あるところに、一人の天使がいました



その髪は金よりまばゆく、青の瞳は夏の海でさえ色あせる



天使が微笑めば花が開き



その歌声に鳥たちが酔いしれる



天使は美しい翼をはためかせ、今日も歌います



ああ、どうしてこのように天界は幸福で満ち溢れているのに



どうして人間たちの世界はこうも哀しみに満ちているのか



人の世の風はたやすく身を切り裂き



その冷たさは氷の中に閉じ込められたよう



人の世の闇はどこまでも暗く



その静けさは死の淵に立たされたよう



なのに人はそこに生きている



そのなんと哀れなことか



天使の憂う瞳は、ある娘をみつけました



娘は人の大地に住まう者



ぼろきれのような服をまとって



その足を土で汚しながら



おぼつかない足取りはけれど途絶えることなく



唇に紡ぐは再生の歌



天使は驚いて、呟きました



何故あなたは歌うのか



絶望の先に立ち、哀しみの空気に身を浸し、虚無の影を足元に従えて



どうしてあなたは歌うのか



天使は不思議に思って飛び立ちました



下界に舞い降りて、娘を追いかけることにしました



風はまるで刃のように身を切り刻み



舞う砂埃は寂しげに歌う



ああ、その調べのなんと冷たいこと!



娘はそれでも歌っていました



それを支えのようにして



そっと触れただけで崩れ落ちそうな体を抱えて



たどたどしく唇を動かして






娘は、歌っていました






天使は娘が何故そうしているのかわかりませんでした



このような世界で歌ったところで、いったい何が変わろうか



あなたの弱き声など、風の音でかきけされてしまうというのに



誰にも届きはしないのに



届いているのは私だけ



何故あなたは歌うのか



何故あなたは歌うのか



天使は何度もそう呼びかけました



しかし娘はただ歌うだけ



娘には天使の姿が見えなかったのです

娘は地に住まうもの、天使は天に住まうもの



相容れることなどできなかったのです



雲に覆われ光の届かぬ地上を、それでも娘は歩いていきました



天使はその痛々しい姿に、時には目をそらしながら



けれど、どうしても放っておくこともできず



砂の色に染まった長い髪を追いかけて、どこまでも飛んでゆきました






飛んでゆきました











かすかに煌く砂の色



土、空の灰色、海の黒、または夜の紺



人の世はいつも暗く



どこまでも広く広く



見渡す限り荒野ばかり



生命の賛歌が歌われたのは遠く昔



今はただ深い闇の中



穏やかに終焉へと向かう人の世界



次第に天使は、娘の歌う歌にあわせて口を動かしはじめていました



娘に届かないことなど、知っていて



それでも届けと、歌いました



あなたが歩いていく、その姿を見つめているものがいる



あなたの後姿を追いかけているものがいる



細い二本の足で歩くあなたを



あなたの歌がどこまで届くのかわからないけれども





それでもあなたは美しい





天使は歌います

娘も歌います



もちろん、娘に天使の声など聞こえません



けれど天使は歌います

娘も歌います



どんなに天界の花を咲かせ、どんなに天界の鳥を酔わせる天使の声ですら



娘の歌声を重なると、途端に色あせるようにすら思えて



だけれど天使はそれでもいつの間にか幸福を感じていて



娘の傍にいる己が幸せで



だから歌いました



喉が潰れるまで、歌いました






娘は足をとめます



どこからともなく砂を含んだ風が通り過ぎました



空は相変わらず雲で覆われ



娘のぼろきれのような服が、はたはたと揺れていました





だれ?





娘は呟きます





私と共に歌っているのは、だれ?





