がろうとしたフィンを手で制したラケシスは、凛とした歩き方で近寄ってきた。そうして、ストンと腰を下ろす。

「…………」
「どうしたの、フィン」
「ラケシス様。そこは、椅子ではありませんが」
「ええ。あなたの膝の上だわ」

 こちらを振り仰ぎ、いたずらを成功させた子供のように笑う。かと思うと、ラケシスは不機嫌そうに唇を尖らせた。

「それより、どうして屋敷の外では呼び捨てにしてくださらないの。セルフィナから言われてしまったわ。相変わらずあなたに姫扱いされていてうらやましいって。わたしは、対等な立場でいたいのに」
「…………その話はあとにしましょう。じきにリーフ様がいらっしゃるのです。まずは、私の隣に掛けてくださいませんか」
「いまここで呼び捨てにしてくれたら、いいわ」

 目を覆いたくなるようなしたり顔で、微笑まれる。彼女が身じろぎをするたびに、髪からふんわりと甘い香りが立ち上ってくる。ハシバミ色の瞳は、どこまでも優しく、それでいて少女めいた光を湛えている。

 しばらくの沈黙の後、フィンはひとつ、心の底からため息をついた。
 そうして、ラケシスの耳元に顔を寄せて、何事か囁いた。

「…………」

 会話が途切れ、部屋にゆるやかな静寂が訪れる。
 ラケシスが瞳を閉じ、くすり、と声を漏らした。

「…………あの」
「なに?」
「どいてくださる約束ではありませんでしたか」

 フィンの切実な声に答える代わりに、ラケシスは楽しげに身体の向きを変えた。細い両腕が、首にからんでくる。

「気が変わりました」
「――」

 あまりの奔放ぶりに、フィンは目眩を覚えた。
 いい加減にしてください、と思いを込めて、フィンはとうとう実力行使に出る。彼女の腰と膝裏に腕を回し、抱きかかえる格好で持ち上げようとする。ラケシスはじゃれているつもりなのか、笑い声をあげてフィンにしがみついてくる。
 と、がちゃりと無常な音を立ててドアノブが開き、リーフが部屋に入ってきた。

「ごめんごめん、時間がかかった。探すのに手間取ってさ――」

 リーフはこちらを見て、つと足を止めた。
 時が凍りつくとは、こういうことを言うのだろう。凍りついたのは時だけでなく、フィンの脳髄や心の臓までに至っていたが。

「…………」
「…………」

 数秒、リーフは密着するフィンとラケシスを凝然と見やっていた。
 その眉がゆっくりと下がり、肩がすくめられ、やれやれと首を横に振られる。

「別に、いいけどさ。――自分の屋敷でやったら?」

 なにか、後頭部に強い衝撃を受けて、フィンは意識が遠のくのを感じた。正直、そのまま卒倒してしまいたい気分だった。
 対するラケシスは、フィンに抱きついたまま、恥ずかしげもなく挨拶をはじめてくれる。

「あらリーフ様。久しぶりね。元気そうでなによりだわ」
「うん、ラケシスも。顔が見られて、うれしいよ」

 氷結したままのフィンを置いて、話は軽やかに進んでいく。

「ところで、リーフ様。しばらくフィンをお借りしてもいいかしら?」
「いいよ。こっちの話は、急ぎじゃないし。じゃあフィン、また今度」
「あっ……あの、り、リーフ様、ちがいます。こ、これは」
「はいはい、お幸せにねー」

 リーフは踵を返すと、はらはらと手を振って談話室を出ていってしまった。ドアの閉まる音が、耳の奥にまで響き渡る。
 あとに残されたフィンは、不自然に目を見開いている他なかった。

「……怒りました?」

 ラケシスが、上目遣いで問いかけてくる。

「だって、リーフ様もナンナも、わたしたちの仲を心配するんだもの。たまにはこのくらい見せつけておかなきゃ」
「…………」

 フィンは眉間のしわを指で揉んだ。そのまま、ぐったりと背をソファーにもたれ、深々と息を漏らす。

「……仕方のないお方です」
「あら。いまさら気がついたの?」

 言ってから、ふとラケシスは笑みを止めた。
 こちらをまじまじと見つめ、――不思議とうれしそうに、目元をゆるめる。

「あの。私の顔に、なにかついていますか」
「え?」
「今日は特になのですが、会う人々にみな、……あなたのように、顔をじっと見られるので」

 フィンの問いに対し、ラケシスは意外そうに目を瞬いた。

「……あなた、自分で気づいてないの?」
「なにをですか?」

 本気でわからず問い返すと、ラケシスは不意に吹き出した。そのまま、くつくつと笑う。肩が揺れるたびに、やわらかい金髪が美しくきらめく。
 ひとしきり笑い終えると、優しい顔で、ラケシスは答えた。



「だってあなた、笑ってる」



 穏やかな日だった。雲間からやわらかな日差しの降り注ぐ、佳き日であった。

「ねえ、フィン」

 頬に手が添えられる。長い睫毛に縁取られた瞳が、こちらを見上げている。
 白いカーテンから透けた光が、ふたりに降り注いでいる。



「もっと、笑って」





 終



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