天使は思わず己の胸に手をあてました





不思議ね





娘は寂しげに微笑みました





誰かが、傍で一緒に歌ってくれている気がするの





ああ、そうだ



私があなたと歌っている



このような黄昏でさえ、あなたがいれば天より高きまほろばとなろう



すっかり砂埃で汚れた翼を、大きくはためかせて



天使はそう歌います



何もない荒野をひとり、静々と歩いていく娘へと



幾度となく膝をつきながら、それでも黙って立ち上がる娘へと



どうかこの想いの万分の一でも



その胸に届くよう



ああ、届け届け



娘の歌声は風にのせて世界へと、私の歌声は地に染みて彼女へと



どうかどうか届きますよう





どうか









そのときのことです











風が吹き込みました



なにもかもさらうような風でした



思わず天使も娘も



固く目を閉じました



雲に閉ざされた空はそれでも動き続け



飽きることなく風は大地を撫で続け



娘が次に目を開いたとき



奇跡は起こったのでした





あなたは



あなたは、私と共に歌っていたひとですか





娘の真っ直ぐな目は、じっと天使をとらえていたのです



娘と同じようにすっかり雨風で汚れてしまった天使を



いつの間にか傷ついてぼろぼろになった翼を背負った天使を



驚いて声もだせない天使に



娘はそっと笑って、手を差し出しました



長い旅を続けた、土色の手でした





私と共にいてくれたのですね



何かとても温かいものの傍にいると、感じていました





そう微笑んだ娘の前で、天使は涙を零しました



冷たく身を裂くような風の中、娘の髪がはためいていました



本当は美しい金だったはずなのに、それは黄昏の色に染まって



そして天使も同じように



だけれど天使は涙で濡れた手を



娘の手に、重ねたのでした



あなたは、とても美しい



そう天使が言うと、娘は寂しげに笑いました





私には、行く先がありません



この何もない大地を



この身が朽ちて果てるまで



何も持たず、何も得ずに



私は歩いてゆくしかないのです



そんな私が美しいですか





天使は重ねた手を握りました



それでもあなたは生きている



娘はほんの少しだけ俯いて





ありがとう





そう呟いて、歌いはじめました









再生の歌は、この薄闇に包まれた世に向けて



生も死も何もかも呑みこんで、消えることのない大地に向けて



ずっとずっと、歌っていました





しかし、そんな時が続くわけではなく



天使は突然、大神の元へと呼ばれました



天使は娘に別れの言葉すら満足に言えずに、連れていかれてしまいました



大神は怒りに溢れていたのです



突然引きずり出され呆然とする天使に、大神は声を張り上げました



天空より地を見守るべき天使が、大地の娘と共にいるとは何事か



天使は誰よりも光り輝く大神を見上げ、訴えました



お願いです、あの人と共にいることをお許しください



あの歌声を、ずっときいていたいのです



大神が命じると、天使を別の天使が鞭で打ち据えました



下界の空気で汚れおって、このように薄汚い者が天使と呼べるか





大地に長く留まった天使の羽根は土で汚れ、肌は以前の白磁の輝きを失い、ぼろぼろにほつれた髪は頬に張り付いて





それでも天使は言いました



以前の私より、あの人の方が幾倍も気高く美しい



あの黄昏を歩いていく、風になぶられ寒さに震えながらも



光の中でぬくぬくと歌っていただけの傲慢な私など、死しているも同じだった



頼りない足で前へと踏み出し、あの人は歌っていた



そのような哀れな娘に何の価値がある



その歌は誰に届くのだ



その歌は何処に響くのだ





あの娘が哀れだというのですか





天使は一杯に叫びました





あなたはあの娘が哀れだというのですか





下界に住まうものは全て哀れだ



大神は刺すように言い放ちました



終わりに向かう世界の中、絶望の淵に立たされ、滅びをただ待つだけの命ばかりだ



そのなんと哀れなことか



天使は全身の毛が逆立つのを感じました





彼らは哀れではない!





以前の甘やかな声など忘れきったふうに、天使は立ち上がります



汚れた足で、ぎらぎら光る瞳に、燃えたぎる想いと、力と、





それでも彼らは生きている



歌を、歌っている



滅びを背に、絶望を足元に、強い風の中で、だけれど輝いて



それでも輝いて





お前は、下界の空気に浸りすぎた



大神は静かな目のまま一瞥を天使に投げかけると、続けました



もうお前に天使を名乗る資格はない



冷たい闇に生きるが良い



そう大神が判決を下した瞬間、天使の目の前が真っ暗になりました



まばゆい金の髪も、力強く羽ばたいていた両の翼も、やわらかい微笑みを形作った青の瞳でさえも



全ては黒に染め上げられて



その体を鎖で繋がれ



天使は地の更に深くに堕とされました



肌に食い込む鎖の痛みに天使は悲鳴をあげます



闇を突き刺す悲鳴はしかし、誰に届くこともありません



血が、真っ赤な血が、ぽたぽたと



天使の体をつたい、涙と混じって流れてゆきました



流れてゆきました









暗く冷たい痛みの中に浸って



天使はまた、涙を零しました



まるで明けることのない夜のような寂しい大地の奥底で



とてもとても長い間、天使は泣いていました









そうして疲れきった天使はゆっくりと、



痛みに遠のく意識をつなぎとめながら、娘の姿をぼんやり夢想しました



そうだ、あの娘も



このような暗闇を歩いているのだろうか



下界の夜の寒さは身を切り刻むようで、それでいてとても暗かった



そんな中を、あの娘は一人で歩いているのだろうか



あの娘だけではない



下界で生きる全ての者が



暗闇という孤独の中を、生きている



恐怖に震えて、終わりという恐怖に怯えて



迷いながら、それでも彼らは生きている



その彼らの、どこが哀れだろうか



笑みも涙も飲み込み佇む大地に立って



空を舞う翼もなく、地を裂く力もなく、それでも生を願って



願い続けて



だからあの人は歌っているのだ



天使はゆるりと、何も見えない空を仰ぎました





そうして、ぽつりと呟きました





生きればいい





誰もが生を願って、生きてゆけばいい



あなたたちを哀れなどとは言わせない



大地に深く根をおろして



諦めることもできずに歩いて、歌を歌って



そう、土の色に染まりながら、黄昏の色に染まりながら、



寂しげなのに、ふんわりと笑った顔は、心をとかして



あの人が歌っていたように、生きればいい







天使はそれ以上ないほど、穏やかな顔になりました







私が



私がその道を、せめて照らせたら



彼らが



あの人が



せめて暗い道に迷わないよう



命の歌声がいつしか、世界に届くよう



いつか滅びがくるのだとしても



それでも輝いていられるよう



恐れずに、煌いていられるよう







私がその道を、せめて照らそう









天使は息を胸深く吸い込んで



血で染まった羽根を広げはじめました



たちまち悲鳴をあげる体を叱咤して



流れる血など見向きもせず



鎖はきしみ



震える腕を高く突き上げて



使い物にならない足で、それでも力を込めて



上を



ただ上を目指して



歯を食いしばると







天使は吼えました







全身が炎のようにかっと熱くなりました







そして、風を感じました



あのときの、砂を含んだ風



世界を巡る風



それらを思い出した天使は、鎖が切れたのに気づきました



そう思ったときはすでに一目散に天へと飛び立っていました



黒にとろける羽根を必死にはためかせて



ぼろきれのような体に構うこともせず



天使は飛んでいきました



どこまでも飛んでいきました



世界は黄昏に落ちていました



見渡す限りの暗闇でした



呼吸が凍るほどの寒さの中、しかし天使の体は燃えるように熱く



天使の瞳から、ぽろぽろと涙が散っていました





もう私はあなたの元へ行くことはできない



私の姿はあまりに醜く変わり果ててしまった



このような姿であなたの元へ向かっても



あなたの哀しみが増してゆくだけ



ならばせめて



あなたの道を照らし出そう



この夜の暗闇に、光を灯そう



あなたの歌声がいつか世界へ響くのだと



どうかあなたが気づいてくれますよう



どうかあなたが挫けることなく歩いてくれますよう





想いは溢れて、こぼれて、どうしようもなくて



天使の煌く涙がいくつも夜空に散りばめられます



きらきらと煌きだします



それでも天使は上を目指します



娘が世界のどこにいてもその道を照らせるくらいの高みを目指して



ついに熱くなりすぎた天使の体に火がつきました



あっという間に天使の体は炎に包まれました



だけれど天使はもっと燃えればいいと思いました



己の体がもっと輝けばいいと、思いました



大地の命がもっと輝けばいいと、思いました



天使の炎は次第に大地をぼんやりと照らし



大地に住まう命たちは、暗闇の中の突然の光に驚きました





娘も立ち上がって、空を見つめていました



きらきらと光るものたちの中で、一際輝く炎を、見つめていました



夜の風はやはり砂を含み、娘の髪を揺らします



それでも大きな眼は炎を真っ直ぐにとらえて



そして、ゆっくりと



ゆっくりと、歌いはじめました





天使は炎の中で笑います





ここにいれば



ここにいれば



あなたの歌声が



ずっとずっと、聞こえている



あなたの足音が絶えぬよう



あなたの歌声が絶えぬよう



だから私はここであなたの行く手を照らそう



私はあなたを、あなたが愛した世界を



途方もなく、愛しているから











そして空の高み、とても高いところで



天使は燃え尽きました













しかし、天使が燃え尽きた後も



まんまるの炎が、穏やかに輝きながら



大地を照らしていました



それを天使が流した涙が星となってとりかこみ、煌きます



まるで地に生きる人々のように



彼らの足元を、照らし出します









そうして夜は、冷たい黒に閉ざされた夜は



淡く、しかしその先をとらえることができるほどに



煌きを与えられたのでした



娘がその生涯を終えた後も、天使は人々の歌声を探して



夜空に高く、静かに輝いています



昨日も、そして今日も



大地には、人々が輝き



夜空には、星々が煌き



そしてその中心で



星となった天使が、流した涙と共に静かに大地を見守っています